第10話 『 窮鬼 』

「これで本当にお別れです」

 事情聴取に連行される際、佐倉氏は茫然自失と椅子いすに腰かけていた鈴音さんの前でかがみ込んだ。

 びくりとおびえる彼女に、氏は平素と変わらぬ笑みを投げかけた。

「辛い思いをさせて、本当にすみませんでした。でもこれで、あなたを悩ませるものはなくなりました。地獄のような苦しみに耐え続けてきた分、どうかこれからはご自分の幸せだけを考えて生きていって下さい。本の制作、陰ながら応援しています」

 鈴音さんが声を押し出す前に、佐倉氏は率なく立ち上がってわたしに声を掛けた。

「きみには話さなければならないことが沢山あります。後日、改めてぼくの研究室に来て下さい。鈴音さんのこと、よろしくお願いします」

 彼女に寄り添うなぎさ小鳥にも一瞥いちべつをくれ、佐倉氏は榎田えのきだに暴行を働いたとがで連行されていった。わたしたち三人も事情を説明すべく警察署へ赴くことになり、一連の騒動を記録したカメラとハンディカムは一時押収されることになった。調書が済む頃に鈴音さんの家族が駆けつけ、わたしと渚小鳥は彼らの厚意に甘んじて途中の駅まで送ってもらえることになった。

 別れ際、善行さんはわざわざ車を降りてわたしたちに言った。

「こんなことに巻き込んじまって、本当にすまなかったな。だけど、先生を恨むことだけはしないでやってくれ。あの人は、なにもできずにいたわたしたちに代わってかたきを討ってくれたんだ。本当だったら、この手でそいつを絞め殺してやりたかったよ…!」

 目に涙を溜めて語る御仁ごじんの声は、言いようのない悲しみと憤りで震えていた。

 果たして、わたしが見たものはなんであったのだろう。あとで聞いたことには、カメラの撮影時に紛れ込んだ映像は紛れもなく過去の犯行を映し出したもので、調書を取られた際は執拗しつように事象の原因を問われたものの、事件の詳細を知りえないわたしにはなんとも答えようがなかった。また、消化不良を起こしていたのは渚小鳥も同じだったようで、終電間近で混み合う車中に乗り込んだ際、意気阻喪いきそそうとしていた彼女は高所にある吊り革をあきらめて身を寄せると、歩き疲れた子供みたく抱きついてきた。

「なんだか、すごくやり切れないです」彼女はわたしの胸に顔をうずめた。「もし自分が同じ目に遭ったらと思うと、胸がはちゃめちゃに張り裂けてしまいそうで辛いです。そういう傷は、心が壊れたあとも一生残るんです。鈴音さんがかわいそうです」

 渚小鳥は泣いていた。泣き顔を見られまいと抱きついたのだろう。わたしは天井近くに張り巡らされたバーを掴みながら、力をこめたら壊れてしまいそうなか細い腰に腕を回した。

 もし彼女が同じ目に遭ったら…そんなことは考えたくもなかった。

「…怖かっただろうな」

 わたしは暗い窓にくっきりと映る自分の姿を見返した。

 初めて〈鈴のなる樹〉に足を踏み入れた時も、妖怪談義を持ち込むべく二人だけで会った時も、わたしのようなつらの見えない男が怖くなかったはずがない。ミステリーツアーの肝試しに参加しなかったのも、事件の記憶に触れてしまう要素があったせいに違いない。それでも絶えず笑みを見せてくれていた彼女は、本当に強い人だと思う。

 身を寄せ合っているだけでは気恥ずかしいので、わたしは子守唄代わりに窓に映っていた大蛇の話を始めた。黒く野太い図体をしたそれがなんであったのか、答えはなりを潜めている鬼に直接聞かねば分からぬことだが、渚小鳥がぐずぐず鼻をすすりながら語ったことには、天地創造の折りに造られたイヴをそそのかした蛇は悪魔の化身であり、悪事に手を染めた榎田はそれに魅入られていたのではないか、というものだった。

 古代蛇信仰にまつわる由来は諸説あれど、今昔こんじゃく物語や古事記で扱われる蛇は執着の化身として描かれている。手に入らないものほど欲しくなるのが人間のさがというものだが、抑制を欠いた独占欲は他者を傷付け、その醜さゆえに自滅を招く。

