第2話 『 達磨 』
中国由来の
これは師から弟子へ、そのまた弟子から次の弟子へとリレー式に継承された
――― 千差万別なり。人の数だけ、そこへ至る道筋も多様であるという意味だ。
わたしの知り合いにも、とんでもない素質を生まれ持った男がいる。その神がかった能力ゆえ、一度ならずザルを抱えた
その名も、
毎度のことながら辞退を申し出ると、佐倉氏は無人島に置き去りにされた仔犬のような目をして訴えた。「きみにまで見捨てられたら、ぼくはもう生きていかれない」
「
言いつつも、手が次の資料箱へ伸びている。わたしも先人たちに
「ぼくにはもう時間がないんです」などと余命をほのめかし、佐倉氏は秀才とうたわれた過去をもかなぐり捨ててわたしに救いを求めた。二十九歳という若さもさることながら、
わたしはスチール棚に並べられた資料箱をうんざり顔で眺めた。それらはきれいに棚に収納されているように見せて、その実、
そんな彼が透視をあきらめて放った一言が、再びよからぬ縁を引き寄せたらしい。
「第三倉庫にしまっちゃったかもしれない」
佐倉氏は遠くを見るような目で呟き、迫る夕刻におびえるわたしにすがりついて
わたしの通うS大学では、講師たちの根城に保管しきれなかったものを貯蔵しておく倉庫が地下に連なっている。貴重な文献や歴史的価値のある骨董品を保有する文化史学科は、もっとも警備が厳重とされる最下層の地下二階に倉庫を割り当てられ、警備員でさえうかつに近付かない最奥の通路に出没するのは、構内の
第三倉庫の内部は、家具量販店並みの吹き抜けた構造をしている。室温、湿度など換気が行き届いており、中に閉じ込められるのが不安なほどぶ厚いコンクリート壁に囲まれている。フロア中央には大きな作業用テーブルが配置され、その周囲にスチール棚が配列されている。そのうちの半数は文化人類学の発掘を専門とする教授が掘り起こした謎の遺物が納められ、佐倉氏が受け持つ古物や古文書といったデリケートな代物は、日焼けを防ぐべく照明から遠く離れた薄暗い一角に保管されていた。
閉門間近ともあり、わたしたちは意味もなく暗がりにびくびくしながら探し物を続けた。半時ほどが経過した頃、佐倉氏から「ありました!」と
彼が手に取って見せてくれたのは、黒塗りの細長い
「これは…〝
「よく分かりましたね」佐倉氏は
中央フロアに作業の場を移すと、佐倉氏は結び目に臆すことなく紐をほどいて
しかし、「変わった構図ですね」
わたしは開口一番、
絶望的な絵心しか持ち合わせていないわたしでさえ、目を奪われる不思議な魅力がその
「松は千年もの間、厳しい
相変わらず変なものを探り当てるのがうまいな。「この
わたしは掛け軸を入れていた桐箱の
「それが、ぼくにも分からないんですよ」佐倉氏は困った風に
「そんな
「え。…あぁ、それはね」佐倉氏はそよりと目を泳がせた。「小難しい古文書の解読より、珍しいものを出した方が参加者が集まるんじゃないかと思って」怪しいな。
「そうだ。確か掛け軸と一緒に、住職さんから珍しい護符もおまけでもらったんです」
佐倉氏は不自然なまでに話の
小ずるい手を使われ、わたしは渋々きびすを返した。佐倉氏はその
それはもう、くわえたハンカチを
唯一の救いは、彼自身が教え子に手を出すガールハントを鬼畜も同然の行為と心得ていることである。さらに言及すると、佐倉氏はちょっぴり年上好きだったりもする。
氏いわく、「ぼくはぴりっと
そんな氏が今も独身でいるわけは、やはり呪われた体質以外には思いつかなかった。彼が無意識に放つ災禍は、それこそ無味無臭の毒のようなさりげなさで訪れるのだ。
わたしは先程の棚の前へ戻り、桐箱があった場所の一つ上の段に茶封筒を見つけた。佐倉氏の字で「調査依頼の護符」と書かれ、譲り受けた寺院の名と日付が一緒に添えてある。それを手にして真っ先によぎったのは、これを佐倉氏の研究室あるいは直接背中にでも貼りつけておけば、文化史学科、しいては彼の生活圏内にいる人々の安全を守れるのではないか、という淡い期待だった。
わたしがはっきりとした洗礼を受けたのは、佐倉氏が受け持つ
