第10話 『 窮鬼 』
「これで本当にお別れです」
事情聴取に連行される際、佐倉氏は茫然自失と
びくりとおびえる彼女に、氏は平素と変わらぬ笑みを投げかけた。
「辛い思いをさせて、本当にすみませんでした。でもこれで、あなたを悩ませるものはなくなりました。地獄のような苦しみに耐え続けてきた分、どうかこれからはご自分の幸せだけを考えて生きていって下さい。本の制作、陰ながら応援しています」
鈴音さんが声を押し出す前に、佐倉氏は率なく立ち上がってわたしに声を掛けた。
「きみには話さなければならないことが沢山あります。後日、改めてぼくの研究室に来て下さい。鈴音さんのこと、よろしくお願いします」
彼女に寄り添う
別れ際、善行さんはわざわざ車を降りてわたしたちに言った。
「こんなことに巻き込んじまって、本当にすまなかったな。だけど、先生を恨むことだけはしないでやってくれ。あの人は、なにもできずにいたわたしたちに代わって
目に涙を溜めて語る
果たして、わたしが見たものはなんであったのだろう。あとで聞いたことには、カメラの撮影時に紛れ込んだ映像は紛れもなく過去の犯行を映し出したもので、調書を取られた際は
「なんだか、すごくやり切れないです」彼女はわたしの胸に顔をうずめた。「もし自分が同じ目に遭ったらと思うと、胸がはちゃめちゃに張り裂けてしまいそうで辛いです。そういう傷は、心が壊れたあとも一生残るんです。鈴音さんがかわいそうです」
渚小鳥は泣いていた。泣き顔を見られまいと抱きついたのだろう。わたしは天井近くに張り巡らされたバーを掴みながら、力をこめたら壊れてしまいそうなか細い腰に腕を回した。
もし彼女が同じ目に遭ったら…そんなことは考えたくもなかった。
「…怖かっただろうな」
わたしは暗い窓にくっきりと映る自分の姿を見返した。
初めて〈鈴のなる樹〉に足を踏み入れた時も、妖怪談義を持ち込むべく二人だけで会った時も、わたしのような
身を寄せ合っているだけでは気恥ずかしいので、わたしは子守唄代わりに窓に映っていた大蛇の話を始めた。黒く野太い図体をしたそれがなんであったのか、答えはなりを潜めている鬼に直接聞かねば分からぬことだが、渚小鳥がぐずぐず鼻をすすりながら語ったことには、天地創造の折りに造られたイヴをそそのかした蛇は悪魔の化身であり、悪事に手を染めた榎田はそれに魅入られていたのではないか、というものだった。
古代蛇信仰にまつわる由来は諸説あれど、
蛇はどうなったのかと訊かれ、わたしは立食パーティーにちゃっかり参加していた鬼を思って表情を緩めた。
「あれはもう、どこにもいない。二度と悪さをすることもないだろう」
彼女とは乗り換えの駅で別れた。父親が地元の駅で待っているというので、そのまま電車に乗って遠ざかる姿を見送ったのち、至るところでうずく
鉛のように重たくなった
冬の寒々しい
そんな時にも考えていたのは、先日、物騒な案件を持ち込んできた
この時代、名は〝
彼女は行商に拾われた〈わたし〉の生い立ちを忍んで貴人方の世話役に就かせたいと考えているようだったが、こうも目をかけられては
とはいえ、それなりの地位を得なければ、長年想い続けた彼女を
はやる気持ちがよからぬ縁を引き寄せたのか、その時、視界の端からひらりと白いものが抜きん出た。
自然の
反射的に振り返ると、ノミのように膨れた胴体と獣の顔を持つ大蜘蛛が、
突拍子もない遭遇にのどが潰れる。大蜘蛛はごにょごにょと不気味な音を発すると、
次の瞬間、それは天より舞い降りた影にぐしゃりと押し潰された。
今度は大猿か? 手の中に蛾をかくまったまま、〈わたし〉は皿のように目を見開いて硬直した。人のような影が、もがき苦しむ大蜘蛛の手足を生きながらにもいでいる。夕闇に溶けてはっきりしないものの、頭部から生えた二本の
鬼である。「人は食わんし、虫も食わん」
虫にしか見えないものを口一杯に詰めながら、それがぞんざいに口を利いた。そら恐ろしい声ではあるが、断りを入れるところからして襲われる心配はなさそうだった。よほど腹が減っていたのか、鬼は
鬼は言った。腹が減っているところに、風に乗って妙なる匂いが届いたと。辿ってみれば骨と皮ばかりの人間が、同じく腹を空かせて山中をさまよっているのを見つけた。好奇心からあとをつけてみると、匂いに引き寄せられた神の使わしめが、やはり