 蛇はどうなったのかと訊かれ、わたしは立食パーティーにちゃっかり参加していた鬼を思って表情を緩めた。

「あれはもう、どこにもいない。二度と悪さをすることもないだろう」

 彼女とは乗り換えの駅で別れた。父親が地元の駅で待っているというので、そのまま電車に乗って遠ざかる姿を見送ったのち、至るところでうずくあざの痛みに耐えながら帰路に就いた。分かってはいたが、人様の恋路に立ち入るとろくな目に遭わない。

 鉛のように重たくなった鬱積うっせきを抱えて眠ったその夜、またあの夢を見た。


 冬の寒々しい曇天下どんてんか、〈わたし〉は水干すいかん直垂ひたたれという野良着のらぎにかごを背負い、はかまをたくし込んだ脛巾はばき を汚しながら獣道を歩いていた。やぶをかき分けるのに質素な釣竿つりざおを使っていたが、えさがなくては魚も採れず、乏しい木の実や山菜を求めて山に分け入ったものの、日が暮れるばかりで収穫はない。腹の虫が鳴くに任せて帰路を辿っているうちに道にも迷い、いよいよ運に見放されたかとしょげ返っていた。

 そんな時にも考えていたのは、先日、物騒な案件を持ち込んできた幼馴染おさななじみのことだった。

 この時代、名は〝いみな〟と呼ばれ、忌み名に通じることから真名まなを明かすことは禁忌とされていた。貴族は官位で呼ばれるが、平民である〈わたし〉が身分違いの彼女と真名で呼び合うことはなく、幼馴染というのでなければ、まず親しくなることもなかった稀有けうな間柄だった。

 彼女は行商に拾われた〈わたし〉の生い立ちを忍んで貴人方の世話役に就かせたいと考えているようだったが、こうも目をかけられては面子めんつが立たぬと〈わたし〉自身は複雑な思いを抱えていた。その実、〈わたし〉が狩衣かりぎぬとして着ている服も、彼女が貴人方から下った古着をあつらえてくれたものだった。

 とはいえ、それなりの地位を得なければ、長年想い続けた彼女をめとることはできない。〈わたし〉は白い息を吐きながら、暮色蒼然ぼしょくそうぜんと陰る山中をせっせと進んだ。どこの馬の骨とも知れぬれ者が夜な夜な彼女の枕元にってくる前に、なんとしても自分の妻に迎えたかった。それにはまず、〈わたし〉が生きて山を脱する必要がある。

 はやる気持ちがよからぬ縁を引き寄せたのか、その時、視界の端からひらりと白いものが抜きん出た。身丈みたけに反するノミの心臓がびくりと縮み上がったものの、見れば白く小さなが、ふらりふらりとあてどなく飛んでいる。冬眠から覚める頃合いをたがえたらしい。頼りない姿につられてあとを追うと、高所に張られた蜘蛛くもの巣へよろよろ飛んでいった。それが巣にかかったと同時に、〈わたし〉は急いで釣竿を掲げ、それが糸に絡めとられる前に巣を破壊した。

 自然のことわりに反する行いだったが、見て見ぬ振りもできない。獲物を横取りしたことを蜘蛛に詫びつつ、糸と一緒くたに貼りついた蛾を竿さおから外してやれば、どこか自分と似たところのある姿に笑みが漏れた。その後ろで、枯れ葉を踏みしめる物音がした。

 反射的に振り返ると、ノミのように膨れた胴体と獣の顔を持つ大蜘蛛が、爛々らんらんと光る八つの目で〈わたし〉見つめていた。

 突拍子もない遭遇にのどが潰れる。大蜘蛛はごにょごにょと不気味な音を発すると、たわむれとばかりに〈わたし〉が先程かけたなけなしの言葉を真似た。大は小を兼ねると言いたいのだろう。足に根が張って動けぬところに、目にも止まらぬ速さで迫ってきた。

 次の瞬間、それは天より舞い降りた影にぐしゃりと押し潰された。

 今度は大猿か? 手の中に蛾をかくまったまま、〈わたし〉は皿のように目を見開いて硬直した。人のような影が、もがき苦しむ大蜘蛛の手足を生きながらにもいでいる。夕闇に溶けてはっきりしないものの、頭部から生えた二本のつのが危機的状況を伝えていた。

 鬼である。「人は食わんし、虫も食わん」

 虫にしか見えないものを口一杯に詰めながら、それがぞんざいに口を利いた。そら恐ろしい声ではあるが、断りを入れるところからして襲われる心配はなさそうだった。よほど腹が減っていたのか、鬼は亡骸なきがらから立ち昇る瘴気しょうきをものともせず死肉をほふり、咀嚼そしゃくを交えて「そいつは天神のつかいだ」と手の中から顔をのぞかせていた蛾を一瞥いちべつした。

