第7話 『 木精 』

 鳥獣人物戯画ちょうじゅうじんぶつぎが。これはウサギやカエル、サルに麒麟きりんさいといった擬人化された動物たちがたわむれる様子を描いた鳴呼絵おこえ――― 馬鹿げたおどけ絵のことである。

 絵巻は甲・乙・丙・丁の四編からなり、流れる川面かわも葉脈ようみゃくの一筋まで描かれた精緻せいち筆致ひっちが、絵の中の彼らに生きているような躍動感を与えている。このような鳴呼絵は他にも類を見、魑魅魍魎ちみもうりょうが夜な夜なり歩く百鬼夜行ひゃっきやこう絵巻は、彩りも鮮やかに擬人化した妖怪たちが大名行列さながら隊を組んでいる。御伽草子おとぎぞうし編纂へんさんされた付喪神記つくもがみきでは、年明けのすす払いで捨てられた道具たちが、恩をあだで返す所業に立腹して擬人化する様子が描かれている。

 油に火を注ごうと、その中に入れ知恵を働かせた者がいたのだ。

 万物は陰陽いんようおきてのっとってかりそめの姿を取っているにすぎず、陰陽が入れ替わる節分せつぶんの時を待って新たな命を得ようではないか、と。


「節分っていうのは季節を分けるって意味なわけで、春夏秋冬それぞれにあるんだよ」

 そう言ったのは、骨董こっとう専門店〈つくも堂〉の店主、根津ねづさんである。店蔵みせぐら造りの店内は古今東西ここんとうざいから蒐集しゅうしゅうした古物がところ狭しと並び、軒先のきさきには人目を惹く中華提灯ちょうちんやトルコランプが。店内には紅茶専門店に見る茶器や陶器が棚に並び、壁には古時計や仮面、竹工芸のかごなどが吊られている。細々こまごまとした雑貨品は駄菓子屋のような気軽さで平台に盛られ、ガラスケースの中では西洋アンティークの小物が光っている。折り階段の横手には掛け軸や絵画が掛け違いに並び、二階にはわたしの腕力を必要とする大型の時代家具や屏風びょうぶ、焼き物、仏像に大型オルゴールといった珍品が置かれている。

 根津さんは仕入れたばかりの関東火鉢を、金の卵をでるように拭きながら言う。

「立春、立夏、立秋、立冬。節分はこの前日に当たるわけだが、旧暦だと春から新年が始まるから、地域によっては大晦日おおみそかと立春前の節分を年越しと呼ぶ風習が残ってたりするんだよ。その二つの時期は特に邪気が入りやすいってんで、厄払いの行事がわんさか用意されてるってわけだ。分かったか、ホールデン」

 根津さんはわたしを気さくにそう呼ぶ。両親ともに日本国籍であるので、もちろん本名ではない。彼は自称サリンジャー世代というには若い四十五歳バツイチで、実父から店を継いで十五年あまりで腰を痛め、床に伏してもんどり打っている場面に折よく現れた救世主、もとい求職中であったわたしを選択の余地なく雇った稀有けうな雇用主である。

 彼が顧客相手に言うことには、「なんかノリでホールデンとか呼んでみたけどさ、当時はどうせ雇うなら目元を隠した不審者じゃなくて、知恵はなくとも愛嬌たっぷりのオネエちゃんがよかったって夜な夜な枕を濡らしてたんだわ。でも、いざ力仕事を頼める奴隷どれいができたら、これが楽ばっか覚えちゃってね。気付いたら四年も不審者をかくまってたんだよ、たっはっはっ!」――― とのことだった。

「…勉強になります」小さく頭を下げ、わたしは商品棚のガラスを拭く作業に戻った。

 大学が冬期休暇に入った年の瀬間近。わたしは一月中旬に行われる学年末定期試験と金策の間で揺れ動きながらも、バイトに精を出していた。古美術も扱う〈つくも堂〉は、小さな店構えとは裏腹に戦後発祥の歴史を持ち、高校二年の時分、わたしは家庭の事情から根津さんの奴隷となる道を選んで見識を養ってきたのだ。

