第9話 『 蛇蠍 』

 人は、どのようにして狂っていくのだろう。

 能楽のうがく演目の一つに、父親のあだ討ちに命をした『夜討曽我ようちそが 』というのがある。臥薪嘗胆がしんしょうたんする兄弟の孝行ぶりと従者の忠義を描いた作品で、四番目物の〈きょう〉では心を乱した人物たちが執念を燃やす危うさが見どころとされている。

 心を鬼にする根底には、なにものにも代えがたい愛情があるのだろう。わたしの目に映るその人もまた、鬼人さえも押しのく意志と憤怒ふんぬによって突き動かされていた。

 わたしがそのような姿を見るのは、おそらく最初で最後だった。佐倉氏は掛け軸に描かれていた鬼法師おにほうしのごとく掌底しょうていを突き出すと、見開かれた瞳の奥に美しいまでの狂気をたぎらせてこぶしを打ち放った。彼の怒りは正確無比な軌道を描いて気骨をくじき、顔の骨さえうち砕いて相手を卒倒させた。

 何故、こんなことになったのだろう。すっかり血の気を失っていた鈴音さんは、なにかにかれたように豹変ひょうへんした氏の姿を初めて見る人のように見つめていた。絨毯じゅうたんに飛び散った血痕を辿る頭の中では、舞台の配役を振るように話を持ち掛けてきた佐倉氏が、平素と変わらぬ笑みをわたしに向けていた。


 五日前のことである。「――― カメラ係、ですか?」

 タヌキ風邪もすっかり癒えた二月九日。わたしは文化史学科の授業終了後に、氏から例の噂を如実にょじつにせんとするように呼び止められた。S大学では数日にわたる入学試験を終え、わたしが所属する民俗学ゼミは十日後に控えた福祉プロジェクトの準備に追われていた。

 佐倉氏が受け持つゼミナールでは、主に宗教文化や民俗信仰を題材にした研究が行われている。歴史に見る神々の痕跡や科学では説明できない神秘的事象の解明、あるいは文献の読解といった調査がメインで、これらの研究結果を地域の子供たちに伝えるべく、小学校の社会科授業で特別に講義を受け持つことになっていた。

 そんな折、私的な理由から火急かきゅうの案件を持ち掛けてきた佐倉氏は、どこか清々しささえ感じさせる意気込みを見せてわたしを口説きにかかっていた。

「実は今度のバレンタインデーに合わせて、鈴音さんの高校から同窓会のオファーが届いているんですよ。普通はキリよく十年単位で開かれたりするものなんですけど、幹事役の方が長らく重病をわずらっていたとのことで、全快祝いも込めて開催することになったそうなんです。でもここだけの話、鈴音さんは諸事情から高校を中退されていて、同級生に会いたくないと塞ぎ込んでいるみたいなんです。善行よしゆきさんとしては彼女が少しでも前に進めるように尽力したいということで、家族ぐるみで付き合いのあるぼくに白羽の矢を立ててくれたんです。というのも、事情を知っている幹事役の方が気を遣ってくれたみたいで、案内状には鈴音さんが参加しやすいように同伴者を認める趣旨しゅしが書き添えてあったんですよ。その日はちょうど日曜日で予定も空いていたので、ぼくの方で勝手に返信ハガキに参加表明と名前を書いて送っちゃったんです。鈴音さんには危うく絶縁されそうになりましたけど、なんとか説得して事なきを得ました」すごい人だな。

 個人的な事情はさておき、たかだか同窓会にそこまで尽力する理由が、その時のわたしにはまるで見えなかった。しかし見目麗みめうるわしい彼を財布代わりに携帯すれば、間違いなく鼻高々であろう。わたしには鈴音さんがそこまで渋る理由も分からなかった。

「でもそれだけだと盛り上がりに欠けるなと思ったので、カメラマンとビデオ係も同伴していいか幹事の方に許可をもらったんです」と、佐倉氏は意外な方向に話を運んだ。

「そこで是非とも、きみとなぎさくんにその役を引き受けてもらえたらと思って声を掛けました。鈴音さんも気心の知れた二人が一緒なら心強いでしょうし、同窓会で使われる会場というのが、ホテルのレストランを貸し切ったビュッフェスタイルらしいんですよ。参加費と交通費はぼくの方で持つので、普段、学業とアルバイトに精を出している分、たまには羽を伸ばすつもりでおいしい料理を食べに来ませんか?」

 ぐうの音も出ないほど完璧なプレゼンテーションだった。

 わたしは固く腕を組んで逡巡しゅんじゅんした。考えるまでもなく、〈つくも堂〉で根津さんの奴隷を一日こなすよりは、人生に一度あるかないかのリッチな食事を堪能たんのうする方がいいに決まっている。しかし、禍福かふくはあざなえる縄のごとしと言う。こうも都合よくお膳立てをされると、その先に待ち受けている災禍さいかの中身が気になって仕方がなかった。