なるほど、人目につかぬ虫の姿を取っても気苦労は絶えぬということか。バタバタと怒り狂う蛾を眺めつつ、〈わたし〉はあやかしものを引き寄せてしまう体質を変える
これを聞いて、鬼は我が意を得たりとほくそ笑んだ。闇の中で光る目には、ぼさぼさの
不思議なことに、小さな蛾は
これを食ってうまそうに肥えろということか。〈わたし〉は頭上にとまる神使に目配せし、辺りに鬼の姿がないことを確かめてから肉を手にいそいそと家に戻った。
そこで夢が途切れた。
これは一体、誰の記憶であるのか。胸のさざめきを聞きつけたように「聞くまでもないだろう」と、闇の中で声がした。
声の主は言った。「とうの昔に死んだ男の夢さ」
闇の中に立っていたのは、かりそめの姿をとった鬼だった。「
「やぁ、今夜は
佐倉氏に再会したのは、それから日をまたいだ四日後のことだった。
その頃すでに、構内では不穏な噂が行き交っていた。実際、氏が受け持つ研究室は一時閉鎖となり、間近に控えた福祉プロジェクトも
「地震でもあったんですか?」
水と油ほどに不釣り合いな光景に、思わず
「ぼくの後任が決まるまでに片付けておこうと思ったんですけど、なれないことはするものじゃないですね」と、
なるほど。休職中に大学にいるところからして、噂の中身は確かだったらしい。
「ここはもう駄目です」わたしは滅びゆく惑星に見切りをつけるように辺りを見渡し、氏に研究室から出るようにうながした。
「こんなこともあろうかと、うまい茶をただで飲める場所を確保しておきました。少し付き合ってもらえませんか?」
向かった先は、渚小鳥に頼んで貸し切ってもらった怪奇民族
「ぼく、今期一杯で仕事を辞めることにしたんですよ」
わたしは大して驚く風でもなく、ずずっと茶をすすった。この反応に「あ、やっぱり怒ってます?」と、佐倉氏はへりくだった笑みを見せた。
「そうですよね。ぼくのせいでみんなが取り組んでいたプロジェクトが台無しになって、きみや渚くんにも多大な迷惑をおかけしました。でも、仕事を辞めるのは単に責任を取る為だけじゃないんです。ぼく自身、いい加減、潮時だなって感じていたんですよ」
氏は核心に踏み込むように一拍置くと、わたしを見てこう言った。
「ぼくはね、〈
きゅうき?「きみは『
氏は檀上と変わらぬ弁舌を振るった。「通称、
「確か、もっとも多く鬼の物語が語られたのが、平安時代でしたね」
わたしは煎餅の封を切りながら合いの手を入れた。鬼は元々、中国では死霊をさす言葉で、六世紀末に日本に伝わると地霊や見えないものを意味する〈
「噛み砕いて言うと、和名抄で初めて〝
そこまで言うと、彼は講師としての仮面を剥いでわたしに素面をさらした。
「ぼくに関わると不幸になる。きみも、とっくに分かっていましたよね」
氏は呆れたように笑った。冷めゆく紅茶を手の中で持て余しながら、淡々と言う。
「ぼくの両親は至って普通なんです。家系をさかのぼってもシミ一つ見当たらなかった。でも、ぼくは生まれながらに持っている人間なんです。母はぼくを生む際、医療ミスから危うく命を落とすところでした。父は、ぼくに触れたあとに災難に遭うと気付いてから笑ってくれなくなりました。この力をはっきり自覚したのは、小学一年生の時です。ぼくをよく思っていなかった同級生の男の子たちにコテンパンに叩きのめされて、幼かったぼくは抑制も利かないまま激しい怒りにとらわれたんです。すると二日も経たないうちに、ぼくをいじめた男の子たちは全員、後遺症が残るほどの事故や発熱に見舞われて学校に来られなくなりました。両親は怪我をして家に帰ってきたぼくを見ていましたから、すぐにぴんときたんでしょうね。このままではとんでもない大人になると
ぼくは大学の寮に入るまで、そのお寺で育てられました。でも住む場所を変えたからといって力が抑えられるわけもなく、ぼくを引き取ってくれたご住職もそれなりの法力をお持ちの方だったんですけど、早い段階でこう言われました。ぼくが生まれながらに背負った力は、抑えることも消すこともできない、と。彼いわく、人は能力や才能の有無にかかわらず、人生を