「まぁ、ここだけの話。物に魂が宿るってのは、実際にある」

 根津さんは傷の具合を確かめるべく片眼鏡モノクルをはめた。

「ガキの頃から古物に囲まれて育つと、これはなって直感が働くようになるんだよ。それがいいもんの場合もあるし、とりわけやばいものがいてる場合もある。知り合いの古美術商から聞いた話じゃ、買い取ったアンティーク家具の抽斗ひきだしから夜な夜な青い腕が出てくるとか、無名絵画に描かれた女が絵から抜け出してくるとか、人形に関して言えばキリがない。だからうちじゃ、どれだけ値打ちもんでもいわく付きのものは引き取らないんだよ」

 それでか…。

 話を聞く傍ら、合点がてんがいった。阿久津あくつは以前、われのある古いものが食あたりを招くようなことを言っていたが、古物に囲まれた環境下で無害でいられたのは、根津さんが正しく目利きしてくれているお陰だったのだ。

「そうしたものは、人の念みたいなものが呼ぶんでしょうか?」

「どうかねぇ。使われてる木だとか土にも原因があったりするからなぁ」

 根津さんはしげしげと火鉢の状態を確かめた。関東火鉢はかく火鉢に抽斗ひきだしのついた長い木箱で、今回買い取ったものは珍しく一部がうるしで塗られ、秋草蒔絵あきくさまきえ ――― 器面に金属粉を振りまいて定着させた模様もようが入っていた。

「確かに年季の入った道具や技巧のったもんには人の念が入りやすいが、おれの親父なんかは石一つにも命があるってよく言ってたよ。それが時に人の姿を取って見えたりするんだと。おれも研磨けんまされた鉱石の中にべっぴんさんを見たことがあったけど、あれがなんだったかと聞かれたら、今でも皆目かいもく分からんね。おれに弟子入りしたいっていう奴の気持ちと一緒でさ」と、火鉢から目を上げてわたしを見やる。

「今時、〝美術鑑定士〟になりたいなんて奴、ナウマンゾウのうんこより珍しいよ。正式な国家資格があるわけでもなし、おれの下で修業したってこんな風にはくなんかつきやしないんだから。そもそも古美術なんて金持ちの道楽みたいなもんでさ。うちも買い取りはしてるけど、今じゃ鑑定とか修繕以来の方が多いぐらいで、得るものといったらせいぜい履歴書の特技欄に〝目利き〟って書けるぐらいじゃない? ペン習字習った方が、よっぽど実があるよ。奴隷はまだ手放したくないけどさ」これも愛情表現のうちだろう。

 彼はわたしの将来を杞憂きゆうし、生業なりわいそのものを骨董品に見立てて老婆心ろうばしんを働かせる。民俗学が実生活に関わりの薄い学問とされているからだ。佐倉氏のような有能な人材は大学院へ進んで時間を稼げるが、就活地獄に落ちたありたちはフィールドワークで体得したコミュニケーション能力を生かした職に流れていくきらいがある。

 大事がなければ、わたしも来年の春で就活の訪れを意味する三年生に進級する。早ければ四月からセミナーに参加して情報収集を行い、夏からは企業のインターンに参加するなどして選考対策に取りかからなければならない。時期尚早とも言えるタイトなスケジュールだが、佐倉氏が進路や単位をえさにちらつかせた背景には、エリートでさえ就職浪人に陥る無慈悲な時代に、古美術商などという怪しげな職に就こうとする甘さを危惧きぐしたからにほかならなかった。

「わたしは見込みがありませんか?」

 わたしは仕事の手を止めて雇用主に改まった。

 神妙な雰囲気に、根津さんも「どうした、ホールデン。道端に落ちてるもんにでも手を付けたか」と片眼鏡をはめたまま心配そうにわたしを見やった。

「そんなこと聞くまでもないだろう? きみは安月給でよくやってくれてるよ。目の保養にはちっともならないけど、古物を扱うにはいい手を持ってる。〝奇貨きかくべし〟だな」

「手、ですか?」

 思いがけない指摘に、わたしは髪の合間から目をしばたいた。

 奇貨は珍品、くは手元に留めておくという意味から、掘り出し物や得ることの難しい好機は逃さずに利用すべしという含みを持つ。

 根津さんは固く腕を組んで言う。

「手には人間性がよく出るんだよ。特に指先なんかは顕著けんちょでさ、肉付きや爪の形状で隠れたもんが見えてくる。きみの手は大きくてカニみたいに指が長いが、関節がふしくれだっているくせに女みたいな指先をしてる。これは節型といって、内向的で思慮深い性格を表してるんだ。物事に慎重で口数は少ないが、真面目で几帳面。こだわりが強いから好き嫌いがはっきりしてるし、自分に合ったものを選べば仕事でも女でも一途に続く。弟子にするには、もってこいの逸材だよ。おれが懸念けねんしてるのは、こっちの方だ」

