7話「黒砂」
初めて買ったゲームだった。
高校一年生の時期に発売されたゲームだった。
駅前のゲーム専門店で買った。
バイトして余った金で買った。
流行に触発されて買った。
友達もない。学力もない。体力もない。
金もない。親もない。愛情もない。信念もない。
なにもないから買った。
あのとき俺は高校一年生だった。
焦燥感と劣等感と猜疑心。
独善的で自己愛的で反抗的で。
ひとりだけ世界の正体に気づこうとして。
ひとりだけ世界の正体を築こうとしていた。
♢
「再戦……ねぇ……」
「もう一度だ。正々堂々ともう一度」
昨日と同じ時刻。同じ光景。同じ気温。
同じ顔。同じ声。同じ態度。
同じ──手軽さ。
カラとメフィストフェレスには先に闘技場へ向かうように頼んであった。この光景をカラに見せたくなかったからだ。この光景とはつまり。
俺が避けていた食堂のど真ん中で。
メインヒロインとかサブヒロインとかの間で。
囃し立ててヒソヒソ噂話とかするモブの中心で。
つまりゲームの世界の中心で俺は。
主人公を眼前に、ひとりで対峙していた。
「別にいいけど。正々堂々とか君が言う?」
「先日までの無礼はここで謝罪しよう」
気分が悪い。
彼を目の前にすると……なぜか認めたくなる。
あなたが強者でわたしは弱者です。
あなたが勝者でわたしは敗者です。
自分が間違ってました。
わたしは……。
あなたにこそ価値があって。
わたしには価値がありません。
そう認めたくなって、卑屈になって、諦めそうになる。正しさが襲いかかってくるような雰囲気。
「いいよべつに。僕は気にしちゃいない」
彼は……驚くほど普通の人間なのに。
ルーク。
平民出身なので姓はない。
黒髪、中肉中背の体格。
高くもなく低くもない声。
中性的で平均的な外見と内面をしている。
特徴はなく、破綻はなく。
立場はなく、過去はなく。
主人公に背景はいらないといわんばかりに。
ただ正しさだけがあった。
『エヴォルヴ・アカデミア』に入学したのだって自分の意志ではない。メインヒロインのひとり、クーラ王女が拐われているシーンにたまたま通りがかったのが彼だったからだ。
ただの街の青年だった彼は、王女を救い出し、功績が認められ、彼女の采配で入学を認められる。
成り行きで、仕方なく。
やれやれとぼやきながらなに気なしに。
それでいつのまにか強くなってしまって。
「ルーク様。相手にする必要はありませんわ」
そしていま……王女が彼の隣に立っていた。
薄く青く滑らかな髪を腰まで伸ばしている。
優しげな雰囲気の顔に不満を露わにしている。
学生服を改造してドレスみたいにしている。
痴情的なスカートの下にヒールを履いている。
一度見たらもう忘れられないような容姿。
属性付けられているような覚えやすさ。
ゲームでやったまんまの。
俺と正反対の個性を主張して、俺と正反対の態度を主張して、俺と正反対の立場にいる。
「ジョシュア様……いい加減にしていただけますか? ルーク様はお忙しいのです。貴方の相手などしている暇はありません。そうでしょう、ルーク様」
甲高い声だ。王の資質とかいうのだろうか?
口を挟ませないような威圧感がある。
水を差されてもなにも言えない。
嗚呼。頭が痛い。気分が悪い。
ジョシュアの感情が暴れている。
お前だけが正しいのかと。
お前には価値があるのかと。
正しいことに価値があるのかと。
「おい貴様! ファウスト家だからなんだ……! 貴族たるもの、弱き者を守るために剣を握ることはあれど、弱き者に剣を振ることはかなわん! そうだろう、ルーク」
またヒロイン……王女の騎士。
気高く、強く、美しく、正しくあろうとする。
その信念は弱き者を守るという潔さ。矛盾もない。
そうだよ。
社会的な通念や道理では。
でも弱き者よりも弱き者がお前だったら。
お前がその立場ならそう言えるのかよ……?
お前が弱者だったら……言えるのか?
