第7話 『 木精 』
絵巻は甲・乙・丙・丁の四編からなり、流れる
油に火を注ごうと、その中に入れ知恵を働かせた者がいたのだ。
万物は
「節分っていうのは季節を分けるって意味なわけで、春夏秋冬それぞれにあるんだよ」
そう言ったのは、
根津さんは仕入れたばかりの関東火鉢を、金の卵を
「立春、立夏、立秋、立冬。節分はこの前日に当たるわけだが、旧暦だと春から新年が始まるから、地域によっては
根津さんはわたしを気さくにそう呼ぶ。両親ともに日本国籍であるので、もちろん本名ではない。彼は自称サリンジャー世代というには若い四十五歳バツイチで、実父から店を継いで十五年あまりで腰を痛め、床に伏してもんどり打っている場面に折よく現れた救世主、もとい求職中であったわたしを選択の余地なく雇った
彼が顧客相手に言うことには、「なんかノリでホールデンとか呼んでみたけどさ、当時はどうせ雇うなら目元を隠した不審者じゃなくて、知恵はなくとも愛嬌たっぷりのオネエちゃんがよかったって夜な夜な枕を濡らしてたんだわ。でも、いざ力仕事を頼める
「…勉強になります」小さく頭を下げ、わたしは商品棚のガラスを拭く作業に戻った。
大学が冬期休暇に入った年の瀬間近。わたしは一月中旬に行われる学年末定期試験と金策の間で揺れ動きながらも、バイトに精を出していた。古美術も扱う〈つくも堂〉は、小さな店構えとは裏腹に戦後発祥の歴史を持ち、高校二年の時分、わたしは家庭の事情から根津さんの奴隷となる道を選んで見識を養ってきたのだ。
「まぁ、ここだけの話。物に魂が宿るってのは、実際にある」
根津さんは傷の具合を確かめるべく
「ガキの頃から古物に囲まれて育つと、これは入ってるなって直感が働くようになるんだよ。それがいいもんの場合もあるし、とりわけやばいものが
それでか…。
話を聞く傍ら、
「そうしたものは、人の念みたいなものが呼ぶんでしょうか?」
「どうかねぇ。使われてる木だとか土にも原因があったりするからなぁ」
根津さんはしげしげと火鉢の状態を確かめた。関東火鉢は
「確かに年季の入った道具や技巧の
「今時、〝美術鑑定士〟になりたいなんて奴、ナウマンゾウのうんこより珍しいよ。正式な国家資格があるわけでもなし、おれの下で修業したってこんな風に
彼はわたしの将来を
大事がなければ、わたしも来年の春で就活の訪れを意味する三年生に進級する。早ければ四月からセミナーに参加して情報収集を行い、夏からは企業のインターンに参加するなどして選考対策に取りかからなければならない。時期尚早とも言えるタイトなスケジュールだが、佐倉氏が進路や単位を
「わたしは見込みがありませんか?」
わたしは仕事の手を止めて雇用主に改まった。
神妙な雰囲気に、根津さんも「どうした、ホールデン。道端に落ちてるもんにでも手を付けたか」と片眼鏡をはめたまま心配そうにわたしを見やった。
「そんなこと聞くまでもないだろう? きみは安月給でよくやってくれてるよ。目の保養にはちっともならないけど、古物を扱うにはいい手を持ってる。〝
「手、ですか?」
思いがけない指摘に、わたしは髪の合間から目を
奇貨は珍品、
根津さんは固く腕を組んで言う。
「手には人間性がよく出るんだよ。特に指先なんかは
根津さんは親指と人差し指をくっつけて円マークを作った。「お金、ですか?」
「生きていく上で欠かせない重要なファクターだよ、ホールデンくん」
根津さんは苦虫を
「物にあふれた昨今、骨董屋ってのは時流に反して息を吸ってるんだ。仮に商売が続いたからと言って、国宝級のお宝でも見つけない限り、大繁盛っていうのはまず難しい。この先もおれの下で学ぶとなれば、じゅうぶんな知識が身に着くまで奴隷価格で働くことになるわけだが、きみにだっていずれめくらの恋人ができるかもしれないし、運を使いきって結婚するかもしれない。子供でも生まれようものならさらに金が必要になるし、かわいらしかった嫁さんが鬼に
「国宝級のお宝…」
ある思いから、わたしはカニと
そうとも知らずに、雇い主は手前勝手な老婆心を働かせる。