 根津さんは親指と人差し指をくっつけて円マークを作った。「お金、ですか?」

「生きていく上で欠かせない重要なファクターだよ、ホールデンくん」

 根津さんは苦虫をみつぶしたような渋面しぶづらを浮かべた。

「物にあふれた昨今、骨董屋ってのは時流に反して息を吸ってるんだ。仮に商売が続いたからと言って、国宝級のお宝でも見つけない限り、大繁盛っていうのはまず難しい。この先もおれの下で学ぶとなれば、じゅうぶんな知識が身に着くまで奴隷価格で働くことになるわけだが、きみにだっていずれめくらの恋人ができるかもしれないし、運を使いきって結婚するかもしれない。子供でも生まれようものならさらに金が必要になるし、かわいらしかった嫁さんが鬼に豹変ひょうへんしてバツイチになるかもしれない。店の跡目は欲しいけど、そんな思いをきみにさせるのは忍びないんだよ」これは一体、誰の話なんだ。

「国宝級のお宝…」

 ある思いから、わたしはカニと揶揄やゆされた手であごをさすった。根津さんが火鉢の検証に取りかかる横を音もなく移動し、カウンター裏に置いている自前のリュックサックを漁った。

 そうとも知らずに、雇い主は手前勝手な老婆心を働かせる。

「世間じゃクリスマスだっていうのに、おじさんは躊躇ちゅうちょなく骨董品とすごそうとする若者の将来が心配なんだよ。この間の合同デートだって、結局はきみの相手が風邪引いてポシャッたんだろ? せっかくの好機も掴む前に逃げ出すん…なんだよ?」

 根津さんは傍らに立つわたしに気付いて顔を上げた。片眼鏡をはめた目が、目前に差し出した湯呑ゆのみ茶碗に真っ直ぐ向かう。タオルに包んで持参したものだが、彼は「ん?」と眉間みけんにしわを刻むと、泥とこけを織り交ぜて焼いたような無骨な代物に一瞬で心を奪われ、世界に自分と湯呑しか存在しないような険しい面持ちを浮かべて石化した。

 昨日のことである。

 十二月二十三日は、三十五歳になる鈴音さんの誕生日だった。しかしながら同日に予定されていた鑑賞会はなぎさ小鳥ことりの急病で取りやめとなり、彼女の伝手つてを頼りに約束を取りつけた佐倉氏は、なにもかもが水泡とす前にわたしの提言ていげんを受け入れ、なんと善行よしゆきさんを含む千吉良ちぎら家の面々と美術館デートを敢行かんこうしてみせたのだ。

 災禍さいかを恐れて手放した案件であったが、家族合同デートは思いのほか好評を得たようで、その日のうちに佐倉氏から機転を利かせたわたしに上機嫌なメールが届いた。

〈 きみのお陰で、明日のクリスマスも千吉良家ですごせそうです。ありがとう! 〉

 結局は二人きりになる夢を諦め、外堀から埋めていく作戦に切り替えたようだった。

 そのことを渚小鳥に電話で報告すると、の鳴くような声が受話器から返ってきた。

『…わたしが不甲斐ふがいないばかりに、先輩に気を遣わせてしまってすみません…。先生に連れられて鈴音さんを誘いに行った帰りに謎の悪寒おかんに見舞われ、つの大師を貼った家の門をくぐった時には、すでに手遅れでした…』彼女も立派な被害者である。

 そんな経緯もあり、二十四日は例年通り一人ですごすことになった。世間では、やれ聖夜クリスマスだの電飾イルミネーションだのと熱に浮かされているが、金のない男には土台縁のない日と割り切り、実家にて甘味をむさぼる空しさを回避すべく、街路にあふれる恋人たちの群れを避けながら最寄りの神社に参拝しに行くことに決めた。

 山のふもとに築かれたN神社は、アパートを出て徒歩十分ほどの距離にある。広い境内けいだいには本殿や拝殿の他に摂社せっしゃをいくつも抱え、山肌に沿って茂る針葉樹林を背に率いている。

