第8話 『 実葛 』

 その時、わたしは夢を見ていた。大学からの帰りなのか、昼下がりの明るい並木道を歩いている。行く手には味気ない石鳥居いしとりいが立っていて、木々に囲われた小さな境内けいだいを流し見ると、立派な太鼓腹たいこばらをした男の木像が、どどんと置かれているのが目に飛び込んできた。

 これは珍しい。わたしは思わず立ち止まり、何故か木像の横に置かれたベンチに腰かけるなぎさ小鳥の姿をとらえた。なんやかんやのオカルト話に誘われて推参すいさんしたのだろう。

 何気なく境内に足を踏み入れたわたしは、自分の声がこう言うのを聞いていた。

「タヌキさん、失礼します」

 その時はなにも思わなかった。鳥居の前で軽く一礼し、わたしは真っすぐベンチに向かった。しかし木像の前を通りすぎる際、太鼓腹に鳥のふんが付着しているのを見つけ、道端でもらった鼻紙を取り出して甲斐甲斐かいがいしく拭いてやった。これでよしと清々しい心持ちで渚小鳥の横に着席すると、彼女は来るのが分かっていたようにひざに乗せていた風呂敷ふろしき包みを解いた。

 そこに現れたのは、甘党を一目で悩殺するチョコレートケーキであった。 

 彼女は声なくして、わたしに「よかったら」とそれを勧めた。口元は動いていないのに、栗のようなつぶらな瞳が語りかけてくる。わたしは疑いもなくケーキの一切れを手にし、この一瞬の為に作られた大きな口でばくりと頬張った。ともすれば至福が広がるはずの口内は、泥とこけとさじ一杯分の出来心でこねられた不快な味に支配され、「ん?」と険しくまゆを寄せたところで目が覚めた。それと同時にひたいに載っていた手がさっと身を引き、驚きざまに見開いた目に夢の続きが映り込んだ。

「あ、生きてる…!」

 間の抜けたその顔は、紛うことなく渚小鳥本人であった。


 正月が矢のごとくすぎ去った一月末。わたしは四畳半の殺風景な自室にてふせっていた。先日行われた学年末定期試験を通過すべく、かき入れ時で沸くバイトと学業に寿命をいたせいだ。

 酷使した肉体は干からびた真綿のように免疫力を失い、連日に渡って知識をねじ込んだ脳がオーバーヒートを起こすと、折悪く冬時雨ふゆしぐれに打たれた体に疫病ウィルスがはびこった。結果、わたしは試験が終わると同時にこと切れ、バイトどころか授業にすら出られないほど深い眠りに就く羽目になったのである。

 今ここに渚小鳥がいるように見えるのも、過熱により脳が暴発を起こしたせいに違いあるまい。薄っぺらい掛布団をかぶって二度寝を決めむわたしの傍らで、彼女は洗面所から水の流れる音とともに登場した風戸かざとそう に敬礼してみせた。

「渚小鳥、捕獲対象の生存を無事確認いたしました!」悪夢だ…。

「ほう、まだ息があったか」

 颯爽さっそうと現れた男は、幻とは思えぬ不遜ふそんな足取りで枕元に降臨した。

「では床に伏って動けないうちに、サークルの布教活動をしてしまおう。小鳥くん、オニ太郎くんの枕元に遠足のしおりを!」こやつらはなにをしに来たのだ。

「…ど、どうやって、部屋に…」

 彼女がせっせと色違いのパンフレットを並べる横で、わたしは気息奄々きそくえんえんと声を押し出した。貧乏暮らしとは無縁のインテリ村の村長は、ふてぶてしくあぐらをかくと、ふふんと不敵な笑みを浮かべてピッキング道具を取り出した。

「怪民倶楽部くらぶに入れぬ廃墟なしとうたわれたぼくにかかれば、廃墟同然のアパートに押し入るなんてわけないよ。きみが衰弱していると聞いていてもたってもいられず、部を代表して洗脳しにきたんだ」ただの勧誘だった。

 話によれば、授業を欠席したことを心配した佐倉氏から様子を見てきてほしいと頼まれた渚小鳥に、風戸爽が婚前の身で虎穴こけつに入るのは危険と忠告したことから、新しいツアー企画の提案もかねてお見舞いにきた、ということだった。

「誰が襲うか」わたしは怒りもあらわにき込んだ。気なしか熱がぐんぐん上がっていく。

 こんな時、神から置き引きせしめたあの湯呑ゆのみさえあれば、と思わずにはいられない。しかし、わたしが手にしたところで茶が湧く保証はないし、あれは今も希少価値を重んずる根津さんの独占欲にもとづき、〈つくも堂〉の金庫に厳重に保管されていた。

「まぁ、まぁ。この際、不法侵入したことには目をつむろうじゃないか」

 他人事のように片付け、風戸爽はふくれっつらをする渚小鳥を尻目に企画書を掲げた。

「我が部が誇る企画力を見たまえ、オニ太郎くん。きみにまつわるなんやかんやの怪奇現象は、すでに小鳥くんの手を離れて縦横無尽じゅうおうむじん闊歩かっぽしている。奇跡体験がしたいと望む声も多数上がる今、きみが来てくれないと始まらないんだよ」

