19 ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー

 ローファーが自殺したというニュースを見て、僕は思わず低く唸った。戦慄が全身を捉えた。報道によると、ローファーは自宅のリビングでテント状にしたビニールの中に入り、七輪を使い練炭自殺を図ったということだった。

 自殺ではない。そう直感した。彼らの仕業に違いない。

 一方で、僕にまだその手が及んでいないということは、僕とローファーの繋がりは掴まれていないのかもしれない。冷静に状況を整理しようとしたが、集中することができなかった。

 ローファーから受け取った資料をその場でシュレッダーにかけた。粉々に砕かれた書類の上から、念のため醤油をボトル一本かけた。普段から使っているブリーフィング・アタックパックを引っ張り出し、用意していた変装用の衣類、ウィッグ、帽子、眼鏡、マスク、パスポートを詰め込んだ。

 そこまで終えてから、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのTシャツに着替え、アディダスのトラックパンツを穿いた。ランニング用のアディダス・チューブラーを履き、外に出た。僕はこの仕事を始めてからランニングと筋力トレーニングを習慣にしていた。

 五十分間で十キロメートルを走った。部屋に戻り汗を拭き、水分を補給してから、プッシュアップバーを使い腕立て伏せをした。おまけに腹筋を痛めつけた。

 トレーニング後にホエイプロテインを飲み、熱いシャワーを浴びた。ひとしきり時間をかけて髭を剃り、髪を整えた。ヘインズ・ビーフィーの上から、マドラス柄のワークシャツを着て、アー・ペー・セーの色が褪せたテーパードデニムを穿いた。これでいつも通りだ。


 一日の仕事を終え、栄駅と伏見駅の間に位置するマンションに向かった。今日は日曜日で、ドレーとスヌープたちにみかじめ料を納めに行く日だった。行かなければならない。

 エントランスをくぐり抜け、B棟のエレベーターホールに辿り着くまでに何人かの男とすれ違った。すれ違った男は皆、俯き加減で足早にその場を立ち去っていった。顔を伏せた影のようなものだった。

 エレベーターの前に置かれたスタンド灰皿に、今日は水が張っていなかった。初めてのことだ。何本かのタバコの吸い殻が、撃ち殺された死体のように転がっていた。


 五〇五号室のドアチャイムを鳴らすと、やや間があってから施錠が解除された。ドアを開くと、目の前にドレーが立っていた。

 視界の輪郭が白く歪み、脇の下に汗が滲んだ。これまで、みかじめ料の受け取りにドレーが現れたことなどなかった。ドレーは無言で奥の部屋に歩いた。僕はそのあとに続いた。ドレーはいつも通り、黒いシーアイランドコットンのニットに、テーパードがかかったトラウザーズを穿いている。左腕でリシャール・ミルの腕時計が物々しく光った。

 ドレーが奥のソファに座り、僕はその向かいに座った。

「今週の手数料です」僕は現金が入った封筒と帳簿を差し出した。

 ドレーは獲物を狙う狡猾な蛇のように目を細め、封筒を見つめた。ドレーは先に帳簿を確認し、その後に素早く封筒の中身を数えた。

「たしかに受け取った」

 今日この部屋に来てから初めてドレーの声を聴いた。僕は会釈をして立ち上がろうとしたが、続けてドレーは口を開いた。

「新規事業についてだが」

 僕は浮かせかけた腰をソファに落とした。「はい」

「進捗はどうだ?」

「正直苦戦しています。まだ色々と試しながら成功パターンを探っている段階です」

「そうか」ドレーはこめかみに人差し指をあてた。「うまくいくといいな」

 僕は頭を下げてから立ち上がり、部屋を出た。


 翌日も朝七時に目が覚めた。マンションの外に出ると、台風が過ぎ去った翌日のように空が高く、新鮮なペンキを引き伸ばしたような青空が広がっていた。大通りの向こう側に停まっている黒いトヨタ・ヴェルファイアが陽光を受けて煌めいている。五十分間で十キロメートルを走った。

 汗を流してから濃いブラックコーヒーを淹れ、九時に部屋のデスクに座った。U2の『ヨシュア・トゥリー』をささやかな音量で流し、礼儀正しい姿勢で仕事を開始した。

 先日送ったメッセージに返信がきていた。新しいチームづくりに動き出してから初めてのことだった。アポイントの打診を送るとすぐに返事が返ってきた。その日の十六時に約束をとりつけた。


