2 地下に降りて
声をかけてきた男と並んで、わたしは歩いた。男は大学生くらいに見えた。白いカットソーの上に、グレーのパーカーを羽織っている。色が落ちた細身のジーンズを穿き、靴は薄汚れたコンバース・オールスターを合わせていた。少し癖がある無造作な黒髪が、夕焼けがやってくる直前の昼の太陽に照らされて、つやつやとしていた。最近日が長くなった。
「笑顔が素敵だったんです」と男は言った。「ほんとうのところ」
そう言う男の笑顔も、なかなかこなれたものだった。人の警戒心を自然と解くことができる、パグみたいな人懐っこさがあった。
「ありがとうございます。そんなに言われると、なんだか照れますね」いい加減リアクションにも困ってきたので、別の話題を振ってほしいな、と思った。
「マクドナルドはアルバイトですか?」とタイミングよく話題が変わった。
「そうです」
「どれくらい働いているんですか?」
「週二回くらいですね」最近の記憶をたどりながら、わたしは答えた。
五分くらい歩いた。わたしの少し前を歩く男は突然立ち止まると、こちらを振り返った。
「ここです」と男は小さな扉を手で示した。
年季が入ったように見える木製の扉はとても小さくて、目の前にあるのに意識を集中しないと視界に入らないくらい存在感がなかった。店の看板はかかっていないみたいだ。あたりはまだ明るいけれど、入口を照らす照明らしきものも見当たらなかった。
素通りしないで、寸分の迷いもなく、このわかりにくい店に辿り着けるのはすごい。わたしだったら、何回店に来ていても毎回入口を見落として、何度も行ったり来たりしそうだ。ひょっとして男は注意深い性格なのかもしれない。そう思うと、男への期待が高まるのを感じた。
男はドアノブを掴み、静かに扉を開けてわたしを見た。扉は音もなく開いた。わたしは頭をぶつけないようにかがんで小さな扉をくぐった。扉のむこうは薄暗くて、すぐ目の前に階段があった。その階段は、ピノキオを飲みこむクジラのように見えた。
わたしと男は無言で階段を降りた。階段は長かった。一段、一段と階段を踏みしめるたびに、パンプスのヒールがコンクリートを打つ音が響いた。男の足音は聴こえなかった。
くぐった扉の小ささからは想像できないくらいに店内は広かった。天井が高くて、地下なのに開放的に感じた。ほとんど明かりが灯っていない、というくらいに店内は薄暗い。どことなく鍾乳洞みたいだ。
ほどなくして、音もなく店員が案内しにやってきた。店員の顔は照明の加減でちょうど影になっていて、顔がない人間のように見えた。もしかしたらわたしもそう見えているのかもしれない。
奥の個室に通されて席に座った。男がわたしてくれたメニューを見て、わたしは考えた。スクリュー・ドライバーを頼むことにした。男はメニューを見ずに、ボストン・クーラーというカクテルを頼んだ。
細長いグラスが二つ運ばれてきて、わたしと男は乾杯した。薄いグラスとグラスがぶつかると、少しこもったような音が鳴った。
「今さらですけれども、カワサキと言います」と男は言った。
「カワサキさん」とわたしは頭に刷りこむように、ゆっくりと繰り返してみた。「ヨシイと言います」
わたしとカワサキさんは、お互いになんとなく頭をさげた。
わたしはそっとグラスに口をつけて、唇を湿らせてから言った。「この店はよく来るんですか?」
「何回か来たことがあります。いわゆるコンパで」
「コンパによく行くんですか?」
「たしなむ程度です」とカワサキさんは言ってから、カクテルを一口飲んだ。「誘われれば行きますが、そんなに知り合いがいないんです」カワサキさんがグラスをテーブルに戻すときに、氷とグラスがぶつかる乾いた音が響いた。
「地元はこのへんじゃないんですか?」テーブルの端で揺れるローソクの炎を眺めながら、わたしは言った。
「そうなんですよ。大阪です。愛知には仕事で来ました」
「社会人だったのですか」とわたしは驚いた。「大学生くらいかと思いました」
「よく言われます。まあ、仕事はこの前辞めてしまったんですが」カワサキさんは、ばつが悪そうに目を細めて笑った。どことなく演技じみて見えた。
「そうだったんですか。なにかきっかけがあったんですか?」
「それが、なにもなかったんです」
「なにも、ですか?」
カワサキさんは五秒くらい頭上を見上げて静止した。それから口を開いた。「そう、まさになにも、ですね。ストレンジャー・ザン・パラダイスくらい」
「ストレンジャー・ザン・パラダイス?」わたしは首を傾げた。
カワサキさんは首を横に振った。「古い映画のタイトルです。忘れてください」
わたしは静かに頷いた。
「問題は」カワサキさんはグラスに手を伸ばしながら言った。「起こるべきことも起こらなかった、ということなんです」
わたしは曖昧に頷いた。
「そうですね……。サッカーに例えると、無得点のまま硬直して、ひどく精彩を欠いたゲームみたいなものです。ピッチの上を、ボールが無軌道に行ったり来たりするんです。ただし、ゴールネットが揺れることは決してない。そんな感じって、想像できますか?」
「なんとなくはわかるかもしれません」わたしはろくにサッカーを観たことも、ましてややったこともなくて、ほんとうになんとなくしか想像できなかった。
「真綿で首を絞められるような二年間でした」
「ということは」わたしは右上の宙を眺めた。「今、二十四歳ですか?」
カワサキさんは頷いた。「そうです。ヨシイさんはおいくつなんですか?」