 わたしは英断した。「ありがたい申し出ですが、その日もバイト…」

「そこのスイーツビュッフェはすごく人気で、なかなか予約の取れない破格のおいしさだそうですよ」悲しいかな、彼はわたしの釣り方をしかと心得ている。

 鈴音さん絡みの案件とあって身代わりを立てるわけにもいかず、結局はいつものように無人島に置き去りにされた仔犬の目をされて頼みごとを引き受ける羽目になった。適当に写真を撮るだけなら社交性を問われることもないだろうし、断じて行えば鬼神もこれくというからには、厄介事はさくっと済ませてしまうに限る。

 それに、氏にはもう一つもくろみがあるようだった。

「渚くんには、きみの方から頼んでみてもらえませんか。近頃めっきりゼミに出席してくれなくなったので、少し心配しているんです。立場上、ぼくよりはきみの方が彼女も心を開くでしょうから、それとなく事情を探ってきてもらえませんか?」

 とどのつまり、彼女もやくをもらってまで教養を深めたいとは思わなくなったのだろう。

 次の講義まで時間が空いていたので、わたしは秘密結社たちがたむろす巣窟そうくつへ足を運んだ。渚小鳥は民俗学の創始者たる柳田やなぎだ國男くにお氏を崇拝する姿勢が買われて聴講生ちょうこうせいになったと聞いたが、ゼミ生に混じって熱心に受講していた彼女がぱたりと来なくなった背景には、少なからずあの謎のメモが関与しているとわたしは踏んでいた。

 あのぽんつく発言からほどなく学業に復帰したわたしは、ゼミの研究室のみならず、図書館や食堂、怪民倶楽部くらぶが沸いて現れる裏庭の池にも彼女の姿がないことに気が付いた。調べてみると、〈ぽんつく〉はタヌキのように抜けているが憎めない人という意味合いで、主にぼんくらや間抜けといったののしり言葉として使われる方言だと分かった。

 ともすれば避けられている可能性もあり、構内を移動中に一度だけ彼女の姿を遠巻きに認めたことがあったものの、面と向かって阿呆と非難されたからには声を掛ける気力もなく、いささか気まずい思いを抱えて数日をすごしていたのである。

 佐倉氏がわたしに使いを頼んだのも、そうした事情をんでのことだろう。怪民倶楽部は裏庭にもっとも近い別館の一室をあてががわれ、書道部に書いてもらったいかめしい一枚板の看板を高々と掲げていた。からりと戸を開ければ、宿場町しゅくばまちを思わせる長暖簾ながのれんに体をかすめ取られ、大きなタヌキの置き物にびくりと驚かされる。室内を要塞のごとく取り囲むスチール棚には、日焼けした文献や資料に混じって達磨だるまやキツネ面が飾られ、神棚には七福神に混じってアマビエやばくの置き物が飾られていたりする。

 ここに足を踏み入れたのは、夢の中で初めて阿久津と会った時以来のことだった。入室してすぐ暇を持て余していた信者たちにウェルカムドリンクを出されそうになったが、目的の人物がいなかったので無慈悲むじひに断り、彼女の居場所を聞き出すなり逃げ出した。

 本来であれば、手っ取り早く携帯電話を使って直接やり取りをするのだが、それだとあまりに事務的になってしまうし、佐倉氏の依頼を断られてしまう確率がぐんと上がってしまうので、これを機にきちんと彼女と顔を突き合わせるべきだと感じていた。

 わたしはさらに別館へ移動し、こじゃれたカフェラウンジに向かった。観葉植物やモダンな内装が売りの室内を一望すると、窓際の席に大振りな花飾りをつけた後ろ姿を発見した。一番安いコーヒーを買って近付いていけば、卓上に広げられた参考書に混じって、妖怪を模した文房具やら装飾品の数々が目に飛び込んできた。口を開かねば愛らしい容姿に飛びつくやからも多いだろうに、甘ったるいロマンス小説のしおりに角大師つのだいしの護符を用いるところからして残念である。

「どうして先生のゼミに来ないんだ?」

 わたしはなにも見なかったふりをして彼女の対面に腰かけた。予期せぬ登場にきもを抜かれたのか、渚小鳥は慌ててロマンス小説を隠すと激しく瞳を揺らした。挙句、「近頃、お腹の調子が悪くて…」と子供みたいな嘘をついた。わたしも人のことを言えた義理ではないので、どう返したものかといきなり会話につまずいてしまった。

 彼女はずる休みをとがめられた子供のようにふくれっつらをしていた。この空気でメモの内容に触れるのは得策ではないと判断し、ひとまず佐倉氏が持ち掛けてきた案件から話すことにした。彼が心配しているむねを伝えると、彼女は自責の念にとらわれるどころか、一転して傷付いた表情を見せた。

「どうして、わたしじゃないと駄目なんですか?」

「え?」

 思わぬ反駁はんばくに言葉を詰まらせると、渚小鳥は珍しく口を尖らせた。

「別に鈴音さんの顔見知りじゃなくたって、動画を撮るぐらいなら今時の幼稚園児だってできます。先輩こそ、どうしてそこまでして先生や鈴音さんの肩を持つんですか? 嫌だったら断るとか、他の人を紹介するとかすればいいじゃないですか」