でも一番辛かったのは、転校したあとも学校に通わなければならないことでした。こんな気質ですから、子供の頃のあだ名は一貫して厄病神です。大人になった今でも、友達は一人もいません。できても、すぐに離れていってしまうんですよ。いじめにも沢山遭いましたけど、ぼくに手を出すと返しが来ると分かって、みんなすぐに手を引いてくれました。そういう状況にい続けると分かってくることが一つだけあるんです」
佐倉氏はにこりとわたしに微笑んだ。
「苦しい時にも離れないでいてくれる人が〝本物〟。つまりは、きみのような人です」
どこかあっけらかんとした口ぶりからは、彼が味わってきた孤独や苦しみといったものは感じられなかった。
それでも、氏は言う。
「ぼくに見切りをつけないでくれる人は、ごく
佐倉氏は一度言葉を切り、苦い笑みを浮かべて驚くべきことを打ち明けた。
「ここだけの話、ぼくはこの年になっても女性とキス以上の関係になったことがないんです。深い関係になる前に、色んな理由をつけられてフラれちゃうんですよ。彼女たちを不幸にしてしまった手前引き留めることもできず、次はいつまで続くんだろうなんて考えているうちに恋をするのが億劫になりました。そんな経緯もあって、恋とは無縁の場所で孤軍奮闘しているきみに、異様なまでの親近感を抱いてしまうんでしょうね」
氏は悩ましげに腕を組んでうなずいた。否定はしないが、消化もできない。
モテることを前提に生きてきた男の壮絶な悩みに、女子と
「要するに、ぼくもそれほど恵まれた人間ではないということです。他人の運を無意識に奪って
中学に上がった頃でした。ぼくの噂を聞きつけた上級生たちが、呪いをかけてみろと悪質ないじめを仕掛けてくるようになったんです。それがまた結構なお手前で、その都度、人が通りかかったり、ちょっとした不幸が彼らに降りかかって救われるんですけど、教師でさえ厄をもらうこと恐れていましたから、神経衰弱に陥ったぼくに手を差し伸べてくれる人は誰もいませんでした。本来なら育ての親に相談するところなんでしょうけど、ご住職は弟子を何人も抱えて多忙な身でしたし、常日頃、感情を抑制するようにと言われていたので、誰にも甘えられない寂しさから心を閉ざしていたんです。それでつい、実の親に会いに行ってしまったんですよ。
家の前に着くと、母が喜んで抱きしめてくれるんじゃないかと胸が一杯になったのを覚えています。でもその時ぼくが見たのは、幼い男の子と手を繋いで帰ってきた母の姿でした。スーパーの買い物袋を手に持っていて、ぼくがいると分かると酷くおびえた顔をしました。その子は、と聞くと、ぼくの弟だと言います。ご住職に養子に出してすぐ、両親はぼくの代わりを用意したんです。母は近付くでもなく、あちらさまが心配するからすぐにお寺に帰りなさいと言いました。それでやっと分かったんです。ぼくは捨てられたのだと。
人の運を奪うといっても、ぼくにも不幸が降りかかるということです。未熟だったぼくは、あまりのやり切れなさに両親を恨んでしまいました。ぼくの後釜に居座った弟もです。そしてその日のうちに、ぼくが暮らしていた家は火事になってなくなりました」
重たい告白に、飲み込もうとした煎餅を詰まらせそうになった。
慌てて紅茶を飲む姿に、氏は泣きそうな笑みを貼りつけたまま目を伏せてしまった。
「やっぱり、引きますよね。両親と弟は助かりましたけど、凶報が飛び込んできてすぐ、ご住職はぼくを呼び出しました。ことのあらましを白状すると、彼は怒るでも嘆くでもなくぼくの手を取って、ただ「辛かっただろう」と言ってくれたんです。ぼくに触れただけで不幸がやってくるとわかっているのに、です。情けないことに、たったそれだけのことで涙が出てしまったんですよ」
そう言って笑う氏の瞳は、にわかに熱を帯びて潤んでいた。湿り気を含んだ声は空模様にように移ろい、彼は呼吸を整えると続きを語った。
「彼は言いました。この世に同じ人生は二つとなく、人は十人十色の生涯を通して魂を磨いていくのだと。他者を傷付ける為に生まれてきた人間はいないが、完璧な人間というのもいない。よって心の弱い者、道理に暗い者、闇に落ちた者の毒牙によって傷付けられることもしばしばあるが、間違っても人生を悲観したり生い立ちを嘆いてはいけないと言われました。それは自分自身を見捨てるのと同じことだからです。彼はこうも言いました。どんな状況にも学びがあり、試練に立ち向かう姿勢こそが重要なのだと。そして泣きじゃくるぼくの前で顔をもみほぐして、こんな風に笑ってみせたんです」