 手前勝手な口上を挟んで突きつけられたパンフレットには、流し見ただけでも『節分企画、廃墟で鬼退治ツアー』、『バレンタイン企画、神社巡りで縁結びツアー』、『ひな祭り企画、桃の節句で厄祓いツアー』と、とってつけたようなきな臭い企画が並び、紙芝居方式で内容が読み上げられると、だるさが増して永遠とわに寝込んでいたくなった。

「病魔に侵されている今のきみには、〈五節句〉にちなんだツアーがお勧めかな」

 苦しむ病人をよそに、風戸爽は得意満面とひな祭り企画のパンフレットを掲げた。

「古来より中国では、奇数の重なる陽の日に、旬の植物から生命力をもらって邪気を祓うという風習があった。それが奈良・平安時代に宮中行事として取り入られると、一月七日の人日じんじつの節句には七草を。三月三日の上巳じょうしの節句には桃を。五月五日の端午たんごの節句には菖蒲しょうぶ。七月七日の七夕の節句には笹竹。九月九日の重陽ちょうようの節句には菊といった具合に、シンボルを取り入れた厄祓いフェスティバルが行われていたそうだ」

 風戸爽はパンフレット裏の説明書きをつらつら読み上げて、ひょっこり顔を出した。

「どうだい。民俗学を専攻しているとあって、ひな祭り企画には特に興味そそられるだろう。小鳥くんにもなじみ深い桃の節句は今でこそ女の子の成長を祝う行事として普及しているが、もとはわらで作ったしろに厄を移して健康を祈願する農村儀式だったんだよ。それが平安貴族の子女たちが人形遊びに使ったところから、今の形式になったと言われている」と、パンフレット裏の注意書きを満足げに読み上げる。もううんざりだ。

「頼む、すぐに帰って…」

「今ならもれなく」歯切れよく言葉をかぶせ、風戸爽は後ろ手で隠し持っていたチラシを突き出した。「参加契約と引き換えに、ピザのデリバリーを頼んでやろう。衰弱している今、精のつくハイカロリーなものが食べたいだろう」これには若干、心が揺れた。

 さすが旅行会社の御曹司おんぞうしとあって、気風がいい。渚小鳥が追加のサイドメニューをらつかせると、人差し指が勝手に動いて一番高いピザを選んでいた。

「先輩は、どうして大学の寮には入らずに一人暮らしをされているのですか?」

 風戸爽がピザを注文している間、渚小鳥はちょこんと正座したまま物珍しそうに室内を見渡した。その目は端に追いやられたちゃぶ台の上に風邪薬と桃色のラッピング袋を見つけて暗くなった。中に無骨な形のクッキーが入っていたからだろう。

「昨日の夜、母親が来たんだ」

 わたしはおかしな想像をされる前に、布団の中からもごもご言った。

「来なくていいと言ったんだが、妹が作った菓子と一緒に薬や夕飯なんかを持ってきてくれた。妹は中学受験を控えているから、風邪を移さないように接近禁止令を出したんだ」

「中学受験…ということは、妹さんはまだ十二歳なのですか」

 渚小鳥はラッピング袋に付随ふずいしたハート型のカードを注視した。

「ご兄弟がいることも初耳ですが、それだけ年が離れているとかわいくて仕方がないのでは? わたしにも兄がいますが、こんなに押しの強いメッセージカードは選んだことがありません」

「小さい頃から、なにかと世話を焼いてやったせいだろう。なつかれているとは思うが、義父からはよく思われていない。妹とは半分しか血が繋がっていないんだ」

「あぁ、それで…」渚小鳥は事情をくみ取ったように言葉を控えた。

「それで、それで? 近頃はどんな不思議な目に遭ったって?」

 沈みかけた空気を吹き飛ばすように、通話を終えた財布係が会話に加わった。

「こんなに酷い風邪を引いたからには、それなりに理由があるんじゃないかと思ってね。昔からよく言うじゃないか。うま鹿しかは風邪引かないって」こいつ…。

「そういえば、佐倉先生からお借りした傘はどうされたのですか?」

 ふいに渚小鳥が話の矛先ほこさきを変えた。「玄関先に見当たらなかったので、どうしたのかと思いまして。実は先生から、お見舞いがてら言伝ことづけを頼まれたのです。貸した傘は安物なので、よければそのまま持っていて下さい、とのことです。よかったですね」

