第2話 『 達磨 』

 中国由来の燈史とうしの一つに、『景徳けいとく傳燈録でんとうろく』なる古い記述書がある。

 これは師から弟子へ、そのまた弟子から次の弟子へとリレー式に継承された禅僧ぜんそうたちの伝記であり、その中で弟子が師に、どうすれば絶対的なことわりの境地に至ることができるのかと問う一文がある。そこで師はこう答える。

 ――― 千差万別なり。人の数だけ、そこへ至る道筋も多様であるという意味だ。

 わたしの知り合いにも、とんでもない素質を生まれ持った男がいる。その神がかった能力ゆえ、一度ならずザルを抱えた黒衣くろこの姿を探したほどだ。というのも、彼と同じ空気を吸ったが最後、枯れ木に花を咲かせる勢いで災禍さいか が振りまかれるのである。

 その名も、佐倉さくら柊平しゅうへいという。「先生、そろそろ帰りますよ」

 毎度のことながら辞退を申し出ると、佐倉氏は無人島に置き去りにされた仔犬のような目をして訴えた。「きみにまで見捨てられたら、ぼくはもう生きていかれない」

大袈裟おおげさな。ちょっと居残れば済む話でしょう」

 言いつつも、手が次の資料箱へ伸びている。わたしも先人たちにならい、散り散りに吹かれた綿毛わたげのごとく逃げ出しておくべきだったのだろう。事の発端は三時間前、午後の講義を終えて帰路に就こうとするわたしの前に彼が現れ、氷上を滑ってきたかのような身のこなしで正座をされたことだった。聞けば論文の執筆にかまけるあまり、小遣い稼ぎで始めた地域セミナーの講習を明日に控えていたことを失念し、学習に用いるはずの資料さえ行方不明になっているということだった。

「ぼくにはもう時間がないんです」などと余命をほのめかし、佐倉氏は秀才とうたわれた過去をもかなぐり捨ててわたしに救いを求めた。二十九歳という若さもさることながら、易々やすやすと学生との垣根をまたいでくるこの男こそ、災禍の元凶たる文化史学科の専任講師である。「そもそも、資料の分類分けが適当すぎるんですよ」

 わたしはスチール棚に並べられた資料箱をうんざり顔で眺めた。それらはきれいに棚に収納されているように見せて、その実、ふたを開ければ雑多とものが押し込まれたびっくり箱と化している。陳列されたファイルも破裂寸前にまで資料が詰め込まれ、この状態でどうやって仕事をこなしているのかと問うと、決まって「ぼくには分かるんです」と超能力者エスパーみたいな答えが返ってくる。

 そんな彼が透視をあきらめて放った一言が、再びよからぬ縁を引き寄せたらしい。

「第三倉庫にしまっちゃったかもしれない」

 佐倉氏は遠くを見るような目で呟き、迫る夕刻におびえるわたしにすがりついて黄泉よみへの同伴を求めたのだった。

 わたしの通うS大学では、講師たちの根城に保管しきれなかったものを貯蔵しておく倉庫が地下に連なっている。貴重な文献や歴史的価値のある骨董品を保有する文化史学科は、もっとも警備が厳重とされる最下層の地下二階に倉庫を割り当てられ、警備員でさえうかつに近付かない最奥の通路に出没するのは、構内の若人わこうどたちを色めかせる怪談話か、それにのこのこ釣られてやってきた怪奇民俗倶楽部くらぶの面々ぐらいだった。

 第三倉庫の内部は、家具量販店並みの吹き抜けた構造をしている。室温、湿度など換気が行き届いており、中に閉じ込められるのが不安なほどぶ厚いコンクリート壁に囲まれている。フロア中央には大きな作業用テーブルが配置され、その周囲にスチール棚が配列されている。そのうちの半数は文化人類学の発掘を専門とする教授が掘り起こした謎の遺物が納められ、佐倉氏が受け持つ古物や古文書といったデリケートな代物は、日焼けを防ぐべく照明から遠く離れた薄暗い一角に保管されていた。