「なんでメッセージに返信してくれたの?」僕は斜め向かいに座る少女に訊いた。「僕が訊くのもおかしな話かもしれないけど」

「タイミングが良かったから」少女はカフェラテがなみなみと注がれたマグカップに口をつけた。「探していたんです。そういう話を」

 我々は名古屋駅太閤通口たいこうどおりぐちのカラオケボックスで向き合った。身体の線がまだ細い少女だった。十四歳だと言った。

「どうしてそういう話を探していたんだろう?」

「お金」少女は僕の目を真っすぐに見据えた。「お金がほしいの」

「なるほど」僕は頷いた。「ちなみに、君はそういう仕事をしたことがあるのかな?」

「ない」

「抵抗はないの?」

「わかんない」少女は首を横に振った。「やってみないとわかんないと思う」

 僕は少女と一緒に仕事をすることに決めた。それほど進んで一緒に仕事をしたいと思える相手ではなかったが、とにかく一歩踏み出すことが必要だった。

 明日以降のことを簡単に打ち合わせ、部屋を出ようと立ち上がったときだった。

「ねえ」少女は言った。「お兄さんは、どうしてこんなことをしてるの?」

 少女はさも疑問そうに小首を傾げた。

「理由なんてないよ」僕は言った。「なりゆきさ」


 日産・ウイングロードを走らせ、自分のマンションに向かった。ほかに行くところはなかった。

 違和感を覚えた。朝のランニングをしているときから今に至るまで、やけに同じ車が目についた。黒いトヨタ・ヴェルファイア。多く出回っている車種だが、穏やかではない予感が身体を包んだ。

 ためしに大通りから一方通行の細い路地に左折してみた。曲がり終えてからバックミラーに目をやると、黒いトヨタ・ヴェルファイアがやってくるのが見えた。

 そのまま細い路地を抜け、再び大通りに出た。大通りを道なりにしばらく走ってから、来た道を引き返すように十字路でUターンをしてみた。Uターンを終えバックミラーを覗くと、やはり黒いトヨタ・ヴェルファイアが映り込んでいた。

 疑念が確信に変わり、悪寒を覚えた。僕は今すぐに身柄をかわす決断をした。

 名古屋駅に直結しているデパートの地下駐車場を目指した。道路は取り立てて混んではいなかったが、道行く車はどれもが遅く感じられた。焦燥が募り、ステアリングを握る手のひらが重たい汗で湿った。

 黒いトヨタ・ベルファイアは何台かの車を間に挟み、僕が運転する日産・ウイングロードを抜け目なく追跡している。黒いトヨタ・ヴェルファイアには少なくとも二名は乗っているようだ。見覚えがない男だ。

 崖を転げ落ちるようにして、名古屋駅に直結する地下の駐車場に入った。空いているスペースに頭から突っ込んで駐車し、変装用の荷物を入れたブリーフィング・アタックパックを鷲掴みにし、運転席から飛び出した。そのとき、黒いトヨタ・ヴェルファイアが駐車場に入ってくるのが横目で見えた。

 僕は全力で走り抜けた。ちょうどタイミング良くやってきたエレベーターに駆け込み、人ごみに紛れてデパートのトイレに潜り込んだ。個室を施錠し、追跡者を振り切っていることを願った。破裂しそうな心臓の鼓動を抑え込み、呼吸を整えようと努めた。うまくできなかった。

 トイレの個室で変装用の服に着替え、靴も履き替えた。携帯電話から福岡行きの新幹線のチケットを手配した。ウィッグと帽子をかぶり、眼鏡をかけてマスクをつけた。


 息を殺し、あたりを伺うように個室の扉を開けた。トイレの中には誰もいなかった。足早にトイレを後にし、名古屋駅に向かった。怪しい人影は見当たらなかった。

 名古屋駅は人で溢れかえっていた。サラリーマン、OL、学生、老夫婦、団体、外国人旅行客、ありとあらゆる人がいた。人の波を縫うようにして新幹線の改札を目指して歩いた。息が切れ、とめどなく汗が吹き出し、口の中が干上がった。鉄の味がした。