 突如として反抗期に入った娘を前に、わたしはなす術なく呆気に取られた。そこへ追い打ちをかけるように、うつむく彼女から当てつけとも取れるため息が聞こえた。

 どことなく悄然しょうぜんとして見える。「…なにか悩みがあるなら聞くが」

 反応を見るべく無難な言葉を放ると、渚小鳥はおずおずと目を上げてわたしを見やった。二人の間に横たわる疑心暗鬼な沈黙が、今日に限ってチクチクと胸に突き刺さる。

 希薄な関係とはいえ、彼女とは一年近い付き合いがある。腹を探り合ってもらちが明かないと踏んだのか、「…今から話すのは、わたしの友人の話なのですが」と死地へおもむく病人のようなテンションで切り出された。

「実は、前々から恋愛相談を持ち掛けられているのです」彼女はそう言ってわたしを驚かせた。「でも、わたしにはそういった経験というか興味すらないので、返答に困って眠れぬ日々をすごすうちに、先生のゼミに参加できないほど疲れてしまったのです」

 なるほど、それで虫の居所が悪そうに見えるのか…。

 ふんふん、と腕を組んで聞き入るわたしに、渚小鳥は陰った瞳を伏せながら続けた。

「なんでも、その相手というのがとんでもなく女心の分からないれ者で、心が読めない上に口下手で、色仕掛けはおろか危険な吊り橋を一緒に渡っても動じないし、孤高のオーラをこれ見よがしに放っているせいで話しかけづらいそうなんです」

秘境ひきょうに住む仙人でも見つけてきたのか」

 わたしはたまらず口を挟んだ。これにむっとしたのか、渚小鳥は恨めしそうに目を上げた。「妖怪のことならまだしも、男の人の気持ちなんて分かりません。その人は滅多に自分のことを話さないし、隠れた優しさで女心をくすぐっておきながら、愚かにも美人に目がないそうなんです」

「それが世の常だ…」

 わたしはしみじみとあいづちを打った。美醜びしゅうを天秤にかける前に醜悪しゅうあくを選び取るのは、よほどの心眼の持ち主か味覚音痴の鬼ぐらいである。

 そう考えた時、電光一閃でんこういっせんのひらめきが突如として脳内を駆け抜けた。

 心が読めない。色仕掛けも効かない。優しさで心をくすぐる。美人に目がない…。

 頭上にモコモコと噴き出した綿雲には、罪もない笑顔で女性たちをとりこにする佐倉氏が描かれていた。そう、この友人談はほかの誰でもない、渚小鳥本人の悩みなのだ。

 気付いた瞬間、みぞおちにメラメラと黒い私怨しえんが燃え盛った。思い返せば氏の研究室に入った時から、まるでわたしが専属の執事であるかのようなていで、数え切れないほど多くの女性たちから彼にまつわる質問を浴びせかけられてきた。

 好きな女性のタイプ、休日のすごし方、趣味嗜好しゅみしこうに収入、友人の内訳や交際履歴…そこへ来て、今度は口説き落とす方法を教えてくれとほのめかされている。

 わたしは飛ぶ鳥を落とす勢いで言った。「そんな鈍い奴のなにがいいんだ」

 これを聞くと、渚小鳥は数千キロ離れた場所にいる異星人を見つけたような白々しさでわたしをすくめ、「…もう分かりません」と話を打ち切った。

 明らかにがっかりされている。しかし、彼女が意中の人を避けてゼミに来なくなったことは分かった。彼の案件に不快感を示したのも、麗しい鈴音さんに嫉妬してのことなのだろう。「分かった。そういうことなら金輪際こんりんざい、あの人の頼みは聞かなくていい」

 わたしは前髪の奥できりりとまゆを吊り上げた。「きみも自分の分野の勉強で忙しいだろうし、損害しか見込めないボランティアで神経をすり減らす犠牲者は、わたし一人でじゅうぶんだ。でも、うちのゼミには引き続き来るべきだと思う」

 わたしは髪の合間から真っすぐ彼女を見つめた。「教養が深まるのは事実だし、来年度の合宿は柳田國男ゆかりの遠野とおのへ行くそうだ。ちまたには河童かっぱや座敷童があふれていると聞く。きみも生涯に一度ぐらい、川で河童を釣ってみたくないか」

 この売り文句にくすぐられたと見えて、渚小鳥ははにかんだ顔をぷいっとそむけた。

「…う、うちには河童を飼育できるスペースはありません」思ってもみない答えだった。

 なるほど、彼女の中で河童は金魚と同じ分類分けらしい。わたしはにやりと夢想し、妹にするみたく腕を伸ばして彼女の頭をぽんぽん、となでた。

「先生にはわたしから断っておく。きみがまたゼミに来てくれるのを待ってるよ」

 それだけ言って席を離れた。彼女が恋に泣き濡れる姿は見るに忍びないが、佐倉氏が受け持つゼミが唯一の接点である以上、それを欠くことに喪失感を抱いてしまう自分もいるのも事実だった。タヌキに盛られた毒は、思いのほか心をむしばんでいるらしい。