「世間じゃクリスマスだっていうのに、おじさんは
根津さんは傍らに立つわたしに気付いて顔を上げた。片眼鏡をはめた目が、目前に差し出した
昨日のことである。
十二月二十三日は、三十五歳になる鈴音さんの誕生日だった。しかしながら同日に予定されていた鑑賞会は
〈 きみのお陰で、明日のクリスマスも千吉良家ですごせそうです。ありがとう! 〉
結局は二人きりになる夢を諦め、外堀から埋めていく作戦に切り替えたようだった。
そのことを渚小鳥に電話で報告すると、
『…わたしが
そんな経緯もあり、二十四日は例年通り一人ですごすことになった。世間では、やれ
山のふもとに築かれたN神社は、アパートを出て徒歩十分ほどの距離にある。広い
わたしは健全な昼下がりに例の緑道を経由して山を下り、
その夢の中で、わたしは白い服を着ていた。手にもなにがしかの花束を携え、玄関先で誰かに最寄りの神社に行ってくると告げたところで目が覚めた。滅多に夢を見ないわたしでも、それがなにを意味しているのかはすぐに察しがついた。
生活圏内にある駅とは正反対の場所にあるせいか、N神社に足を踏み入れたのは
しめ縄がかけられた柱の間にある賽銭箱になけなしの小銭を入れ、わたしは
ここは神域なのだと改めて思わされた瞬間であった。それこそ部屋の空気を入れ替えたような
来年のことを言えば鬼に笑われるので、初詣にまた訪ねると
いつから、そこに。びくりと肩を浮かすわたしに、賽銭箱を挟んだきざはしの上に腰かけていた御仁は、それこそ仙人のような居住まいで笑みを向けた。手には湯気が立ちのぼる湯呑茶碗を持ち、白い
「大変よい心がけとお見受けしますな」
おっとりと染み入る声で御仁が口を開いた。
「近頃は年の始まりに願掛けだけして
そう。あの夢を見るまでは、神社というのは願掛けするだけの場所と思い込んでいた。
「しかし、徳を積んでおられるようじゃ」御仁は気に留める風でもなく言った。「長く生きた分だけ、この目にはなんでも映りましてな。そなたの手は輝いて見えますぞ」
「手、ですか?」
思いがけない指摘に、わたしはおずおずと聞き返した。
「左様」御仁は占い師さながら、深々とうなずいてみせた。「
もくせい?「木の精、あるいはこだまと言えば分かりますかな」
きょとんとたたずむわたしに、御仁は辛抱強く続けた。「夜分にさまよう土の
そこまで言われて、ようやく思い至った。
尻からこぼれ落ちた泥をくっつけてやった、あの未確認生物のことである。
「あれが、木の精?」驚きのあまり声が漏れた。西洋の美しきドリュアス像が音を立てて
それが見えているように、御仁は
「左様、左様。あれは長く人の姿を見てきた為に、いつかは自由に歩き回りたいと願うようになったのじゃ。木というのは
御仁は髪で隠した目元を暗に示し、ずずっとうまそうに茶をすすった。
「人は確かにものを見ているようで、見えていないものの方が遥かに多いことに気付かぬ。一寸の虫にも
問われた直後、拝殿の後ろに広がる針葉樹林がにわかにさざめいた。野鳥がそれに応えるように鋭く鳴き、
「そう、あれらの言葉は心で聴くのじゃ」御仁は満足そうにうなずいた。「耳で形をとらえようと思ってはならん。言葉を交わさずとも、心というものは窓を開けてさえいればおのずと届く。昔はこの辺りも、
「あなたも、あれを見たのですか?」
「うむ、この辺りは特に多い方でな」御仁はしみじみと声を落とした。「自然が多く残っているせいだろう。人になりたいと望む想いが大地の力と結びつき、器を失くしてなお、あれに形を取らせているのだ。木というのはそもそも性根の優しい者が多くてな。わしも駆け回るお子らを見るのは好きだが、あれもまた人間という生き物を微笑ましく眺めておる。例え根を踏まれようと
御仁は嘆かわしそうに空を見上げた。
「草木も虫も、そして動物たちでさえ声を持つということを、今の時代の人間たちは忘れてしまっておる。人の言葉を発せぬ者には心がないと思い込んでおるのだ。この国は昔より豊かになったが、命の尊さ、礼節を重んじぬ者がやたらと増えた。それを教える親なり師がめっきり減っておるのだろう。そうした者たちもまた、一寸の虫でさえ心があるという事実を知らずに
