3 カーボネイティッド

「しかし、にわかには信じがたいな。おとなしそうに見えるヨシイさんみたいな子が、援助交際をしているということが」僕は言った。

「目に見える印象がすべてではありませんよ」ヨシイさんは断定的に言った。「実のところ、そういったことをしているのはごくごく少数と言うわけではありません。もちろん程度の差はありますし、多数派ではありませんが」

 世の中からひどく取り残されたような気分になった。「もしかしたら、僕が知らない間に世の中はずいぶんと変わったのかもしれない」

「なにか新しいことを始めないと、老けてしまいますよ」

 ヨシイさんは微笑んだ。トレインスポッティングのヒロインのようだと思った。


 連絡先を交換し、我々は席を立った。ヨシイさんのグラスにはスクリュー・ドライバーが半分くらい残った。

 無言で地上への長い階段を上った。店の外に出ると、あたりに闇が降りていた。街灯や往来する車のライトが煌めき、見上げた空にもいくつかの星が煌めいていた。道行く人はみな、帰る場所か行き先があるように見えた。

「じゃあ」僕は言った。「今日はありがとう」

「こちらこそありがとうございます。ごちそうさまでした」ヨシイさんは軽く頭をさげて微笑んだ。

 しなやかな身のこなしでヨシイさんは歩き出した。僕はその場に立ち尽くした。ヨシイさんの後ろ姿は、雑踏にまぎれてすぐにわからなくなった。


 数日が過ぎた。僕は相変わらず無為な日々を過ごしていた。地下のダイニングバーで、ヨシイさんと聴いたアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが演奏する、『チュニジアの夜』をよく聴いて過ごした。

 生活はなかなか規則正しかった。毎日七時過ぎに起床し、二十四時前にはベッドに入った。料理こそしていないものの、できる限り多くの野菜を食べるように心がけた。

 やることはなく、それでいて秩序を守った生活を送った。模範囚のような気分になった。


 毎月の借金返済がいよいよ立ちゆかなくなるときが迫っていた。来月にはありとあらゆる支払いが滞る。その夜、僕はとりあえずクラブに足を向けることにした。

 クラブに行く前に、おいしいタコスと輸入ビールを出してくれるダイニングバーに寄った。チキンとトマトのシンプルなタコスを時間をかけて食べた。レーベンブロイを飲み、それからシメイ・レッドを飲んだ。

 店内には若い団体客が何組かいた。週末のわりに落ち着いた雰囲気だった。客はみな朗らかに談笑している。あるいはダーツに興じて盛り上がっている。僕はバーカウンターの一番端の席で背中を丸めてじっと座っていた。


 二十四時をまわったころに高層ビルの地下に降りた。エントランスでIDチェックを受け、ポケットからくたびれた紙幣を取り出して入場料を支払った。お釣りを渡してくれた男が少しだけ眉をひそめた。頬から顎にかけて、男の顔にはカビのような髭がこびりついていた。手の甲に入場スタンプを押してもらいエントランスゲートをくぐった。

 バーカウンターで、無愛想な女にラム・トニックを注文した。女はいつも無表情で、焦点が定まらない目をしていた。無言で差し出されたグラスを無言で受け取った。

 ラム・トニックが入ったグラスを注意深く持ち、ダンスフロアの後方からあたりを見渡した。葬儀場の控室ほどの広さのダンスフロアでは、様々な人間模様が交錯していた。馴染みのメンバーで盛り上がる人々、その場で意気投合したと思わしき人々、派手な格好で人目を引く人、流れる音楽に陶酔している人、眠気の谷にすべり落ち、スピーカーにもたれかかるようにして夢の中に旅立った人――


 ラム・トニックを四杯ほど飲んだ。僕は誰かと言葉を交わすこともなく、ただただ身体を通り抜けていく音楽に身を任せた。

 ダンスフロアでは、マウント・キンビーの『カーボネイティッド』が流れていた。息を飲むほど美しく孤独なサウンドスケープと、ミニマルなビートに癒された。ふと顔をあげると、複雑に入り組んだ照明に照らされたスモークの中で、曲の陶酔感に酔わされた人々がミラーボールの光を受けて陽炎のように揺らいでいた。