 多忙を理由に佐倉氏に渚小鳥の不参加を伝えると、渦中かちゅうの人は心を痛める様子もなく思案顔しあんがおを浮かべ、「まぁ、なんとかなるでしょう」と含みのある笑みを見せた。わたしは気だるさにも似た嫌悪感と鳴り止まない胸騒ぎに気を重たくしながら数日をすごし、当日は〈つくも堂〉の奴隷仕事を早めに切り上げて待ち合わせ場所へ向かった。


 夕刻六時。同窓会が開かれるホテルに向かう道中は、余すことなくバレンタインデーの飾りつけに毒されていた。この国はいつから恋をしのぶことをやめてしまったのか、路端みちばたでは愛を象った商品が叩き売りされ、道行く人の手にも配布物を収めた紙袋が握られている。ホテルに着くと、正面玄関脇の列柱の影に、これまた配布物と思しき紙袋を携えた乙女の姿をとらえてげんなりした。寒空の下、けなげに想い人を待っているのだろう。ファー付きのロングコートは一見清楚だが、チョコレート色のリボンを垂らした花飾りが目についた瞬間、まさかと足が速まった。

「ここで、なにをしてる?」 

 声を掛けると、渚小鳥はバツが悪そうに縮こまり、携えていた紙袋をぶしつけに突き出してきた。出し抜けの強行に目玉が揺れに揺れたが、心を落ち着かせて紙袋を受け取ると、中に無機質なフルメタルボディを見つけて泣きたくなった。

 怪奇民族倶楽部の文字が入ったハンディカムである。袋の中身を一点に見つめるわたしに、渚小鳥は〝季節限定チョコレートビュッフェ〟と書かれた立て看板を指さした。

「来ようかどうしようか悩んだのですが、どうしてもあれが食べたかったので風戸先輩に頼んで借りてきました。今日はアシスタント役、一緒に頑張りましょう!」

 小さなこぶしを固める姿に、期待と杞憂きゆうが一緒くたに吹き飛んでいった。

 どうやら、悩んでいるように見えたのは、単なる取り越し苦労であったらしい。そこへ来て佐倉氏から遅れるとのメールが届き、わたしはどんよりと気持ちが晴れぬまま、足取り軽やかな食いしん坊を連れてエレベーターに乗り込んだ。この国から無意味なイベントが消え去ることを、ただただ願うばかりである。

 主役である鈴音さんは、エスコート役の氏が同伴することになっていた。遅延ちえんの理由もそこにあるのだろうと見越し、わたしは彼から事前に渡されていたデジタルカメラとS大学の関係者であることを示す入館証を首からさげた。同窓会は見晴らしのいい九階のレストランを貸し切って行われると聞かされていたものの、入り口からガラス張りのこじゃれた内装を目にした途端、無銭飲食を前提にやってきた我々は、ていよく着飾った三十五年物の大人たちを前に尻込んだ。

「あなたたちが鈴ちゃんのお連れさま?」

 おのぼりさんよろしくたたずんでいた我々に、受付係をしていた女性が声を掛けてくれた。赤いフレーム眼鏡めがねをかけた人のよさそうな女性で、同窓生に配られている胸元の名札には〈幹事・名取なとりあかね〉とある。同じく受付係をしていた男性は元スポーツマンといった風格ながらせており、〈ガンにうち勝った男・黒崎さとる〉と書かれた名札から、彼が今回の企画の発案者であることがうかがえた。

 メインの二人が遅れる旨を説明すると、幹事役の名取さんと黒崎さんは想定していたかのような訳知り顔を見合わせた。なにかある、と勘づく我々に「来てくれるだけありがたいわ」と笑みをつくろい、〈撮影係〉と書かれた名札を率なく配った。

「あの神妙な空気、鈴音さんの中退理由となにか関係があるのでしょうか?」

 クロークマンに上着を預ける際、渚小鳥は声をひそめてわたしに聞いた。黒いブルゾンに黒いシャツと黒子くろこに徹するわたしに対し、彼女は防寒を無視した総レースのワンピースを着用していた。首元まで包まれているとはいえ、白い肌を透かす生地は気合いKが入っていることを示すバッチがついていなければ目を奪われるところだった。

「見えないものを詮索してもキリがないだろう」首からさげたカメラの状態をチェックしつつ、わたしは平常心を装った。「今は目の前にあるご馳走に心血を注ごう」

「それ、仕事する気ないですよね」鋭い指摘に、ぐうと腹が鳴った。

 十八時半開始の同窓会は、すでに多くの参加者が集まっていた。幹事の名取さんによって紹介されると、カメラ役のわたしは皿を取る間もなく四方からお呼びがかかり、ビデオを回し始めた渚小鳥も、ご馳走を横目に泣く泣くインタビュアーに徹することになった。食事にありつける頃には参加者のほとんどが集まり、携帯電話のデジタル時計が十九時をすぎた辺りで佐倉氏から追加のメールが届いた。

〈すみません。説得にあと三十分下さい〉

 交渉は難航している模様である。

 すきを見てはせっせと食べ物を口に運んでいたわたしとは裏腹に、カメラを回し続けている渚小鳥は手が空くことがないので、ハンディカム片手にひもじい思いをしていた。仕方がないので皿に盛った肉やら甘味をフォークに突き刺して与えるというづけを繰り返すと、この様子を見ていた数名が話の種にと近付いてきた。