彼が胸中でもがき苦しんでいるのを感じている。
「みんな、そんなひどいこと言うなよ。謝りにきたんだろ? いいよ。心を入れ替えたんだな」
ルークはあの正しさの中心で朗らかに笑っていた。
「ルーク! 甘すぎるぞ貴様!」
「ルーク様!? こんな人間に……」
「誰にだって間違いはあるさ。僕にだってある」
飲み下せないほどに甘ったるい、俺とは正反対の価値観。大義だの正義だの好き勝手に肯定されている。それがルールになっていく。設定されている。
「……仕方ないですわね。感謝しなさい」
「まったく! 貴様というやつは」
俺には……。
俺には言えない。
「努力してくれ。努力して努力して、強くなるんだ。……その時は戦おう!」
俺には……。
ジョシュアには……。
こんな発言死んでも認められない。
「ルーク。俺はお前に聞いているのだ」
「ジョシュア? なにが?」
「闘技場でやるのか……ここでやるのか」
♢
「カラ様。ご不安ですか?」
「わからない」
円形の闘技場。天井はなく。
地面には砂が敷き詰められている。
その周囲を取り囲むように座席が配置されているのは、どこからも観戦できるようにするためだ。
カラとメフィストフェレスは、その最前列に並んで座っていた。
まだジョシュアとルークは現れていない。
それどころか、ほかの席には誰もいない。
ふたりきりで、それほど会話も弾まなかった。
夕陽が沈みゆくなか、時おり風に砂が舞い、だからといってどうするでもなくただ静かに待っていた。
「ジョシュア」
砂……。
カラに彼の心を想起させる。
カラの目は人の心を色にして映す。
説明する必要にかられたときは決まって。
「瓶に人間の輪郭をかたどって、色のついた液体を注いだものが見える。その液体が変色し続けている」
と言っていた。
例外はなかった。ジョシュアに会うまでは。
……昨日までは少なくとも液体だった。
入学して一ヶ月ほど経っているので、何度か見かける機会があった。名前は知らなかったが、いつも濃い赤色の感情をしていた。
赤色は敵対。
誰も彼の味方をしなかった。
彼はすべての他人を拒絶していた。
カラはそれゆえ、近づくことができなかった。
「メイ。ジョシュアはどんな人間?」
「あらあら。難しいことをお聞きなさりますね」
「すこし話した。それだけ。それ以外わからない」
カラは怖かった。
赤が怖かったのでなく、拒絶が怖かった。
日々は過ぎ去って、昨日。
この闘技場。
赤色の中心にたったひとり。
彼の心は青く、薄くなっていった。
いままでの赤は嘘だったかのように。
純粋に青く……そして透明になっていった。
青色は逃避。
「わたしも分ってるわけではないんですよ。関わりも昨日……おっと。それでも聞きたいですか?」
「うん。教えて」
カラは怖かった。
青が怖かったのではなく、無関心が怖かった。
それなのに。
今朝、中庭で。
……何故?
いま、彼の心は液体ではない。
砂。
しかも完全な一色にはならない砂。
似たような色にはなるが、必ずどこかに違う色の砂が混じっている。
ざらついた、大雑把で複雑な、赤紫の砂。
赤紫は嫉妬。
「ご主人様は弱者なのです。弱者だから考えて、弱者だから考えて。不安で、悔しくて、苦しくて考える。けっして強い方ではありませんね。弱いです」
カラは怖かった。
色が怖かった。変化が怖かった。会話が怖かった。関係が怖かった。感情が怖かった。集団が怖かった。
でも、ジョシュアは怖くはなかった。
だから話しかけられた。
話したらもっと話したくなった。
嬉しかった。
彼女が持たざる者だったから。
彼女が恐れる者だったから。
その赤と青に共感できた。
黄色は歓喜。
「彼は弱い。弱い人間ですね。だから勝った」
「私も弱い」
「あなたは弱くありませんよ」
「弱いほうがいい」
「そうですか……?」
いつしか、生徒がぞろぞろとやってきた。
昨日と同じく。だがなぜだろうか。
声がしない。
大勢の足音だけが聞こえる。
「やっとですか……待たせすぎでしょうに」
「みんな赤」
「……でしょうね」
もの言わぬ赤。もの言わぬ赤。
赤が歩いて。座って。並んで。取り囲んで。
赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤、赤。
液体がうごめき、きらめき、どろどろと混ざり。
赤が赤を生み、より赤くなれると隣の赤が主張する。赤の連鎖反応の集合体。彼女の見る世界。
闘技場を飲み込むほど赤い。
事実、夕陽が血のように染めて赤かった。
闘技場は血を飲んで、啜って、赤色に酔っている。
……陽の沈む方角。
決闘者の入り口からだった。
夕陽を背負いながらルークが闘技場に現れた。
力強い足取りで闘技場の砂を踏みしめていた。
赤い光の差す方向から使者のように。
ジョシュアはまだ現れていない。
カラはルークを初めて間近で見た。
いつも通りに虹色の目で見た。
瓶に注がれた液体を見た。
いつも通りに色を見た。
色を……。
そこにはなにも入っていなかった。
「?」
「カラ様?」
「ありえない」
「あら……これは。あ〜」
「色がない。色がない? どうして?」
ひとりの混乱を尻目に捨て去って。
咳払いすら聞こえそうな、静寂に満ちた空間。
永遠に引き伸ばされた短い時間。
胸を締め付けられるような。
緊張感の。
その中。
での。
音。
足音。
誰かが。
誰かが言った。
「お、おい……」
「来たぞ……」
狂乱と混乱と錯乱と反乱と。
「カラ様。目をつぶったほうがよろしいのでは?」
「透明? いや。そのものがない。感情がない」
「……ありえますか?」
「ありえない。人間なら。人間。ならなぜ?」
悔恨と私恨と怨恨と。
「ルーク……頼むぞ」
「ルーク様。どうか……」
憤怒と激怒と。
「ルークは人間じゃない?」
「……勝負ありましたね」
腐敗を煮込んで乾かした。
「……」
暗黒の砂が意味もなくただ歩いていた。
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