「いや、そうでもない」

「なんだ、またあの人から厄をもらったのかい?」

 風戸爽は期待に目を輝かせた。他人の不幸を嬉々と加味する馬と鹿に腹は立つものの、ピザの代金を払ってもらうまでは追い出せない。

 わたしは捨て鉢に返した。「傘は、タヌキに貸した」

「……は?」


 時をさかのぼること、三日前のことである。

 試験も終わり、快く金策に精を出せると安堵あんどした金曜日の午後。まずは家に帰ってしかばねのごとく眠ろうと決意したそばから、佐倉氏に研究室の片付けを手伝ってほしいと泣きつかれた。入学試験やら学年末試験やらの準備に追われた氏の研究室は、溜まりに溜まった不満が具現化したような有様で、精も恨も尽きかけたわたしが生贄いけにえに選ばれたのも、彼が手伝いを頼もうと思ったそばから研究生たちが蜘蛛くもの子を散らすように消え失せ、捕獲できるのが衰弱したわたし以外にいなかったからである。よぼよぼの男二人で作業がはかどるわけもなく、片付けがひと段落着いた頃にはしっかり雨が降っていた。

 晩秋から冬にかけて降る雨のことを、主に時雨しぐれと呼ぶ。他にも氷雨ひさめやさざんか散らしといった寒々しい情景を匂わせるものもあれば、大晦日おおみそかに降る雨のことを鬼洗いと呼んだりもする。季語でもある時雨は一時的に降ってはやむ曖昧あいまいな雨模様をさす言葉で、語源は諸説あると佐倉氏は窓を見ながら言った。

「時雨は一時的に降ることから、しばし暮れるとか、すぐにぐるといった言葉が転じたものと考えられているんですけど、古語の観点から見ると涙を表す言葉でもあるんです。和歌では悲恋や別れをうたったものに多く見られますが、じうと読み方を変えると、人を善へ導く時宜じきにかなった時に降る雨、という比喩ひゆもあるそうなんです。なにが言いたいかというとですね、きみに恩を売るのに今が最適なタイミングということです」

 そんな経緯もあり、わたしは氏から置き傘を借りて大学を出ることになったのである。

 お互い疲労していたせいか、千吉良ちぎら家に絶賛売り出し中であるはずの佐倉氏は、それこそ時雨に降られたようなわびしさを漂わせていた。鈴音さんとの関係に進展が見られないのか、あるいは生まれて初めて失恋を味わったという可能性もある。というのも、あれほどキューピット役を所望していた氏からのオファーがぴたりと絶えていたからだ。

 わたしが最後に鈴音さんと接点を持ったのも、佐倉氏に誘われるまま渚小鳥を伴い、年始の挨拶に千吉良家を訪ねた時が最後だった。そこでN神社で起きた奇跡と木精にまつわる出来事を語ると、鈴音さんは語り手としての使命に一層執念を燃やし、挿絵さしえ製作の進捗しんちょく状況なども見せてくれた。佐倉氏も年明け早々に想い人と同じ空気を吸えた喜びに浸っていたようだったし、最近になって気落ちしているように見えるのは、やはり多忙による疲労が原因なのだろうか。

 そんなことを考えながら、例の緑道りょくどうに差しかかった時だった。うなるような突風に当てられ、借りた傘がわたしの手を離れて山の奥へ飛んでいってしまった。

 まずい。わたしは冷たい雨に打たれながらあとを追った。傘は佐倉氏の厄が染みついているとしか思えない動きで風に飛ばされ、いつしか竹林が広がる一角に来ていた。

 そこは山肌に沿って茶畑が広がる、見晴らしのいい場所だった。風車かざぐるまを模した風力発電機がちらほら点在し、緑道をそれて畑のあぜみちを進んでいけば、細い山道を挟んで手つかずの竹林にぶつかる。開けた場所から山に分け入ったわたしは、暗がりをものともせず傘がかぶさっている茂みに近付いた。

 そこで、なにかが動いた。「ひっ、お助けを」

 がさりと音を立てて、にわかに茂みが動いた。かそけし声につられて下をのぞき込んでみると、灰色の毛にくるまれた動物と目が合った。その一帯は緑道を根城ねじろとする野良猫が多く生息しているので、最初はすぐにそれだと気付けなかった。

 野生のタヌキである。「どうか見逃して下さい。お腹に子供がいるんです…!」

 頭の中でこだました声に、開いた口が塞がらなかった。

 疲労から来る幻聴か。それとも雨音を聞き違えたのか。タヌキは時雨に濡れた体を震わせ、くりりとつぶらな瞳を濡らしていた。冬ともあり食べ物にありつけないのだろう。おとぎ話と違って体はやせ細り、腹だけが膨らんでいる。わたしの手は上着のポケットに常備している猫のおやつを取り出していた。

「だ、大丈夫だ。なにもしない」

 動揺が隠せないまま、わたしは包みを開けて中身を手のひらに開けた。かりっと焼けた魚の匂いに気付いたのか、タヌキはひくひく鼻を動かしているものの、警戒心が勝って動けずにいるようだった。猫に話しかけるように説明してやりながら毒見に一粒食べてみせると、意思が通じたのか、タヌキは差し出されたものをおそるおそる口にした。

 草木も虫も、そして動物たちでさえ声を持つということを、今の時代の人間たちは忘れてしまっておる――― がつがつ食べ物をむさぼる姿を眺める心中では、N神社で聞いた話が重くのしかかっていた。