「そうしてやりたいのは山々ですが、今は食っていくのでせい…」
「ところで、〝鬼のしこくさ〟という花を知っておられるかな?」
「鬼の醜い草と書いて、しこくさと読む。名前とは裏腹に淡い紫色をした愛らしい小花でな、相手をいつまでも忘れずに思うという意味を持つ。これと同じで、あれはまさに
誰のことかと尋ねる前に、わたしの心は
様々な疑念が口からあふれる前に、御仁はのっそり立ち上がると上座からほこほこと微笑んだ。
「
では…と
入れ替わるように現れた
根津さんの
「分かった!ひとまず、うちの金庫にしまっておこう」世間では、これを
「ごめん下さい!」
嫌よ、嫌よと押し合いをしている横から、道場破りを
わたしは夢うつつに駆け寄った。「なんで、ここにいるんだ?」
「先生にアルバイト先を教えてもらったのです」
渚小鳥は息も絶え絶えに携えていた二つの紙袋を掲げた。驚いたことに、その中には園芸用のスコップと紫色の小花をつけた
彼女はマスクの内側で
「
「脇目も振らずに家に帰りなさい」
昨夜のこと。風邪の具合を尋ねる電話で、わたしはクリスマスを寝てすごす羽目になった彼女に同情し、N神社で起こった奇跡を慰めに聞かせるというミスを犯したのだ。
ともすれば召されてしまいそうな顔色で彼女は言う。「怪民
「ホ、ホホ、ホールデンっ…!」
言葉を失っている後ろから、酷く取り乱した声が聞こえた。振り返ると、作業台に置いた湯呑を
「お、おれはなにもしてないぞ!きき、気が付いたら、勝手に茶が沸いてたんだよ!」
「なんと…!」
渚小鳥はぞっと青ざめるわたしの横で感嘆のため息を漏らした。湯呑には確かに熱い
毒でも盛られたか。神の
「こ、これは…大変おいしい、ゆず茶です」なんと。
「調べたところ、鬼の
小さな握りこぶしを作る彼女を前に、わたしはうーんと固く腕を組んだ。今昔物語集は平安時代末にまとめられた書で、「今は昔…」との語り口から命名されたものの、千を超える物語の作者は今も不明とされている。
「いや、そうかもしらんけど、三十八度もある人間が庭いじりしちゃ駄目でしょうよ」
根津さんは
客足が少ないこともあり、わたしはなにがしかの映像を撮るまで死ねないと豪語する病人に根負けし、雇用主の計らいで仕事を早引きすることになった。希少な骨董品をガーデニングに持ち込むわけにもいかず、結局は店の金庫に入れて預かってもらうことになった。地元の駅に着いた時にはまだ日は高い位置にあったが、冬至をすぎたばかりでは油断できないと判断し、先にN神社に参拝へ出向くことになった。
彼女は神域に足を踏み入れた時から、目覚ましい回復力を見せていた。神の姿を一目見ることはかなわなかったものの、山肌に沿って
彼女と歩く傍ら考えていたのは、参拝のきっかけとなった夢のことだった。よくよく思い返してみると、出掛け先に声を掛けた相手は野良犬を追っ払うような気だるさで手を振り、わたし自身も
つまるところ、鬼の中にも仏はいるということだろう。平安時代、鬼は隠れて姿を現さないものとして〈
例の天邪鬼が腹の足しにもならないことを仕向けた理由を模索していると、道の先を飛ぶ白い
「あれはきっと、ドライアドと友達だったフェアリーに違いありません」
園芸スコップを固く握りしめ、渚小鳥は消えた案内役の正体をそう結論づけた。かわいらしい空想を血生臭い事実で塗り潰すのも酷だったので、石畳の端にせっせと花を植えながら適当に話を合わせ、クリスマスに年若い男女がガーデニングに
その時のことである。「大変よい心がけとお見受けしますな」
まったりとした口ぶりに、わたしと渚小鳥はばっと勢いよく後方を振り返った。
そこに立っていたのは、散歩にふらりと出てきたとしか思えない近所の老人だった。
「若いもんが自然を愛でる姿というのは、近頃じゃ滅多にお目にかかれませんでな。道端に咲く花に心を留めない者も多い。そこにきて
「ここに木のお化けが出るので、ご供養に花を植えているのです」