 閉門間近ともあり、わたしたちは意味もなく暗がりにびくびくしながら探し物を続けた。半時ほどが経過した頃、佐倉氏から「ありました!」と歓声かんせいが上がった。セミナーに用いる予定の資料は、例によって無造作に棚の端に置かれていたらしい。

 彼が手に取って見せてくれたのは、黒塗りの細長い桐箱きりばこだった。目立った刻印はなく、刀やかぶとの緒に用いられる真田紐さなだひも が美しく結われている。わたしは黒い外観もさることながら、複雑な結び目に違和感を覚えた。

「これは…〝裏千家うらせんけ〟ですか?」

「よく分かりましたね」佐倉氏はほがらかに洞察眼どうさつがんをたたえた。古物が納められた時代箱には、学芸員が習得を避けて通れない難解な結び目がほどこされていることが多いのだ。家紋に匹敵する真田紐の結び目は真贋しんがんの区別にも役立つと考えられ、復元をためらわせる結い方には、部外者に手出しをさせない意図が隠されているとも言われている。

 中央フロアに作業の場を移すと、佐倉氏は結び目に臆すことなく紐をほどいてふたを開けた。中には、着物から拝借してきたような黒いさけで裏打ちされた巻物が納められていた。損傷の激しい紐をほどいて現われたのは、伝法偈でんぽうげさんがしたためられた水墨画だった。描かれているのは、禅宗の開祖として知られる達磨だるま大師である。

 しかし、「変わった構図ですね」

 わたしは開口一番、嘆声たんせいを漏らした。いかつい顔つきと座禅ざぜんを組む姿がなじみ深い達磨大師だが、そこに描かれていたのは墨汁ぼくじゅうを殴りつけたような野太い流線の中で、顔が隠れるほど目深まぶかに法衣をかぶった達磨大師が歌舞伎かぶき役者さながら掌底しょうていを突き出し、今し方飛び跳ねたような一本足打法で静止している躍動感あふれる姿だったのだ。

 絶望的な絵心しか持ち合わせていないわたしでさえ、目を奪われる不思議な魅力がそのにはあった。空白に添えられた禅語も筆を潰した字体でつづられ、解読できずにいるわたしに「松樹千年翠しょうじゅせんねんのみどりむんですよ」と佐倉氏が教えてくれた。

「松は千年もの間、厳しい風雪ふうせつに耐えながらも変わらぬ美しさを保っている、という意味です。この画は世の移ろいに動じず己を磨く松の姿と、洞窟で九年間も壁に向かって座禅を組んだ達磨大師にひっかけているんじゃないかとぼくは考えています。ただ残念なことに、この掛け軸は作者不明で、どういった経緯でお寺に奉納されたのも分からないんです。それでぼくが遺物調査という名目で譲り受けたんですよ」

 相変わらず変なものを探り当てるのがうまいな。「この花押かおうは?」

 わたしは掛け軸を入れていた桐箱のふたの裏に着目した。漢字だが梵字ぼんじだかを装飾した一字体がしなやかに添えられている。花押は署名を図案化したもので、書簡や作画に印鑑として用いられることが多く、古くは書状の修訂しゅうていにも使われたという。

「それが、ぼくにも分からないんですよ」佐倉氏は困った風にひたいを抑えた。「知り合いの古美術商や花押デザイナーに聞いて回ったんですけど、どうにも記号を崩したもののようで、作者に繋がる手掛かりは得られなかったんです」

「そんな曖昧あいまいなものを、どうしてわざわざセミナーの学習資料に?」

「え。…あぁ、それはね」佐倉氏はそよりと目を泳がせた。「小難しい古文書の解読より、珍しいものを出した方が参加者が集まるんじゃないかと思って」怪しいな。

「そうだ。確か掛け軸と一緒に、住職さんから珍しい護符もおまけでもらったんです」

 佐倉氏は不自然なまでに話の矛先ほこさきを変えた。「桐箱の近くに置いてあったと思うんですけど、きみも民俗学を専攻する身なら見ておきたいでしょう。ぼくはここでひもを結い直していますから、取ってきてもらえないですか」

