5 マーサ

 ヨシイさんは一時間後に戻ってきた。門限に合わせて帰宅する小学生のように。ごく自然に、黒い日産・ウイングロードの後部座席に素早く乗り込んだ。

「お疲れさま」

「お疲れさまです」ヨシイさんはドアを閉めた。「ちゃんと注意深く見守ってくれていましたね」

 抑制された笑顔だ。援助交際に行く前と比べて、ヨシイさんの様子はまったく変化がなかった。


 帰路はしばらく無言だった。カーオーディオから、ささやかな音量でトム・ウェイツの『マーサ』が流れていた。繊細な砂時計のように美しい曲だ。疲れた身体に心地よかった。

 出し抜けにヨシイさんは話し始めた。「先ほどの客は公務員だそうです」

「そうなんだ」僕はステアリングを切りながら言った。「どんなタイプの客が多いんだろう?」

「様々ですよ。スーツを着たサラリーマン風の人、土木関係の人、水商売や不良風の人」ヨシイさんは指を折るように言った。「なかには九十年代から買春に情熱を注いでいる人もいますよ。テレクラの時代から」

「生きた化石みたいだ」

 日産・ウイングロードを走らせた。総走行距離にして十万キロ近く走っている、くたびれた車だ。十数分走り、我々はマンションに戻ってきた。


 先ほどの仕事で得た二万円を分けあった。ヨシイさんの手元に一万二千円が残り、僕の手元に八千円がやってきた。数か月ぶりの収入だ。

「初仕事、お疲れさまでした」取り分をパステルイエローの革財部にしまいながら、ヨシイさんは言った。「カワサキさんはとてもうまくやれていたと思います。受注もきっとうまくいきますよ」

 そう言い残し、ヨシイさんは部屋を出て行った。


 次の仕事はあっけなく受注することができた。立て続けにその次の仕事も受注できた。さらにその次の仕事も舞い込んできた。ヨシイさんの言葉通りだった。

 受注の勘所をある程度つかんだ手ごたえがあった。まず第一に、早い段階で見込み確度を見極めるようにした。第二に、やり取りするテキストのパターンを増やし、アプローチを単調にしないことを心がけた。

 可能な限り、出会い系サイトの外で見込み客とやり取りするように誘導した。出会い系サイトの外で十八歳未満であることを匂わせて価格交渉を行い、単価アップを図った。どうやら世の中には、十八歳未満に対する特別な需要が存在しているようだ。危険を冒してでも、失った青春を擬似的に取り戻したいと渇望する層が一定数いるのかもしれない。

 仕事は軌道に乗り始め、日々が突然忙しくなった。受注件数は安定し、単価も好調だった。優良な客とは定期的にやり取りしてリピートを受けつけた。スピードにのった自転車のようにすべてが安定してきた。

 ヨシイさんは連日二件から、多い日では五件の仕事をこなした。生理の期間にまとめて休んだ。学校がある時間帯の仕事にも対応した。まったく学校に行っていないわけではないようだったが、仕事が入れば仕事を優先させた。


「カワサキさんに紹介したい人がいます」ヨシイさんは突然言った。

 仕事の帰りに、細く汚い新堀川沿いを北に向かって日産・ウイングロードで走っていた。カーオーディオから、ケミカル・ブラザーズの『スター・ギター』がかかっている。短く印象的なボーカルパートが流れた。

 車は快適な速度で走っていた。バックミラー越しにヨシイさんの顔を見た。波一つない穏やかな凪のような表情だった。その顔からは、良い話なのか悪い話なのか窺い知ることができなかった。

「どんな紹介だろう?」

「一緒に援助交際をしたがっている子の紹介です。同じ施設に入っている子です」

 僕は考えた。ヨシイさんの稼働率はすでにほとんど限界に達していた。売上をさらに伸ばしたいと思っていた僕にとって、それは悪くない話に思えた。もちろん、どんな人物かによりけりだが。

 それにしてもタイミングが良かった。状況を鑑みて、すべてわかったうえでヨシイさんはこの話を持ちかけているのではないかと思えた。

「オーケー、まずはその子に会おう」


「はじめまして。アリマと言います」

「はじめまして。カワサキです」

 名古屋駅の銀時計で僕らは会った。ヨシイさんから紹介されたアリマさんは、グレーのジャンパースカートに、ゆったりとしたネイビーのカットソーを合わせていた。ローカットのコンバース・オールスターを履き、革製の巾着バッグを携えている。顔立ちには幼さが残り、どことなく天真爛漫な風に見えた。

 名古屋駅太閤通口たいこうどおりぐちのカラオケボックスに向かった。スクランブル交差点で信号を待つとき、右斜め前に立つアリマさんの左手が目に入った。アリマさんの左手の人差し指は、第一関節から先がなかった。

 カラオケボックスでアリマさんと向きあった。

「なぜ援助交際をしたいと思ったのかな?」僕は訊いた。

「お金です。施設からはお小遣いがもらえますが、微々たるものなんです。もらえるだけありがたいけど」アリマさんは言った。「服も施設からもらえます。でも、着たい服がもらえるわけじゃありません。あたしは今十五歳ですが、十五歳なりに好きな服を着て、好きなところに遊びに行きたい。そのくらいのお金はほしい」

「なるほど」

「ほかにも理由はあります。あたしの母は、身体を売ってあたしを育てました」アリマさんは一瞬だけ目を伏せた。「もう、一緒にいることはできなくなってしまいましたが」

 話の続きを待った。

「施設で最近、援助交際をする子が何人か出てきました。そういうことは許せないと思う子が施設には多くて、ちょっとした問題になりそうです」

「そうなんだ。少し意外に思える」

「道徳心や、倫理観に敏感な子が施設には多いんです。施設の子は、進学や就職で苦労する子が多くて、だからこそ躓きたくない、道を踏み外したくないと思う子が多くなるんだと思います」