渚小鳥は一般人が尻込むことをしれっと言い放った。
さすが秘密結社の幹部候補は肝が据わっている。彼女がインタビュアーさながら携帯電話のカメラを向けると、歩行杖を携えた老人は話を聞くなりふむふむ…とうなずいて訳知り顔を見せた。
「今では存在を覚えている者はめっきり減ってしまったが、ここには確かにわたしと同じ年ほどの木が生えておりました。しかしある時、道を整備するという理由から切られてしまいましてな。ちょうど、それが立っているところです」
ベンチに腰かけながら、老人は曲がり角にそびえる街灯を見上げた。緑道を行き交う通行人たちが気にも留めない代物である。その時、ふと渚小鳥から聞いた鬼の醜草の由来が頭をもたげた。
父親の死を
「―――
老人は山に分け入る風にそっと言葉を乗せた。
「これは
その言葉を聞いて思い浮かんだのは、わたしになけなしの水を乞うた青年の険しい面持ちであった。
老人は彼の苦しみを代弁するように言う。
「しかし今となっては、大東亜戦争の裏で起きた戦犯ばかりに目が向けられ、栗林殿が遺した一途な思いを知る者も、命がけで国を守ろうと散っていった命を惜しむ者もめっきり少なくなりました。それを伝える担い手と、従順に耳を傾けてくれる若者が時とともに減っておるからでしょう。あれをご覧なさい」
老人は雑草が生い茂る
言葉を失う我々に、老人は過去を眺めるような目をして言った。
「この国は豊かになった反面、忘れてはならないものをとんと失ってきた。とても
老人がしみじみと立ち去ったあとも、渚小鳥はカメラに収めたものを慈しむように、胸の合間でぎゅっと携帯電話を握りしめていた。
今を生きるわたしたちができることと課せられていることは同じである。老人が指摘したゴミを拾って山を下りたわたしたちは、ともに駅に向かいながら同じ思いにとらわれていたように思う。
ホームに並んで立つと、彼女は沈む空気を一層すべく話題を変えた。「ところで先輩は、どうしてアンティークショップで働いているのですか?」
唐突な切り出しに、腕を組んで電車を待っていたわたしは、豆鉄砲を食らったように「ん?」と間を置いた。つくも堂の外観を覆すこじゃれた響きにまごついたというのもあるし、私的なことに興味を持たれることが少ないだけに、内情を明かす言葉を持ち合わせていなかったというのもある。
だがその時は、誰かが窓を開けてくれたようにするりと声が出たのだ。
「…不思議と、昔から古いものが好きなんだ」
わたしは腹の底でうずくこそばゆさに駆られて彼女から目をそらした。
「家に特別そうしたものがあったわけじゃないが、職人と呼ばれる人たちの技巧や古物に秘められた歴史を
「…でも、先輩は――― 」
彼女がなにかを言いかけたその時、構内にアナウンスが入った。
見送りも、ここまでである。目の覚める思いで線路を見通し、わたしは電車がホームに入ってくるのに合わせてリュックサックの中を漁った。停車する電車に目を奪われていた渚小鳥は、わたしが無骨に差し出した紙袋を見て目を丸くした。
「見舞いをかねた、お駄賃だ」
目を合わせぬまま、わたしはずいっとそれを彼女の手に握らせた。本当はハンディカムの埋め合わせに用意したものだったが、倉庫内清掃のあとに渡すタイミングがつかめずに持て余していた。それを見てなにを思ったか、渚小鳥はその場で中身を取り出すと子供のような抜け目のなさで包装を解き、鈴音さんの店で群れているフクロウの置き物が現れたことに一層目を輝かせた。この渋いプレゼントに喜ぶ人間は、そうはいまい。
ほっと胸をなでおろした直後、
「うれしいです、一生大事にします!」
扉が閉まる直前、渚小鳥は通り魔さながらの身のこなしで電車に飛び乗り、わたしにガーデニング一式を託したまま遠ざかっていった。彼女がなにを言いかけたのかは分からなかったが、唖然とホームにたたずむ胸の奥では移されたばかりの風邪が熱を放っていた。
…体が冷える前に帰ろう。わたしは心持ち軽くその場をあとにした。
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