 鬼は言った。腹が減っているところに、風に乗って妙なる匂いが届いたと。辿ってみれば骨と皮ばかりの人間が、同じく腹を空かせて山中をさまよっているのを見つけた。好奇心からあとをつけてみると、匂いに引き寄せられた神の使わしめが、やはり疲労困憊ひろうこんぱいていで飛んでくる。見たところはしにも棒にもかからぬ小者だが、まがりなりにも天に仕える身であるのでまがつものに狙われやすく、おまけに鈍くさいときているから案の定、匂いを嗅ぎつけた化け物の巣に自ら飛び込み、生き恥をさらした挙句に他力にすがって運に生かされた…と、ここまで聞いて手の中からわっと蛾が飛び出した。

 なるほど、人目につかぬ虫の姿を取っても気苦労は絶えぬということか。バタバタと怒り狂う蛾を眺めつつ、〈わたし〉はあやかしものを引き寄せてしまう体質を変えるすべはないかと鬼の知恵にすがった。暮れなずむ山中で一人心細かったというのもあるが、悪しきもののみを食してくれるならば、宮廷に出るというあやかしものも、この鬼ならば退治することができるやもしれぬと望みをかけたのである。

 これを聞いて、鬼は我が意を得たりとほくそ笑んだ。闇の中で光る目には、ぼさぼさの蓬髪ほうはつ神使しんしを乗せた〈わたし〉が釣餌つりえさに見えたのだろう。鬼は用心棒を務める代わりに腹を満たすことを約束させると、山を抜ける道を教えて闇に溶け消えた。〈わたし〉は小さなお供を目印に暗がりを進み、夜遅くに山を抜けて無事家に戻ることができた。

 不思議なことに、小さな蛾は囲炉裏いろりのある家で冬を越すことを決めたと見えて離れたがらなかった。神使とあらば悪さはせぬだろうと好きにさせ、〈わたし〉は空腹に引き込まれるようにして眠った。長い夜が明けて朝靄あさつゆの中に出ると、貴人の饗膳きょうせんに出されてもおかしくないほど立派なキジが一羽、家の前に打ち捨てられていた。

 これを食ってうまそうに肥えろということか。〈わたし〉は頭上にとまる神使に目配せし、辺りに鬼の姿がないことを確かめてから肉を手にいそいそと家に戻った。


 そこで夢が途切れた。

 これは一体、誰の記憶であるのか。胸のさざめきを聞きつけたように「聞くまでもないだろう」と、闇の中で声がした。嘲笑あざわうような調子でありながら、尾ひれにはわびしさが漂っている。

 声の主は言った。「とうの昔に死んだ男の夢さ」

 闇の中に立っていたのは、かりそめの姿をとった鬼だった。「阿久津あくつ…!」

「やぁ、今夜は馳走ちそうになったね」彼は弓なりに細めた瞳の奥で狡猾こうかつさを匂わせた。「腹がしっかり膨れたところで、あやかし談義としゃれこもうじゃないか」

 佐倉氏に再会したのは、それから日をまたいだ四日後のことだった。


 その頃すでに、構内では不穏な噂が行き交っていた。実際、氏が受け持つ研究室は一時閉鎖となり、間近に控えた福祉プロジェクトも急遽きゅうきょ取りやめとなった。というのも、暴力沙汰を起こした彼は大学側から数日の出勤停止を命じられ、これを機に非常勤講師と入れ替えるのではとささやかれていた。そんな折、氏から研究室に来てほしいとメールが届き、授業とバイトの兼ね合いを理由に十六時きっかりに訪ねると、そこには噂を如実にょじつにせんと片付けに奔走ほんそうする氏の姿があった。

「地震でもあったんですか?」

 水と油ほどに不釣り合いな光景に、思わず揶揄やゆが飛び出した。崩壊した瓦礫がれき都市の中でも生きていけそうな彼は、要不要を区別すべく抜き出した書類の山に囲まれて迷子になっていた。

