20 世界中の誰よりきっと
内臓をひっかき回されているみたいに、お腹が痛んだ。事務所を出て、わたしは行くあてもなく
矢場公園に着くとベンチに腰をかけた。座るときに腰の鈍さが身体に響いた。あたりはもう、薄暗くなりはじめている。カワサキさんと出会ったときに来た店が、すぐこのあたりにあることに気がついた。あのときもちょうど、このくらいの時間だったように思う。
わたしはカワサキさんのことを思った。彼らがカワサキさんのことを、「おしまい」と言うからには、ほんとうにおしまいなのだと思う。そういうものだ。
わたしは後悔していた。もしもわたしが、カワサキさんと出会ったときからでも最善を尽くしていれば、事態はこんなふうにはならなかったんじゃないかと思えた。
わたしは心を決めた。携帯電話を取り出して、カワサキさんの車に仕掛けておいたGPS発信機の位置情報を見た。カワサキさんの車はせわしなく動いていた。その動きはあきらかにおかしかった。名古屋駅の周りを行ったり来たりしている。
身体が硬くこわばった。おそらく、彼らに追われているのだろうと直感した。
わたしは少しだけ考えた。カワサキさんはきっと、名古屋駅から新幹線に乗りこんで、どこか遠くに逃げるはずだ。確証はないし、新幹線に乗らない可能性もあるけれども、わたしは直感に賭けることにした。
サキに電話をかけた。呼び出し音が二回鳴って、サキはすぐ電話に出た。
「はい、もしもし」
「サキ、仕事はおわった?」
「はい、おわりました」
「急なんだけど、今から会えないかな?」
「今からですか?」サキは驚いたような声を出した。「どこにいるんですか?」
「矢場公園」
「うーん」サキは考えているようだった。「いいですよ」
「ありがとう。何時くらいになりそう?」
「さっき事務所を出たので、あと十分くらいで着けると思います」
矢場公園のベンチに座ってサキを待った。あたりには青い闇が降りていた。街灯の光が強くなった。十分も経たずにサキはやってきた。
「お待たせしました」とサキはわたしに近づきながら言った。
「突然なのに、来てくれてありがとう」
サキはわたしが座るベンチの隣に座って、わたしの顔をしげしげと眺めた。少しだけ茶色がかった、サキの大きい瞳が街灯で煌めいて見えた。
「どうしました?」
わたしは横一文字に固く結んだ唇をほどいた。「サキにお願いがあるの」
「なんですか?」サキは怪訝そうに首を傾げた。
「これから警察に行って、カワサキさんに無理やり売春をさせられているって通報してほしいの」
サキは目を見開いた。「どういうことですか?」
「許せないの」とわたしは言って、唇を噛んでうつむいた。「カワサキさんだけは」
「どうしたんですか?」とサキは言うと、わたしの背中にそっと手を置いた。
わたしは完全に沈黙した。膝の上で両手を握りしめ、力をこめて身体を硬くした。サキの手はわたしの背中を静かにさすった。二分くらい経ってからサキが口を開いた。
「わかりました」サキはわたしの顔を覗きこんだ。「いいですよ」
「ありがとう」わたしはサキに頭をさげた。涙がにじんだ。「今すぐに交番に駆けこんで、カワサキさんに無理やり売春をさせられたって言って。カワサキさんは、今まさに名古屋から逃げ出そうとしてるの。
「わかりました」サキは力強く頷いた。
「カワサキさんの写真は持っている?」
「持ってないです」
「じゃあ、カワサキさんの写真を送るね」わたしは携帯電話を操作して、サキにカワサキさんの写真を送った。「この写真を警察官に見せて」
「はい」サキはわたしの手を握った。「なにがあったのかわかりませんけど、サナエさんのためならやりますよ」
「ありがとう」わたしはサキの手を握り返した。左目からあふれ出た涙が頬をつたった。
「行ってきます」サキは立ち上がった。
サキは少し歩いてから突然立ち止まった。こちらを振り返って、わたしにむかって大きく手を振った。
「まかせてください」とサキはよく通る綺麗な声で言った。