 部屋は沈黙に沈んだ。カラオケボックスは不気味なほど静かだった。部屋のスピーカーを切ってしまうと、まったくの無音だった。隣の部屋から間の抜けた歌が聞こえてくることもなく、人の気配を感じなかった。ひとしきり沈黙が続いて、アリマさんは再び口を開いた。

「あたしは、身体を売り物にすることをけっして悪いことだとは思いません。それが必要なことなのであれば」

 池の水面に浮かぶ睡蓮のように、静かな怒りがアリマさんの瞳に滲んで見えた。身体を売って自分を育てた、母親のことを思っているのかもしれないと思った。

「ただ、自分が経験していないことは、良いとも悪いとも言いようがないとも思います。自分の目で見て、体験して、考えてから結論を出したいと思いました。だからあたしはやってみようと思ったのです」

 アリマさんはそう言うと、左手でアイスティーのグラスを持ち上げ、ストローに口をつけた。第一関節から先がない、左手の人差し指が再び目に入った。

「指、気になりますよね?」グラスを置きながらアリマさんは言った。

 僕は曖昧に頷いた。

「小さいころにドライアイスで壊死しちゃったんです」


 僕はアリマさんとも一緒に仕事をすることに決めた。静かな怒りを秘めたアリマさんの瞳はなにかしら印象的だった。アリマさんともきっとうまくやれる。そう思った。

 我々はカラオケボックスを出た。その日は真夏日に迫る気温だった。時刻は十五時過ぎで、あたりにはまだ昼間の熱気が立ち込めていた。

 名古屋駅太閤通口のスクランブル交差点を渡ろうとしたとき、一陣の風が吹いた。アリマさんの栗色の髪が舞い、革製の巾着バッグが揺れた。アリマさんは僕の方を振り向き微笑んだ。

「涼しい」


 その翌日にアリマさんの初仕事がやってきた。

「緊張している?」バックミラー越しに、僕はアリマさんに話しかけた。

「なんとも言えない気持ち」アリマさんは髪を指に巻きつけた。「そわそわする」

 僕が運転する日産・ウイングロードは、スムーズに道路を走った。テンポよく街の風景が映り変わる。行き交う車、ビアンキのロードバイクで走る人、信号待ちのOLたち、陽光を受けて煌めくビルの窓。街は正常に動いているようだ。空は平板に青く、雲一つなかった。

 待ち合わせ場所近くのコンビニエンスストアに到着した。バックミラーを覗き込むと、アリマさんの口は横一文字に結ばれていた。しばらく待つと、バックミラー越しに目が合った。

「行ってきます」アリマさんは力強く後部座席を飛び出していった。


 待ち合わせ場所に指定していた、ドラッグストアの駐車場に僕は先回りした。数分後にアリマさんがやって来て、店の入り口近くにある、自動販売機の前に立った。アリマさんの身体はセミの死骸のようにかたく見えた。

 駐車場に黒いトヨタ・ハリアーが転がるように入ってきた。駐車場のすみで停車し、男が一人降りてきた。それからアリマさんが立つ自動販売機に向かって歩き始めた。

 男は短く刈り上げられた茶髪で、黒いTシャツを着ていた。タイツのようなジーンズを穿き、靴は黒いアディダス・イージーブーストだった。若いのか、それとも若づくりをしているのか、なんとも言い難い風貌だった。腹が少し出ているように見えた。

 男はアリマさんに話しかけた。客のようだ。アリマさんはぎこちなく笑い、男と連れ立って歩き始めた。ドラッグストアの駐車場を出て、通りに面したホテルに向かって消えた。


 仕事を終えたアリマさんを拾う予定になっているコンビニエンスストアに、日産・ウイングロードを走らせた。駐車場のすみに駐車して、シートを深く倒した。携帯電話のアラームをセットして、目を閉じるとすぐに眠りがやってきた。


 夢と現実の狭間で、広漠こうばくとした夜の砂漠に僕は立っていた。人の気配がなかった。暑くも寒くもなくて、温度というものを感じなかった。風はなかった。

 僕の身体は月光に照らされている。空を見上げると無数の星が煌めいていた。深く沈み込んだ夜だった。どこへ行けばいいのか、途方に暮れてあたりをぐるりと見渡した。どこまでも砂漠が広がっているだけだった。


 アラームの音で午睡から目覚めた。アラームを止め、倒したシートを起こした。手の甲で目の周りを擦り、頭を軽く振ってみた。

 ろくに働かない頭でしばらくじっとしていると、歩いてくるアリマさんの姿がサイドミラーに映った。背筋をぴんと伸ばして歩いていた。

 アリマさんは日産・ウイングロードに近づき、ドアを開けると素早く後部座席に乗り込んだ。勢いそのままにドアを閉めた。バックミラー越しに目が合った。

 僕は後ろを向いてゆっくりと日産・ウイングロードをバックさせた。それからシフトノブをドライブに入れなおし、走り出しながら手早くステアリングを切ってコンビニエンスストアの駐車場を後にした。

 日産・ウイングロードが道路を走り出して一つ目の信号で停まったとき、アリマさんが口を開いた。

「緊張するほどのことでもなかった」

 僕はバックミラー越しにアリマさんを見た。アリマさんも僕を見た。

「お疲れさま」

 カーオーディオから、ザ・ナインティーンセヴンティファイヴの『ガールズ』が流れた。若さ萌える軽快なギターのカッティングが鳴った。

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