氏は両手で挟んだ
「まずは笑いなさい、すべてはそれからだと言われました」
氏は穏やかな顔を見せた。「笑いたくない時にも笑う。つまり、辛い時に笑うことはとても辛いからこそ心の
氏は恥ずかしそうに笑った。「きみもよく知る、鈴音さんです」
まるで美しい初恋を語るように、佐倉氏は空になったカップを手の中で持て余した。
「初めて彼女を目にした時、あまりにもタイプだったので運命だと思いました。神さまがぼくの為に用意してくれた人なんじゃないかって。彼女の目を見ていると、自分と似たところがあるって分かるんです。それに初めてでした、ぼくが近付いても厄に当たらなかった人は。おそるおそる通い詰めるうちに気付いたんです、彼女が特別なことに」
弾む声の裏側に潜む
思い出を語る彼の目は、笑っているのに泣いていた。
「どうしたら好きになってもらえるだろうって、毎日、
佐倉氏は目尻にしわを刻みながら困り顔をした。
「もちろん、きみには申し訳ない気持ちで一杯でした。運が向くということは、きみにその代償を払わせているも同然ですから。そこでぼくは、罪滅ぼしに渚くんをこの件に巻き込むことにしたんですよ」――― ん?
わたしは紅茶を飲む手を止めた。「どういう意味です?」
「あれ、まだ気付いていないんですか。そもそも彼女がうちの
そこで、けたたましく携帯電話が鳴り響いた。寸断された会話を繋ぐように、発信元に渚小鳥の名前が出ている。何事かと通話に切り替えたところで、いきなり切られた。
これは、なにかの予兆か? ちらりと氏の顔色をうかがうと、心を読んだように言った。
「あ、ぼくの力のことは、しばらく心配しなくていいですよ。一度大きな災いを呼び寄せると、元の体質に戻るまで十日ほどかかるんです」思ったより短いな。
話の流れも戻ったところで、氏は吹っ切ったように言った。
「所詮ぼくなんて、人さまから運を分けてもらわなければなにもできない男なんです。うまく取り繕ったつもりでも、中身はまるで伴っていない。この力とうまく付き合っていくには、自覚がないふりをするのが一番なんですよ。言い換えれば、誰かが痛い目に遭っても見て見ぬふりとするということです。きみが考えているより、ぼくはずっと弱くて最低な人間なんです。唯一逃げないでいてくれた教え子さえ利用しました。鈴音さんが最後まで心を開いてくれなかったのも、そういうところを見透かされてのことだったと思います。実を言うと、同窓会の話が出る少し前にフラれちゃったんですよ。それも、
氏は苦し紛れに笑った。聞けば、秘密のバイト帰りに鈴音さんの店に立ち寄った際、彼女から
死地を求めてさまよっていたところ、孫を溺愛する善行さんが偶然現れ、
氏が軽はずみにフラれたことを明かすと、彼をいたく気に入っていた御仁は訳知り顔を見せて
鈴音さんは高校三年生に上がったばかりの頃、何者かによって下校途中に
しかし、プライベートでは男性不信が元で交際が長続きせず、善行さんは幸せの種を自ら摘み取ってしまう有様に胸を痛めていた。「あとから聞いたんですけど、ぼくを突き放したその夜も、鈴音さんは部屋にこもって泣いていたそうです」
先程までの笑みを打ち消して無表情を装う氏の
愛する人の痛みを知ったあとで、呪われた力を使うことにためらいはなかったと。「彼女の人生を壊しておきながら、のうのうと生きている
氏が押し殺した声で語ったことには、願いを叶えるほどに強大な幸運を引き寄せるには、いじめに耐え忍んでいた時のように充電期間が必要で、復讐を心に決めてからほどなくして転がり込んできた同窓会話に、彼は鈴音さんを襲った犯人、あるいは犯行を目撃した人物がその中にいると確信したという。善行さんからの依頼を引き受けると、金輪際、近付かないことを前提に鈴音さんをそそのかし、復讐を遂行するに必要な撮影係と修羅場を炎上させる油係を用意した、というわけだった。
「きみを巻き込んだのには、もう一つ理由があります」
佐倉氏は確信めいた眼差しでわたしの心を射抜いた。「うまく説明できないんですけど、きみにはぼくとはまた違った〝引力〟みたいなものが備わっている気がするんです。これまで聞いたオカルト話から察するに、その目には
――― あやかしを退治するのに、何故きみにいちいち正体を見極めさせると思う?