 小ずるい手を使われ、わたしは渋々きびすを返した。佐倉氏はその温厚篤実おんこうとくじつな人柄とだらしなさで、わたしのような善人の心に〝放っておけない人〟という一抹いちまつの不安を巧みに植えつけるのだ。その上、脇腹わきばらをくすぐられるような当たりの良さに、ついつい気を許してしまう。しゃくにさわることに、彼は天よりたまわった才知とルックスをもねそろえているので女にもモテる。

 それはもう、くわえたハンカチをみちぎるほどに。

 唯一の救いは、彼自身が教え子に手を出すガールハントを鬼畜も同然の行為と心得ていることである。さらに言及すると、佐倉氏はちょっぴり年上好きだったりもする。

 氏いわく、「ぼくはぴりっと山椒さんしょうの利いた甘辛料理みたいに、〝柊平くん〟って呼ばれたいんです」ということだった。確かに、うちなる意味不明な願望を明かされた時には、ぴりっと肌を粟立あわだたせるシュウ酸カルシウム的な衝撃がほとばしったものである。

 そんな氏が今も独身でいるわけは、やはり呪われた体質以外には思いつかなかった。彼が無意識に放つ災禍は、それこそ無味無臭の毒のようなさりげなさで訪れるのだ。

 わたしは先程の棚の前へ戻り、桐箱があった場所の一つ上の段に茶封筒を見つけた。佐倉氏の字で「調査依頼の護符」と書かれ、譲り受けた寺院の名と日付が一緒に添えてある。それを手にして真っ先によぎったのは、これを佐倉氏の研究室あるいは直接背中にでも貼りつけておけば、文化史学科、しいては彼の生活圏内にいる人々の安全を守れるのではないか、という淡い期待だった。

 わたしがはっきりとした洗礼を受けたのは、佐倉氏が受け持つ研究室ゼミナールの一員になって間もない頃だった。実地調査へ向かう道中、それは氏と乗り合わせた電車の中で〝不運〟という形を装って襲いかかった。混雑する車内で吊り革に掴まっていると、前の座席に座っていた佐倉氏が「なんだか顔が疲れていますね。よければ座って下さい」と親切に席を譲ってくれたのである。連日のバイト疲れを引きずっていたわたしにとって、それは実にありがたい申し出だった。しかし氏の仏心ほとけごころに甘んじて席に腰かけた二秒後、隣に座る乗客が乗り物酔いを起こし、わたしのひざ吐瀉物としゃぶつをぶちまけてきたのだ。その瞬間、「最近、なんとなくついてないなぁ…」と勘づいていたものが電光石化でんこうせっかの勢いで確信に変わった。それこそ、実害を挙げれば枚挙まいきょにいとまがないほどだった。

 例えば、氏と昼食をともにした場合。彼によって誘導された席にはガムがついていたり、隣り合った学生に飲み物をこぼされたりといった不運がつきもので、自分で座席を指定すると、ハンサムなスマイルに気を取られた食堂のおばちゃんに味噌汁をぶちまけられ、「これ、おいしいから食べてみて下さい」と勧められたメニューを選んで腹を下したりする。そう、彼が放つ災禍には抜け道がないのである。

 もっとも悪質なのは、佐倉氏にその自覚がまるでないことだった。実質、彼が直接手を下しているわけではないし、周囲の人間たちも人柄の良さに忠告をためらい、こっそり距離を取るという妥協案だきょうあんに落ち着く。結果、氏の半径一メートル圏内から人が消え、ありもしない用事を理由に姿をくらます学生が続出するといった怪奇現象が起こる。

 それは佐倉氏に好意を抱いた女性たちも例外ではない。その多くは彼の教え子や大学関係者だったりするのだが、火砕流かさいりゅうのごとく迫っていた彼女たちが急速冷凍されていく背景には、氏が制定したストライクゾーンの狭さをさげすむ以前に、早い段階で「あ、この人」と察するに至った数々の不幸があるに違いなかった。

