9話「簒奪」
初めて買ったゲームだった。
あのとき俺は高校一年生だった。
焦燥感と劣等感と猜疑心。
独善的で自己愛的で反抗的で。
そのゲームは最初に主人公を設定するらしい。
理想の世界。
理想の主人公を作る。
理想通りに物語が進み。
誰もが理想の自分になれる。
俺には理想なんてなかった。
検索した誰かの設定を借りて。
暗室で。四畳半で。ひとりで。
誰かの理想を借りて。
誰かの理想通りの物語を進めた。
♢
止めなければ。でも……。
カラは震えながら周囲を見渡して、赤以外の感情を探す。だがあるはずもない。この場にあるのはただ、熱狂的な敵対心のみ。ジョシュアもかつては同じ色だった。
「おおおおおおおおおおお!!!!!」
ルークの剣は赤を反射して、増して、ましてや勢いを失うことなどないように、ジョシュアに近づいてゆく。
彼女はルークを人間ではない、と表現した。
命。命のやり取り。命の奪い合い。
そのなかで、彼の感情はまったく動くこともなく、ただ周りの色を反映して透過しているだけだった。人間ではけっしてありえない反応。たとえどれほど強かろうが、たとえどれほど無感情であろうが。
人間は命を失うことに耐えられない。
怯えて、可能性を模索して、死なないように死なないように安心を求める。安心を求めるからこそ、生きていくことができる。
自分の命に対して感情が動かない人間はいない。
いないはずだったのに、と。
カラはおそれていた。
空虚ゆえに動かない怪物。
そしてもうひとり。
「……」
塗りつぶされて動かない怪物。
彼の剣はルークに圧されて、自分の首へ押し返されている。勢いもなく赫みもなく、感情のない剣だ。
もうこれは。と、誰かが思った。
もうこれは、決まっている。
ルークの完勝で、ジョシュアの完敗。
大きな力で折り畳まれるようにして、ジョシュアの姿勢は徐々に反り……覆せないし、覆せないままさらに不利になってゆく。右脚から血が噴き出している。血を失って、顔が蒼白になっている。
もし、ジョシュアの力が抜ければ。
抵抗を失った剣は容易に首まで届き、また、通過するだろう。血液の軌跡と生命の停止を伴って。
いつしかその誰かの疑念は感染していった。
「おい……」
「ヤバくね?」
「止めないのかな……」
彼らの大多数は学生だ。見たかったのは幻想的な勝利であって現実的な死ではない。だからはじめは、ルークが……われわれの象徴であるルークが、ただ圧倒的に涼しげに、いつも通りに勝つことを望んでいた。
死にもせず、殺しもせず、勝利のみを見せてくれることを夢見ていた。
それがルークの本質。
だと。
「おおおおおおおおおお!!!!!!」
群衆の目には、雄叫びを上げ、首筋に剣を押しつけようとするルークのさまが、徐々になにかおぞましい、残酷なもののように変質して見えた。
「うわっ!」
「あっ!」
「きゃああああああ!」
そして、その時はきた。
ジョシュアの剣は、垂直だったはずの刃筋を横に向け、抵抗を失った正義の剣は容易に首元へと滑り込む。太陽を背に、鮮やかに、酸鼻を嗅ぎつけて。
カラは矢のように飛び出していた。
「ダメ!」
悪魔は笑った。
「あら……そういう」
ルークは夢に見ていた。
勝利を。
勝利で終り。
勝利で終っていつも通り。
いつも通りにみんなと笑い合う。
ルークにはわからないのだ。否定されたことがないから。肯定されたことしかないから。今日もいつもと同じ。あのときと同じだ、としか。
王女を助けたときと同じ。
拐われそうになって、震える王女を前に、悪に立ちはだかったときと同じ。
悪が剣を抜き、襲いかかってきたときと同じ。
こちらも剣を抜き返したときと同じ。
剣を折り、腕を飛ばし、首を切り、命を奪った……あのときと同じく。
周りに褒められて、笑い合える。
だってあのときもそうだったから。
ルークにはわからなかった。
光を背に。みんな──の笑顔を想像して笑った。
♢
……。
なにを、見せられているのだろうか?
ルークは優しい。ルークは楽しい。ルークは悲しい。ルークは正しい。ルークは善性の人間。
ルークには悪意などなく、残酷ではない。
そのルークが……ジョシュアの命を奪う?
ジョシュアが悪い。ジョシュアが弱い。ジョシュアが憎い。ジョシュアが。ジョシュアは悪性の人間。
ジョシュアには善意などなく、残酷だ。
理由などいくつも思いつく。
だがいくつも思いついたところで、数えるほどしかなく……だからといって。
殺すほどでもない。
──と、思うはず。
暗黒は推測していた。
光からすべてを奪うために。
彼からその正しさを奪い去るために。
正しさがゆえに持てない感情を推測していた。
主人公の本質は空虚。見る人によって、その姿を理想的に変容させる都合のいい夢。歪曲した鏡。自己愛を載せる貨物船。自らの代行者。
だから今。
夢をみる彼に。
夕陽を背にする彼に。
正しさを背にする彼に。
幻想のなかで生きる彼に。
ひっそりと、しずかに、さとすように。
力を抜いて、沈むように、無気力に。
あきらめるように。笑うように。
高校一年生のときのように。
彼のぼんやりとした目に向けて。
誰かの理想に目掛けて。
剣の側面で。
彼が背負う輝きをすべて反射させた。
♢
事が終った。
夕陽が沈み、闘技場は赤を失っていく。
いつも通りのはずだった。いつも通りの日常。
ルークが勝ち、他が負ける。それが現実的で、諦めることも、嫌とも思いもせずに受け入れることしかできなかった、延長線の日常。
ルークとジョシュアが対峙することを聞いて、最初に思い浮かべた光景。それは、ルークの剣がジョシュアの首筋で止まり、呆然とする彼の顔。昨日と同じ光景、同じ温度、同じ態度、同じ気軽さで──。
悪魔は笑う。
闘技場の中心。世界の中心。
先ほどまでの狂乱はなかったかのようにして。
先ほどまでの異常はなかったかのようにして。
過去などなかったかのようにして。
あるのは、首筋で剣を止める者と呆然と立ち尽くす者。いつも通りのはずだった。いつも通りの。
日常などなかったかのようにして。
昨日などなかったかのようにして。
一瞬だった。ほんの一瞬。
赤く輝いた。見失った。避けていた。
そして。その次に。動いて。光景。
呆然と立ち尽くす。
首筋で剣を止める。
間には。
陽が沈む前に、暗闇に紛れる前に、見えなくなる前に。消えてしまわないように、失くさないように、離さないように、こぼれないように。
呆然と立ち尽くす空虚。
首筋で剣を止める暗黒。
──砂を抱いて泣く少女。
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