第8話 『 実葛 』
その時、わたしは夢を見ていた。大学からの帰りなのか、昼下がりの明るい並木道を歩いている。行く手には味気ない
これは珍しい。わたしは思わず立ち止まり、何故か木像の横に置かれたベンチに腰かける
何気なく境内に足を踏み入れたわたしは、自分の声がこう言うのを聞いていた。
「タヌキさん、失礼します」
その時はなにも思わなかった。鳥居の前で軽く一礼し、わたしは真っすぐベンチに向かった。しかし木像の前を通りすぎる際、太鼓腹に鳥の
そこに現れたのは、甘党を一目で悩殺するチョコレートケーキであった。
彼女は声なくして、わたしに「よかったら」とそれを勧めた。口元は動いていないのに、栗のようなつぶらな瞳が語りかけてくる。わたしは疑いもなくケーキの一切れを手にし、この一瞬の為に作られた大きな口でばくりと頬張った。ともすれば至福が広がるはずの口内は、泥と
「あ、生きてる…!」
間の抜けたその顔は、紛うことなく渚小鳥本人であった。
正月が矢のごとくすぎ去った一月末。わたしは四畳半の殺風景な自室にて
酷使した肉体は干からびた真綿のように免疫力を失い、連日に渡って知識をねじ込んだ脳がオーバーヒートを起こすと、折悪く
今ここに渚小鳥がいるように見えるのも、過熱により脳が暴発を起こしたせいに違いあるまい。薄っぺらい掛布団をかぶって二度寝を決めむわたしの傍らで、彼女は洗面所から水の流れる音とともに登場した
「渚小鳥、捕獲対象の生存を無事確認いたしました!」悪夢だ…。
「ほう、まだ息があったか」
「では床に伏って動けないうちに、サークルの布教活動をしてしまおう。小鳥くん、オニ太郎くんの枕元に遠足のしおりを!」こやつらはなにをしに来たのだ。
「…ど、どうやって、部屋に…」
彼女がせっせと色違いのパンフレットを並べる横で、わたしは
「怪民
話によれば、授業を欠席したことを心配した佐倉氏から様子を見てきてほしいと頼まれた渚小鳥に、風戸爽が婚前の身で
「誰が襲うか」わたしは怒りも
こんな時、神から置き引きせしめたあの
「まぁ、まぁ。この際、不法侵入したことには目をつむろうじゃないか」
他人事のように片付け、風戸爽はふくれっ
「我が部が誇る企画力を見たまえ、オニ太郎くん。きみにまつわるなんやかんやの怪奇現象は、すでに小鳥くんの手を離れて
手前勝手な口上を挟んで突きつけられたパンフレットには、流し見ただけでも『節分企画、廃墟で鬼退治ツアー』、『バレンタイン企画、神社巡りで縁結びツアー』、『ひな祭り企画、桃の節句で厄祓いツアー』と、とってつけたようなきな臭い企画が並び、紙芝居方式で内容が読み上げられると、だるさが増して
「病魔に侵されている今のきみには、〈五節句〉にちなんだツアーがお勧めかな」
苦しむ病人をよそに、風戸爽は得意満面とひな祭り企画のパンフレットを掲げた。
「古来より中国では、奇数の重なる陽の日に、旬の植物から生命力をもらって邪気を祓うという風習があった。それが奈良・平安時代に宮中行事として取り入られると、一月七日の
風戸爽はパンフレット裏の説明書きをつらつら読み上げて、ひょっこり顔を出した。
「どうだい。民俗学を専攻しているとあって、ひな祭り企画には特に興味そそられるだろう。小鳥くんにもなじみ深い桃の節句は今でこそ女の子の成長を祝う行事として普及しているが、もとは
「頼む、すぐに帰って…」
「今ならもれなく」歯切れよく言葉をかぶせ、風戸爽は後ろ手で隠し持っていたチラシを突き出した。「参加契約と引き換えに、ピザのデリバリーを頼んでやろう。衰弱している今、精のつくハイカロリーなものが食べたいだろう」これには若干、心が揺れた。