「ぼくの後任が決まるまでに片付けておこうと思ったんですけど、なれないことはするものじゃないですね」と、き物が取れたような笑顔を見せる。

 なるほど。休職中に大学にいるところからして、噂の中身は確かだったらしい。

「ここはもう駄目です」わたしは滅びゆく惑星に見切りをつけるように辺りを見渡し、氏に研究室から出るようにうながした。

「こんなこともあろうかと、うまい茶をただで飲める場所を確保しておきました。少し付き合ってもらえませんか?」

 向かった先は、渚小鳥に頼んで貸し切ってもらった怪奇民族倶楽部くらぶ巣窟そうくつだった。

 長暖簾ながのれんをくぐると、室内は初めて阿久津と出会った時のように照明が落ちて肌寒かった。まずは明かりと暖房を入れ、〝風戸かざと専用″のメモが張られた外国製の紅茶とウェルカム煎餅もついでに拝借し、互いに席に着いたところで氏が口火を切った。

「ぼく、今期一杯で仕事を辞めることにしたんですよ」

 わたしは大して驚く風でもなく、ずずっと茶をすすった。この反応に「あ、やっぱり怒ってます?」と、佐倉氏はへりくだった笑みを見せた。

「そうですよね。ぼくのせいでみんなが取り組んでいたプロジェクトが台無しになって、きみや渚くんにも多大な迷惑をおかけしました。でも、仕事を辞めるのは単に責任を取る為だけじゃないんです。ぼく自身、いい加減、潮時だなって感じていたんですよ」

 氏は核心に踏み込むように一拍置くと、わたしを見てこう言った。

「ぼくはね、〈窮鬼きゅうき〉なんです」

 きゅうき?「きみは『和名類聚抄わみょうるいじゅしょう』を知っていますか?」

 氏は檀上と変わらぬ弁舌を振るった。「通称、和名抄わなしょうと呼ばれる日本最古の百科事典です。平安時代に作られたこの辞典は、漢文で鬼の語源が解説されている他にも、神霊類の事項に縊鬼いき疫病えやみの神に並んで窮鬼きゅうきの記載があるんです」

「確か、もっとも多く鬼の物語が語られたのが、平安時代でしたね」

 わたしは煎餅の封を切りながら合いの手を入れた。鬼は元々、中国では死霊をさす言葉で、六世紀末に日本に伝わると地霊や見えないものを意味する〈おん〉と重なって鬼と呼ばれるようになり、今日では強大さや畏怖いふすべきものなど意味合いが広がっている。

「噛み砕いて言うと、和名抄で初めて〝於邇おに〟という語が記載されたことで、平安時代後期から戦国時代にかけて鬼が説話に登場するようになったんです。真新しいところでは、浮世絵師の月岡芳年つきおかよしとしの作品にも『邪鬼窮鬼じゃききゅうき』というのがあります。みすぼらしい二匹の鬼が恵比寿えびすと大黒天をいじめている絵なんですけど、邪鬼はたたり神。窮鬼とされているのは、俗っぽくいってしまえば〈貧乏神〉のことなんですよ」

 そこまで言うと、彼は講師としての仮面を剥いでわたしに素面をさらした。

「ぼくに関わると不幸になる。きみも、とっくに分かっていましたよね」

 氏は呆れたように笑った。冷めゆく紅茶を手の中で持て余しながら、淡々と言う。

「ぼくの両親は至って普通なんです。家系をさかのぼってもシミ一つ見当たらなかった。でも、ぼくは生まれながらに人間なんです。母はぼくを生む際、医療ミスから危うく命を落とすところでした。父は、ぼくに触れたあとに災難に遭うと気付いてから笑ってくれなくなりました。この力をはっきり自覚したのは、小学一年生の時です。ぼくをよく思っていなかった同級生の男の子たちにコテンパンに叩きのめされて、幼かったぼくは抑制も利かないまま激しい怒りにとらわれたんです。すると二日も経たないうちに、ぼくをいじめた男の子たちは全員、後遺症が残るほどの事故や発熱に見舞われて学校に来られなくなりました。両親は怪我をして家に帰ってきたぼくを見ていましたから、すぐにぴんときたんでしょうね。このままではとんでもない大人になると危惧きぐして、ぼくをあるお寺の住職さんに預けたんです。正確には養子に出されたわけなんですけど、両親の立場からすれば致し方なかったのかなと今では思います。

