18 おしまい
ナミキという男は軽薄だった。そのくらいがちょうどいい。そんな気分だった。
カワサキさんの元を離れて、わたしたちは半グレの二人のもとで働くようになった。といっても、あの二人の大男が直接取り仕切っているわけではなくて、別の男――ナミキだ――がチームを運営をした。
「サナエちゃん」
わたしは声がしたほうに目をむけた。ナミキがコンビニのサンドウィッチと、いかにも甘そうなカフェオレを広げていた。細かい食べくずが濃い色のテーブルに飛び散っている。
「あのさあ、女の子のリーダーをもう一人増やしたいんだけど」ナミキは生え際が黒くなっている茶髪をかきあげた。「オレ一人じゃマジでしんどくて。打ち子もやって、その他諸々を調整するとか無理なわけよ」
わたしは無言でナミキを見た。
「だれかいい子いない? ぶっちゃけ」
「いませんね」とわたしは言った。「あまりメンバーと関わることを好まない子と、まだ不慣れな子しかいません」
「そんなこと言わないでよお」とナミキはねだるように言った。「この仕事って、思ったより大変だね。もっと簡単に稼げると思ったのに」
「わりにあわない仕事だと思いますよ。リスクも大きいし」
わたしはそう言ってソファから立ち上がった。
「どこ行くの?」
「仕事の時間ですよ」
ナミキが運転する車に乗りこんだ。卵のようにつるりとしたシルバーの車が、息をそっと吹きかけるように静かに走り出した。車内にはラジオがかかっていて、ラジオDJがしょうもないことをダミ声で喋りたてている。
「あれ、待ち合わせ場所どこだったっけ?」車が走り出してすぐにナミキは言った。
「ウェルビー今池の前ですよ」窓の外を眺めながらわたしは言った。
「あぶね、ウェルビー栄にむかってたわ」ナミキはウインカーを出すと、慌ててハンドルを切った。車が大きく揺れた。
ラジオから中山美穂の『世界中の誰よりきっと』が流れてきた。今はあまり聴きたい気分ではなかった。否応なく、叔母のスナックを手伝っていたときのことを思い出した。
あのころ店に来ていた客は、いったい今どうしているのだろうか? そんなどうでもいいことを考えた。今でもどこか別の店に通っているのだろうか? 彼らには、そういったどうでもいい場所が必要なように思えた。
客との待ち合わせ場所から少し離れた細い裏路地で、車は停車した。
「ここで降りようか」とナミキが言った。
わたしはドアを開けて、素早く車から降りた。待ち合わせ場所にむかって歩き出すと、ナミキが運転する車が静かにわたしを追い越して行った。
待ち合わせ場所のウェルビー今池の入口に立った。しばらくすると、ナミキの車が同じ通りの先に現れて停車した。ナミキはわたしをちらりと見てから、すぐに目線をおとした。携帯電話でゲームでもしているのだろう。いつものように飽きもせず。
五分くらい経ったころに客が現れた。
「どうも」と男は言った。「タナカです」
この仕事で客になる男は、だいたいが偽名を使っているとわたしは思っている。なかでも、なぜだかタナカと名乗る男が圧倒的に多かった。スズキでもサトウでもなく、不思議とタナカなのだ。
タナカという苗字は、わたしを落ち着いた気持ちにさせた。いつも通りだ。わたしを車で運ぶ人と、相手をする客はどんどん変わっていくけれども、わたしが行う行為はなにひとつとして変わらない。
わたしは鼻から息をゆっくりと深く吐き出した。「行きましょうか」
タナカと名乗った男と並んでホテルに歩いた。途中でナミキをちらりと見た。ナミキはこちらを見ることなくうつむいたまま、思った通り熱心に携帯電話を操作していた。そういう男だ。
仕事をおえて、ナミキに拾ってもらう約束をしていたドン・キホーテの入口にわたしは立った。ほとんどぴったり一時間後だった。大通りを何台もの車が通り過ぎて行った。