さすが旅行会社の
「先輩は、どうして大学の寮には入らずに一人暮らしをされているのですか?」
風戸爽がピザを注文している間、渚小鳥はちょこんと正座したまま物珍しそうに室内を見渡した。その目は端に追いやられたちゃぶ台の上に風邪薬と桃色のラッピング袋を見つけて暗くなった。中に無骨な形のクッキーが入っていたからだろう。
「昨日の夜、母親が来たんだ」
わたしはおかしな想像をされる前に、布団の中からもごもご言った。
「来なくていいと言ったんだが、妹が作った菓子と一緒に薬や夕飯なんかを持ってきてくれた。妹は中学受験を控えているから、風邪を移さないように接近禁止令を出したんだ」
「中学受験…ということは、妹さんはまだ十二歳なのですか」
渚小鳥はラッピング袋に
「ご兄弟がいることも初耳ですが、それだけ年が離れているとかわいくて仕方がないのでは? わたしにも兄がいますが、こんなに押しの強いメッセージカードは選んだことがありません」
「小さい頃から、なにかと世話を焼いてやったせいだろう。
「あぁ、それで…」渚小鳥は事情をくみ取ったように言葉を控えた。
「それで、それで? 近頃はどんな不思議な目に遭ったって?」
沈みかけた空気を吹き飛ばすように、通話を終えた財布係が会話に加わった。
「こんなに酷い風邪を引いたからには、それなりに理由があるんじゃないかと思ってね。昔からよく言うじゃないか。
「そういえば、佐倉先生からお借りした傘はどうされたのですか?」
ふいに渚小鳥が話の
「いや、そうでもない」
「なんだ、またあの人から厄をもらったのかい?」
風戸爽は期待に目を輝かせた。他人の不幸を嬉々と加味する馬と鹿に腹は立つものの、ピザの代金を払ってもらうまでは追い出せない。
わたしは捨て鉢に返した。「傘は、タヌキに貸した」
「……は?」
時をさかのぼること、三日前のことである。
試験も終わり、快く金策に精を出せると
晩秋から冬にかけて降る雨のことを、主に
「時雨は一時的に降ることから、しばし暮れるとか、すぐに
そんな経緯もあり、わたしは氏から置き傘を借りて大学を出ることになったのである。
お互い疲労していたせいか、
わたしが最後に鈴音さんと接点を持ったのも、佐倉氏に誘われるまま渚小鳥を伴い、年始の挨拶に千吉良家を訪ねた時が最後だった。そこでN神社で起きた奇跡と木精にまつわる出来事を語ると、鈴音さんは語り手としての使命に一層執念を燃やし、
そんなことを考えながら、例の
まずい。わたしは冷たい雨に打たれながらあとを追った。傘は佐倉氏の厄が染みついているとしか思えない動きで風に飛ばされ、いつしか竹林が広がる一角に来ていた。
そこは山肌に沿って茶畑が広がる、見晴らしのいい場所だった。
そこで、なにかが動いた。「ひっ、お助けを」
がさりと音を立てて、にわかに茂みが動いた。かそけし声につられて下をのぞき込んでみると、灰色の毛にくるまれた動物と目が合った。その一帯は緑道を
野生のタヌキである。「どうか見逃して下さい。お腹に子供がいるんです…!」
頭の中でこだました声に、開いた口が塞がらなかった。
疲労から来る幻聴か。それとも雨音を聞き違えたのか。タヌキは時雨に濡れた体を震わせ、くりりとつぶらな瞳を濡らしていた。冬ともあり食べ物にありつけないのだろう。おとぎ話と違って体はやせ細り、腹だけが膨らんでいる。わたしの手は上着のポケットに常備している猫のおやつを取り出していた。
「だ、大丈夫だ。なにもしない」
