第11話 『 禍福 』
前日の夕時、見舞いという名目で彼女と
そこで不測の事態が起きた。「――― あら、渚さんじゃない」
振り返ると、英文学科の専任講師である真宮女史が角封筒を抱え、高く結った後ろ髪をなびかせながら向かってくるところだった。事務室になんらかの書類を届けに来たらしい。コンパスのように長い脚を包むパンツに細身を強調する青いネックセーターからは、白いニットワンピースを着用している鈴音さんと真逆の印象を受けた。
真宮女史も同じ感想を抱いたのか、あるいは単にわたしが彼女の恋心を知っているせいか、軽い
「もしかして、
知的に微笑む真宮女史の奥歯に、わたしはきらりと光る剣の切っ先を見たように思った。噂と聞いて思い浮かんだものがよくなかったせいもある。
「そうだ。もしよかったら、わたしが図書館までご案内します」
真宮女史は窓口で出された入館証を受け取り、まごつく教え子を尻目に目を輝かせた。「講師の中で年が若いせいか、構内見学の案内をよく任されるんです。かわいい教え子が
「で、でも鈴音さんはうちの部で…!」
「喜んでお受けします」
鈴音さんは渚小鳥の腕を取って快く申し出を受けた。大人として礼儀を重んじたのだろう。髪の合間からテレパシーを送るわたしにも「大丈夫よ、急にいなくなったりしないから」と気丈に微笑んだ。
「小鳥ちゃんがそばにいてくれたら心強いもの。予定の時間まで少しあるし、
そう言って構内ツアーに出掛けていった彼女だが、真宮女史との時間は思いのほか安らいだと見えて、佐倉氏の手を包む横顔は慈愛に満ちて力強かった。
「ちょっとつまずいただけで仕事を辞めちゃうなんて、いつもわたしを励ましてくれた人はどこにいっちゃったの? わたしなんて、メソメソしてるところを無理矢理、引っ張り出されてお説教よ。あなたのお弟子さんがおじいちゃんをそそのかしたの。人との縁を切るのは簡単だけど、本当のあなたを知る努力もせずに切り捨てるのは道理が違うって。あんな話を聞かされたら、世界で一番不幸だと思ってた自分が馬鹿みたいじゃない」
「ずっと、聞いていたんですか?」
夢を見ているような口ぶりからは心の動揺がうかがえた。方やその裏側でも、鈴音さんと身をひそめていた渚小鳥が身の上話に
「あなたの気持ちも知らずに酷いことばかり言って、ごめんなさい」
「そんなもの、嫌う理由になんかなりませんよ」
涙で言葉を潰す鈴音さんに、彼もまた苦しみから目をそらすように笑みを繕った。
「あの夜、見たでしょう。人に害をなす存在という点では、ぼくに誰かを裁く権利なんてないんです。それに本当は、ものすごく打たれ弱いんです。笑っていないと、辛いと思っている自分を
「お店で言ったことは本心じゃない」鈴音さんは涙を散らした。「あなたがうちに来てくれた時、本当は離れないでいてくれたことが嬉しかったの。この人は本物かもしれないって思えた。わたしも塞ぎ込んでいた時に、おばあちゃんに言われたの。千吉良家の女なら、どんなに辛くとも立ち上がりなさいって。苦難に耐えている自分を誇りに思えれば、いずれ向こうから幸せがやってくるからって。でもわたし、自分が幸せになってる未来がちっとも想像できなくて、それがあなただってすぐに気付けなかった」
佐倉氏は悲しげに笑った。「おかしな話ですね。ぼくは厄病神ですよ」
「それがなによ」
鈴音さんは
「わ、わたし、男の人とこうやって触れ合うのも、本当はすごく苦手なの」鈴音さんは震えを押し殺しながら続けた。「でも柊平くん、言ってくれたでしょう。地獄のような苦しみに耐えてきた分、これからは自分の幸せだけを考えてって。それはあなただって同じよ。本当にわたしのことが欲しかったら、簡単にあきめたりしないで」
彼は心に突き動かされるまま、一も二もなく鈴音さんを抱き返した。
こわごわと回された腕は、生涯の宝を手に入れたように力んでいた。長い苦しみの果てに辿り着いた相手だからこそ、その尊さが身にしみるのだろう。二人は
その音色がわたしだけに聞こえたものなのかは分からなかった。見ているだけで顔が
「先輩、いいことをしましたね」
ぐずぐず鼻をすすり、渚小鳥は妖怪が描かれたハンカチで涙を拭った。雨降って地固まるとは、まさにこのことである。
本当の幸福を手にする為には、利己をかえりみず信念を貫いた氏のように、そして厄をも恐れぬ鈴音さんのように、
わたしは
わたしは鼻をかんでいる渚小鳥を改めて見やった。「そういえば、さっきなんで電話なんてかけ――― 」
「操作を誤りました」彼女は切り捨てる勢いで言葉をかぶせた。
メロウなエンディングに心をかき乱されたのか、丸めた鼻紙をショートコートのポケットに突っ込み、そこから申し訳程度に携帯電話を覗かせた。そうか、と秘かに気落ちするわたしの頭上から、慰めとは程遠いにわか雨が
彼女が悲鳴を漏らすと同時に、わたしも天井を見上げた。眠り続ける火災報知器を尻目に、何故かスプリンクラーだけが作動している。それもわたしたちがいる一角に限り、今度は照明が落ちてしまった。「先輩…!」
薄闇の中、渚小鳥がおびえたようにわたしにひっついた。佐倉氏から離れていた厄が駆け足で戻ってきたのだろうか。急いで部室に避難したいところだが、熱々ムードの最中に水を差すわけにもいかず、どうしたものかと廊下を見通すと、異変を嗅ぎつけたようにたたずむ人影を遠くにとらえた。