わたしは手を振り返すことができなかった。サキは再び歩き出した。
ハンドタオルで涙をぬぐってから、今度は千春に電話をかけた。電話の呼び出し音が十回くらい鳴って、諦めかけたときに電話がつながった。
「もしもし」
「もしもし千春。今大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「今から千春の家に行ってもいいかな?」わたしはベンチから立ち上がった「折り入ってお願いがあるの」
「いいよ」千春の声の後ろから、賑やかなテレビらしき音が聴こえた。「今家にいるから、いつきてもいいよ」
「ありがとう。今からに十分後くらいに着くと思う」
わたしは千春の家にむかって歩き出した。時刻はちょうど夜への入口といった具合で、家路を急ぐ人や、これから遊びに行くのであろう人など、一日の気が進まないことは、ほとんどおえたのであろう人々でにぎわっていた。
腹痛はどんどんひどくなっていた。腰が重たく、倦怠感がわたしの身体を浸していた。よたよたと情けなく大通りを歩き、パルコの前を抜けてだだっ広い道路の信号を渡った。信号が変わる前にむこう側まで渡り切ることができなかった。道路の真んなかで立ちすくんだ。頭上を高速道路が走っている、五十メートルくらいはありそうなスペースだ。歩行者用の信号が再び青になるのを待った。
何車線もある広い道路を、たくさんの車が駆け抜けていった。車のライトが川のように流れた。ふと背後を振り返ると、後ろの道路も同じように何台もの車が流れていくのが見えた。まるで急流みたいだった。わたしが立っている場所は、さながら激しい
激流に飲みこまれる自分の姿を思い浮かべてみた。そのとき信号が再び青に変わった。気力をふり絞って再び歩き出した。
千春はすでに酔っぱらっていた。
「今日も休みでさ、昼からだらだらと飲んでるんだわ」と千春は缶ビールを片手に言った。「早苗もなにか飲む?」
「ううん、大丈夫」わたしは首を横に振った。「すぐに行かなくちゃいけないの」
「そっか」と千春は少し残念そうに言った。
千春はソファに座り、わたしはクッションに座った。そのいつもの定位置は、わたしを少しだけ安心させてくれた。今夜も千春と一緒に過ごせたらどんなにいいだろう。
「お願いがあるの」とわたしは切り出した。「お金を貸してほしいの」
千春は静かに一口だけビールを飲んだ。「いくら?」
「できれば十万円を貸してほしい」わたしは頭をさげた。「いや、無理は言わない。五万円でもいいから、貸してもらえないでしょうか」
部屋に沈黙が訪れた。千春がビールを飲んだ気配がした。
「いいよ」と千春は言った。「ちょっと待っててもらえる?」
千春は微笑みながら部屋を出て行った。わたしは一人きりになった。千春の部屋を見渡した。いつも通り、換気扇の下には、こんもりと吸い殻が積み上げられた灰皿が置いてあって、その隣には目が覚めるようなブルーのライターがちょこんと置かれていた。
部屋の家具は基本的にモノトーンで、あらためて眺めると性別というものを感じさせなかった。その中立的な印象は、わたしをどこか穏やかな気持ちにさせた。母親と一緒に生活していたときの、ヒョウ柄や前時代的なハイビスカス柄に囲まれた部屋や、ショッキングピンクやバラみたいな赤にまみれた叔母の部屋を思い出した。
そんなことを考えていると、玄関の扉が開く音がして千春が帰ってきた。
「お待たせ」と千春は笑顔で言った。「はい」
千春はむき出しのお札をわたしに差し出した。
「裸でごめんね。封筒がなくてさ。いや、ATMのところに置いてあったのかもしれないけど、よくわかんないや」と千春は苦笑した。
「いくらなの、これ?」とわたしは訊いた。
「二十万円」と千春は換気扇にむかって歩きながら言った。
「そんなに?」わたしはお札の枚数を数えた。「ほんとうだ」
千春はタバコを取り出してライターで火をつけた。それから換気扇を回した。唸り声のような音が響いた。再び涙がにじむのを感じた。