動揺が隠せないまま、わたしは包みを開けて中身を手のひらに開けた。かりっと焼けた魚の匂いに気付いたのか、タヌキはひくひく鼻を動かしているものの、警戒心が勝って動けずにいるようだった。猫に話しかけるように説明してやりながら毒見に一粒食べてみせると、意思が通じたのか、タヌキは差し出されたものをおそるおそる口にした。
草木も虫も、そして動物たちでさえ声を持つということを、今の時代の人間たちは忘れてしまっておる――― がつがつ食べ物をむさぼる姿を眺める心中では、N神社で聞いた話が重くのしかかっていた。
タヌキは犬の仲間で、昆虫も食す雑食性である。わたしはコンビニで買った賞味期限すれすれのバナナも分けてやり、呪われた傘を屋根代わりに残してその場を立ち去った。
「…と、いうわけだ」
呆ける二人の前で、わたしは届いたばかりのピザにがぶりついた。
傘はもとより、あのタヌキがどうなったのかは、その夜のうちに風邪をこじらせたので確認できていない。日本昔話みたいな実話を語り終えると、渚小鳥は動物の言葉を解したことに衝撃を受けたのか、タヌキのようにつぶらな瞳をふるふる揺らして言った。
「先輩…まさか、本当ににゃんこのおやつを食べたのですか?」そっちか。
「人間からほんのり遠ざかる味がした、とだけ言っておこう」
熱々の素晴らしい味わいを
「今の話が事実だとすれば、きみが遭遇したのはホンドタヌキで間違いないんじゃないかな。出産時期は三月中旬で、四匹から六匹の子を産むそうだ。子連れで恩返しに来たら、是非写真を撮っておいてくれたまえ」
「別に、信じてもらおうとは思っていません。むしろ、口外しないで下さい」
「わたしは信じます!」
ぴしゃりと冷評をはねのける横で、渚小鳥が熱く気炎を吐いた。「我が子を思う母の愛に種族の垣根などありません。
日本霊異記は『
「まぁ、人を恨む気持ちぐらいは、当然持ち合わせているだろうね」
それらを集約するように、風戸爽はサイドメニューの唐揚げをつまみながら手軽く言った。「タヌキは鳥獣保護法によって捕獲や殺傷が禁じられている反面、今でも作物や家屋を荒らす害獣として秋から冬にかけてのみ狩猟鳥獣に指定されているんだよ。どんなに愛らしい見た目でも、人に懐かない生き物は昔から駆除の対象にされてきたんだ。
「どこに行くんです?」
わたしはおもむろに立ち上がった風戸爽を呼び止めた。
「親父から再三、呼び出しを食らってるんだよ」彼はうんざり顔で携帯電話を掲げた。「早く仕事を覚えろってうるさくてね。こっちはまだ継ぐとも返事してないのにさ」
家族との通話を聞かれたくないのか、風戸爽は再び席を外した。
「風戸先輩のおうちは、お父様が大変厳しくいらっしゃるそうです。就活なくして大企業に就職できる待遇をやっかむ人もいますが、風戸先輩自身は家族経営に縛りつけられる不遇をよく嘆いています。
置き去りにされた渚小鳥は所在なさげにポテトをつまみ、台所に移された妹のクッキーをちらりと流し見た。「でも、憎まれ口を叩けるのは親子仲がいい証拠だと思います。うちは両親ともに厳しくて、兄も進学や留学で忙しくしていたので遊んでもらったことは一度もありません。家族に難があるのは、どこの家も同じじゃないでしょうか」
「うちは父親が問題のある人だったんだ」
言ってしまってから、自分で驚いた。脳に熱がこもりすぎて、どこかのねじが外れてしまったのだろうか。これまで家の事情を明かしたのは根津さん以外にいなかったし、夢の中で味わった泥臭さがのどの奥で溶けているような思いがこみ上げた。
