10話「友達」

 暗室。俺とジョシュアはゲームをしていた。

 高校一年生のときと同じ感じで、床にあぐらをかきながら。光源は唯一、液晶テレビのほの暗い明滅。


「……こんなものか」

「上手いなぁ」


 彼はコントローラーを握り、主人公を操作して、敵を倒していった。俺は隣でただ眺めていた。最初のうちは慣れてなくて、教えることがあったものの、いまではもう自分の身体のように動かしていた。


「当たり前だ。俺を誰だと思ってる」

「ジョシュア・ヨハン・ファウストだろ」

「そうだ」

「……能なしのジョシュアだろ」

「そうだ」


 俺の皮肉にジョシュアはまったく顔色を変えず、まるで興味がないような様子でそう言った。そこからはしばらく合成樹脂が立てるカチカチとした音だけが暗室に響いた。


「あ〜中ボスきたな」

「……お、俺ではないか!」

「あははっ」


 『魔王ルート』のチュートリアル後、レベリングを終えた主人公たちに立ち向かうのは、ジョシュアが務めていたから。


 彼はもう我慢ができないといったふうに、コントローラーを置いて、俺の方を向いた。シャットダウンはせず、起動させたまま。液晶の光が彼の横顔を照らした。


「さて……お前は、俺のなんなんだ?」

「それは……」


 何者なのか。そんなもの、俺が聞きたい。

 いつか起きたと思ったら変わっていて。

 俺は俺であって。ジョシュア・ヨハン・ファウストではない。それなのに。彼として、彼の中で、彼の外で彼を組み込んで、彼になってしまった。


「すまない。ジョシュア」

「……」

「すまない。すまなかった」


 俺には、俺にはわかる。

 彼は怒っているのだろう。

 勝手に自分を名乗られて、自分を奪われて。

 俺だったら憎む。そんなことされたら間違いなく。


 嗚呼、液晶のまばゆい怪光線が彼の顔を照らす。


「なにを言っている。なぜ謝るのだ」


 彼は……穏やかに笑っていた。

 俺は心臓を掴まれたように動けなかった。


 なんで。


「なんで……」

「お前は他人の考えには敏感だが、感情に対しては鈍感なところがあるかもしれんな」

「なんで……笑ってるんだ?」


 怒ってるんじゃないのか?

 自分を奪われて、憤慨しているんじゃないのか?

 ジョシュアは自分の意志で、自分の力だけで立つことを望んでいたんじゃないのか?

 憎くないのか? 俺を?


「昨日、俺は負けた。カラは俺のことをこう言っていたな……透明だと。ふふ。そんな美しいものではないな。頭のなかはどす黒い絶望だったよ」

「……でもお前は」

「聞け。あのあと俺は自室で泣き叫んだ。自分の顔を見ながら、消えてしまえ。消えてなくなってしまえ、と泣き叫んだのだ……自分を恨んで」


 彼は優しげに、自嘲して。

 高校一年生のようにあきらめて半笑いで。


「もう自分で、なんていたくもなくなった」


 そんなもの。そんなものは。

 そんなものは誰にだってある、一時的な。

 だからといって俺が彼を奪っていいはずもない。


「お前が俺になったとき、最初は戸惑ったさ。だがお前はなんというか……俺の感情を考えて、俺の欲望を考えて、俺の無念を雪ごうとしていた」

「だって。それはそうしないと……」

「今日。あの主人公に、あの正しさに対峙しながら、あくまで俺として接するお前を見て。俺に協力して、共感して、勝利してくれるお前を見て……」


 だからどうしたっていうんだ。

 そのくらい……なんてことないじゃないか。

 

 俺は悔しくて、悔しくて、涙を流していた。

 悔しくて……悔しくて。だって。


 なんてことないじゃないか。そのくらい。


「嬉しかった。いままでそんなことはなかった」


 ジョシュアは続けた。


「生まれたときは期待されていた……はずだ。しかしそれは俺ではなく、ファウスト家の長男としての期待だった。弟が生まれて、弟には才能があって……だから俺は努力したのだ」

 

 ジョシュアは続けた。


「だがダメだった。努力は認められない。認められるのは結果のみ。過程ではなく結果のみだ。俺は悔しかった。その悔しさすら理解されなかった」


 ジョシュアは続けた。


「誰かに言っても、どうせ理解されないだろう。だから隠した。心の裡に。悔しさも悲しさも苦しみも。結果が出るまでは隠そう、と。結果が出たら語ろう、と」

 

 ジョシュアは続けた。

 俺は……。


「最期まで結果は出すことはできなかったが……お前は俺を理解してくれた。その心の裡を汲み取ってくれた。わかるよ、それだけで十分だ。俺にはそれだけで……ありがとう、友よ」