例えば、氏と昼食をともにした場合。彼によって誘導された席にはガムがついていたり、隣り合った学生に飲み物をこぼされたりといった不運がつきもので、自分で座席を指定すると、ハンサムなスマイルに気を取られた食堂のおばちゃんに味噌汁をぶちまけられ、「これ、おいしいから食べてみて下さい」と勧められたメニューを選んで腹を下したりする。そう、彼が放つ災禍には抜け道がないのである。
もっとも悪質なのは、佐倉氏にその自覚がまるでないことだった。実質、彼が直接手を下しているわけではないし、周囲の人間たちも人柄の良さに忠告をためらい、こっそり距離を取るという
それは佐倉氏に好意を抱いた女性たちも例外ではない。その多くは彼の教え子や大学関係者だったりするのだが、
あの男との縁が結ばれた時も、頭の片隅では佐倉氏からもたらされた災禍が原因ではないかと疑っている自分がいた。実際、その通りだったのやもしれん。
「護符、ありました?」と佐倉氏の声が飛んできた矢先、視界の端で闇が動いた。
わたしは反射的に目を向けた。天井にほど近い場所に、なぜか白い能面のようなものがぼうっと浮かび上がっている。体の芯に冷たい
その夜のことである。「――― きみのその力は、
「阿久津…!」
望まぬ再会に、わたしは驚き様に
そこは八畳一間の和室の中だった。阿久津は立場を明白にするように、掛け軸のかかった床の間を背に、
どこかで聞いた
「
これは夢なのか? 室内を見渡すと、上座に座る阿久津の右には
しかし、「あの絵は…」
わたしは床の間に飾られた掛け軸を唖然と見上げた。
そこには佐倉氏が見せてくれた達磨大師が飾られていたのである。
「きみは床の間が持つ役割を知っているかい」
阿久津は掛け軸を振り返るでもなく、唐突に切り出した。
〝うちの部にいる着物美人は、一見の価値ありですよ!〟
「へぇ、見かけよりだいぶ賢いじゃないか」いらぬ一言を挟んで、阿久津はわたしの語り草に感心する素振りを見せた。「無骨なきみが茶道に関心を持っているとはね」
「民俗学を極めるにあたっては博識でならぬと茶道部に見学を願い出たんだ」わたしは恥ずかしい胸のうちを隠して堂々と虚勢を張った。「民間伝承を解き明かすには、例え畑違いであっても先人に教えを乞うべきというのが、わたしの師の見解だ」
「
さかしらに孔子の思想を持ち出し、阿久津はわずかに身を乗り出した。「実に見上げた心掛けだね。煩悩なくして向上を得ないのが、きみたち人間の面白いところさ」
完全に見透かされている。「そんなことを言う為に、わざわざ訪ねてきたのか」
「ありがたく思いたまえ。闇に隠されたきみに、
ぶすくれるわたしに、阿久津は尊大に身を引くと後ろ手に隠していたものを突き出した。「さて、きみの目にこれはどう映る?」
「あの掛け軸が入っていた箱じゃないか」
わたしは黒塗りの桐箱を凝視した。もっとも彼が持っていたのは
「知らん。その署名が読めないから、あの掛け軸を預かることになったんだろう」
「そう。そこなんだよ、鳥山くん」阿久津は手に持った
「道理に暗い人間の盲目さには、ほとほと関心させられるよ。点が三つあれば人面と見立て、掛け軸の入った箱というだけで、そこに書かれた文字を〝
「何故、そう言い切れる?」
「これが〝あやかし文字〟だからさ」
阿久津は
「きみの師も、また引きが強いということさ」阿久津は茶を出すような手つきで
「つまり、この箱自体が封印の役目を担っていたと言いたいのか?」
わたしは難解な結び目が意味するところを思い出してぞっとした。
阿久津の言うことが真実なら、わざわざ結び目で流派を示したのも、本家の裏手に作られた
「そもそも掛け軸というのは中国由来の代物で、仏像に等しく〝掛けて拝する〟という役割を持っていたんだよ」阿久津は
魔除け――― 。「そうだ。あの掛け軸が置かれていた倉庫で妙なものを見たんだ」
「見たというよりは、立ち会ったと言うべきだろうね。きみは封印が解かれたその瞬間に、たまたま居合わせてしまったんだよ、鳥山くん」
たまたま。「わたしが見たものは、掛け軸から出てきたということか?」
「その通り。開眼供養を施したからと言って、画に入れた法力が永遠に保たれるわけじゃない。まして箱にしまわれたまま放置されたのでは、
阿久津は
「あの画は一体、なんなんだ?」わたしは本筋の核心を突いた。「掛け軸を入れていた箱が封緘なら、達磨大師を象るあの画も本来の姿ではないのだろう」