わたしは少し考えた。カワサキさんは二十代半ばで社会経験というものがあり、そして今現在は無職。最初に声をかけられたときから、予感はあった。今では確信に変わっている。今後のことも考えて、慎重に接したほうがいい相手だ。すでに答えは出ていた。そろそろ打ち明けてもいいだろう。
「十七歳です」
沈黙に包まれた。店内のBGMがやけに大きく聴こえた。
「十七歳?」
「十七歳です」
「つまり、女子高生?」
「そういうことになります」
わたしとカワサキさんが座る個室は、再び沈黙に包まれた。
「二十一歳か、二十二歳くらいに見えた」とカワサキさんは言い、頬を指でかいた。「大人っぽく見えたんだ。他意はない」カワサキさんの口調が敬語でなくなった。その方が自然な響きに聴こえた。
「年齢のことはカワサキさんが気にすることではありません。黙っていて申し訳なく思います」
「よくわからないんだけど」とカワサキさんは、わたしの目をじっと見て言った。「最近の女子高生は、男に声をかけられたらそのままついていく子がわりと多いのかな? それとも昔からそういうものなのかな」
「多くはないと思います。わたしはたまについていくことがありますけれども」
カワサキさんは「そうなんだ」とつぶやき、店員を呼んで追加のドリンクを注文した。わたしのスクリュー・ドライバーはまだグラス三分の二くらい残っている。
「もちろん、だれにでもついていくというわけではありません。この人ならばいいかな、というときだけです。カワサキさんは、きっと人の警戒心をとくことが上手なのだと思います」
カワサキさんがぽつりと「そうかな?」と言ったとき、店員が静かに引き戸を開けて、カワサキさんが追加で注文した黒いビールを運んできた。
「ねえ」とカワサキさんは言い、ビールで喉を鳴らした。「この曲、聴いたことある?」
わたしはBGMに耳をすませた。エキゾチックなジャズが流れていた。「聴いたことないと思います」
「そうだよね」とカワサキさんは言い、かすかに笑った。「この曲、とても好きな曲なんだ」
パワフルなドラミングと、跳ねるようなスウィング感が印象的な曲だった。世界が揺れているような、なにかが始まっているような、そんな鼓動を感じた。
「なんていう曲なのですか?」
「チュニジアの夜。アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズという人たちが演奏しているんだ」
「チュニジアの夜」とわたしは皮膚に薬を塗りこむように繰り返してみた。「アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ」
『チュニジアの夜』に酔わされて、わたしはカワサキさんに話を持ちかける決意をした。
「なぜわたしが声をかけられた男についていくか、疑問に思います?」
「疑問に思う。君はあまりそういうタイプには見えないから」
「なぜかと言うと、わたしが割り切っているからなのです」
「割り切っている?」カワサキさんは首を傾げた。「どういうことだろう?」
わたしは、溶けた氷で薄くなったスクリュー・ドライバーを少しだけ飲んだ。グラスに付着した水滴を紙ナプキンでふき取ってから、グラスをコースターに戻した。それから水滴をふいたナプキンを折りたたんで、テーブルの左端のふちにそろえて置いた。
「わたしは援助を受けているのです。援助を受けて関係をもちます。そういうことをしているのです」
カワサキさんは少し不安そうな顔をした。
「安心してください」とわたしは言った。「カワサキさんに援助を要求することはありません。事前の合意なくして、援助はありません」
「なるほど」とカワサキさんは一息ついた。「安心した」
「ところで、仕事を辞めたということでしたが、これからすることはあるのですか? 気に障る質問だったら申し訳ないですが」
「なにもない」カワサキさんは、いかにも美味しそうにビールを飲んだ。「なんの意欲もなく、まったくの無職だ。おまけに預金残高も尽きようとしている」
沈黙が訪れた。『チュニジアの夜』はおわり、BGMはしっとりと落ち着いたジャズになっていた。
「ひとつ提案があるのですが」
「なんだろう?」
わたしは一呼吸置いた。「わたしと一緒に仕事をしませんか?」
カワサキさんは困惑したように眉をあげた。「どういった仕事だろう?」
「大まかに言えば、援助をしてくれる人を探すことがカワサキさんの仕事になります。カワサキさんが見つけてくれた相手に、わたしは援助を受けるために必要なことを提供します。受けた援助を、カワサキさんとわたしとで分け合います」カワサキさんの目を真っすぐに見据えて、わたしは言った。「だれにでもできる仕事ではありません。ただ、カワサキさんはそれをとてもうまくやれると思います」
カワサキさんは軽く目を伏せて無言になった。ビールを二口ほど流しこんでから、ゆっくりと口を開いた。
「大枠はわかった。とてもシンプルでわかりやすい話だ。僕がヨシイさんに援助交際を斡旋する、ヨシイさんは援助交際をする。そういうことだね?」
「そういうことです」
「少し考えさせてもらえるかな? 悪いんだけど」
「もちろんです。時間をかけて、じっくりと考えてみてください」まだ半分以上残っているスクリュー・ドライバーに、わたしは唇をつけた。「ただ、カワサキさんはわたしと一緒に仕事をすることになると思います。望む、望まざるにかかわらずに。そんな気がします」
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