 わたしは健全な昼下がりに例の緑道を経由して山を下り、つがいの狛犬こまいぬが見張る石段を上がって境内に入った。案内所の手前にある手水社ちょうずしゃで心身を清めると、参拝客の姿が普段より少ないことに気が付いた。世間では、やれ贈答品プレゼントだの七面鳥ターキーだのの仕入れに追われている頃である。わたしは今朝方見た奇妙な夢に背中を押されるまま、拝殿へ伸びる長い上り階段に足を乗せた。

 その夢の中で、わたしは白い服を着ていた。手にもなにがしかの花束を携え、玄関先で誰かに最寄りの神社に行ってくると告げたところで目が覚めた。滅多に夢を見ないわたしでも、それがなにを意味しているのかはすぐに察しがついた。

 生活圏内にある駅とは正反対の場所にあるせいか、N神社に足を踏み入れたのは初詣はつもうでに訪ねて以来のことだった。わたしのような薄情者がちまたにあふれているのか、神明造しんめいづくりの拝殿がある境内は立派な装いとは裏腹に閑散としていた。

 しめ縄がかけられた柱の間にある賽銭箱になけなしの小銭を入れ、わたしは南無南無なむなむ …と手を合わせて今年を振り返った。縁もゆかりもない不幸に見舞われたり、血も涙もない化け物に襲われたりと煮え湯を飲まされることの多かった一年だが、命があっただけよしとしなければなるまい。心の中でもごもごと一年分の感謝を伝えると、くず入れに放って溜まっていたもどかしさが風に吹かれたように抜けていった。

 ここは神域なのだと改めて思わされた瞬間であった。それこそ部屋の空気を入れ替えたような清々すがすがしさに満ちて体が軽くなった。頼りにするなら知らぬ仏よりなじみの鬼というが、すがるならやはり安全が保障された相手がいいに決まっている。

 来年のことを言えば鬼に笑われるので、初詣にまた訪ねると言付ことづけて目を開けた。おもてを上げると、好々爺然こうこうやぜんとした禿頭とくとう御仁ごじんが正面からわたしを見ていた。

 いつから、そこに。びくりと肩を浮かすわたしに、賽銭箱を挟んだきざはしの上に腰かけていた御仁は、それこそ仙人のような居住まいで笑みを向けた。手には湯気が立ちのぼる湯呑茶碗を持ち、白い羽織はおりものに紺色の着物と質素な装いながら、目元を隠すほど伸びた白眉はくびがまた神々しさをかもしていた。

「大変よい心がけとお見受けしますな」

 おっとりと染み入る声で御仁が口を開いた。

「近頃は年の始まりに願掛けだけして音沙汰おとさたなしというのが実に多い。人様の家に入っておきながら、どこから来た誰なのかも名乗らぬ有様。それでいて守護、繁栄をたまわったと気付かず運が向いたとたがう者がほとんどじゃ。礼を言いに訪ねてくる者は珍しい」

 宮司ぐうじかなにかだろうか。わたしは決まり悪く返した。「わたしも、その部類の者です。今朝思い立つまで、そのことに疑問すら抱きませんでした」

 そう。あの夢を見るまでは、神社というのは願掛けするだけの場所と思い込んでいた。

「しかし、徳を積んでおられるようじゃ」御仁は気に留める風でもなく言った。「長く生きた分だけ、この目にはなんでも映りましてな。そなたの手は輝いて見えますぞ」

「手、ですか?」

 思いがけない指摘に、わたしはおずおずと聞き返した。

「左様」御仁は占い師さながら、深々とうなずいてみせた。「ありたちがコツコツ荷を運ぶように、疑いもなく己のできることを善意でなしている様子。手の足りぬ者には自ら手を差し伸べ、救いを求める者には水を運び、時にはこぼれた泥をも拾い上げる。どうやら〝木精〟に会われたようですな」

 もくせい?「木の精、あるいはこだまと言えば分かりますかな」

 きょとんとたたずむわたしに、御仁は辛抱強く続けた。「夜分にさまよう土の傀儡かいらいをその目で見たはず。あれは無情に切られた命が無念から形を起こしたもの。長く生きると、路傍に生える木ですら煩悩ぼんのうを抱くようになるのじゃ――― 人間のようになりたい、とな」