 タヌキは犬の仲間で、昆虫も食す雑食性である。わたしはコンビニで買った賞味期限すれすれのバナナも分けてやり、呪われた傘を屋根代わりに残してその場を立ち去った。


「…と、いうわけだ」

 呆ける二人の前で、わたしは届いたばかりのピザにがぶりついた。

 傘はもとより、あのタヌキがどうなったのかは、その夜のうちに風邪をこじらせたので確認できていない。日本昔話みたいな実話を語り終えると、渚小鳥は動物の言葉を解したことに衝撃を受けたのか、タヌキのようにつぶらな瞳をふるふる揺らして言った。

「先輩…まさか、本当ににゃんこのおやつを食べたのですか?」そっちか。

「人間からほんのり遠ざかる味がした、とだけ言っておこう」

 熱々の素晴らしい味わいをみしめ、わたしは脇目も振らず二切れ目に手を伸ばした。腕を組んで傾聴けいちょうしていた風戸爽は、ご馳走には目もくれずに携帯電話を操作すると、ウェブサイトから引っ張ってきた情報を口にした。

「今の話が事実だとすれば、きみが遭遇したのはホンドタヌキで間違いないんじゃないかな。出産時期は三月中旬で、四匹から六匹の子を産むそうだ。子連れで恩返しに来たら、是非写真を撮っておいてくれたまえ」

「別に、信じてもらおうとは思っていません。むしろ、口外しないで下さい」

「わたしは信じます!」

 ぴしゃりと冷評をはねのける横で、渚小鳥が熱く気炎を吐いた。「我が子を思う母の愛に種族の垣根などありません。鳥獣人物戯画ちょうじゅうじんぶつぎがしかり、『日本霊異記にほんれいいき』や『宇治拾遺物語うじしゅういものがたり』にも、狐狸こりや鳥獣にまつわる話が記載されています。昔の日本人の方が、動物たちにも心があるということを知っていたのではないでしょうか」

 日本霊異記は『日本国現報善悪霊異記にほんこくげんほうぜんあくりょういき 』を短縮した通称で、平安時代初期に書かれた最古の説話集である。仏教における因果応報に基づいた奇譚きたんや怪異などが多く編纂へんさんされており、人に殺された恨みを恨みで返されたキツネの説話が載っているが、狐狸に関して言えば奈良時代の『日本書記』に人を化かすという記載があり、鎌倉時代に書かれた『宇治拾遺物語』にも、仏に化けたタヌキの話やあだを返すキツネの話などが載っている。

「まぁ、人を恨む気持ちぐらいは、当然持ち合わせているだろうね」

 それらを集約するように、風戸爽はサイドメニューの唐揚げをつまみながら手軽く言った。「タヌキは鳥獣保護法によって捕獲や殺傷が禁じられている反面、今でも作物や家屋を荒らす害獣として秋から冬にかけてのみ狩猟鳥獣に指定されているんだよ。どんなに愛らしい見た目でも、人に懐かない生き物は昔から駆除の対象にされてきたんだ。づけがもとで人里を恐れなくなったら、それこそ悲劇じゃないかな」

「どこに行くんです?」

 わたしはおもむろに立ち上がった風戸爽を呼び止めた。

「親父から再三、呼び出しを食らってるんだよ」彼はうんざり顔で携帯電話を掲げた。「早く仕事を覚えろってうるさくてね。こっちはまだ継ぐとも返事してないのにさ」

 家族との通話を聞かれたくないのか、風戸爽は再び席を外した。

「風戸先輩のおうちは、お父様が大変厳しくいらっしゃるそうです。就活なくして大企業に就職できる待遇をやっかむ人もいますが、風戸先輩自身は家族経営に縛りつけられる不遇をよく嘆いています。二律背反アンチノミーというやつでしょうか」

 置き去りにされた渚小鳥は所在なさげにポテトをつまみ、台所に移された妹のクッキーをちらりと流し見た。「でも、憎まれ口を叩けるのは親子仲がいい証拠だと思います。うちは両親ともに厳しくて、兄も進学や留学で忙しくしていたので遊んでもらったことは一度もありません。家族に難があるのは、どこの家も同じじゃないでしょうか」

「うちは父親が問題のある人だったんだ」

 言ってしまってから、自分で驚いた。脳に熱がこもりすぎて、どこかのねじが外れてしまったのだろうか。これまで家の事情を明かしたのは根津さん以外にいなかったし、夢の中で味わった泥臭さがのどの奥で溶けているような思いがこみ上げた。

「義父は、わたしが父と同じ人間になると恐れて心を開かない」わたしは自分の声がそういうのを、ただ聞いていた。「成長するにつれて、写真に見る父と似ていくからだろう。わたし自身、父にはこれといっていい思い出がないし、母が泣かされる姿ばかり見てきたから、余計な苦労をかけさせまいと家を出たんだ」

 わたしははし休めにと、から揚げに手を伸ばした。「さっき、聞いてきただろう。根津さんの下で研鑽けんさんを積んでいるのも、わたしと義父の間で苦心する母親を不憫ふびんに思ったからだ。大学の寮にも一度入ったが、こういう性格だから人間関係にわずらわされることが多くて、結局は義父の援助を受けて一人暮らしを始めた。今でも情けなく思っているよ」