ショベルカーを載せたトラックが転がるように目の前を駆け抜けて、地面がすこしだけ揺れたように感じた。カワサキさんとはじめて地下のダイニングバーで話したときに『チュニジアの夜』を聴いて、お酒の酔いもあったからか、世界が少しだけ揺れたような気がしたことを思い出した。
約束の時間を十分過ぎてもナミキはやって来なかった。電話をかけても出なかった。十五分が過ぎたころに、ナミキの運転する車がドン・キホーテの前に停まった。わたしは後部座席から卵のような車に乗りこんだ。
「ごめんごめん、遅くなっちゃって」とナミキは言った。
わたしがドアを閉めると、車は勢いよく発進した。
「遅れちゃったことは、内緒にしといてもらえる?」バックミラー越しにナミキは申し訳なさそうに言った。「頼むよ、サナエちゃん」
棒のようになった足を引きずって施設に帰った。地下鉄から地上に上がる階段が、とても長く感じられた。駅から施設までの道のりは、いつもよりも重力が増している気がした。身体がたまらなくだるかった。
施設に帰って、部屋に荷物を置いた。ハンドソープで手を洗い、それから部屋着に着替えた。
食堂に行く途中に美香と会った。
「久しぶりだね」と美香は言った。
「そう?」わたしは記憶を辿った。「言われてみればそうかも」
たしかなことはわからなかった。
美香と一緒に廊下を歩いた。廊下の床の木目はどこかくすんで見えて、両脇をおおう白い壁紙もなんだかくたびれて見えた。見たままが実際に正しいのか、それともわたしにだけそう見えているのか、なんだかよくわからなかった。
「最近どう?」とわたしは美香に訊いた。「勉強は順調?」
「順調だよ」と前をむいたまま美香は答えた。
沈黙が訪れた。次の角を曲がればもうすぐに食堂というタイミングで、少しだけ前を歩いていた美香が立ち止まった。それからわたしの方を振りむいた。
「ねえ」美香の表情は硬かった。「真奈美のことなんだけど」
「うん」
「今更だけど、真奈美が死んじゃったのは、ウリと関係があるの?」
わたしは少し考えるふりをしてから言った。「わからない」
「そう」
美香は真っすぐにわたしの目を見ていた。そのまま五秒くらい時間が経ってから一瞬だけ目を伏せて、もう一度わたしの目を見据えて口を開いた。
「もしも、真奈美が死んじゃったのがウリと関係してたら、あたしは早苗を許さないから」美香はゆっくりとまばたきをした。「絶対に許さない」
「うん」わたしは頷いた。
朝方に生理がやってきた。わたしはナミキに連絡して、仕事を休むことにした。すると、まったくなにも予定がないことに気がついた。やることをなにも思いつけなかったわたしは、久しぶりに学校に行ってみようかという気になった。
教室はいつも通りがやがやとしていた。クラスメイトはわたしを一瞬だけ見て、すぐにそれぞれの世界へと戻った。
ホームルームがあって、よくわからない授業があって、お昼になった。わたしは購買で菓子パンとペットボトルの紅茶を買って、机にひとり座ってもそもそと食べた。
メロンパンは歯ごたえがなかったし、渦巻き状のよくわからないパンはやけに甘ったるくて、口のなかがべたついた。紅茶で流しこむようにして菓子パンを食べた。
菓子パンを食べおわると、窓の外を眺めて過ごした。校庭が見えた。校庭の隅に設置された二つのバスケットゴールの周りで、バスケットボールをしていている人が何人か見えた。ほかにほとんど人はいなかった。
「吉井」
声がして振りかえると松井がいた。
「久しぶりだな」
「そう?」わたしは考えた。「そうかも」
最近わたしと会う人のほとんどに『久しぶり』と言われているような気がする。いったいわたしは、普段どこでなにをしているのだろう? 自分でも不思議に思った。
「もうそろそろ合唱コンクールだよ」
「合唱コンクール」とわたしは松井の言葉を繰り返した。「ふうん」
合唱コンクールという言葉はわかったけれども、それがなにを指す言葉なのか理解するのに少し時間がかかった。
「まあ、ヨシイは来ないだろうけど」
「うん、行かない」わたしは髪をかきあげた。「なにを歌うの?」