「さっきから見てたけど、二人とも初々ういういしくてかわいいわね」

 口火を切ったのは、この日の為にあつらえたようなヴィンテージ風ドレスに〈クラス委員・粕谷そねや麻由美〉の名札をさげた女性だった。一目で自己主張の強いタイプだと分かる彼女の横からも「なに、二人は恋人同士なの?」と、学生時代から変わらぬ好色っぷりをかもし出す男〈テニス部エース・小野翔祐しょうすけ〉なる人物が会話に加わった。

「いいよな、若いって。千吉良ちぎらさんも、在学中はおれらにとっちゃ高嶺たかねの花でさ。美人で明るくて、おまけに勉強もできるもんだから、どこにいても目立ってたよ」

「負け知らずのお前がフラれたぐらいだもんな」

 笑いながら水を差したのは、〈空手部主将・榎田えのきだ一樹かずき 〉の名札をズボンのポケットに差している色黒の男だった。「うちの部でも千吉良を狙ってる奴は大勢いたよ。彼女、誰に対してもなまじ優しくするもんだから、つけ上がる連中が多くてさ。マネージャーになってくれって必死こいて頼む奴もいたっけ」

「カズだって鈴さんのこと狙ってたじゃないか」

 快気祝いで引っ張りだこだった黒崎さんも、笑いながら談話に加わった。「鈴さんは笑うと太陽みたいに魅力的でさ。でもちょっと気が強いところもあって、結局は誰も彼女を射止められなかったんだよな」

 粕谷さんが嘆くように呟いた。「まぁ、あんなことがあったから余計にね…」

 それを機に、場の空気が沈黙という重みに沈んだ。

 まただ。異様な空気に目を配せ合う我々に、見かねた小野さんが「でも、よかったよな。久しぶりにみんなで会えるんだから。こんなにかわいい女の子も来てくれたし」と、話の矛先ほこさきを変えるとともに渚小鳥を上機嫌に見やった。

 榎田さんはシャンパンをあおりながら言う。「まぁ、おれの方はあんまし彼女と接点なかったけど、同伴者の男ってのは気になるよな。大学のえらい先生なんだろ?」

 話が若干、盛られている。「でもその人、鈴ちゃんの六つも年下みたいよ」

 これまた皿にこんもり食べ物を盛ったふくよかな女性〈風紀委員・二宮涼子〉が、井戸端いどばた会議に加わる主婦のようなノリで割り込んできた。「茜ちゃんからさっき聞いたんだけど、電話で話した感じはうっとりするぐらいの紳士で、気になって大学のウェブサイトを見てみたら、掲載されてる写真がこれまたいい男なんですってよ!」

 以心伝心と、その場にいた全員が携帯電話を取り出した。

 人の口に戸は立てられぬとは、ことのことである。誰かが感嘆のため息をつく横で、二宮さんは大好物の唐揚げを見るような目でわたしを見やった。

「お店に入ってきた時から思ってたけど、あなたも背が高くて格好いいわね」生まれて初めて言われた。

 気付けばパンダ状態になっていたので、わたしは女子大生に色目を使い始めた小野さんから渚小鳥を引き剥がし、メインの二人を迎えにいくと口実をつけて会場から連れ出した。

 再びエレベーターに乗ったところで、「…なんか、おかしな感じでしたね」

 渚小鳥は壁に寄りかかって一息ついた。言葉足らずの中に隠された真意には、わたしも気付いていた。

「確かに、希薄だったな。腫れ物に触るような場面もあったが、途中でドロップアウトした人間に対して、誰もが一物いちもつ持っているようなぎこちなさを抱えていた。それに…」

 首からさげたカメラに目を落とし、わたしはレンズに収めた顔ぶれを順繰じゅんぐりに思い浮かべて言った。

「気のせいかもしれんが、あの中に変な目をした人がいた」

「変な目?」渚小鳥はぱちりと瞬いた。「…いやらしい目つきとかではなく?」

「そういうのとは少し違う」

 顔をのぞき込む彼女からそよりと目を離し、わたしは下降する階表示を眺めながら言った。「例えるなら、〝へび〟みたいな目だった」

 阿久津と出会ってから、わたしの目もどうにかなってしまったらしい。

 一階のロビーを横断してホテルを出ると、一挙にまといつく寒さに上着を持ってこなかったことを思い出した。両肩をさする彼女に脱いだブルゾンを押しつけてほどなく、ホテルの前の垣根かきねに腰かけている人影を見つけた。気落ちした横顔は鈴音さんである。佐倉氏は渋る彼女の前でかがみ込み、優しく微笑みながら鼓舞こぶするように両手を握っていた。二人がどのような押し問答をしていたのかは聞き取れなかったが、立ち呆ける我々に気付いた佐倉氏が鈴音さんの手を引いて立たせたことが決め手になったようだった。

「今日はぼくの頼みを聞いてくれて、ありがとうございます」

 ホテルのロビーに入るや否や、佐倉氏は改めて我々に向き直った。暗い面持ちを見せる鈴音さんを傍らにつかせ、今にもみ手をしそうな笑みを浮かべて言う。「大変長らくお待たせしましたが、これより本日の作戦内容をお伝えしたいと思います」