 わたしは自分の口を封じるように唐揚げを頬張った。その横から、か細い指がすっと伸びてきた。

 髪の合間からひたいをなでる感触に驚いて振り向くと、渚小鳥が恐れかしこまった風に居住まいを正してわたしを見つめていた。

「…こ、このいぶし銀な傷にも、なにか由来が?」

 彼女が見ている額のつけ根には、幼少期に刻まれた傷が横一線に入っていた。

 人が寝ている隙に秘密を覗き見たのだろう。わたしは熱のこもった頭を動かす気にもなれず、唐揚げを咀嚼そしゃくしながら手短に返した。「これが離婚の主な原因だ」

 ごくんと口の中のものを飲み下すと同時に、通話を終えた風戸爽が戻ってきた。

 彼女が慌てて指を引っ込めると、秘密も再び前髪の下に隠れた。

「すまないが小鳥くん、急いで帰り支度をしてくれたまえ」壁に掛けたコートを仏頂面でとり、風戸爽はひと悶着あったと言わんばかりに車のキーを取り出した。

「親父がすぐに帰ってこいってきかないんだよ。家まで送るから、残りのピザは誓約書と引き換えにオニ太郎くんに恵んでやりなさい」まるで乞食こじきみたいな扱いである。

「え、でも…!」

 渚小鳥は卓上のピザに意見をうように目を移した。頭の中のはかりに、なにかとなにかを乗せて決めたらしい。

「せっかくですが、わたしはここに残ります。帰り道なら分かりますし、せっかく買ったデザートもまだ食べていないので」

 その決断に、わたしも驚いた。「…デザートがあるのか?」

「色めいてるんじゃないよ」

 手厳しく一喝いっかつし、風戸爽は決めあぐねたようにうなった。

「小鳥くんをとらの巣に置いていくのは忍びないな。衰弱しているとはいえ、オニ太郎くんにはあやまちを犯すにはじゅうぶんな腕力が備わっている。あとあと責任を問われても困るから、廃墟探索に部員たちに携帯させる予定の魔除けを託していくよ。いざという時は心置きなく使いなさい」

「これは?」

 渚小鳥はしっかり傷付いているわたしのそばで、颯爽と手渡された卵型の装置にまゆを寄せた。風戸爽は至って真剣な顔を見せて言う。

「GPS機能搭載とうさいの防犯アラームだ。竹藪たけやぶに連れ込まれる前に鳴らしたまえ」

「とっとと帰れ」

 適当なパンフレットに殴り書きの署名を入れ、わたしは悪意の塊を家から締め出した。

 貴重な体力を使ってしまったことに腹が立ったのだろう。冷めゆくピザのもとに戻ると、「あんな男の車に乗るきみの気が知れない」と怒りが漏れた。

 言ってしまってから、妙な気恥ずかしさに駆られた。今日のわたしは、本当に具合が悪いらしい。

「…あ。先輩は、こんな話をご存じですか?」

 気詰まりな空気を変えたかったのか、渚小鳥は黙々とピザをむさぼるわたしに話を振った。

「第三倉庫付近に出るという、女霊の話です」飯がまずくなる話だった。

 彼女が頼んでもいないのに始めた怪談話の主役は、英文学科の専任講師である真宮女史だった。彼女はある日の午後、急用を抱えた吉見よしみ教授から行方をくらました佐倉氏の捜索を頼まれ、第三倉庫のある地下二階へと降り立った。人伝ひとづてに尋ね回った挙句あげく、ある学生とただならぬ雰囲気で倉庫へ向かったとの目撃情報を掴んだ為だ。

 真宮女史は、ものを教える立場の人間として間違いが起きては困ると歩を速めた。しかし最奥の倉庫へ伸びる通路を進む途中、ふいに奇怪な現象に見舞われた。倉庫まであと少しというところで照明が明滅し、行く手を阻むように落ちてしまったのだ。それこそただならぬ雰囲気が漂い始めると、明かりと闇の狭間はざまに立っていた真宮女史は、闇の奥にぼうっと白い面のような顔があるのを見つけた。それは座高低く浮かび上がり、女の声でつらつらと祝詞のりとを読み上げたという。

「――― 祝詞?」

 わたしはたまらず口を挟んだ。祝詞は主に、神事の際に神職者が神に献上けんじょうする言葉を指すはずだ。

「なんで神に捧げる言葉を闇の中で唱えるんだ?」

「そう聞かれても困ります。これは真宮先生の体験談ですから」渚小鳥は食べかけのピザを手に逡巡しゅんじゅんした。「もしかすると、古い言葉であった為にそう聞こえたのかもしれません。真宮先生のお話では、能や狂言きょうげんを連想させる独特なイントネーションだったそうなんです。女の霊も頼みごとをするようにお辞儀じぎをすると、明かりが復活するのに合わせて姿を消したそうです。それ以降の目撃談は今現在、上がってきていません」

