6 罪の問われかた
目が覚めると、自分の身体を触る癖がわたしにはある。金銭を受け取るために、値づけして切り売りしている身体。その身体があることを確認する。いつも通り、なでるように自分の身体を触ってからベッドを出た。
もうそろそろ夏もおわりに差しかかっているはずだけれど、レースのカーテンから射しこむ朝日は白くて、汗ばむくらいに部屋は暑かった。
同じ部屋で生活しているルームメイトの二人も目を覚ました。彼女たちと話すことはないし、挨拶を交わすこともない。
洗面所で身支度をととのえた。ほんとうは朝もシャワーを浴びたいが、それは叶わない。食堂に行くと
「おはよう」と美香は微笑んだ。
「おはよう」
美香と一緒の席で朝ごはんを食べた。美香はまだ眠たいのか、のそのそとスクランブルエッグを食べた。食べながらおもむろに喋り始めた。
「たぶん今日の夜、呼び出しがあるよ」と美香は言った。
「そうなんだ」
「
「へえ」
「へえって、他人事?」と美香は笑った。「
「どうでもいいよ」
ほんとうにどうでもよかった。人が言うことはわたしには関係ない。施設での生活は、わたしにとってどうでもいいものだからだ。
今日の午前中は仕事が入っていなかった。制服に着替えて、ひとりで学校にむかった。ぱっとしない住宅街を歩いた。車が細い道路を走り抜けた。道路のはしを駅にむかう自転車が走っている。車と自転車がわたしを次々と追い越していく。空はぼんやりと曇っていた。
十五分ほど電車を乗り継いで、学校の最寄り駅で降りた。思えば、学校に行くのは久しぶりだ。電車を降りると、同じ学校の制服を着た高校生がちらほらと目についた。わたしはひとりで校門をくぐった。
教室のドアを開けると、クラスメイトたちがわたしを見た。それからなにやらひそひそと話をした。机と机の間をゆっくりと歩いて自分の席に座った。
しばらくすると担任の教師がやってきた。教室を見渡してわたしを見つけると、なにか言いたそうな顔をした。特になにかを言われることはなく、朝のホームルームが始まった。
わたしは学校でやることがなかった。一応は授業を聞いてみるものの、欠席が多すぎてまったくついていくことができない。どの授業も、いったいなんの話をしているのだろうか? と首を捻った。ぱらぱらと教科書をめくってみるが、たぶん最初からじっくり教わらないとわからない。休み時間は携帯電話をいじって過ごした。
「吉井、久しぶりじゃん」
「久しぶりだね」とわたしは席に座ったまま答えた。
松井は隣の机に腰をかけた。
「一限目からいるなんて、何か月ぶりだ?」と松井は言い、ワックスで無造作に散らした短髪を整えた。
「わかんない」
わたしがそう言ったとき、松井と仲がいい
「松井」と小島は言った。「なに目的で吉井に絡んでいるんだ?」
わたしは小島を見た。横着な猿みたいな顔をしている。
「久しぶりだな、って思っただけだよ」と松井は笑いながら言った。
「気をつけろよ」小島は松井の肩に手を置いた。「性病をうつされて、そのうえ金まで取られるからよ」
わたしは立ち上がった。「じゃあね」
歩き出したとき、小島がわたしのほうをむいた。
「じゃあな、あばずれ」
わたしは保健室にいることにした。保健室の先生はわたしに関心がないようだった。間仕切りのカーテンを閉めて、ベッドに寝転んで天井を眺めた。天井はどことなくくすんで見えた。
援助交際をしていることを、わたしは隠していない。自ら公言したこともないけれど、施設でも学校でもずいぶん前から、わたしが援助交際をしていることはだれもが知っていた。街でだれかに見かけられたのかもしれない。
長い間みんな飽きもせず、わたしの援助交際についてなにかを言ってきたり、少なからず好奇の目で見ているように思う。それについてわたしは特になにも思わない。ただ、目の前で脱いだ靴下や、下着を売ったりしている子はそれなりにいるのに、援助交際を特別はやしたてるのは不思議なことだと思う。
好きで援助交際をやっているわけではない。しかし周囲からは好きでやっていると思われているようだ。周囲からわたしはそういうことが好きな人間、あるいはお金に並々ならぬ執着をしている人間、と思われているようだった。
どう思われても構わない。やるべきことをやるだけだ。そう思い、目を閉じて眠ることにした。
わたしを呼ぶ声がして目が覚めた。
「吉井さん」
ベッドの隣に二人の男女が立っていた。学級委員長を務める、
「吉井」と北野が言った。
わたしはゆっくりと身体を起こした。
「吉井さんを呼んでこいって
「おまえがこないと授業が始まらないんだ」
「体調が悪いの」
「そんなはずはないって斎藤先生は言っている」
「どうして斎藤先生にわたしの体調のことがわかるの?」
「いいから早くこい」北野はわたしの顔を覗きこんだ。「いい迷惑なんだ」
わたしは仕方なくベッドから降りて、教室に戻った。教室に入ると、クラスメイトがわたしにむかって色々とわめいた。ブーイングの嵐とはこういうことか、と思った。
「おまえがみんなの授業を止めているんだぞ」と斎藤先生はわたしに言った。
わたしは自分の席に歩いた。席までたどり着いて、机の横にかけていたスクールバッグを手に取った。クラスメイトはわたしの動きを見て一瞬だけ静かになった。
「早退するので授業を続けてください」
教室は再び喧騒に包まれた。
「吉井、おまえ逃げるのか?」と斎藤先生は言った。
構わずにわたしは歩き出し、教室の後ろのドアから廊下に出た。