 そこまで言われて、ようやく思い至った。

 尻からこぼれ落ちた泥をくっつけてやった、あの未確認生物のことである。

「あれが、木の精?」驚きのあまり声が漏れた。西洋の美しきドリュアス像が音を立てて瓦解がかいしていく。

 それが見えているように、御仁は柔和にゅうわに笑みを広げた。

「左様、左様。あれは長く人の姿を見てきた為に、いつかは自由に歩き回りたいと願うようになったのじゃ。木というのは寡黙かもくなように見えて、実に好奇心旺盛でな。人に聞こえぬ声で言葉を交わし、確かな目を持ってものを見ておる。そなたと同じだ」

 御仁は髪で隠した目元を暗に示し、ずずっとうまそうに茶をすすった。

「人は確かにものを見ているようで、見えていないものの方が遥かに多いことに気付かぬ。一寸の虫にも五分ごぶの魂というように、命あるものはあまねく心を持ち、意思を通わせておる。耳を澄ませば、今もわしらの話を盗み聞きしておる木々や小さき者たちのささやきが聴こえるが、そなたはどうか?」

 問われた直後、拝殿の後ろに広がる針葉樹林がにわかにさざめいた。野鳥がそれに応えるように鋭く鳴き、ほおをかすめた風が耳元でひゅるりと言った。

「そう、あれらの言葉は心で聴くのじゃ」御仁は満足そうにうなずいた。「耳で形をとらえようと思ってはならん。言葉を交わさずとも、心というものは窓を開けてさえいればおのずと届く。昔はこの辺りも、狐狸こりたちの小競こぜり合いや鳥たちのかしましさでにぎわっておったが、今では人を恐れて誰もが口をつぐむ有様。そなたも試しに、木が切られている時に山の中で耳をそばだててみるといい。恐怖にかれた木々たちの心が伝わるはずじゃ。そなたが見た木精も、命が断たれた時には大声で泣き叫んだのだ」

「あなたも、あれを見たのですか?」

「うむ、この辺りは特に多い方でな」御仁はしみじみと声を落とした。「自然が多く残っているせいだろう。人になりたいと望む想いが大地の力と結びつき、器を失くしてなお、あれに形を取らせているのだ。木というのはそもそも性根の優しい者が多くてな。わしも駆け回るお子らを見るのは好きだが、あれもまた人間という生き物を微笑ましく眺めておる。例え根を踏まれようとみきられようと、痛みをこらえて寛大に受け止める。犬の小便などは根が腐ると嫌がるがな」と、実際に聞いたようことを言う。

 御仁は嘆かわしそうに空を見上げた。

「草木も虫も、そして動物たちでさえ声を持つということを、今の時代の人間たちは忘れてしまっておる。人の言葉を発せぬ者には心がないと思い込んでおるのだ。この国は昔より豊かになったが、命の尊さ、礼節を重んじぬ者がやたらと増えた。それを教える親なり師がめっきり減っておるのだろう。そうした者たちもまた、一寸の虫でさえ心があるという事実を知らずに傍若無人ぼうじゃくぶじんに振る舞っておる。憐れにも、そなたが見た木精などは人の魂と勝手が違ってな。供養くようしてやるのは大変難しい。切られた根元近くに花でも植えてやれば、いくらか慰めになるやもしれぬが…」と含みを持たせて茶をすする。なんともこすい老人である。

「そうしてやりたいのは山々ですが、今は食っていくのでせい…」

「ところで、〝鬼のしこくさ〟という花を知っておられるかな?」さえぎられた。

「鬼の醜い草と書いて、しこくさと読む。名前とは裏腹に淡い紫色をした愛らしい小花でな、相手をいつまでも忘れずに思うという意味を持つ。これと同じで、あれはまさに天邪鬼あまのじゃくと言えよう。かどが取れたと見えて悪さはせんようだが、縁を辿ってそなたの前に現れたところからして、だいぶなつかれておるようじゃ。今さらみつきはせんだろう」

 誰のことかと尋ねる前に、わたしの心は八重歯やえばを剥き出してほくそ笑む男の姿を思い描いていた。

 様々な疑念が口からあふれる前に、御仁はのっそり立ち上がると上座からほこほこと微笑んだ。

貧者ひんじゃ一灯いっとうほど、まばゆいものはありませんぞ。今のまま変わらず精進されよ」

 では…と会釈えしゃくし、御仁はくるりと背を向けると異様に長い後頭部をさらしてわたしの声を引き抜いた。目を剥く横からひらりと白いものが視界を遮り、やしろの中に入っていったはずの御仁の姿は、例によってきれいさっぱり消え失せていた。