 能、か…。「手掛かりが少ないな。なにか聞き取れた言葉はないのか?」

「それが意外と短かったそうなんです。なんでも、かつらを人に知られてどうとか…」

 かつら?「…随分とユニークな霊だな」

 予想を覆すオチに、思わず笑みが漏れた。それを見た渚小鳥は、春の木漏れ日を前にしたように目をしばたいた。

「初めて見ました、先輩が笑ったところ。いつも仏頂面をされているので、すごく新鮮です。普段から、もっと笑ったらいいのに」

「口が大きいのがコンプレックスなんだ」

 またしても不思議な力が働き、わたしは口元をさすりながら打ち開けた。「笑うと、それが気持ち悪いぐらい顕著けんちょに出る。子供の頃は、それが元で口裂け男と呼ばれてよくからかわれた。鬼も笑顔というが、世の中には笑顔が似合わない人間もいるんだ」

「わたしはそうは思いません!」

 勢いよく否定してから、渚小鳥ははっと我に返ったようにしどろもどろにつくろった。

「その、先輩は自己評価が低すぎると思います。風戸先輩は厳しいことをおっしゃっていましたが、粘土ねんどマンの一件しかり、恵まれないタヌキに親切にできる人なんて、そうそういません。お母さまの幸せを第一に考えて家を出たことも、性懲りもなく佐倉先生を手伝ってあげちゃうところも、どどんと胸を張って生きていくにはじゅうぶんすぎるぐらいの美点です。それに、見てくれが悪いと思っているのは先輩だけです」

 呆気に取られているわたしに、渚小鳥は驚くべきことを打ち明けた。「さっきの怪談話も、真宮先生があらぬ妄想を抱かなければ起こらなかったことなんです。第三倉庫から佐倉先生と出てきたのは、羊の群れから逃げ遅れた先輩だったんですから」

 ん?「どういうことだ」

「だから」渚小鳥はもどかしそうにほおを染めた。「真宮先生は先輩の容姿から判断して、構内に出回っている噂を信じたんです。その、佐倉先生と先輩が付き合っていると…」

 雪解けたばかりの笑みが瞬時に凍りついた。

 一体全体、誰がそんな悪意をこねくり回したような噂をでっち上げたのだ。しかし言われてみれば、色事いろごとから惑星二つ分もかけ離れた生活を送っているばかりに、気付けば氏と行動をともにすることが多くなっていたことに気付かされた。

  彼女も精神世界に迷い込んだわたしを崖から突き落とす勢いで判を押した。

「それぐらい、お二人が仲むつまじく見えるということです。その時も、お二人が黒い桐箱をコソコソしながら運んでいたと聞きました。ですので、わたしの方でしっかり訂正しておきました。先輩は単に人がいいだけだと…ですよね?」何故、聞く。

 黒い桐箱が話題にのぼったということは、だいぶ前の目撃談であるらしい。訂正を重ねても噂そのものを消せるわけではないので怒りは増すばかりだった。見かねた彼女が佐倉氏より預かった見舞金で買ったというケーキを和解に持ち出しので、ひとまず思いの丈を甘味にぶつけることにした。冷蔵庫にしまわれていた化粧箱が持ち出されると、色めき立ったハートはお披露目ひろめされたチョコレートケーキを前に再び凍りついた。

 なにかの罠かとおびえるわたしに、渚小鳥は罪のないような顔をして聞いた。

「あれ。もしかして、チョコレートケーキお嫌いですか?」

「…いや、大好きだ」

 疑心が拭えないまま、わたしは複雑怪奇な妙味を味わった。

 結論から言えば、ケーキは乏しい味覚を遥かにしのぐおいしさだった。しかし、布団が敷いてある密室にいつまも彼女を置いておくのは不健全なので、風邪を移す前にと断って退室願った。駅まで見送れなくてすまないと咳き込むわたしに、渚小鳥は玄関先でまわしい防犯アラームを掲げて身の安全を約束してくれた。

 ようやく一人の時間を取り戻すと、久々のご馳走にありつけたお陰か、あるいは闖入者ちんにゅうしゃたちの対応に追われたせいか急な眠気に襲われた。洗面所でしゃこしゃこ歯を磨きながら、そういえば彼女は佐倉氏の厄に当てられなかったのだろうか、などと考えにふけり、布団を敷き直しながら彼女の言った言葉の一つ一つを心の中で反芻はんすうしたりした。

 これはタヌキに一服盛られたな。ぼうっとする頭で枕元に並んだパンフレットの一つを手に取った矢先、ページの隙間からはらりと雑紙が抜け落ちた。

 青い小鳥が描かれたメモ用紙である。手に取ると、渚小鳥の筆跡で連綿と英文がつづられていた。一見詩のようだが、わたしに読み取れた言葉は多くなかった。


 なんとかのきれいなThe beautiful and gnarled fingers。なんとかと紳士なネズミ《The thick and gentle mouth》。なんとかの目玉と髪の毛 《The lonely eyes hidden in the hair》…。