 あの男との縁が結ばれた時も、頭の片隅では佐倉氏からもたらされた災禍が原因ではないかと疑っている自分がいた。実際、その通りだったのやもしれん。

「護符、ありました?」と佐倉氏の声が飛んできた矢先、視界の端で闇が動いた。

 わたしは反射的に目を向けた。天井にほど近い場所に、なぜか白い能面のようなものがぼうっと浮かび上がっている。体の芯に冷たい戦慄せんりつが走り、にたりと口角を上げたことでそいつが逆さまになっていることに気が付いた。それは刮目かつもくする前に夢幻泡影むげんほうようと闇に溶け入り、正体を明かさぬまま拭えぬ恐怖を植えつけていった。

 その夜のことである。「――― きみのその力は、天賦てんぷの才といって過言でないよ」

「阿久津…!」

 望まぬ再会に、わたしは驚き様にたたみから腰を浮かしかけた。

 そこは八畳一間の和室の中だった。阿久津は立場を明白にするように、掛け軸のかかった床の間を背に、黒縞くろしまの浴衣を着崩してだらしなくあぐらをかいていた。「まさか、早々に大物を引き当ててくれるとは。きみに自覚がないのが残念でならないよ」

 どこかで聞いた台詞せりふだ。「ここは、どこだ?」

長夜ちょうやの夢の中さ」いぶかるわたしに、阿久津はしたり顔を見せた。

 これは夢なのか? 室内を見渡すと、上座に座る阿久津の右には障子戸しょうじどが並び、わたしの後ろには茶具が細やかに置かれた水屋が設けられていた。部屋の一角には風炉釜ふろがまを収納した炉が切られ、記憶を巡って茶道部の茶室だと思い至った。

 しかし、「あの絵は…」

 わたしは床の間に飾られた掛け軸を唖然と見上げた。

 そこには佐倉氏が見せてくれた達磨大師が飾られていたのである。

「きみは床の間が持つ役割を知っているかい」

 阿久津は掛け軸を振り返るでもなく、唐突に切り出した。加彩馬かさいばや刀、鏡餅かがみもちに仏壇と装飾に用いられる床の間は、本来、大切なものを飾る神聖な場とされていた。茶人であった千利休せんりきゅうがもてなしの場として草庵そうあんの茶を考案すると、ぜいを排した床の間には季節をかも一幅いっぷくの掛け軸や生花が飾られるようになったのである。「もちろんだ」と心得顔こころえがおで返す頭の中では、大学の入学当初に受けた茶道部員の宣伝文句がリフレインしていた。

 〝うちの部にいる着物美人は、一見の価値ありですよ!〟

「へぇ、見かけよりだいぶ賢いじゃないか」いらぬ一言を挟んで、阿久津はわたしの語り草に感心する素振りを見せた。「無骨なきみが茶道に関心を持っているとはね」

「民俗学を極めるにあたっては博識でならぬと茶道部に見学を願い出たんだ」わたしは恥ずかしい胸のうちを隠して堂々と虚勢を張った。「民間伝承を解き明かすには、例え畑違いであっても先人に教えを乞うべきというのが、わたしの師の見解だ」

いわく、ふるきをたずねて新しきを知れば、もって師とるべし――― か」

 さかしらに孔子の思想を持ち出し、阿久津はわずかに身を乗り出した。「実に見上げた心掛けだね。煩悩なくして向上を得ないのが、きみたち人間の面白いところさ」

 完全に見透かされている。「そんなことを言う為に、わざわざきたのか」

「ありがたく思いたまえ。闇に隠されたきみに、一縷いちるの光明を授けにきたのだから」

 ぶすくれるわたしに、阿久津は尊大に身を引くと後ろ手に隠していたものを突き出した。「さて、きみの目にこれはどう映る?」

「あの掛け軸が入っていた箱じゃないか」

 わたしは黒塗りの桐箱を凝視した。もっとも彼が持っていたのはふただけで、ひるがえされた背面はいめんには氏を悩ませた難読の花押かおうが入っている。「なら、これは?」

「知らん。その署名が読めないから、あの掛け軸を預かることになったんだろう」

「そう。そこなんだよ、鳥山くん」阿久津は手に持ったふたをあいづち代わりに振った。

「道理に暗い人間の盲目さには、ほとほと関心させられるよ。点が三つあれば人面と見立て、掛け軸の入った箱というだけで、そこに書かれた文字を〝落款らっかん〟と思い込む。残念だが、きみのさとい師であっても、これを読むことは一生かなわないだろうね」