「義父は、わたしが父と同じ人間になると恐れて心を開かない」わたしは自分の声がそういうのを、ただ聞いていた。「成長するにつれて、写真に見る父と似ていくからだろう。わたし自身、父にはこれといっていい思い出がないし、母が泣かされる姿ばかり見てきたから、余計な苦労をかけさせまいと家を出たんだ」
わたしは
わたしは自分の口を封じるように唐揚げを頬張った。その横から、か細い指がすっと伸びてきた。
髪の合間から
「…こ、このいぶし銀な傷にも、なにか由来が?」
彼女が見ている額のつけ根には、幼少期に刻まれた傷が横一線に入っていた。
人が寝ている隙に秘密を覗き見たのだろう。わたしは熱のこもった頭を動かす気にもなれず、唐揚げを
ごくんと口の中のものを飲み下すと同時に、通話を終えた風戸爽が戻ってきた。
彼女が慌てて指を引っ込めると、秘密も再び前髪の下に隠れた。
「すまないが小鳥くん、急いで帰り支度をしてくれたまえ」壁に掛けたコートを仏頂面でとり、風戸爽はひと悶着あったと言わんばかりに車のキーを取り出した。
「親父がすぐに帰ってこいってきかないんだよ。家まで送るから、残りのピザは誓約書と引き換えにオニ太郎くんに恵んでやりなさい」まるで
「え、でも…!」
渚小鳥は卓上のピザに意見を
「せっかくですが、わたしはここに残ります。帰り道なら分かりますし、せっかく買ったデザートもまだ食べていないので」
その決断に、わたしも驚いた。「…デザートがあるのか?」
「色めいてるんじゃないよ」
手厳しく
「小鳥くんを
「これは?」
渚小鳥はしっかり傷付いているわたしのそばで、颯爽と手渡された卵型の装置に
「GPS機能
「とっとと帰れ」
適当なパンフレットに殴り書きの署名を入れ、わたしは悪意の塊を家から締め出した。
貴重な体力を使ってしまったことに腹が立ったのだろう。冷めゆくピザのもとに戻ると、「あんな男の車に乗るきみの気が知れない」と怒りが漏れた。
言ってしまってから、妙な気恥ずかしさに駆られた。今日のわたしは、本当に具合が悪いらしい。
「…あ。先輩は、こんな話をご存じですか?」
気詰まりな空気を変えたかったのか、渚小鳥は黙々とピザをむさぼるわたしに話を振った。
「第三倉庫付近に出るという、女霊の話です」飯がまずくなる話だった。
彼女が頼んでもいないのに始めた怪談話の主役は、英文学科の専任講師である真宮女史だった。彼女はある日の午後、急用を抱えた
真宮女史は、ものを教える立場の人間として間違いが起きては困ると歩を速めた。しかし最奥の倉庫へ伸びる通路を進む途中、ふいに奇怪な現象に見舞われた。倉庫まであと少しというところで照明が明滅し、行く手を阻むように落ちてしまったのだ。それこそただならぬ雰囲気が漂い始めると、明かりと闇の
「――― 祝詞?」
わたしはたまらず口を挟んだ。祝詞は主に、神事の際に神職者が神に
「なんで神に捧げる言葉を闇の中で唱えるんだ?」
「そう聞かれても困ります。これは真宮先生の体験談ですから」渚小鳥は食べかけのピザを手に
能、か…。「手掛かりが少ないな。なにか聞き取れた言葉はないのか?」
「それが意外と短かったそうなんです。なんでも、かつらを人に知られてどうとか…」
かつら?「…随分とユニークな霊だな」
予想を覆すオチに、思わず笑みが漏れた。それを見た渚小鳥は、春の木漏れ日を前にしたように目を
「初めて見ました、先輩が笑ったところ。いつも仏頂面をされているので、すごく新鮮です。普段から、もっと笑ったらいいのに」
「口が大きいのがコンプレックスなんだ」