 さっぱり読めん。

 わたしは早々にメモ用紙をちゃぶ台に放った。おそらく、今夜食べる鍋の材料かなにかだろう。黒魔術に加担したと思われては困るので見なかったことにし、わたしは使い込んだ布団に潜ってすやすやと夢の世界へ旅立った。

 しかし、そこでまたしても奇妙なものを見る羽目になった。


 始めに見えたのは、絹を垂らした几帳きちょうと薄い御簾みすで仕切られた小さな部屋だった。

 そこは壁も障子しょうじもない開けっ広げた屋敷の一角だった。わずか四畳ほどの狭い部屋に、十二ひとえをまとった女性が身を投げ出すように古式畳こしきだたみの上に座っている。古典美こてんびを備えたうりざね顔と背中に流れる黒髪は教科書で見る平安貴族そのものだが、御簾みす越しに入る陽光をもってしても思い詰めたようにうつむく横顔しか確認できない。

 沈痛な静寂を介して離れた場所に座っていた若い侍女じじょは、なでしこ色の大人しい唐衣からぎぬを羽織っていた。彼女はやおら席を離れると御簾で仕切られた隣室に楚々そそと回り、そこに控えていた〈わたし〉という設定の男に事情を説明し始めた。

 内容は、こうである。

 彼女は良家の娘として出仕しゅっしし、主に世話役として姫君に仕えている。しかし、仙姿玉質せんしぎょくしつと名高いあるじねたみ、よからぬくわだてを持つ者が御殿に紛れ込んでいるとの噂を耳にした。というのも、姫君には佳人才子かじんさいしに見合う想い人がおり、宮仕えの女房たちの中には容姿端麗な男に懸想けそうする者も少なくなく、陰湿な嫌がらせを受けることが多々あるということだった。そんな折、世話役の彼女は裏鬼門に当たる小部屋で妙な女を見たと言った。きれいな羽織り物を身に着け、風体も他の女房たちと遜色そんしょくないが、どこの誰であったか覚えがない上に、顔だけがめんのように精彩せいさいを欠いている。勇をして「誰そ」と尋ねれば、女は座り込んだまま、うそ寒い声でつらつら歌をみ上げた。


 なにしおはば、あふさかやまのさねかづら、ひとにしられで、くるよしもがな。


 最後の一息を吐きながら女が平伏へいふくすると、その姿は薄闇に溶けて消えていった。

 あれは間違いなくあやかしものです、と彼女は訴えた。時同じくして、姫君の夢に夜な夜な不気味な女が現れるようになったからだ。それはぶつぶつと呪詛じゅそを呟き、想い人を手放さねば鬼を仕掛けると脅してくる。しかし不思議なことに、朝目が覚めると女の顔だけが思い出せず、想い人が訪ねてきた日に限って現れないというものだった。

 いよいよ鬼のづる季節が近付いてまいりました、と彼女は鬼胎きたいあらわにした。上巳じょうしの祓いまで安泰あんたいにすごせる当てがない以上、あやかしの正体を暴いてほしいと〈わたし〉に懇願する。御簾みす越しに姫君を一瞥いちべつすると、やんごとない生まれであるがゆえ、口数の少ないところもまた奥ゆかしく感じられた。しとやかな影に見惚れる〈わたし〉に、侍女はつぶらな瞳を怒らせてぴしゃりとひざを打った。

 なにを隠そう、術師でもない平民の〈わたし〉が頼りにされたのは、誰よりも気心知れた彼女の幼馴染おさななじみだったからである。

 彼女はここで手柄を立てれば立身ものぞめるとさとし、幼少より〝まがつ者〟を引き寄せてしまう〈わたし〉ならば、あやかしものの姿もとらえられましょう、と力強く鼓舞こぶした。

 深く見据える瞳の奥に見知った顔がよぎった直後、わたしは胸のざわつきに叩き起こされる形で目を覚ました。

 またおかしな夢を見た。のそりと上体を起こして室内を見渡すと、陰る部屋の窓の向こうは日が傾いていた。ぼうっと意識をたぐり寄せながらも、あまりに鮮明な夢の情景に心はかき乱されていた。

 まるで、わたしの手近にいる人物を配して作った寸劇のようだった。おそらく、眠る前に聞いたひな祭り企画や怪談話が色を添えたのだろう。

 しかし、あの和歌は…。

 夢の記憶が薄れてしまう前に、わたしは携帯電話を手に取って聞きかじったキーワードを検索エンジンにかけた。出てきたのは、小倉百人一首に編纂へんさんされた三条右大臣さんじょうのうだいじんなる人物の和歌だった。名を藤原定方さだかたといい、貴族として政治に携わる傍ら、平安時代前期から中期にかけて活躍した歌人とある。その彼の代表作が、あの和歌だった。