「何故、そう言い切れる?」

「これが〝あやかし文字〟だからさ」

 阿久津は気色けしきばむわたしの出鼻をばさりとくじいた。「なんだって?」

「きみの師も、また引きが強いということさ」阿久津は茶を出すような手つきでふたを手前に置いた。「この文字は、いわば封緘ふうかん――― 封を固くひもじるという意味で、実際その通りの力が宿っている。人の目に映るということは、この文字は隠世かくりょに通じ、なおかつ強い法力を持っていた人間が書いたものなんだろう。通常あやかし文字は、それこそまやかしのようにうつろで、人の目に映ることもなければ記憶に留まることもない」

「つまり、この箱自体が封印の役目を担っていたと言いたいのか?」

 わたしは難解な結び目が意味するところを思い出してぞっとした。

 阿久津の言うことが真実なら、わざわざ結び目で流派を示したのも、本家の裏手に作られたいおりのように、この箱には〝裏がある〟とほのめかす為だったとも考えられる。

「そもそも掛け軸というのは中国由来の代物で、仏像に等しく〝掛けて拝する〟という役割を持っていたんだよ」阿久津は滔々とうとうと弁を振るった。「用いられるには明確な意図があり、仏画なら飾る前に魂入れと呼ばれる開眼かいがん供養くようほどこす必要があった。今日こんにちではおもむきに重んじた絵柄を飾ることの方が多いようだが、中には虎や六瓢むびょうといった偶像を用いて、秘かに魔除けの役を果たすものもあったという」

 魔除け――― 。「そうだ。あの掛け軸が置かれていた倉庫で妙なものを見たんだ」

「見たというよりは、立ち会ったと言うべきだろうね。きみは封印が解かれたその瞬間に、たまたま居合わせてしまったんだよ、鳥山くん」

 。「わたしが見たものは、掛け軸から出てきたということか?」

「その通り。開眼供養を施したからと言って、画に入れた法力が永遠に保たれるわけじゃない。まして箱にしまわれたまま放置されたのでは、霊験れいげんあらたかな御霊みたまも弱るばかりだ。人が拝するのを怠れば、神もまた人を見捨てるんだよ」

 阿久津は煙草たばこ入れから取り出した煙管きせるを口にくわえ、丸めた刻み煙草を雁首がんくびに詰めてマッチ箱を取り出した。手慣れた手つきで火をつけ、ゆったりと煙を吸い込んでうまそうに吹かす。「いや、しかし。画の効力が切れる頃合いに手を出すとは、なんとも巧妙な間だね。きみの師に悪気はなかったのだろうが、しくも箱を開けたことで封緘ふうかんによってかろうじて抑え込まれていたものが外へ出てしまったんだよ」

「あの画は一体、なんなんだ?」わたしは本筋の核心を突いた。「掛け軸を入れていた箱が封緘なら、達磨大師を象るあの画も本来の姿ではないのだろう」

 人は、自分が見たいものだけを見て帳尻を合わせているにすぎない。

 阿久津の教えにならうなら、わたしも佐倉氏もただ似ているという理由だけで、掛け軸に描かれた高僧らしき人物を達磨大師と思い込んだのだ。

 阿久津は試すように口角を上げた。「さて、きみの目にはどう映る?」

「ここで禅問答ぜんもんどうをするつもりはない」

「そうくこともなかろう」

 阿久津は三服さんぷくしか味わえないという煙管を再びくわえ、ゆったりと二服目を味わった。ふーと煙を吐き、気長に待つわたしにさとすように言う。

「かの達磨大師でさえ、仏の悟りに至るべく百五十年もの生涯をかけたんだ。それでも彼は五十二ある悟りのうち三十段ほどしか到達できず、再三、岩窟がんくつにこもって歳月を費やしたが、人間である以上、煩悩からの解脱げだつが不可能だと分かっただけで、いつか武帝ぶていとの禅問答で説いた〝無財の七施しちせ〟に答えを見るんだよ」さっぱり分からん。