「作戦?」

 羞恥しゅうちに耐えかねたように顔を覆う鈴音さんの隣で、佐倉氏は飄々ひょうひょうと言った。

「まぁ、そんな大それたものじゃないんですけど、同伴者がただのお友達では体裁が悪い気がしたので、同窓会の間だけ恋人役をやらせてもらうことにしたんですよ」はかったな。

 わたしは率なく返した。「二次会は九時から同じ階にあるバーで開かれるそうです」

「ということは、残り一時間半ですか…」

 氏はエレベーターホールにある時計を見上げた。効率的に腹を満たす方法を模索していた我々と違い、清々しい横顔からは不思議となんの感情も読み取れなかった。

 彼は九階に上がる前に女性たちに化粧ルームを勧め、わたしには含みを持たせて男子トイレに同行させた。

 すると、「ぼくたちが不在の間、会場でなにか聞きましたか?」

 佐倉氏は用を足すでもなく洗面台に寄りかかり、誰もいないことを確かめてから切り出した。アシスタントというのは、一種の目くらましにすぎないのだろう。会場の雰囲気や参加者たちの様子をそこはかとなく伝えると、氏は一歩踏み込むようにわたしを見つめた。「きみの目から見て、その中に違和感のある人物はいましたか?」

 聞かれた直後、記憶に残る人物と目が合った。「何故、そんなことを聞くんです?」

 佐倉氏はごまかすように笑った。「いや。なんというか、きみは他の子と違って感受性が強いので、ぼくたちが気付かないことにも目が向くんじゃないかと思いまして」

 目尻にしわを刻む瞳の奥では、心をひた隠す彼が別の顔を見せていた。しかし、その時わたしが見ていたのは、彼の背を映し出す鏡の中で舞う一匹のだった。

 近くに阿久津あくつがいる――― ふいに、そんな思いにとらわれた。

 こちらの世界に存在しない蛾は、鏡に映る氏に傾注させるように飛んでいた。「本当は、なにをたくらんでいるんです?」

 表に出されることのない真意に踏み込むと、返ってきたのは思いがけない反応だった。

「いうなれば、〝鬼退治〟みたいなことです」

「鬼退治?」

 あまりに清々しい面持ちを前に、わたしは面喰った。現実世界から見る陰った瞳はどこまでも霧に包まれ、微笑んでいるのにわびしげでもある。彼は言った。

「今は多くを語ることはできません。でもそこに真実があるなら、おのずと見えてくるはずなんです。きみが見て感じたことを、どうか隠さずに教えてくれませんか?」

 トイレを出て女性陣と合流すると、氏はわたしにこわばった背中を見せつつも、うれえる鈴音さんの手を取ってにこりと微笑んだ。心から彼女を愛しているのだろう。エレベーターに乗り込んだ時から、彼は鈴音さんに腕を取らせて恋人になり切っていた。

「佐倉先生とトイレでなにか話されていたのですか?」

 メインの二人が受付で歓声を浴びている後ろで、渚小鳥が声をひそめた。男二人がトイレに長時間こもっていれば疑惑も生じる。

「なにがどうなっているのか、さっぱり分からん」

 ため息まじりに返し、わたしは返却してもらったブルゾンを羽織る前に、首からさげていたデジタルカメラを外して彼女に差し出した。

「ひとまず役を変わろう。首からさげている分には食事に困らないし、先生からなにが起こっても録画を続けてほしいと頼まれたんだ。これの使い方を教えてくれないか?」

 渚小鳥からハンディカムを受け取り、わたしはお似合いのカップルの登場に沸く会場の様子を撮り始めた。コートを脱いだ鈴音さんは、首元まで包まれた青緑色のブラウスにタイトなスカートを合わせたクラシカルな装いで、対する佐倉氏も嫌味のない紺のドレスシャツにジャケットを合わせたフォーマルな装いだった。

 確かに、絵になる二人である。あれほど渋っていた鈴音さんも、昔馴染みに弱い姿を見られたくないのか、質問攻めの中にあっても気丈な笑みを見せていた。もしかすると学生時代にいじめに遭っていたのではと杞憂きゆうしていたが、瞳の奥でメラメラとハンカチを噛みちぎる一部の女性陣を除けば、誰もが彼女の放つ魅力に笑顔で応じ、麗しい恋人の存在によって得られる幸福に安堵あんどしている人さえ見受けられた。

 人の輪が出来上がったところで、渚小鳥が改めて集合写真を撮るべく場をとり仕切った。佐倉氏と鈴音さんを中心に人だかりができ、わたしはカメラを構える渚小鳥の後ろから動画を撮り続けた。シャッターが切られる直前のことだった。

 ハンディカムの液晶画面に、ざざっと砂嵐が走った。電波障害を起こしたのか、異なる映像が映し出されている。音声はなく、打ちつけのコンクリート壁に囲われた倉庫のような場所で、画面に背を向ける三人の男たちが誰かを力づくで抑え込んでいる。股ぐらから抜き出たか細い脚は、明らかに女学生のものだった。