 入れ替わるように現れたが向かった先には、空になった湯呑茶碗がぽつんときざはしの上に残されていた。唖然とたたずんでいたわたしはそれをサンタクロースからの贈り物と解釈し、好奇心に押されるままありがたく頂戴ちょうだいした…というわけだった。


 根津さんの鑑識眼かんしきがんによれば、湯呑茶碗はもっとも古い焼き物と知られる備前焼びぜんやきであった。源土はひよせと呼ばれる希少な粘土で、焼き加減によって陶器の色合いが異なり、使い込むほどに味が出ると言われている。わたしが持ち帰ったものは、恐ろしくも桃山時代以前に焼かれた古備前であることが判明し、執拗しつように出処を聞かれたのでありのままを打ち明けると、窃盗せっとうを第一に疑っていた雇用主は判別に行き詰ったように決断した。

「分かった!ひとまず、うちの金庫にしまっておこう」世間では、これを搾取さくしゅという。

「ごめん下さい!」

 嫌よ、嫌よと押し合いをしている横から、道場破りを彷彿ほうふつさせる威勢のいい声が飛んできた。見ると、何故か店先に刺繍ししゅう入りのマスクをした渚小鳥が、両手に小さな紙袋を携えた姿で立っている。クラシカルなコートには風邪っぴきKであることを示すバッジが輝き、葬式帰りかと見紛う黒い花飾りが頭についていた。

 わたしは夢うつつに駆け寄った。「なんで、ここにいるんだ?」

「先生にアルバイト先を教えてもらったのです」

 渚小鳥は息も絶え絶えに携えていた二つの紙袋を掲げた。驚いたことに、その中には園芸用のスコップと紫色の小花をつけたなえが入っていた。

 彼女はマスクの内側で気炎きえんを吐いた。

木精ドライアドの話を聞いていてもたってもいられず、貧乏な先輩に代わって粘土マンのご供養セットをご用意しました。これから山に分け入るので介添かいぞえをお願います!」

「脇目も振らずに家に帰りなさい」

 如才じょさいなく紙袋を受け取りつつ、わたしは内心しまったとほぞをんだ。

 昨夜のこと。風邪の具合を尋ねる電話で、わたしはクリスマスを寝てすごす羽目になった彼女に同情し、N神社で起こった奇跡を慰めに聞かせるというミスを犯したのだ。

 ともすれば召されてしまいそうな顔色で彼女は言う。「怪民倶楽部くらぶの補佐官として、神さまとエンカウントできるかもしれない好機をみすみす逃すわけにはいきません。園芸セットは先輩に託すので、撮影の方はお任せ下さい!」やっぱりな。

「ホ、ホホ、ホールデンっ…!」

 言葉を失っている後ろから、酷く取り乱した声が聞こえた。振り返ると、作業台に置いた湯呑を忌避きひするように、雇い主がこれまた青い顔をして腰を抜かしている。見れば空であったはずの湯飲みから、何故か濛々もうもうと湯気が立ちのぼっているのが見えた。

「お、おれはなにもしてないぞ!きき、気が付いたら、勝手に茶が沸いてたんだよ!」

「なんと…!」

 渚小鳥はぞっと青ざめるわたしの横で感嘆のため息を漏らした。湯呑には確かに熱い白湯さゆが満ちて甘い香りをくゆらせている。彼女は恐れるでもなく手を伸ばすと、止める間もなく謎の液体を口に含んで「うっ…!」とのどを詰まらせた。

 毒でも盛られたか。神の御業みわざにおびえる男二人に、彼女はごくんとそれを飲み下して言った。

「こ、これは…大変おいしい、ゆず茶です」なんと。

 冬至げしにゆず湯に浸かる話は聞くが、うまそうに茶を飲み干した渚小鳥は、それこそ冥加みょうがたまわったように血色を取り戻し、体調を危惧きぐする我々にさかしらに弁を振るった。

「調べたところ、鬼の醜草しこくさ今昔こんじゃく物語に登場する花で、墓の中から話し掛けてくる鬼を由来としてつけられたそうです。現代では紫苑しおん、またはアスターという名で知られ、花言葉はずばり追憶。うちの庭に偶然咲いていたのも、ご縁あってのことだと思います」

 小さな握りこぶしを作る彼女を前に、わたしはうーんと固く腕を組んだ。今昔物語集は平安時代末にまとめられた書で、「今は昔…」との語り口から命名されたものの、千を超える物語の作者は今も不明とされている。