「うあ……う……ああっ……」


 嗚咽が、涙が止まらない。彼は嬉しそうに笑った。

 生まれてはじめて、嬉しそうに笑っていた。


「う……なんで……クソ……なんで!」


 なんで、誰も彼を。


「いいのだ。もう、いい。お前は俺を救った」


 なんで、俺はここでしか。


「だから泣かないでくれ。俺の主人公よ。お前は俺の理想だった。夢を見せてくれた」

「俺は……そんなんじゃ……ない……よ」

「ふふっ。本当にそう思ってるから、タチが悪いな。見るがいい」


 彼はさきほど置き去ったコントローラーを俺に渡して、液晶を指差した。そこには、ベッドで死んだように目を覚さないジョシュア。傍に泣いて眠る少女が。


 ──泣いて眠るカラが。


「俺には、そんな資格は、いや、誰だってそんな」

「まったく……頑固なやつだ。俺のようにな。いいだろう、よく聞け。一度しか言わない」


 液晶の照明が煩雑に明滅する。

 ジョシュアはおもむろに立ち上がると、大きく、深く息を吸い込んで、曝け出すように……轟かすように言った。


「我が友、光一郎よ! お前は俺ではない……そんなことは許されない……だが今! 俺が許すと言っているのだ。ほかでもない俺が俺自身が! お前でもない誰でもない俺だけが! だから行け……行かないなら引っ叩いてやろう! それが友としての……」


 ジョシュアは笑いながら、誇りながら。

 この四畳半の狭い暗室で。

 世界中に。

 俺に。


「俺としての矜持なのだ」



            ♢



 目が覚めた。

 薄く、曖昧だった感覚が徐々に冴えていく。


 夜だった。深く、誰も見てないような夜。これはジョシュアの部屋だろうか? 暗くてなにもわからなかった。


「ジョシュア……」


 彼は俺ではない。俺はただの人間だ。

 人間だからこそ生きて、人間だからこそ死んで、人間だからこそ……弱い。

 弱いから負けたくない。弱いから安心したい。弱いから強くなりたい。弱いから逃げたい。弱いから奪いたい。


 弱いから、勝ちたい。


 そうやって生きて……彼と同じだ。

 俺も理解されなかった。


 思い出していた。赤色の光景。

 去ってゆくテールランプが最期、俺を救ってくれたのだと思っていた。でも違った。ただ奪われていた。

 人として生きる道。命を奪われていただけだった。


 誰も見てないから言った。


「ジョシュア。なあ俺たちってさ……」


 光一郎。かつての俺の名前。

 そんなもの、価値もなく、固有名詞だと。

 

 でも彼は呼んでくれた。

 

 友として、誇らしげに。

 人として、誇らしげに……。


「俺たちって、なんなんだろうな」


 その言葉を皮切りに、涙が流れていく。

 俺にはわからない。なぜなのかわからない。

 無理だ。俺にはそんなことはできない。

 弱くて、逃げ出せずに囚われていた俺には。


 俺は彼が弱いのだと思っていた。

 俺と同じ、弱い人間だと。

 でも彼は……。


 彼の感情は。その熱を失って。


 俺の中から、消えた。


「ん。あ……!」


 暗闇でなにかが動きだした。

 その声には聞き覚えがあった。


「ジョシュア……ジョシュア。ジョシュア!」


 彼女はベッドの傍から乗り出すと、俺を正面から抱きしめた。包むように、帰る場所のように。でもその名前は、俺の。


「ふ……うっ……あぁ……」

「泣かないで。泣かないでいい」


 俺たちってなんなんだろうな。

 カラは俺よりも泣いているのに、泣かなくていいと言っている。ジョシュアもそう言っていた。


「カラ……大丈夫……だよ」


 彼も同じ気持ちだったのだろうか?

 泣いている彼女を見て……泣いている友達を見ていると、泣いてほしくなくて。泣かないで、なんて言いたくなる。


 でもわからない。なんでそう言ってくれるのか。

 疑ってしまう。俺は誰かじゃないから。

 弱いから。


 ジョシュア、俺たちって。

 俺たちってさ。


「心配しなくて、いいよ……」

「する。する……したい」

「……俺といたって、どうせ」


 誰かを奪って。奪い去って。

 それしか生きる術がなくて。


「一緒」


 カラは遮るように、俺の目を見て言った。

 暗闇のなかでも彼女の姿がはっきり見えた。


 俺たちって。


 その虹色の瞳。心を見る目で。

 彼女の髪の毛は碧色に輝いて。

 いつかの言葉を思い出していた。


「友達。だからずっと一緒」


 緑色は許し。

 

 

 


 



 


 

 

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