「人間には煩悩の入り混じった善しかせない、という教えだよ」

 立て板にさらさら流れていく水を空しく見送っていたわたしに、阿久津は辛抱強く説いた。「無財の七施は二六〇〇年前にインドで説かれた教えで、心で施すことこそ誠の善というものだ。達磨も見返りを期待する善は無功徳むくどくと武帝を切り捨てたが、面壁めんぺき九年の苦行の中で、彼は煩悩をなくそうとすればするほど憑かれる人間の本質を見ることになった。この画が達磨大師だと思ったのも、手足を失くすほど過酷な修行に耐え抜いた彼の強靭きょうじんさを見たからだろう。その実、そこに描かれているのは鬼なんだよ」

「鬼っ?」

 わたしは再三、掛け軸を見上げた。高僧の顔は依然として隠され、頭部から禍々まがまがしい角が生える気配もなく、突き出された掌底しょうていにただただ気圧けおされるばかりである。

「鬼と言っても、解釈は千差万別だよ」阿久津は味気なく煙管を持ち上げた。「人間でさえ鬼になることがあるぐらいだ。掛け軸に描かれた鬼も、開眼供養が施されていたところからして〝夜叉やしゃ〟の類だろう。元々はインドの獰悪どうもうな邪鬼だったが、仏教に取り入れられたことで守り神としての一面を持つようになった変わり種さ。袈裟けさの下には空恐ろしい鬼面きめんが隠されているってわけだ」

 薄ら寒い笑みには、脅しとも取れる自虐的な含みがあった。もしかすると、描かれているのは彼の同業者、あるいは親戚筋の悪友だったりするのやもしれん。

「きみの言うように修験者が鬼であるなら、背景に描かれているのはなんなんだ?」

「そのものずばり、瘴気しょうきだよ」

 阿久津はこともなげに言った。「かつては疫病や災いをもたらす鬼病きびょうと呼ばれ、人々に恐れられていた。きみには害悪やけがれと言った方がなじみ深いかな。疫病が蔓延すると、夜叉を象った角大師つのだいしなる魔除け札がそこらの門口かどぐちに貼られたんだ。画に添えられたさんは、人目をあざむく為に書き足されたものだろう。きみたちが不気味なうねりを松と取り違えたようにね」まったく、嫌味な奴である。

「まぁ、ぼくなら〝機をもって機を奪い、毒を以て毒を制す〟とでも書いただろうがね」

 阿久津はようやく掛け軸を返り見た。「宋代そうだい燈史とうし嘉泰普灯録かたいふとうろく』に由来する言葉だよ。隙をついて好機をくじき、悪を制すべく別の悪を用いる。じゃの道はへびってわけさ」

 ――― このご時世、鬼が出るかじゃが出るか分からんぞ?

「ところできみは、どうしてわたしの夢に出てきたんだ?」

 わたしは最初の疑念に立ち返った。一縷いちるの光明を授けにきたという悪食鬼は、それこそ七転八起の変転を見せて迫ってきた。「もちろん、腹が減っているからだよ!」

 聞くまでもない答えだった。

「そうでなければ、ぼくがわざわざ犬に論語をさとすはずがなかろう。いいかい、鳥山くん」阿久津は目元を引きつらせているわたしに真っ向から喧嘩けんかを売った。「きみが遭遇したあやかしも、夜叉がわざわざ手元に置いておかなければならなかったほどのつわものだったんだよ。しかも背景には、ぼくの舌をうならせること間違いなしの瘴気しょうきが立ち昇っている。そんな奴が、うまくないはずがないだろう…!」