「いや、そうかもしらんけど、三十八度もある人間が庭いじりしちゃ駄目でしょうよ」

 根津さんは垂涎すいぜんものの湯呑を丁寧ていねいに拭きながら正論を言った。

 客足が少ないこともあり、わたしはなにがしかの映像を撮るまで死ねないと豪語する病人に根負けし、雇用主の計らいで仕事を早引きすることになった。希少な骨董品をガーデニングに持ち込むわけにもいかず、結局は店の金庫に入れて預かってもらうことになった。地元の駅に着いた時にはまだ日は高い位置にあったが、冬至をすぎたばかりでは油断できないと判断し、先にN神社に参拝へ出向くことになった。

 彼女は神域に足を踏み入れた時から、目覚ましい回復力を見せていた。神の姿を一目見ることはかなわなかったものの、山肌に沿って蛇行だこうする緑道りょくどうを行く足取りは、わたしに一切合切の手荷物を持たせている自覚すら感じさせないほど力強かった。

 彼女と歩く傍ら考えていたのは、参拝のきっかけとなった夢のことだった。よくよく思い返してみると、出掛け先に声を掛けた相手は野良犬を追っ払うような気だるさで手を振り、わたし自身もたたみに寝転がっている相手に話し掛けるように視線を落としていた。

 つまるところ、鬼の中にも仏はいるということだろう。平安時代、鬼は隠れて姿を現さないものとして〈おん〉と記された。命を奪っていく目には見ない疫病や災害といった脅威を鬼の仕業と考えていたからだ。

 例の天邪鬼が腹の足しにもならないことを仕向けた理由を模索していると、道の先を飛ぶ白いを見つけた。渚小鳥が携帯電話のカメラにしか映らない物体に興奮しているところを見ると、畳に寝転がっていたあるじにお目付け役を頼まれたのだろう。木精が消えた大きな曲がり角まで来ると、ぱたぱたと外灯の周りを旋回して今はなき切り株の跡地を教えてくれた。

「あれはきっと、ドライアドと友達だったフェアリーに違いありません」

 園芸スコップを固く握りしめ、渚小鳥は消えた案内役の正体をそう結論づけた。かわいらしい空想を血生臭い事実で塗り潰すのも酷だったので、石畳の端にせっせと花を植えながら適当に話を合わせ、クリスマスに年若い男女がガーデニングにいそしんでいる現状から目を背けた。

 その時のことである。「大変よい心がけとお見受けしますな」

 まったりとした口ぶりに、わたしと渚小鳥はばっと勢いよく後方を振り返った。

 そこに立っていたのは、散歩にふらりと出てきたとしか思えない近所の老人だった。

「若いもんが自然を愛でる姿というのは、近頃じゃ滅多にお目にかかれませんでな。道端に咲く花に心を留めない者も多い。そこにきて醜草しこくさを植えるとは、また粋ですな」

「ここに木のお化けが出るので、ご供養に花を植えているのです」

 渚小鳥は一般人が尻込むことをしれっと言い放った。

 さすが秘密結社の幹部候補は肝が据わっている。彼女がインタビュアーさながら携帯電話のカメラを向けると、歩行杖を携えた老人は話を聞くなりふむふむ…とうなずいて訳知り顔を見せた。

「今では存在を覚えている者はめっきり減ってしまったが、ここには確かにわたしと同じ年ほどの木が生えておりました。しかしある時、道を整備するという理由から切られてしまいましてな。ちょうど、それが立っているところです」

 ベンチに腰かけながら、老人は曲がり角にそびえる街灯を見上げた。緑道を行き交う通行人たちが気にも留めない代物である。その時、ふと渚小鳥から聞いた鬼の醜草の由来が頭をもたげた。

 父親の死をいたんだ兄は忘れ草を植えて仕事に勤しみ、いつまでも父を慕う弟は醜草を植えて墓参りを怠らなかった。墓を守っていた鬼は親思いの弟に感心し、特別な力を授けた…というものである。

「――― 醜草しこくさの、島にはびこの時の、皇国みくに行手ゆくて、一途に思う」

 老人は山に分け入る風にそっと言葉を乗せた。

「これは大東亜だいとうあ戦争時、硫黄島いおうじまにて玉砕された栗林忠道ただみち殿が遺された短歌でしてな。最高指揮官であった彼は、己の死を前に祖国にみたび忠誠を誓い、あとに残していく我々日本国民の将来を思って下さった。当時、年端としはもゆかぬ子供であったわたしも、戦地へ散りに赴く兵隊さん方の顔を必死に記憶に刻み込んだものです」