 ぼくは大学の寮に入るまで、そのお寺で育てられました。でも住む場所を変えたからといって力が抑えられるわけもなく、ぼくを引き取ってくれたご住職もそれなりの法力をお持ちの方だったんですけど、早い段階でこう言われました。ぼくが生まれながらに背負った力は、抑えることも消すこともできない、と。彼いわく、人は能力や才能の有無にかかわらず、人生をしてでも成し遂げたいことがあって生まれてくるんだそうです。ぼくに備わった体質もそれにかなったものではないかというのが、その人の持論でした。当然、お寺で一緒に暮らしているお弟子さんたちは、やくをもらわないように適切な距離を保ってくれましたけど、ぼくがいた場所や使ったものでさえ引き金になってしまうと分かってからは、露骨に避ける方も中にはいらっしゃいました。

 でも一番辛かったのは、転校したあとも学校に通わなければならないことでした。こんな気質ですから、子供の頃のあだ名は一貫して厄病神です。大人になった今でも、友達は一人もいません。できても、すぐに離れていってしまうんですよ。いじめにも沢山遭いましたけど、ぼくに手を出すと返しが来ると分かって、みんなすぐに手を引いてくれました。そういう状況にい続けると分かってくることが一つだけあるんです」

 佐倉氏はにこりとわたしに微笑んだ。

「苦しい時にも離れないでいてくれる人が〝本物〟。つまりは、きみのような人です」

 どこかあっけらかんとした口ぶりからは、彼が味わってきた孤独や苦しみといったものは感じられなかった。

 それでも、氏は言う。

「ぼくに見切りをつけないでくれる人は、ごくまれです。そういう人には、自己犠牲の精神みたいなものが備わっているんですよ。裏を返せば、上っ面だけ見て近付いてくる人は、すぐに離れていくので分かりやすいんです。それは恋愛においても同じです」

 佐倉氏は一度言葉を切り、苦い笑みを浮かべて驚くべきことを打ち明けた。

「ここだけの話、ぼくはこの年になっても女性とキス以上の関係になったことがないんです。深い関係になる前に、色んな理由をつけられてフラれちゃうんですよ。彼女たちを不幸にしてしまった手前引き留めることもできず、次はいつまで続くんだろうなんて考えているうちに恋をするのが億劫になりました。そんな経緯もあって、恋とは無縁の場所で孤軍奮闘しているきみに、異様なまでの親近感を抱いてしまうんでしょうね」

 氏は悩ましげに腕を組んでうなずいた。否定はしないが、消化もできない。

 モテることを前提に生きてきた男の壮絶な悩みに、女子とたわむれたことすらないわたしが指南してやれることなど皆無だった。沈黙はきんと取ったのか「こんな私的な話、されても困りますよね」と、動揺の収まらないわたしにわびしい笑みを見せた。

「要するに、ぼくもそれほど恵まれた人間ではないということです。他人の運を無意識に奪ってかてとしてしまう力は、いわば諸刃もろはつるぎと同じですから。労なくして功を得ても達成感なんてものはありませんし、そもそも誰かの涙と引き換えに手に入れた幸運で幸せを感じることはありません。それでも人間ですから、ぼくにも限界というものがあります。

 中学に上がった頃でした。ぼくの噂を聞きつけた上級生たちが、呪いをかけてみろと悪質ないじめを仕掛けてくるようになったんです。それがまた結構なお手前で、その都度、人が通りかかったり、ちょっとした不幸が彼らに降りかかって救われるんですけど、教師でさえ厄をもらうこと恐れていましたから、神経衰弱に陥ったぼくに手を差し伸べてくれる人は誰もいませんでした。本来なら育ての親に相談するところなんでしょうけど、ご住職は弟子を何人も抱えて多忙な身でしたし、常日頃、感情を抑制するようにと言われていたので、誰にも甘えられない寂しさから心を閉ざしていたんです。それでつい、実の親に会いに行ってしまったんですよ。

 家の前に着くと、母が喜んで抱きしめてくれるんじゃないかと胸が一杯になったのを覚えています。でもその時ぼくが見たのは、幼い男の子と手を繋いで帰ってきた母の姿でした。スーパーの買い物袋を手に持っていて、ぼくがいると分かると酷くおびえた顔をしました。その子は、と聞くと、ぼくの弟だと言います。ご住職に養子に出してすぐ、両親はぼくの代わりを用意したんです。母は近付くでもなく、あちらさまが心配するからすぐにお寺に帰りなさいと言いました。それでやっと分かったんです。ぼくは捨てられたのだと。

 人の運を奪うといっても、ぼくにも不幸が降りかかるということです。未熟だったぼくは、あまりのやり切れなさに両親を恨んでしまいました。ぼくの後釜に居座った弟もです。そしてその日のうちに、ぼくが暮らしていた家は火事になってなくなりました」