「ありがとう……。ほんとうにありがとう」わたしは涙を手でこすった。「絶対に返すから。絶対に返す。ちょっと時間はかかるかもしれないけれども」
「いいの」千春はタバコの煙を吐き出した。煙は換気扇に吸いこまれてすぐに消えてなくなった。「返さなくてもいいよ」
「ううん、返すから」わたしは千春に寄った。「絶対に返す。ありがとう」
わたしは千春に抱きついた。
「どうしたの?」千春の声は笑っていた。「タバコの匂いがつくよ」
わたしは千春にすがるように、両腕に力をこめた。千春も同じくらい強い力でわたしのことを抱きしめてくれた。千春の身体はあたたかくて、柔らかかった。
「負けるな」と千春は言った。「早苗はきっと大丈夫。負けるな」
「ありがとう」わたしは、千春の背中に回している腕をほどいた。「行くね」
千春は玄関までやってきて、わたしを見送ってくれた。
「ねえ」と千春は言った。「帰ってきたらさあ、一緒にカラオケに行こうよ」
「いいね」とわたしはパンプスを履きながら言った。「行こう。プリクラも撮ろうよ」
わたしと千春は見つめ合った。五秒くらい時間が経ってから、わたしは部屋の鍵を回して、ドアを開いた。
「ばいばい」
振り返ると千春がささやかに手を振ってくれたのがほんの数秒だけ見えて、ドアはすぐに閉まった。
めまいをこらえて、
歩きながら、待たずに乗れそうな便を携帯電話で調べた。長崎空港にむかう便が時間帯的にちょうど良さそうだった。わたしは長崎に逃げることにした。
細くて、汚くて、生ごみのような匂いがする川沿いを必死に歩いた。気が滅入る川の匂いは、叔母と一緒に働いていたスナックを思い出させた。深夜だか明け方だかよくわからない時間に、こっそりとよく、ごみを出したものだ。
頭のなかで突然、中山美穂の『世界中の誰よりきっと』が鳴り始めた。想像の世界でわたしは、マイクを握りしめて歌っていた。灰色のスナックだった。希望と幸せがまぶしい歌だと思った。
真奈美と抱き合って、「幸せになろうね」と言ったことを思い出した。すえた臭いを嗅ぎながら、真奈美が身にまとっていたメロンの香水みたいな甘い香りが愛おしく思えた。
つい先ほども通り過ぎた、だだっ広い道路に突き当たった。ちょうど歩行者用の信号は青で、わたしは横断歩道を渡った。横断歩道を渡り始めてすぐ、信号が点滅した。わたしは再び、道路の真んなかの五十メートルくらいはありそうなスペースで、歩行者用の信号が青に変わるのを待つことになった。
青白い月が静かにわたしを照らしていた。無数の星たちが煌めいているのが遠く見えた。目の前を多くの車が行き交っているし、道を行き交う人が何人もいたけれども、わたしは世界中でひとりぼっちのような気がした。風はなく、暑くも寒くもなかった。温度を感じなかった。
そのときだった。むかい側からわたしが立つ場所をめがけて、黒い大きなスポーツカーが唸り声のような低い音を鳴らしてやって来るのが見えた。
頭が真っ白になった。心臓を
黒い大きなスポーツカーは、わたしのすぐ斜め前に停まった。スキンヘッドの大男と、頭のサイドを刈り上げて、後ろで髪を結わえている大男が乗っていた。彼らは後ろの車にクラクションを鳴らされたけれど、相手にすることもなくゆっくりと車から降りてきた。
わたしは後ろをむいて走り出した。ちょうど歩行者用の信号が青に変わった。横断歩道を渡ってすぐに、パンプスのヒールが折れてよろめいた。パンプスを脱ぎ捨てながら後ろを振り返った。彼らがわたしに迫っていた。
次の瞬間、目に映るものすべてが薄く引き伸ばされて、視界に白い幕が降りた。頭のなかで繰り返し、繰り返し、わたしは中山美穂の『世界中の誰よりきっと』を歌っていた。遠のく意識のなかに、目をおおいたくなるほどの光が降りそそいだ。あたたかい希望に満ちあふれて、幸せな気持ちでわたしは胸がいっぱいになった。
彼らの声がうっすらと聴こえた。「やれやれ。まったく」
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