3話「萌芽」
机を隔てて、向かい合って座っていた。
メフィストフェレスは慈愛をよそおって。
俺は安心をよそおって。
羊皮紙とナイフと……鉄の香りがその場にあった。
「では、ここに」
「わかった」
親指が熱い。一文字の切り口から血が垂れている。
嗚呼もう手が震える。血が揺れる。
……固まりつつ揺れる。
揺れる。
メフィストフェレスは俺の顔しか見ていなかった。
──悪魔が嘘をつけないというのは本当のことだ。
間違いなくそう設定されている。彼女は嘘を言っていない。
本当のことしか言っていない。が、それでも……。
「さあさあ」
赤黒い線で区切られた欄に親指を近づける。
触れて、そして離す。
それでもまだ不安だった。
上手くいくだろうか。保証はあれど。
賭けるしかない。
命を、未来を、尊厳を。
俺という全存在をこの発想に賭けるしか。
『悪魔の契約書』なんてアイテムはゲーム内には登場しない。主人公はそれを手にする機会が設定されていない。しかたがない。
ゆえにフレーバーテキストも存在しない。保証はあれど、確証はない。だが、これしかない。関係ない。
すでに飛び込んでしまった。
血判は赫く捺されていた。
「……フフッ」
「え?」
口先だけは戸惑ってみせる。ただ緊張はしていた。
彼女はうつむいていた。
表情はうかがい知れないが、肩がやや震えていた。
そして、もう我慢ができずに爆発したような感じで……。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
と笑った。
真っ白い髪を振り乱し、大口を開けて、目には涙を浮かべて。
身体を逸らしたり、くの字にかがめたりして。両手で腹を抑えて。
笑いに笑い、椅子から倒れそうだ。
まだだ。俺が笑えるのはまだ。
「捺しちゃった! 捺しちゃった! アハハ! お、捺しちゃった!」
「……」
「わたしは本当のことしか、い、言ってないのに! 騙されて捺しちゃった!」
「……」
汗が、汗が……止まらない。
恐怖と緊張と疑念と不安とが入り混じって毛穴から噴き出ている。
もしダメだったら。もう考える必要はないのに。
汗は止まらないのに呼吸が止まりそうだ。
確認したくない。怖い。
状況が停滞していてほしい。
もしダメだったら……廃人。死。
俺のなにもかもが、文字通りなにもかもが。
目の前の悪魔に破壊される。
「契約書が読めないなら契約しちゃダメ! 当たり前のことでしょ、アハ! あ、あなたもう……アハアハハ! さ、最高……」
生唾を飲む。クソ、ひとりで狂ってろ。
「お、おい! なあ!」
「なァに?」
「け、契約……」
「『ジョシュア、喋るな』」
息を吞む。きた。
だが話せるだろうか?
「ッ……」
恐怖で黙ってしまった。
結論を先送りにしてしまう。
俺の意志で黙っていることは確かだ。
そんなことに安寧を求めて黙ってしまった。
「ね? 喋れないでしょ? 嘘はつかないわ、嘘は。でもね、秘密を持つことはできるの。いいかしら、説明してあげましょう。じょ、ジョシュア様……クフッ」
彼女は勝ち誇って、どうやらあえて緩慢な動作で契約書をすくい上げた。
へらへらと笑いながら、慇懃に読み上げ始めた。
『この契約を破ることはできない。
メフィストフェレスは能力を使用し、ジョシュアを強化することができる。
メフィストフェレスはジョシュアのことを傷つけることができない。
ジョシュアはこの契約をいつでも破棄することができる。
双方、このことは口に出してはいけない。』
ここまでは言い聞かすように、調子を崩さずに言い切った。続きは、震えをこらえながら。
もったいぶりながら。
「それでね、それで……この下には……」
「……」
「この下には……この、下に、は」
彼女は、そこで。
俺は、そこで。
時が止まった。
……狼狽している。狼狽している。狼狽している!
笑みが失せた。血の気が失せた。自信が失せた。
でも俺はその逆に。
笑みを浮かべ。血の気を浮かべ。自信を浮かべ。
全身の血液が沸騰して膨張して漲って。
曖昧だった輪郭が浮かび上がって。
最後に言葉が浮かんできた。
「俺が……俺が言いたかったのは……」
「えっ……あ、な」
「契約書を読んでないのはお前の方なんじゃないかってことだ」
メフィストフェレスは読んでしまった。
その下には赫く塗りつぶされた行。
メフィストフェレスは読んでしまった。
その下には加筆修正のように。
「メフィストフェレスはジョシュアに絶対服従……」
悪魔にしか読めないはずの文字で記されてあった。
♢
「どうして……なんで……」
「か、勝った……勝ったぞ。ジョシュア」
緊張が反転し、一気に脱力する。
呼吸が荒く、視界が白い。
生きている。生き残った。
魔界の言語。
ゲーム内では一切説明はない。
ところが細部までデザインされていることは周知されており、開発者もこだわりを認めていた。
そのため言語体系に興味を持った有志による分析で、実践的なまでに整理され、考察の深化に貢献したのはあまりにも有名な話だ。
形態は表音文字──ハングル語のような子音と母音の組み合わせ──に分類され、あとはそのまま日本語として読めばいい。非常にシンプルな作りであって、覚えようと思えば簡単に覚えられる。
だから知っていた。読めた。そして書けた。
こうした世界観の緻密さが魅力のゲームだったんだ。役に立つなんてまったく思わなかった。まさかって感じだ。
そのまさかにホント、感謝しかない。
「はぁっ……はぁっ」
……感謝しかないが、余裕がない。
呼吸が。意識が。
マジで気絶しそうだ。
興奮が冷めて痛みが走る。
「はぁっ……痛ぇし……」
右の太ももを強く抑えた。
それを見たメフィストフェレスは焦った様子で俺の横に駆け寄ってきた。机の下を確認して固まる。
「『血液』?」
「……あはっ」
呆然と立ち尽くす彼女の顔を眺め、ようやく腹の底から笑いが込み上げてきた。
やはり赫い目……。だがさっきよりも濁っている。
赤黒く反射しているせいだ。
太ももの刺し傷。抑えた手の合間からおびただしく噴き出る血液を映しているせいだ。
乗せていた、血に染まった羽根ペンを眼前に突きつけながら言った。
「これで。これで刺したんだ。『血液』と『内容』なんだろ?」
「で、でも。説明がつかないわ……なぜ知ってるの」
メフィストフェレスは俺が内容を知りたがっていると思っていただろう。契約内容に安心したくて、内容を疑っていると信じ切っていたはずだ。
魔界の言語は魔族の一部にしか伝わっていないから。知りようがないから。
だからペラペラとご丁寧に教えてくれた。
気を逸らすため。
俺がもっとも知りたかった契約の条件についてペラペラと。
「教えるわけがない。……だが強いて言うなら、秘密とは悪魔だけのものではなく」
ジョシュア。まずは奪い取ってみせた。
未来を、尊厳を、自由を。
俺の勝利でもあるが、お前の勝利でもあるんだ。
だから代わりに言ってやるよ。
「誰にだって知られたくない秘密はあるものだ」
ってな。
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