 カメラのフラッシュが抜けていくと同時に、元の映像に切り替わった。液晶画面には久方の再会を喜ぶ和気藹々わきあいあいとした様子が映し出され、わたしは今見てしまったものをどう消化してよいものか自失した。半信半疑で鈴音さんに目を向けると、会話に忙しくしている彼女の隣から、佐倉氏が射貫いぬくような目でわたしを見ていた。

 表情を読まれた、そう思った。髪で目元が隠れていなければ、動揺をそのまま見抜かれていたかもしれない。「先輩」と声を掛けられて隣を向くと、食いしん坊仲間が新たに追加された料理を嬉々と指さし、硬直していたわたしの腕を引っ張った。

「なんと、ここに来て海鮮物が追加された模様です。みなさんがゲストに気を取られている隙に取りに行きましょう!」

 その提案に、わたしは一も二もなく飛びついた。

 リッチな味わいを堪能しているうちに、佐倉氏は鈴音さんの恋人役に戻っていた。しかし、安堵あんどする胸のうちでは言いようのない恐怖がじわじわとこみ上げてくる。会場の時計が午後八時をすぎると、集中力を欠いたり、しゃべり疲れた人たちがちらほら席を外すようになっていた。先程の映像を確かめたい気持ちもあり、わたしは理想の恋人たちを遠巻きに撮りつつも、こっそり会場をあとにした。

 エレベーターの脇にあるドアを押しやって非常階段に出た時だった。「――― あぁ、来てるよ」

 折り返し階段の下方から、エコーがかった男の声が聞こえた。この声は…と足が動くに任せて近付いていくと、九階と八階の間にある踊り場で電話をかけている男がいた。酒が入って饒舌じょうぜつになっているのか、死角に潜むわたしに気付かぬまま会話を進める。

「相変わらずいい女だったよ。体なんか前より色っぽくなっててさ。おまけに男なんか連れてきやがって、おれたちが遊んでやったことなんかこれっぽっちも覚えてないって顔してたぜ。…あぁ、もちろんバレてねぇって。なんなら、もう一回さらってやってもいいかもな。お前たちも暇なら来いよ。男の方はおれがなんとかするから」

 携帯電話を耳に当てつつ、男がくるりと体の向き変えて手摺てすりに寄りかかった。

 その時見えた彼の瞳は、まるで作り物のようだった。白目はガラスを挟んだように薄っすらと青みがかり、蛇のように黒目が際立っている。なにかにかれているのか、あるいはレンズを通して見える変異なのだろうか…。

 そう考えた時、わたしは意に反してハンディカムを構えていることに気が付いた。

 どういうことだ? それこそ、なにかに憑かれたとしか思えない事態に、頭の中が白く吹き飛んだ。録画は会場を離れる際に停止したはずなのに、いつから盗み撮りをしていたのか記憶にない。わたしはメタルボディにとまる蛾を見つけてうなりたくなった。

 阿久津の仕業か。「おい、そこでなにやってんだよ…!」

 油断した隙に、階下から怒声が飛んできた。これはまずいと身をひるがえし、わたしはすたこら九階に逃げ帰った。通路を一目散に駆けながら、さてどこに隠れたものかと切羽詰まっているところに、レストランから出てきた佐倉氏が行く手を遮った。

 それこそ、図ったようなタイミングだった。わたしがハンディカムを投げて寄こすと、彼は一を聞かずして十を悟り、レストランにきびすを返しながら再生動画を見始めた。

 その傍らについた鈴音さんを見て、追手が叫んだ。「やめろっ!」

 秘密を知られた彼は、猪突猛進と腕を伸ばして佐倉氏に迫った。わたしは追われる身から一転して守備へ回り、〈つくも堂〉の奴隷仕事で鍛え上げた足腰を駆使くしして横合いから男を抑え込んだ。激しい抵抗に遭いながらも時間を稼ぐと、すったもんだの騒動を聞きつけた同窓生たちがそぞろに集まってきた。

 そのタイミングで、佐倉氏は意地悪く盗み撮りした場面を大音量で再生した。

「これ、どういうことです?」

 あぶり出した鬼を前に、佐倉氏は至って冷静に声を掛けた。すっかり血の気を失った鈴音さんを渚小鳥に託し、怪奇現象によって紛れ込んだ映像を男に突きつけた。「やっぱり、あなたが犯人だったんですね」

 蛇の目をした男――― 榎田えのきだ一樹かずきは、動かぬ証拠を見せられて暴れるのをやめた。

 わたしはハンディカムが渚小鳥の手に渡ったところで役を降り、痛む体を引きずるようにして榎田から離れた。化けの皮を剥がされた鬼は、口汚く悪態をつくと酔いも手伝って本性を剥き出した。「だから、なんだっていうんだよ」

 渚小鳥が秘かに動画を撮り始めたことに気付かぬまま、榎田は衆人環視しゅうじんかんしをものともせず舌弁べんぜつを振るった。

「悪いのは、そこにいる女じゃねぇか。おれたちをそそのかしておきながら、お高くとまりやがって。あんまりにも生意気だったから、お仕置きがてら男ってもんを教えてやったんだろうが」