またしても不思議な力が働き、わたしは口元をさすりながら打ち開けた。「笑うと、それが気持ち悪いぐらい
「わたしはそうは思いません!」
勢いよく否定してから、渚小鳥ははっと我に返ったようにしどろもどろに
「その、先輩は自己評価が低すぎると思います。風戸先輩は厳しいことをおっしゃっていましたが、
呆気に取られているわたしに、渚小鳥は驚くべきことを打ち明けた。「さっきの怪談話も、真宮先生があらぬ妄想を抱かなければ起こらなかったことなんです。第三倉庫から佐倉先生と出てきたのは、羊の群れから逃げ遅れた先輩だったんですから」
ん?「どういうことだ」
「だから」渚小鳥はもどかしそうに
雪解けたばかりの笑みが瞬時に凍りついた。
一体全体、誰がそんな悪意をこねくり回したような噂をでっち上げたのだ。しかし言われてみれば、
彼女も精神世界に迷い込んだわたしを崖から突き落とす勢いで判を押した。
「それぐらい、お二人が仲むつまじく見えるということです。その時も、お二人が黒い桐箱をコソコソしながら運んでいたと聞きました。ですので、わたしの方でしっかり訂正しておきました。先輩は単に人がいいだけだと…ですよね?」何故、聞く。
黒い桐箱が話題にのぼったということは、だいぶ前の目撃談であるらしい。訂正を重ねても噂そのものを消せるわけではないので怒りは増すばかりだった。見かねた彼女が佐倉氏より預かった見舞金で買ったというケーキを和解に持ち出しので、ひとまず思いの丈を甘味にぶつけることにした。冷蔵庫にしまわれていた化粧箱が持ち出されると、色めき立ったハートはお
なにかの罠かとおびえるわたしに、渚小鳥は罪のないような顔をして聞いた。
「あれ。もしかして、チョコレートケーキお嫌いですか?」
「…いや、大好きだ」
疑心が拭えないまま、わたしは複雑怪奇な妙味を味わった。
結論から言えば、ケーキは乏しい味覚を遥かにしのぐおいしさだった。しかし、布団が敷いてある密室にいつまも彼女を置いておくのは不健全なので、風邪を移す前にと断って退室願った。駅まで見送れなくてすまないと咳き込むわたしに、渚小鳥は玄関先で
ようやく一人の時間を取り戻すと、久々のご馳走にありつけたお陰か、あるいは
これはタヌキに一服盛られたな。ぼうっとする頭で枕元に並んだパンフレットの一つを手に取った矢先、ページの隙間からはらりと雑紙が抜け落ちた。
青い小鳥が描かれたメモ用紙である。手に取ると、渚小鳥の筆跡で連綿と英文がつづられていた。一見詩のようだが、わたしに読み取れた言葉は多くなかった。
なんとかのきれいな
さっぱり読めん。
わたしは早々にメモ用紙をちゃぶ台に放った。おそらく、今夜食べる鍋の材料かなにかだろう。黒魔術に加担したと思われては困るので見なかったことにし、わたしは使い込んだ布団に潜ってすやすやと夢の世界へ旅立った。
しかし、そこでまたしても奇妙なものを見る羽目になった。
始めに見えたのは、絹を垂らした
そこは壁も
沈痛な静寂を介して離れた場所に座っていた若い
内容は、こうである。
彼女は良家の娘として
なにしおはば、あふさかやまのさねかづら、ひとにしられで、くるよしもがな。
最後の一息を吐きながら女が
あれは間違いなくあやかしものです、と彼女は訴えた。時同じくして、姫君の夢に夜な夜な不気味な女が現れるようになったからだ。それはぶつぶつと
いよいよ鬼の
なにを隠そう、術師でもない平民の〈わたし〉が頼りにされたのは、誰よりも気心知れた彼女の
彼女はここで手柄を立てれば立身ものぞめると