 その言葉を聞いて思い浮かんだのは、わたしになけなしの水を乞うた青年の険しい面持ちであった。

 老人は彼の苦しみを代弁するように言う。

「しかし今となっては、大東亜戦争の裏で起きた戦犯ばかりに目が向けられ、栗林殿が遺した一途な思いを知る者も、命がけで国を守ろうと散っていった命を惜しむ者もめっきり少なくなりました。それを伝える担い手と、従順に耳を傾けてくれる若者が時とともに減っておるからでしょう。あれをご覧なさい」

 老人は雑草が生い茂る路端みちばたを指さした。見ると、煙草たばこ吸殻すいがらやペットボトル、菓子の袋といったゴミが無造作に捨てられている。

 言葉を失う我々に、老人は過去を眺めるような目をして言った。

「この国は豊かになった反面、忘れてはならないものをとんと失ってきた。とても些細ささいで当たり前のことを教える親も子も減っておるのです。あれを捨てた者たちが自然を害することになんの感情も持ち合わせていない今の時代の方が、わたしは恐ろしくてたまらない。ここに化けて出るという木の霊も、さぞかし無念だっただろうなぁ…」

 老人がしみじみと立ち去ったあとも、渚小鳥はカメラに収めたものを慈しむように、胸の合間でぎゅっと携帯電話を握りしめていた。

 今を生きるわたしたちができることと課せられていることは同じである。老人が指摘したゴミを拾って山を下りたわたしたちは、ともに駅に向かいながら同じ思いにとらわれていたように思う。

 ホームに並んで立つと、彼女は沈む空気を一層すべく話題を変えた。「ところで先輩は、どうしてアンティークショップで働いているのですか?」

 唐突な切り出しに、腕を組んで電車を待っていたわたしは、豆鉄砲を食らったように「ん?」と間を置いた。つくも堂の外観を覆すこじゃれた響きにまごついたというのもあるし、私的なことに興味を持たれることが少ないだけに、内情を明かす言葉を持ち合わせていなかったというのもある。

 だがその時は、誰かが窓を開けてくれたようにするりと声が出たのだ。

「…不思議と、昔から古いものが好きなんだ」

 わたしは腹の底でうずくこそばゆさに駆られて彼女から目をそらした。

「家に特別そうしたものがあったわけじゃないが、職人と呼ばれる人たちの技巧や古物に秘められた歴史をひも解くことに興味があった。求職中は黙々と作業ができる力仕事か、まかないが食える飲食系を考えていたんだが、こんな見てくれだから人と接するのが得意じゃない。それで考えた。人間関係にわずらわされず、学業と両立できる仕事はなにか。根津さんに拾ってもらえたことは、今でも幸運だったと思ってるよ」

「…でも、先輩は――― 」

 彼女がなにかを言いかけたその時、構内にアナウンスが入った。

 見送りも、ここまでである。目の覚める思いで線路を見通し、わたしは電車がホームに入ってくるのに合わせてリュックサックの中を漁った。停車する電車に目を奪われていた渚小鳥は、わたしが無骨に差し出した紙袋を見て目を丸くした。

「見舞いをかねた、お駄賃だ」

 目を合わせぬまま、わたしはずいっとそれを彼女の手に握らせた。本当はハンディカムの埋め合わせに用意したものだったが、倉庫内清掃のあとに渡すタイミングがつかめずに持て余していた。それを見てなにを思ったか、渚小鳥はその場で中身を取り出すと子供のような抜け目のなさで包装を解き、鈴音さんの店で群れているフクロウの置き物が現れたことに一層目を輝かせた。この渋いプレゼントに喜ぶ人間は、そうはいまい。

 ほっと胸をなでおろした直後、華奢きゃしゃな体がぎゅっとわたしにしがみついてきた。

「うれしいです、一生大事にします!」

 扉が閉まる直前、渚小鳥は通り魔さながらの身のこなしで電車に飛び乗り、わたしにガーデニング一式を託したまま遠ざかっていった。彼女がなにを言いかけたのかは分からなかったが、唖然とホームにたたずむ胸の奥では移されたばかりの風邪が熱を放っていた。

 …体が冷える前に帰ろう。わたしは心持ち軽くその場をあとにした。

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