 そのとき、ポケットから携帯電話の振動を感じた。それはヨシイさんからの電話だった。時刻は二十六時過ぎだった。

 ダンスフロアの後方まで下がり、電話に出た。

「もしもし」僕は言った。

 大音量の音楽にかき消されて、ヨシイさんの声は聴き取れなかった。おそらく僕の声も届いていない。諦めてダンスフロアから離れ、分厚い鉄の扉で隔てられたコインロッカーが並ぶエリアに移動した。

「もしもし」僕はあらためて言った。「聴こえるかな?」

「ようやく聴こえました。すごい音ですね。どこにいるのですか?」

「クラブにいる」僕はロッカーに寄りかかった。「とても優しい場所なんだ」

「よくわかりませんが、優しさが必要なんですか?」

「そうだね。たぶん優しさを求めている」そこまで言って、酒に酔っていることに気がついた。壁の向こうのダンスフロアから漏れ出る音と振動が気持ちよかった。僕は沈黙の中に沈んだ。

 ヨシイさんが沈黙を破った。「カワサキさんに救いの手を差し伸べましょう」

「どんな救いの手だろう?」

「カワサキさんは、やはりわたしと一緒に仕事をするべきです」

 ヨシイさんから持ちかけられた話を僕はすっかり忘れていた。考えるまでもなく、それは犯罪行為で、あまりにも非現実的に思えたからだ。

「このまま少しだけ、そのことについて考える時間をもらえるかな?」

「どうぞ」

 ろくでもない頭で考えてみると、ヨシイさんの提案はわりに悪くない話に思えた。僕は無職であることに焦りはあれど、自ら行動を起こす意欲はまったくなかった。借金で首が回らないにもかかわらず。

 さらに悪いことに、僕には寄る辺のようなものもなかった。考えれば考えるほど、ヨシイさんと一緒に仕事をするほか選択肢がないように思えてきた。どうなろうが知ったことではない。そう思った。

「わかった」僕は言った。「オーケー。いいよ、やろう」

「そう言っていただけると思っていました。遅かれ早かれ」

 今後について日曜日――今は金曜日の終わり間近、あるいは土曜日が始まったばかりだ――に連絡を取り合う約束をして電話を切った。


 ヨシイさんとの電話を終え、ダンスフロアに戻る気になれず、クラブを出ることにした。時刻は二十六時半をまわっていた。ダンスフロアはおそらくピークタイムに差しかかり、人々は陶酔の渦にのまれているだろう。僕はすでに、陶酔感も優しさも求めていなかった。

 俯きながら階段を上り、地上に出た。大通りをまばらに車が行き交っていたが、人影は見当たらなかった。風がなく、車が通り過ぎる音のほかはまったくの無音だった。街は夜気で冷たく沈み込んでいた。

 イヤフォンを両耳に差し込み、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが演奏する、『チュニジアの夜』を再生した。月明かりに照らされて、自宅のマンションに向かって歩き始めた。長い道のりになると思った。


 日曜日は朝から曇っていた。僕は朝七時過ぎに起きて軽くランニングをした。これからのことを考えると、体力をつけておくにこしたことはない。

 長らく運動をする習慣がなかった僕は、四キロメートルも走れなかった。ランニングをした後、マンションに戻って腕立て伏せと腹筋をした。ろくに回数をこなせなかった。それから熱いシャワーを浴びて、時間をかけて髭を剃った。濡れた身体を拭いているときに携帯電話が鳴った。ヨシイさんからの電話だった。

「もしもし」

「おはようございます。起きていましたか?」

「起きていたよ」

「生活が規則正しいのですね」ヨシイさんは少し意外そうに言った。「今日なのですが、お昼過ぎに金山駅南口のスターバックス前に来れませんか?」

「行けるよ」考えるまでもなく、予定なんてありはしないのだ。ヨシイさんとの約束は十四時にした。


 十二時半過ぎに、ヘインズの白いTシャツを頭からかぶり、アー・ペー・セーの色褪せたテーパードデニムを穿いた。ネイビーのコットン・カーディガンを羽織り、くたびれたコンバース・オールスターのハイカットを履いて靴紐を縛り上げた。開閉のたびに老人の関節のような音が鳴る玄関の扉を開けて、うらびれたマンションを出た。