 重たい告白に、飲み込もうとした煎餅を詰まらせそうになった。

 慌てて紅茶を飲む姿に、氏は泣きそうな笑みを貼りつけたまま目を伏せてしまった。

「やっぱり、引きますよね。両親と弟は助かりましたけど、凶報が飛び込んできてすぐ、ご住職はぼくを呼び出しました。ことのあらましを白状すると、彼は怒るでも嘆くでもなくぼくの手を取って、ただ「辛かっただろう」と言ってくれたんです。ぼくに触れただけで不幸がやってくるとわかっているのに、です。情けないことに、たったそれだけのことで涙が出てしまったんですよ」

 そう言って笑う氏の瞳は、にわかに熱を帯びて潤んでいた。湿り気を含んだ声は空模様にように移ろい、彼は呼吸を整えると続きを語った。

「彼は言いました。この世に同じ人生は二つとなく、人は十人十色の生涯を通して魂を磨いていくのだと。他者を傷付ける為に生まれてきた人間はいないが、完璧な人間というのもいない。よって心の弱い者、道理に暗い者、闇に落ちた者の毒牙によって傷付けられることもしばしばあるが、間違っても人生を悲観したり生い立ちを嘆いてはいけないと言われました。それは自分自身を見捨てるのと同じことだからです。彼はこうも言いました。どんな状況にも学びがあり、試練に立ち向かう姿勢こそが重要なのだと。そして泣きじゃくるぼくの前で顔をもみほぐして、こんな風に笑ってみせたんです」

 氏は両手で挟んだほおを持ち上げるようにして笑い、その時の様子を再現してみせた。

「まずは笑いなさい、すべてはそれからだと言われました」

 氏は穏やかな顔を見せた。「笑いたくない時にも笑う。つまり、辛い時に笑うことはとても辛いからこそ心の鍛錬たんれんになる、というのがご住職のお考えでした。よく〝笑うかどには福きたる〟なんて聞きますけど、あれには悲しいことや辛いことがあっても、希望を失わなければ幸せがやってくるという意味があるんだそうです。その日から、ぼくは努めて笑うようにしました。すぐに状況が変わることはありませんでしたけど、いじめの方はご住職が掛け合ってくれたお陰でなくなりましたし、ぼく自身、人あたりが柔らかくなったせいか苦境に立たされることがなくなりました。軽薄な人付き合いや両親に見切りをつけたのも大きかったと思います。それからも紆余曲折うよきょくせつありましたけど、ぼくは自分にまつわる事象を解明すべく民俗学の道に進みました。幸せと呼べるものに出会えたのは、それから何年も経ったある日のことです。アルバイト先で自分とよく似た笑い方をする人を見つけたんですよ」

 氏は恥ずかしそうに笑った。「きみもよく知る、鈴音さんです」

 まるで美しい初恋を語るように、佐倉氏は空になったカップを手の中で持て余した。

「初めて彼女を目にした時、あまりにもタイプだったので運命だと思いました。神さまがぼくの為に用意してくれた人なんじゃないかって。彼女の目を見ていると、自分と似たところがあるって分かるんです。それに初めてでした、ぼくが近付いても厄に当たらなかった人は。おそるおそる通い詰めるうちに気付いたんです、彼女が特別なことに」

 弾む声の裏側に潜むはかなさに、わたしは気付かないふりをしながらも胸を痛めた。

 思い出を語る彼の目は、笑っているのに泣いていた。

「どうしたら好きになってもらえるだろうって、毎日、年甲斐としがいもなく悩んでいました。鈴音さんはいつも笑顔の奥にある鉄壁の中にいて、ぼくが距離を縮めようとする度に遠ざかってしまうんです。そこで、きみの手を借りました。前にも話しましたけど、きみと一緒にいると火に油を注ぐ勢いで運が向くんですよ」実に嫌な表現である。

 佐倉氏は目尻にしわを刻みながら困り顔をした。

「もちろん、きみには申し訳ない気持ちで一杯でした。運が向くということは、きみにその代償を払わせているも同然ですから。そこでぼくは、罪滅ぼしに渚くんをこの件に巻き込むことにしたんですよ」――― ん?