記憶の中で阿久津の言葉が重なった。「自分ではよく分かりません」
目をそらして答えを濁すと、茶をすするわたしに氏はわびしげに表情を緩めた。
「それでも犯人を特定できたのは、きみがいてくれたお陰です。こうやって秘密を明かすのも、これまでのことを詫びるとともに、きみにお礼が言いたかったからなんです。鈴音さんには嫌われてしまいましたけど、悪者を退治することはできましたから」
後日聞いた話では、転倒の弾みで後頭部を打ちつけた榎田は、重度の
氏は遠くを見るような目をして言う。
「人を呪わば穴二つ。ぼくも死んだら地獄に落ちると思います。でも、後悔はしていません。結果的に鈴音さんの過去を大衆の目にさらす形になりましたけど、暴いた真相を起爆剤に立ち上がってくれるとぼくは信じています。彼女には支えてくれるご家族もいますし、本当はとても強い人ですから。助けが必要なのは、むしろぼくの方なんです」
氏は急転直下の勢いで話の
「実はぼくにかけられた呪いはもう一つあってですね、どうにも片付けができないんです」やはり、そう来たか。
わたしも急いで話の矛先を変えた。「次の職の当てはあるんですか?」
「ひとまず、お寺に帰ろうと思っています。これ以上、民俗学を追及しても呪いの解明には至らなそうですし、貧乏神が去ったあとには福が来ると言いますから、ぼくの後任もすんなり決まって、きみにもついに恋人ができるかもしれませんね」一言多いな。
嬉々と語る佐倉氏の目には、言葉とは裏腹に涙が溜まっていた。人から運を奪っても幸せになれないのだとしたら、彼にとっての幸せとは、わたしたちが息を吸うのと同じぐらい当たり前に
「きみには本当に感謝しています。いい先生にはなれませんでしたけど、忙しいなりにも毎日が充実していました。慕ってくれる教え子がいるというのは、とても幸せなことです」
「そう言っていただけると、災難に耐え続けた甲斐があった気がしないでもないです」
心にもないことを言って、わたしは空になったカップを置いた。部室の掛け時計は早くも夕方五時を指し示し、例によって窓の外もすっかり日が落ちている。
ここいらが引き際だろう。
「じゃあ、そろそろ…」
わたしは見切りをつけて立ち上がり、別れの笑みを浮かべる氏に颯爽と風戸専用アイマスクを差し出した。「…ん?」
突如突きつけられたアイテムを前に、
わたしは余計な詮索をされる前に切り出した。
「これをつけてもらえたら、新たな門出のはなむけに面倒な片付けを一切しなくて済む裏技を伝授します。猫の手、山ほど借りたくないですか?」
「借りたいです」氏は速やかにアイマスクに手を伸ばし、感嘆に値する潔さで視界を覆った。子供に引けを取らないこの素直さが人々を魅了するのだろう。
「色々と打ち明けてもらって言うのもなんですが、あの騒動を通して思ったことは一つだけです」
去り際、わたしはいつもより小さく見える彼を見下ろして言った。
「とてもきれいなストレートパンチでした」
氏は寂しそうに笑い、応答がないと分かると、おそるおそるアイマスクを外した。
スチール棚の陰に身を潜めたわたしからは、魂を引っこ抜かれたように呆ける横顔しか見えなかった。彼は魔法のように現れた鈴音さんを前に石と化していた。
「ほんとに困った人ね」
鈴音さんは泣きたそうな笑みを浮かべ、椅子に腰かけている氏に合わせてかがみ込んだ。そしてあの夜、彼がしたように両手を取ると言った。
「片付けをしなくて済む方法は一つしかないじゃない。このまま大学に残るのよ」
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