 近所のラーメン屋に立ち寄った。不器用な店主が、愛想の限りを尽くして調子外れに「いらっしゃいませ」と勢いよく言った。

 店主はもともとイタリアンのシェフで、驚くほど要領が悪く、並外れてこだわりが強かった。塩ラーメンを注文すると、日曜大工でも始めたのかと思うほどのけたたましい音が狭苦しい店内に響いた。いつものことだ。

 注文してからラーメンが出てくるまでに二十分はかかった。散々な店だが、僕は店主が出してくれるラーメンが好きで、綱渡りのように経営しているこの店を応援していた。この店はきっと長く続かない。それでもできるだけ長く続いてくれることを願い、店を後にした。


 ヨシイさんとスターバックスの前で合流した。ヨシイさんはギンガムチェック柄のフレッド・ペリーのブラウスに、グレーのカーディガンを羽織っていた。タイトなブルーデニムを穿き、靴はクリーム色のパンプスを合わせていた。赤い革製の小ぶりなハンドバッグが目を引いた。


 我々はカラオケボックスに移動した。注文したホットコーヒーが部屋の中に運ばれてきてから、モニターの電源を切り、スピーカーの音も切った。

「来てくださってありがとうございます」

「こちらこそ、と言うのもなんだかおかしいな」

 ヨシイさんは、静かにコーヒーカップを持ち上げ、口をつけた。カップのふちに薄く口紅が付着した。

「これからの話をしましょう」ヨシイさんは言った。

「そうだね。具体的な話をしよう。ただ、その前に少しだけ話しておきたいことと、訊いておきたいことがある」

 ヨシイさんは少し意外そうな顔をした。「どんなことですか?」

「差し支えなければだけど、お互いのこれまでについて、ある程度共有できたらと思っている。どうだろうか?」僕はヨシイさんの表情を伺いながら続けた。「お互いのことをある程度理解していたほうが、仕事がスムーズに運ぶように思える。もちろん、話したくないことは話さなくて構わない」

 ヨシイさんは小さく頷いた。「いいですよ」


 まずは僕から話した。大阪出身であること、今年で二十五歳になること。実家は不動産屋を営んでいて、家族との関わりは断絶状態にあること。名古屋を離れる理由がないため、会社を辞めても名古屋に留まっていること。

 なんの面白みもない話だ。ときおり小さく頷きながらヨシイさんは静かに話を聴いた。


 次にヨシイさんが話した。

「わたしは千葉県の松戸市というところで育ちました。父親はいません。いるにはいるのでしょうが、父親を知らないのです」ヨシイさんはそこまで言うと、静かにホットコーヒーを一口飲んだ。「母はあまり褒められた母親ではありませんでした。わたしはろくに食事を与えられず、ときに激しく折檻されることがありました。わたしが小学二年生になったとき、母はわたしを置いて家を出ました。家に入り浸っていた男と一緒に出て行ったのだと思います」

 隣の部屋から調子外れな熱唱が漏れ聞こえた。耳元でまとわりつく蚊のように鬱陶しかった。ヨシイさんの声は小さかったが、不思議と聴き取りやすかった。頭の中に直接語りかけるような力があった。

「それからわたしは、名古屋に住む叔母の家に引き取られました。叔母は女子大小路で、さびれたスナックを営んでいました。わたしも店を手伝いました。叔母はさっぱりとした人で、生活はそう悪いものではありませんでした。ただ、長くは続きませんでした」

 ヨシイさんは豊かな黒髪をかきあげた。

「ある日突然、叔母は逮捕されました。詐欺罪と商標法違反でした。偽物のブランド品を販売していたのです。わたしが中学二年生のときでした。それからわたしは、児童養護施設に入ることになりました。そして今に至ります」

 ヨシイさんの話はそこで終わった。投入した料金分の通話時間が過ぎた公衆電話のように。隣の部屋から聞こえていたろくでもない歌声は鳴りやみ、部屋は静寂に包まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る