 阿久津は肩の肉を引きちぎらんばかりに掴んで揺すった。彼の目には、あの不気味な黒いうねりが網焼き肉から立ち昇る煙に見えているらしい。

「勘弁してくれ」わたしは痛む肩をさすってあとずさった。「大体、そんな危険な奴が何故、わたしや先生を襲わなかったんだ?」

「きみがその手に護符を持っていたからだよ」阿久津は飢えた犬のような目をして言葉をいだ。「それともう一つは、きみの師が強大な力で守られているからだ」

「どういう意味だ?」

「きみが厄介事に巻き込まれるところに答えはあるよ」阿久津は説明するのも面倒とばかりに最後の三服目を味わった。空腹しのぎに吸い込んだ煙を惜しむようにわたしに向けて吐き出す。それを手で遮ろうとすると、「そいつをよく見るんだ」

 阿久津は鋭くわたしを牽制けんせいした。何事かと煙に目を凝らすと、手首にテグスよりもか細い糸が巻きついているのが見えた。「なんだ、これは?」

「文字取り、蜘蛛くもの糸だよ」阿久津はそばにあった炉にカン、と小気味よく灰を落とした。「言っただろう。一度でも縁が結ばれれば、天界から垂らされた蜘蛛の糸を辿るかのごとく、鬼がこちら側へ渡ってくると。だが、あれもなかなか周到だ」

「相手がどんなものか、きみには見当がついているのか?」

「どうかな。きみがその目ではっきり姿をとらえれば、おのずと分かることさ。釣り座について早々にアタリを引く悪運ぶりには感服するが、相手は屈強な上に封印された経緯もあって慎重になっている。気をいて針をバラされては、ぼくも飯にありつけない。ここは達磨にならい、こちらもその時が来るまで慎重に動向を見極めようじゃないか」

 ふんふん、なるほど………いや、ちょっと待て。

「それはつまり、手を付けられていることを承知で相手を泳がせるということか?」

「心配せずとも、きみのことはしっかり守ってやるさ」

 阿久津は温情の欠片かけらもない目元をやんわり緩めた。「一つしかない貴重な刺しを食われたら元も子もないだろう。さすがのぼくでも、針と糸だけで釣りはできんよ」

 こいつ…。「そうそう、大事なことを言い忘れていたが」

 阿久津は使い終わった煙管でわたしを指した。「人との縁もまた必然だ。きみの師とは是非、懇意こんいにしたまえ。彼は、なかなかいい男じゃないか」

「そうだが…何故そんなにも清々しい顔つきで、何故そんなにも猫なで声を出す?」

 警戒せしむる言動にいぶかると、はにたりと笑ってのたわれた。

「いいかい、あの男は」

 そこでピロリと携帯電話が鳴った。

 断ち切られた会話の向こうは朝だった。正確には昼も間近で、甲高い発信音に急かされて出てみると、スピーカーから聞こえてきたのは渦中かちゅうの人、佐倉氏の声だった。

『あ。その声、今起きましたね?』にやりとした口ぶりで、彼は布団から体を起こしたわたしを透視したように言った。『ちょっと窓を開けてみてくれませんか』

 もそもそ返しながら立てつけの悪い窓を開けると、アパートの階下におんぼろの軽ワゴンが止まっていた。その傍らから手を振る破顔の男を見つけ、わたしは電話を耳に宛てながら寝ぼけまなこを険しく細めた。「なんでいるんです?」

『昨日手伝ってもらったお礼に、お昼ご飯でもご馳走しようかと思って』

 佐倉氏は電話越しに微笑んだ。『予定がないようなら、ついでにセミナーでぼくの助手を務めてみませんか。お腹も膨れて、いい勉強になりますよ』

「すぐ行きます」

 おためごかしな台詞せりふにつられ、わたしは審議する間もなくタダ飯に飛びついた。この煩悩あり余る姿に天も見放されたのか、窓から顔を出していたわたしの頭上にぼとりと白い天誅てんちゅうが下された。まさかと見上げた屋根から、一羽のカラスが「アホー」と鳴きながら空へ羽ばたいていった。

「…それ、やっぱり今度でもいいですか」

 警告とも取れる小さな災禍に、わたしの心は早くも挫かれたのだった。

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