深く見据える瞳の奥に見知った顔がよぎった直後、わたしは胸のざわつきに叩き起こされる形で目を覚ました。
またおかしな夢を見た。のそりと上体を起こして室内を見渡すと、陰る部屋の窓の向こうは日が傾いていた。ぼうっと意識をたぐり寄せながらも、あまりに鮮明な夢の情景に心はかき乱されていた。
まるで、わたしの手近にいる人物を配して作った寸劇のようだった。おそらく、眠る前に聞いたひな祭り企画や怪談話が色を添えたのだろう。
しかし、あの和歌は…。
夢の記憶が薄れてしまう前に、わたしは携帯電話を手に取って聞きかじったキーワードを検索エンジンにかけた。出てきたのは、小倉百人一首に
名にし
間違いない、これだ。わたしは夢と現実の一致に目を見張った。
この歌は定方が許されざる恋に落ちた際につづったもので、
彼の名を目にした時、
能楽の三番目物に当たる『定家』である。
能楽の曲目は
『定家』もその一つで、初冬の
この演目では定家本人は登場せず、女性は彼と紡いだ恋物語をひとしきり語ると、自分こそが定家を射止めた相手であり、石塔に眠る
古き時代から、音もなく忍び寄っては触手を伸ばす
わたしは布団の上で固く腕を組み、奇妙な一致に頭を悩ませた。
――― なんでも、かつらを人に知られてどうとか…。
真宮女史が遭遇したものと夢の情景が重なるのは、一体どういうわけなのだろう。
奇しくも三番目物の〈女〉は、
渚小鳥である。「なにしてる」
死角に潜んで待ち伏せると、行儀よく玄関先で靴を脱いでいた彼女は、しっぽを踏まれた猫のように飛びのいた。その手から、かしゃんと音を立てて傘が転げ落ちた。
タヌキの雨宿りに使った、あの呪われし傘である。
「タヌキを探しにいったら竹林の中にこれがあったので、お届けに」
渚小鳥は神妙に居住まいを正し、おどおどと瞳を揺らした。どれだけ暇を持て余しているのか、彼女はアパートを去ったその足で竹林へ向かい、母タヌキを探し回っていたと言った。施錠したはずのドアをどうやって開けたのかと問うと、後ろめたそうに顔を背けて見覚えのあるピッキング道具を取り出した。
「普通に入ってこれんのか」わたしは手厳しく一喝した。一子相伝《いっしそうでんと思われた悪癖を普及させるとは、このサークルにはいささか問題がある。
「実は、こちらに忘れ物をしたかもしれないのです」
渚小鳥は観念したように縮こまった。「その、思いつきでつづったものなのですが、書いている途中で佐倉先生に声を掛けられ、とっさにパンフレットの中に隠したことを思い出したのです。お
なるほど、彼女もしっかり厄に当てられていたらしい。目も合わせられぬほど動揺しているということは、よほどの重要事項なのだろう。「これのことか?」と闇鍋の材料がつづられたメモ用紙を掲げると、目にも止まらぬ速さでかっさらわれた。
「…よ、読んだのですか?」
蚊の鳴くような声を押し出し、渚小鳥は今にも泣き出しそうな目をしてわたしを見ていた。実を言えば英語はからきし苦手だが、ここで阿呆と思われては先輩として立つ瀬がないので、「あぁ…まぁ」といらぬ見栄を張った。
それがよくなかった。
「こ、こっ…!」彼女は顔から火を噴く勢いで赤らんだ。「この、ぽんつくがっ!」
ぽんつく?
渚小鳥は謎のメモを手に、わっと家を飛び出した。一体なにが書かれていたのか、キツネにつままれたように放心する頭の中では、タヌキが小気味よく
「…さっぱり分からん」わたしは首をひねり、布団に潜って速やかに寝入った。
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