夕方に一件だけ仕事をした。客は五十歳くらいの冴えないサラリーマンだった。わたしと同じくらいの歳の娘がいると言っていた。疲れ果てた足を引きずるようにして施設に帰った。
食堂に夕食を食べに行くと、美香と
「お疲れ」
「お疲れ。今日仕事だったの?」と真奈美は言った。
「うん」
わたしたちは一緒に夕食を食べた。夕食は生姜焼き定食で、べたべたしているわりになんだか味気なく感じた。正面に座る真奈美の左手の人差し指が目に入った。あたり前だけれど、いつ見ても指の先がなくて不思議な感じがした。
「夕食の時間がおわったら、やっぱり談話室に集合だって」と美香は言った。
「え、武田先輩?」真奈美の動きが止まった。
「そう」と美香は言った。「ウリについて、吉井さんと
「やだなあ」と真奈美は眉を八の字にした。
それからわたしたちは、口数少なく夕食を咀嚼した。夕食の時間が終了する間際に食べおわった。がちゃがちゃとセラミックの食器を返却すると、もう間もなく談話室での集会という時刻だった。
談話室に入ると、わたしたち以外の全員がすでに集まっているようだった。一番後ろのすみに座った。みんなの前に武田先輩が立っていた。武田先輩は談話室を見渡して、全員そろっていることを確認してから話し始めた。
「みんな知っていると思うけど、ウリ――つまり援助交際――をしている施設の子がいます。それについてみんなどう思うか、考えを訊きたくて集まってもらいました。」
談話室が少しざわついた。
「どう思う?」と武田先輩は中学生の子に訊いた。
「え……」突然話を振られた中学生はかたまった。「ちょっとびっくりしました。それ以上はなかなか……」
「驚くよね」と別の高校生が言い、立ち上がって前に出た。「この前施設に帰る途中、知らない男子高校生に、『援交施設の腐れ
武田先輩は満足そうに頷いた。「わたしたちは施設にいることで物珍しそうに見られたり、不憫に思われたりすることもあると思います。それが嫌だから、自立するためにいい学校に進学して、就職しようと努力している人が多くいます」
何人かが同意を示すように頷いた。
「援助交際は、そんな努力を台無しにする行為じゃありませんか?」武田先輩はあたりを見渡した。「有馬さんはどう思う?」
真奈美は音もなく立ち上がった。
「あたしは、自分でやったこともないことに対して、とやかく言うことは好きじゃありません」と真奈美は言い、静かに座った。
「おまえの好みを訊いてるんじゃねえし」と別の高校生は言った。
「吉井さんはどう思う?」
わたしは立ち上がった。「人に迷惑をかけているのだとしたら、それは申し訳なく思います」
「じゃあやめてくれるかしら?」
「それはできません」
「ふざけんじゃねえよ」と野次が飛んだ。
「どうしてやめられないの?」と武田先輩はわたしに訊いた。
「わたしにとって、必要なことだからです」
「ここを出てから勝手にやれよ」別の高校生は舌打ちをした。「迷惑なんだよ、おまえ」
舌打ちをした高校生をわたしは真っ直ぐに見据えた。それから武田先輩を見た。
「援助交際をやめろ、と迫るあなた方も、わたしからしたらいい迷惑です」
「なに言ってんだよ、この犯罪者が」
援助交際をした児童は罪に問われない。法的には被害者だ、と言おうとしたがやめておいた。
「どうして今、援助交際をしなきゃならないの? 吉井さんは」と武田先輩は言った。
「あなた方には関係がないことです。わたしにとっては必要なことで、しなければ困ったことになるのです」わたしはあたりを少し見渡した。「ところで、『援助交際をしているんだろ?』と、かわかわれたことで、具体的になにか困ることがあったのですか? 進路の選択肢でも狭まりましたか?」
「意味わかんねえこと言ってんじゃねえよ」
「わたしのことをどう言おうと勝手ですが、わたしに干渉しないでください」
談話室での話し合いは平行線をたどり、最終的に武田先輩から打ち切るようなかたちでおわった。そのあとでシャワーを浴びた。シャンプーをしているときに、背後を通っただれかが、「汚い」とわたしに吐き捨てた。
翌日も目が覚めると、自分の身体の表面をなでた。身支度をして食堂に行くと真奈美がいた。わたしはハムエッグが乗ったプレートを持って、真奈美のむかいに座った。
「おはよう」
「おはよう」と真奈美は言い、顔をあげた。「早苗、今日午前から仕事だよね?」
「うん」わたしは箸を持ち上げた。「真奈美は仕事に慣れた?」
「うーん、そう訊かれると、なんて答えたらいいかちょっと困るかも」と真奈美は笑った。
つられてわたしも笑った。それはそうだ。この仕事に慣れたのかなんて、わたしだっていまだにわからない。なにも感じなくなっている、というだけのことだと思う。
朝ごはんを食べて、わたしは施設を出た。カワサキさんの部屋にむかった。二ヶ月ほど前に、カワサキさんは狭いワンルームマンションから、広いマンションに引っ越した。仕事が軌道に乗り、一緒に働くメンバーも増えた。真奈美のほかにも、かつて一緒に援助交際をしていた子や、援助交際をしてみたいと言っていた子をわたしはカワサキさんに紹介した。
カワサキさんの新しい部屋に着いて、ドアチャイムを鳴らした。すぐにドアが開いた。
「おはようございます」
「おはよう」とカワサキさんはスニーカーの靴紐を縛りながら言った。「車をとってくる」
カワサキさんはそう言うと部屋を出て行った。ドアが閉まる鈍い音が響いた。
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