「流浪の民」
「へえ」わたしは足を組み替えた。「知らない。聞いたことない」
「そうなの? 中学でもよく歌わなかった?」
「どうだろう」
わたしは記憶を辿った。よく歌った曲といったら、中山美穂の『世界中の誰よりきっと』くらいしか思い浮かばなかった。
「せっかくだから、吉井にも合唱コンクールに来てほしいんだけどな」松井はワックスで散らした髪をねじった。「俺、歌声委員」
「ねえ」わたしは立ち上がった。「松井はわたしに、いったいなにを期待しているの?」
机に腰をかけていた松井は、驚いたようにわたしを見上げた。
「なにって、合唱コンクールに来てほしいなって。俺、歌声委員だし」
「行くわけないじゃん。わたしが」わたしは一歩前に出た。思わず笑っていた。「なんでわたしが出なきゃいけないの? ろくでもない合唱コンクールなんかに」
教室にいたクラスメイトの視線が自分に集まるのを感じた。松井は黙っていた。
「合唱コンクールなんてどうでもいい。わたしには関係ない。お好きにどうぞ」
わたしはそう言って教室を出た。トイレに行って、手を洗って、それから教室に戻った。
一日の最後まで教室に座って、なにを言っているのかさっぱりわからない授業を受けた。帰りのホームルームがおわって、チャイムが鳴った。わたしは、机の横にかけていたスクールバッグを掴んで立ち上がった。わたしに話しかけるクラスメイトは一人もいなかった。
校門を出たとき、携帯電話が震えているのを感じた。ナミキからの電話だった。
「はい」わたしは電話に出た。
「サナエちゃん、今大丈夫?」
「はい」
「ちょっと、今後の仕事のことで相談したくてさ……申し訳ないんだけど、今日事務所に来れない?」
「これからですか?」
「そうそう」
わたしは少し考えた。「行けると思います」
「ほんと? ありがとう」ナミキの声が明るくなった。「待ってるからさ、頼むよ」
栄駅で電車を降りて事務所にむかった。事務所が入っているマンションは、相変わらずいつ見ても怪しい気配が漂っている。マンションからうつむき加減で出てくる男と何人かすれ違った。いつも無人の管理員室の前を通り抜けて、B棟のエレベーターに乗りこんだ。
ソファに座ったナミキは、すがるような目でわたしを見た。
「サナエちゃん」ナミキの声はしおれた朝顔みたいだった。
ナミキの隣には、頭のサイドを刈り上げ、髪の毛を後ろで結わえた大男が座っている。大男がつけている金色のネックレスが照明に照らされていやらしく光った。
「お疲れ」大男が言った。「かけな」
わたしは彼らのむかい側のソファに無言で座った。
「さっそくだけど」と大男がわたしに言った。「おまえにはナミキのチームを離れてもらおうと思う。そろそろ次の新しい仕事に取りかかってもらいたい」
「新しい仕事ですか」とわたしは目の前のテーブルをじっと見て言った。
「そう、新しい仕事だ」大男は頷いた。「新規開拓」
ナミキは泣きそうな顔でわたしを見ていた。
「わかりました」とわたしは言った。
「ナミキ、おまえはひとりで仕事を回せ」
「はい……」ナミキは力なく、うなだれるように返事をした。
「しっかりやれよ。じゃなきゃ、ただじゃおかないからな」大男は目を細めた。「マジな話」
「はい」ナミキは諦めたように頷いた。
「じゃあ、そういうことでよろしく頼むわ」
そう言うと大男はソファから立ち上がった。それからドアの前まで歩いて、なにかを思い出したようにこちらを振り返った。そして口を開いた。
「この前までおまえが一緒に働いていた男が、どうやら俺らのことを嗅ぎまわってるみたいでよ」
「そうなんですか」
「あいつは、おしまいだな」
大男はそう言いおえると、部屋の鍵を回してチェーンロックを外した。ゆっくりとドアを開けて、部屋を出て行った。遅れてドアが閉まり、鈍く不吉な音が響き渡った。
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