 わたしは紅茶を飲む手を止めた。「どういう意味です?」

「あれ、まだ気付いていないんですか。そもそも彼女がうちの聴講生ちょうこうせいになったのは…」

 そこで、けたたましく携帯電話が鳴り響いた。寸断された会話を繋ぐように、発信元に渚小鳥の名前が出ている。何事かと通話に切り替えたところで、いきなり切られた。

 これは、なにかの予兆か? ちらりと氏の顔色をうかがうと、心を読んだように言った。

「あ、ぼくの力のことは、しばらく心配しなくていいですよ。一度大きな災いを呼び寄せると、元の体質に戻るまで十日ほどかかるんです」思ったより短いな。

 話の流れも戻ったところで、氏は吹っ切ったように言った。

「所詮ぼくなんて、人さまから運を分けてもらわなければなにもできない男なんです。うまく取り繕ったつもりでも、中身はまるで伴っていない。この力とうまく付き合っていくには、自覚がないふりをするのが一番なんですよ。言い換えれば、誰かが痛い目に遭っても見て見ぬふりとするということです。きみが考えているより、ぼくはずっと弱くて最低な人間なんです。唯一逃げないでいてくれた教え子さえ利用しました。鈴音さんが最後まで心を開いてくれなかったのも、そういうところを見透かされてのことだったと思います。実を言うと、同窓会の話が出る少し前にフラれちゃったんですよ。それも、完膚かんぷなきまでに」

 氏は苦し紛れに笑った。聞けば、秘密のバイト帰りに鈴音さんの店に立ち寄った際、彼女から金輪際こんりんざい、付きまとわないでほしいと辛辣しんらつな言葉で拒絶されたという。あまりの破壊力に心が端微塵ぱみじんに吹き飛んだものの、彼は恩師の教えを忠実に守って笑顔で別れを告げ、いっそ死んでしまい気持ちを引きずりながら店をあとにした。しかし、そこで終わらないのが不倒翁ふとうおうたる彼のすごいところである。

 死地を求めてさまよっていたところ、孫を溺愛する善行さんが偶然現れ、窮地きゅうちにいた彼を救ったのだ。

 氏が軽はずみにフラれたことを明かすと、彼をいたく気に入っていた御仁は訳知り顔を見せて逡巡しゅんじゅんしたのち、談話の場を喫茶店に移して鈴音さんの過去を打ち明けた。蛇男の口ぶりからおぼろげに想像していただけに、改めて聞く事件の概要は痛ましかったという。

 鈴音さんは高校三年生に上がったばかりの頃、何者かによって下校途中に拉致らちされ、雑木林を両断する私道沿いにあった廃倉庫の中から心神喪失の状態で発見された。頭に袋をかぶせられていたせいで犯人を断定することができず、一歩も外に出られないほどの神経衰弱に陥ってしまった彼女は、高校を中退後はカウンセリングを中心に療養し、その過程で始めた絵をライフワークに創作活動を始めたのだ。

 しかし、プライベートでは男性不信が元で交際が長続きせず、善行さんは幸せの種を自ら摘み取ってしまう有様に胸を痛めていた。「あとから聞いたんですけど、ぼくを突き放したその夜も、鈴音さんは部屋にこもって泣いていたそうです」

 先程までの笑みを打ち消して無表情を装う氏の眼差まなざしは、抑圧された怒りと彼女を想うやるせなさから暗く陰っていた。彼はあごに力を込めて言った。

 愛する人の痛みを知ったあとで、呪われた力を使うことにためらいはなかったと。「彼女の人生を壊しておきながら、のうのうと生きているやからが許せなかったんです」

 氏が押し殺した声で語ったことには、願いを叶えるほどに強大な幸運を引き寄せるには、いじめに耐え忍んでいた時のように充電期間が必要で、復讐を心に決めてからほどなくして転がり込んできた同窓会話に、彼は鈴音さんを襲った犯人、あるいは犯行を目撃した人物がその中にいると確信したという。善行さんからの依頼を引き受けると、金輪際、近付かないことを前提に鈴音さんをそそのかし、復讐を遂行するに必要な撮影係と修羅場を炎上させる油係を用意した、というわけだった。

「きみを巻き込んだのには、もう一つ理由があります」

 佐倉氏は確信めいた眼差しでわたしの心を射抜いた。「うまく説明できないんですけど、きみにはぼくとはまた違った〝引力〟みたいなものが備わっている気がするんです。これまで聞いたオカルト話から察するに、その目にはゆがみなくものを見定める力があるんじゃないでしょうか」

 ――― あやかしを退治するのに、何故きみにいちいち正体を見極めさせると思う?