 名にしはば、逢坂山あふさかやまのさねかづら、人に知られで、くるよしもがな。


 間違いない、これだ。わたしは夢と現実の一致に目を見張った。

 この歌は定方が許されざる恋に落ちた際につづったもので、実葛さねかずらのツタをたぐって想い人を連れ出したい、という意味があるのだという。わたしの記憶が正しければ、平安時代は七九四年に平安京へ遷都へんとしてから、壇ノ浦の戦いで平家が滅びたことを機に一一八五年で幕を閉じる。その後、定方の優れた歌を百人一首に選出したのが、のちの鎌倉時代で同じく歌人として活躍した藤原定家さだいえだった。

 彼の名を目にした時、かずらと聞いて思い浮かんだものがあった。

 能楽の三番目物に当たる『定家』である。

 能楽の曲目は主人公シテ演じる役柄により「しんなんにょきょう」の五番立てで構成され、三番目物の〈女〉は主人公が亡霊という設定で、幽玄な恋がらみの苦悩をテーマにした作品が多い。

 『定家』もその一つで、初冬の時雨しぐれに打たれた旅人の僧が、偶然にも歌人で知られる藤原定家が暮らした〈時雨のちん〉に雨宿りすることになり、そこに現れた〝定家葛ていかかずら〟を名乗る女性がツタに覆われた石塔へ案内するところから物語が動く。

 この演目では定家本人は登場せず、女性は彼と紡いだ恋物語をひとしきり語ると、自分こそが定家を射止めた相手であり、石塔に眠る式子内親王しょくしないしんのうその人だと明かす。石塔に絡みつく蔦葛つたかずらは、死後も彼女を思う定家の妄執もうしゅうが形に現れたもので、僧が慰めに彼女を供養しても、一度は緩んだ蔦葛が再び石塔を覆い隠してしまう、というオチである。 

 古き時代から、音もなく忍び寄っては触手を伸ばすかずらのツタは、想い人の心を巻き取りたいと望む人の欲が重なって見えたのだろう。侍女が〈わたし〉に向けたねちねちと絡むように怒り燃える瞳も、式子内親王の死後も固執する定家を思わせるすごみがあった。恋煩(こいわず)いとは、かくも人心を惑わす諸刃もろはつるぎである。

 わたしは布団の上で固く腕を組み、奇妙な一致に頭を悩ませた。

 ――― なんでも、かつらを人に知られてどうとか…。

 真宮女史が遭遇したものと夢の情景が重なるのは、一体どういうわけなのだろう。

 奇しくも三番目物の〈女〉は、主人公シテ演じる男性が女物のかつらをつけることから、〝鬘物かずらもの〟とも呼ばれる。熱が上がるに任せて足りないピースを模索していると、玄関先からカチャカチャと不審な物音が届いた。なにやつ、と身を乗り出せば、息をらしたように開いた玄関扉から、盗人猛々ぬすっとたけだけしい顔がひょっこりのぞいた。

 渚小鳥である。「なにしてる」

 死角に潜んで待ち伏せると、行儀よく玄関先で靴を脱いでいた彼女は、しっぽを踏まれた猫のように飛びのいた。その手から、かしゃんと音を立てて傘が転げ落ちた。

 タヌキの雨宿りに使った、あの呪われし傘である。

「タヌキを探しにいったら竹林の中にこれがあったので、お届けに」

 渚小鳥は神妙に居住まいを正し、おどおどと瞳を揺らした。どれだけ暇を持て余しているのか、彼女はアパートを去ったその足で竹林へ向かい、母タヌキを探し回っていたと言った。施錠したはずのドアをどうやって開けたのかと問うと、後ろめたそうに顔を背けて見覚えのあるピッキング道具を取り出した。

「普通に入ってこれんのか」わたしは手厳しく一喝した。一子相伝《いっしそうでんと思われた悪癖を普及させるとは、このサークルにはいささか問題がある。

「実は、こちらに忘れ物をしたかもしれないのです」

 渚小鳥は観念したように縮こまった。「その、思いつきでつづったものなのですが、書いている途中で佐倉先生に声を掛けられ、とっさにパンフレットの中に隠したことを思い出したのです。お手狭てぜまでなければ、捜索に取りかかってもよろしいでしょうか」

 なるほど、彼女もしっかり厄に当てられていたらしい。目も合わせられぬほど動揺しているということは、よほどの重要事項なのだろう。「これのことか?」と闇鍋の材料がつづられたメモ用紙を掲げると、目にも止まらぬ速さでかっさらわれた。

「…よ、読んだのですか?」

 蚊の鳴くような声を押し出し、渚小鳥は今にも泣き出しそうな目をしてわたしを見ていた。実を言えば英語はからきし苦手だが、ここで阿呆と思われては先輩として立つ瀬がないので、「あぁ…まぁ」といらぬ見栄を張った。

 それがよくなかった。

「こ、こっ…!」彼女は顔から火を噴く勢いで赤らんだ。「この、ぽんつくがっ!」

 ぽんつく?

 渚小鳥は謎のメモを手に、わっと家を飛び出した。一体なにが書かれていたのか、キツネにつままれたように放心する頭の中では、タヌキが小気味よく腹鼓はらづつみを打っていた。

「…さっぱり分からん」わたしは首をひねり、布団に潜って速やかに寝入った。

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