人は、自分が見たいものだけを見て帳尻を合わせているにすぎない。
阿久津の教えに
阿久津は試すように口角を上げた。「さて、きみの目にはどう映る?」
「ここで
「そう
阿久津は
「かの達磨大師でさえ、仏の悟りに至るべく百五十年もの生涯をかけたんだ。それでも彼は五十二ある悟りのうち三十段ほどしか到達できず、再三、
「人間には煩悩の入り混じった善しか
立て板にさらさら流れていく水を空しく見送っていたわたしに、阿久津は辛抱強く説いた。「無財の七施は二六〇〇年前にインドで説かれた教えで、心で施すことこそ誠の善というものだ。達磨も見返りを期待する善は
「鬼っ?」
わたしは再三、掛け軸を見上げた。高僧の顔は依然として隠され、頭部から
「鬼と言っても、解釈は千差万別だよ」阿久津は味気なく煙管を持ち上げた。「人間でさえ鬼になることがあるぐらいだ。掛け軸に描かれた鬼も、開眼供養が施されていたところからして〝
薄ら寒い笑みには、脅しとも取れる自虐的な含みがあった。もしかすると、描かれているのは彼の同業者、あるいは親戚筋の悪友だったりするのやもしれん。
「きみの言うように修験者が鬼であるなら、背景に描かれているのはなんなんだ?」
「そのものずばり、
阿久津はこともなげに言った。「かつては疫病や災いをもたらす
「まぁ、ぼくなら〝機を
阿久津はようやく掛け軸を返り見た。「
――― このご時世、鬼が出るか
「ところできみは、どうしてわたしの夢に出てきたんだ?」
わたしは最初の疑念に立ち返った。
聞くまでもない答えだった。
「そうでなければ、ぼくがわざわざ犬に論語を
阿久津は肩の肉を引きちぎらんばかりに掴んで揺すった。彼の目には、あの不気味な黒いうねりが網焼き肉から立ち昇る煙に見えているらしい。
「勘弁してくれ」わたしは痛む肩をさすってあとずさった。「大体、そんな危険な奴が何故、わたしや先生を襲わなかったんだ?」
「きみがその手に護符を持っていたからだよ」阿久津は飢えた犬のような目をして言葉を
「どういう意味だ?」
「きみが厄介事に巻き込まれるところに答えはあるよ」阿久津は説明するのも面倒とばかりに最後の三服目を味わった。空腹しのぎに吸い込んだ煙を惜しむようにわたしに向けて吐き出す。それを手で遮ろうとすると、「そいつをよく見るんだ」
阿久津は鋭くわたしを
「文字取り、
「相手がどんなものか、きみには見当がついているのか?」
「どうかな。きみがその目ではっきり姿をとらえれば、おのずと分かることさ。釣り座について早々にアタリを引く悪運ぶりには感服するが、相手は屈強な上に封印された経緯もあって慎重になっている。気を
ふんふん、なるほど………いや、ちょっと待て。
「それはつまり、手を付けられていることを承知で相手を泳がせるということか?」
「心配せずとも、きみのことはしっかり守ってやるさ」
阿久津は温情の
こいつ…。「そうそう、大事なことを言い忘れていたが」
阿久津は使い終わった煙管でわたしを指した。「人との縁もまた必然だ。きみの師とは是非、
「そうだが…何故そんなにも清々しい顔つきで、何故そんなにも猫なで声を出す?」
警戒せしむる言動にいぶかると、
「いいかい、あの男は」
そこでピロリと携帯電話が鳴った。
断ち切られた会話の向こうは朝だった。正確には昼も間近で、甲高い発信音に急かされて出てみると、スピーカーから聞こえてきたのは
『あ。その声、今起きましたね?』にやりとした口ぶりで、彼は布団から体を起こしたわたしを透視したように言った。『ちょっと窓を開けてみてくれませんか』
もそもそ返しながら立てつけの悪い窓を開けると、アパートの階下におんぼろの軽ワゴンが止まっていた。その傍らから手を振る破顔の男を見つけ、わたしは電話を耳に宛てながら寝ぼけ
『昨日手伝ってもらったお礼に、お昼ご飯でもご馳走しようかと思って』
佐倉氏は電話越しに微笑んだ。『予定がないようなら、ついでにセミナーでぼくの助手を務めてみませんか。お腹も膨れて、いい勉強になりますよ』
「すぐ行きます」
おためごかしな
「…それ、やっぱり今度でもいいですか」
警告とも取れる小さな災禍に、わたしの心は早くも挫かれたのだった。
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