 記憶の中で阿久津の言葉が重なった。「自分ではよく分かりません」

 目をそらして答えを濁すと、茶をすするわたしに氏はわびしげに表情を緩めた。

「それでも犯人を特定できたのは、きみがいてくれたお陰です。こうやって秘密を明かすのも、これまでのことを詫びるとともに、きみにお礼が言いたかったからなんです。鈴音さんには嫌われてしまいましたけど、悪者を退治することはできましたから」

 後日聞いた話では、転倒の弾みで後頭部を打ちつけた榎田は、重度の頚髄けいずい損傷で首から下に全身麻痺をわずらい、蛇の生殺しとばかりに天井を見つめるだけの人生が約束されたという。彼の共犯者二名も、氏と通話中に前方を走行していた大型トラックから落下した資材が元で事故を起こし、一人は意識不明の重体。もう一人も潰れた車体に挟まれた両脚を切断するなどの後遺症を負った。警察は榎田が最初に受けた暴行が元で脳震盪のうしんとうを起こしたのでと疑っていたようだが、交通事故の直前に電話をかけてきたのが相手からだったように、撮影された動画から自発的な事故と断定したと聞いた。

 氏は遠くを見るような目をして言う。

「人を呪わば穴二つ。ぼくも死んだら地獄に落ちると思います。でも、後悔はしていません。結果的に鈴音さんの過去を大衆の目にさらす形になりましたけど、暴いた真相を起爆剤に立ち上がってくれるとぼくは信じています。彼女には支えてくれるご家族もいますし、本当はとても強い人ですから。助けが必要なのは、むしろぼくの方なんです」

 氏は急転直下の勢いで話の矛先ほこさきを変えた。

「実はぼくにかけられた呪いはもう一つあってですね、どうにも片付けができないんです」やはり、そう来たか。

 わたしも急いで話の矛先を変えた。「次の職の当てはあるんですか?」

「ひとまず、お寺に帰ろうと思っています。これ以上、民俗学を追及しても呪いの解明には至らなそうですし、貧乏神が去ったあとには福が来ると言いますから、ぼくの後任もすんなり決まって、きみにもついに恋人ができるかもしれませんね」一言多いな。

 嬉々と語る佐倉氏の目には、言葉とは裏腹に涙が溜まっていた。人から運を奪っても幸せになれないのだとしたら、彼にとっての幸せとは、わたしたちが息を吸うのと同じぐらい当たり前に享受きょうじゅしている普遍的な日常を言うのだろう。

「きみには本当に感謝しています。いい先生にはなれませんでしたけど、忙しいなりにも毎日が充実していました。慕ってくれる教え子がいるというのは、とても幸せなことです」

「そう言っていただけると、災難に耐え続けた甲斐があった気がしないでもないです」

 心にもないことを言って、わたしは空になったカップを置いた。部室の掛け時計は早くも夕方五時を指し示し、例によって窓の外もすっかり日が落ちている。

 ここいらが引き際だろう。

「じゃあ、そろそろ…」

 わたしは見切りをつけて立ち上がり、別れの笑みを浮かべる氏に颯爽と風戸専用アイマスクを差し出した。「…ん?」

 突如突きつけられたアイテムを前に、愁嘆場しゅうたんばの只中にいた佐倉氏はきょを突かれたように唖然とした。

 わたしは余計な詮索をされる前に切り出した。

「これをつけてもらえたら、新たな門出のはなむけに面倒な片付けを一切しなくて済む裏技を伝授します。猫の手、山ほど借りたくないですか?」

「借りたいです」氏は速やかにアイマスクに手を伸ばし、感嘆に値する潔さで視界を覆った。子供に引けを取らないこの素直さが人々を魅了するのだろう。

「色々と打ち明けてもらって言うのもなんですが、あの騒動を通して思ったことは一つだけです」

 去り際、わたしはいつもより小さく見える彼を見下ろして言った。

「とてもきれいなストレートパンチでした」

 氏は寂しそうに笑い、応答がないと分かると、おそるおそるアイマスクを外した。

 スチール棚の陰に身を潜めたわたしからは、魂を引っこ抜かれたように呆ける横顔しか見えなかった。彼は魔法のように現れた鈴音さんを前に石と化していた。

「ほんとに困った人ね」

 鈴音さんは泣きたそうな笑みを浮かべ、椅子に腰かけている氏に合わせてかがみ込んだ。そしてあの夜、彼がしたように両手を取ると言った。

「片付けをしなくて済む方法は一つしかないじゃない。このまま大学に残るのよ」

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