 改札近くの銀時計が見えたときだった。ドレーとスヌープがこちらにやってくるのが視界に入った。

 背骨を抜かれたように恐怖が走った。僕は踵を返して駆け出した。その瞬間、両肩を掴まれた。

「児童売春防止法違反の準現行犯で逮捕する」

 二人組の男だった。言葉を理解できなかった。間抜けな沈黙が降り、人ごみの喧騒が耳鳴りのように反響した。

「どういうことですか?」

「君が児童買春を斡旋していることはわかっている。少女から通報があった」

 もう一人の男はそう言い、僕が一緒に働いていた少女の名前――サキと呼ばれている子だ――を口にした。二人組の男は警察官の制服を着ていた。

 手首に金具を締められる、現実感のない音が聴こえた。両腕にかけられた手錠は冷たく、重たかった。周囲の人々は遠巻きに僕の様子を伺っていた。ドレーとスヌープがその場から立ち去り、雑沓ざっとうに紛れたのを横目で認めた。

 二人の警察官に両脇から抱えられ、引きずられるようにして名古屋駅太閤通口の外に連れていかれた。ロータリーに停まっていたパトカーの後部座席に放り込まれ、警察官の一人が僕の隣に乗り込んだ。


 中村警察署で取り調べを受け、なにが起こったのか大筋を理解できた。有馬さんと同い年の少女――サキと呼ばれている子――が交番に駆け込み、僕に無理やり売春をさせられていると助けを求めた。そして僕が新幹線で逃げようとしていると聞いた警察は、児童売春防止法違反の準現行犯として逮捕に踏み切った、ということだった。

 いったいなぜそんなことが起こったのか、まったく理解できなかった。僕は混乱しながら取り調べに応じた。取調室はひどく狭く、灰色の部屋だった。座面が薄く座り心地が悪い椅子に座らされ、年季が入った事務的なデスクの向こう側に座る警察官が調書を取った。これまでに一緒に働いたメンバーは被害者として扱われると聞かされた。ドレーとスヌープのことは一切話さなかった。


 半日ほどかけて取り調べを受けた。ひと段落すると、猿まわしの猿のように腰ひもをくくられ、堅牢な鉄の扉の向こうにある留置場に連れていかれた。

 居室に入れられる前に、下着一枚にされて身体検査が行われた。下着の中まで入念に検査された。金属探知機も使用された。ジーンズとボタンがついている衣類は持ち込むことができず、くすんだ灰色のスウェットシャツとスウェットパンツを借りた。毛玉がたくさんついていたが、匂いはなかった。

 留置場の蛍光灯はやけに白かった。クリーム色をしたリノリウムの床を除き、壁、天井、それから格子も、なにもかもが目に痛いくらい白く映えた。思ったよりも明るく清潔で、思った通りに無機質な場所だった。

 居室には僕のほかに三人の男がいた。皆伏し目がちで、お互いに関心をはらっていないようだった。彼らと言葉を交わすことはなかった。


 取り調べは数日間続いた。朝六時半ごろに起床し、二十一時ごろには布団の中に潜った。布団はひどく薄く、身体中が痛くなった。

 格子と壁に囲まれた居室で、ビニール製の硬い畳の上にあぐらで座り、持て余した時間でこれからのことを考えた。おそらく執行猶予はつかないだろう。そんな気がした。

 これまでのことを考えた。久しぶりに有馬さんの死を思った。それから僕はヨシイさんのことを考えた。豊かな黒髪、目じりの泣きぼくろ、タイトジーンズに相応ふさわしい、しなやかな身体。ヨシイさんの未来を思った。ヨシイさんの幸せを願った。ヨシイさんだけでなく、この仕事を通じて関わり合いをもった、すべての少女たちの幸せを願った。そのくらいは願ってもいいはずだ。

 逮捕された日に、U2の『ヨシュア・トゥリー』を聴きながら仕事をしていたことを不意に思い出した。たまらなく『ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー』が聴きたくなった。

 明り取りの細長い窓から、気持ちがいい陽光が射し込んでいた。白い光が空中を舞う微細なほこりを照らしている。無数の細かい埃が無軌道に宙を漂っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る