「やめてっ!」鈴音さんはこと切れたように耳を塞いだ。

 その姿に愉悦ゆえつを感じたのか、「あの時のことを思い出すと、今でもぞくぞくするよ」

 ほうっとなまめかしい吐息を漏らす彼の瞳は、まさしく蛇そのものだった。

「おれたちはみんな、あんたに夢中になった。指一本触れられなかった女が簡単に自分のものになるんだ、楽しくないはずないよな。あんただって、おれたちと一緒に楽しんでたじゃないか。あんなに――― 」

 わたしが聞き取れた言葉は、そこまでだった。

 息が止まった。怖気おぞけがみぞおちの辺りからぞくりと背中を突き抜け、風を切ってこぶしを振るう佐倉氏を別人に見せた。彼がうち放った怒りはさそりが一撃で獲物を仕留めるような鋭さで顔面に叩き込まれ、鼻の骨をごきりと砕いて相手を卒倒させた。鼻から噴き出した鮮血せんけつ絨毯じゅうたんに飛び散り、周囲から悲鳴が上がった。

 まかりなりも武道家だった男を討ち取った姿に、わたしはただただ圧倒されていた。卑劣漢ひれつかんを見下ろす氏の顔は、冷めやらぬ憤怒ふんぬによって殺伐と凍りついている。侮蔑ぶべつと憎悪によって見開かれた瞳はどこまでも暗く、鉄槌てっついをくだしたこぶしは今なお固く握りしめられていた。そこからは、ドラマのダイジェストを見ているように事が進んだ。

 彼は鈴音さんに背を向けたまま、榎田の上着から鳴り始めた携帯電話を率なく抜き取った。まるで来ることが分かっていたような落ち着きぶりである。彼は動画を撮り続けている渚小鳥に合わせて体の向きを変え、公開処刑とばかりにスピーカーモードに切り替えた。通話口から流れてきたのは、榎田の後輩と思しき共犯者たちの声だった。車でホテルに向かっている途中らしく、一方的に通話相手を榎田と思い込んだ彼らは、鈴音さんへ寄せるゆがんだ欲情や過去の罪をべらべらと自白して修羅しゅらの怒りを買った。

『あんなおいしい思いがまたできるなんて、今からうずうずしてますよ。車はどこに停めておけばいいっすかね…あれ、もしもーし?』

 榎田の応答を求める声に、彼は端的に答えた。「車は、もうすぐ止まると思いますよ」

『え?』

 佐倉氏が薄い笑みを浮かべた直後、音声に急ブレーキと悲鳴が入り混じった。 

 通話は大きな衝撃音に呑まれ、ぶつりと途絶えてしまった。

「…お会いできなくて本当に残念です」

 氏はわびしげに呟いて通話をうち切った。

 一体、なにが起こったのだろう。場が騒然とする中、佐倉氏は何事もなかったように榎田の携帯電話を使って警察を呼んだ。すると、折よく別件でホテルを訪れていた警察官二名がものの数分で現場に到着する運びとなり、彼は泣き始めた鈴音さんを我々に託して事の成り行きを話し始めた。同窓会は見るも無残な形でお開きとなり、気を失っていた榎田は警察官の呼びかけによって目を覚ました。

 渚小鳥はおびえる鈴音さんをかばい、わたしは二人を隠すように立ち位置を変えた。のっそりと上体を起こした榎田が見つけたのは、飄々ひょうひょうたる面持ちで警察官に事情を説明していた佐倉氏だった。

 蛇蝎だかつ、という言葉がある。へびさそり――― どちらも人がみ嫌うものの例えとして使われるが、両者が同じ力量かと問われれば、推し量るすべを神に委ねるほかにない。まずいと思った時には、すでに手遅れだった。文字通り鼻を折られた榎田は怒りを爆発させ、警察官の制止を振り切って一目散に駆け出した。

 それが、運の尽きだった。

 末路を決めたのは、間違いなく榎田だった。しかし、それを誘発したのがなんであったのかと聞かれれば答えようがない。彼が一番近くにいた警察官を突き飛ばすと、氏は自分を守ろうと動いた警察官を片手で制して動向を見守ったのである。次になにが起こったかと言えば、突き飛ばされた警察官のそばにいた同窓生が巻き添えを食い、テーブルにぶつかった弾みでワインボトルが落下した。無我夢中で駆けていた榎田はそれに足をすくわれ、大衆が見ている面前でテーブルの角に首を打ちつけた。

 警察官たちが慌てて駆け寄る中、口から泡を吹いて動かなくなった彼を、佐倉氏はそこから一歩も動くことなく見つめていた。それこそ、見えぬ冥加みょうがに守られていることを核心しているようなたたずまいだった。その時になって、ようやく分かった。この舞台で踊らされていたのが、本当はであったのか。

 ガラス張りの窓にふと目をやると、反射した鏡面世界で脇目も振らず大蛇をむさぼっている悪食鬼あくしょくきを見つけた。

 すべては予見されたことだった――― 唐突に幕を下ろされた復讐劇の裏側で、わたしは唖然とたたずむことしかできなかった。

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