あれは…。「真宮先生?」
渚小鳥は晴れ間を見つけたように声を上げた。「大変です、スプリンクラーが…!」
明かりを背に受けた姿は、見紛うことなく真宮女史であった。しかし、なにやら様子がおかしい。わたしは雨宿り先を見つけたように駆け出そうとした渚小鳥の腕を、半ば反射的に掴んで押し留めた。
その近くで計ったように扉が開いた。
「わっ、どこかで火事ですか?」と、対岸で燃え上がっていた男が
「やだ、大変…!どうしてそんな酷いことになってるの?一体、なにが――― 」
途切れた言葉の先は短い悲鳴にすり替わった。廊下の照明が息を吹き返すと同時に、卒然と部屋の明かりが落てしまったのだ。パニックに陥る鈴音さんに駆け寄ろうと、佐倉氏が我々の横をすり抜けた時だった。
天井から思いがけず
ふと目を向けると、
闇の中で見えたのは、能面を連想させる白い顔だった。首がねじれているとしか思えない角度で上向き、糸目がくり抜かれたように黒く広がった直後、帯と思しき無数の物体が鈴音さんの首周りに絡みついた。その姿が闇に溶け消える直前、あえかな悲鳴を掴むように伸ばされた氏の一手が彼女の腕に届いた。
すべては一瞬の出来事であった。
――― そいつを使うにさし当たって、注意事項がいくつかある。
わたしは濡れたスウェットの上から御守りを掴んだ。「お、お二人はどこにいったんですか?」と聞かれて動悸が早まる。暮れなずむ窓の外に焦燥と目を向けると、鏡面世界にたたずむわたしの姿が揺らいで
――― そして一番大事なことは、相手の姿をはっきり見るということだ。
闇に反転した世界では、小さな
それこそ、悪夢の続きを見ているように。「あの夢と同じだ」
わたしは瞳を揺らし、誰のものともしれぬ古い記憶に目を向けた。
〝彼〟に再会したのは、佐倉氏と鈴音さんを引き合わせる二日前のことだった。
例によって、〈わたし〉は小さな蛾を守護神にあやかしをおびき寄せ、腹を空かせた鬼に食わせるということしていた。子供をさらう人食いに、四つ
彼女は呆れ果てながらも言った。きな臭い鬼の力など借りずとも、〝
姫君の身を案じて
彼は武芸を磨く家の生まれと聞いていた通り、貴族に仕える身でありながら
月が高く昇る頃、
礼を欠いた言い草に、鬼も気を悪くしたようだった。「しからば」と息巻いて闇に溶け消えると、どこか見覚えのある男がぬらりと木陰から
怒る〈わたし〉をよそに、武士殿はこれに気をよくして少しの信頼を寄せた。鬼らしからぬ近しい振る舞いに
中は〈わたし〉が前回訪れた時と変わらず、
彼は美しい内装を一目見るなり、この部屋がもっとも荒れていると言ったのである。
鬼の目になにが映っているのか、〈わたし〉の
どこが発生源かは分からなかった。床を
このことを伝えると、武士殿は血の気を欠いて姫君の暮らす
彼は何故早く異変を伝えなかったと口を尖らせたが、人間の巣に初めて足を踏み入れた方からすれば、とんだとばっちりである。鬼が眼光鋭く武士殿を
彼女は顔を突き合わせるなり、張り詰めた表情を解いて〈わたし〉にすがった。姫君と居室に留まっていたところ、女官の一人が血相を変えて武士殿に鬼がついていると告げに来たのだという。抜かりを見て取った彼女は、自分より身分の高い女官に姫君を託し、〈わたし〉が
彼女が瓜二つの顔を持つ男の登場に目を剥く横で、お守役の蛾もはたはたと天井高く舞った。呆気に取られているわたしたちに、この意味を察した武士殿が声を尖らせた。
かりそめの姿を見破れるのは、同じ鬼だけだと。
床を
天井裏にはびこるツタの中に、〈わたし〉は異形の者をしかととらえたのである。それを目にした瞬間、ぽっと
「それの名は――― !」と、口を突いた矢先のことだった。
そこで、ぶつりと記憶が途切れた。
一体、なにが起きたというのか。乱暴な幕引きにいぶかると、「あれの代わりに命を落としたのです」と闇がさざめいた。
男とも女ともつかない、
つけ入る相手は誰でもよかった。人間なら誰しも、一度ならず嫉妬や憎しみを抱くからだ。あの時は、武人に
しかし、
「待ってくれ…!」
わたしは闇に溶け消える声を呼び止めた。その目には心に灯る恐怖が見えたのだろう。ひらりと白いものが視界を遮ったあとに、古くほころびた記憶が脳裏をよぎった。
こと切れた〈わたし〉に寄り添い、泣き崩れる幼馴染の姿である。
あの娘は誰よりも先に
その痛みがもたらしたのは、小さくも大きな気付きだった。
「あやかしを退治するのに、何故きみにいちいち正体を見極めさせると思う?」
同窓会事件の夜、夢に現れた阿久津の言葉が遅まきながら意味をなした。
彼はあやかし談義と称して、
「それにもまして、憑き物を見抜ける人間というのも
阿久津は大蛇をむさぼった腹を愛おしげにさすり、
「わけが分からん」わたしは投げやりに腕を組んだ。「たまたま、そう見えただけだ」
「この世に〝たまたま〟なんてものはありはしないよ」
闇の中、
見てみろ、と
ぎょっとするわたしに、「さて、今度はどちらが釣られる側かな」
阿久津が氷の笑みを浮かべると、二人の間でひらりと白銀の粉が舞った。夢が遠ざかる間際、彼は小さなお供を頭上に載せてわたしをひたむきに見つめた。
「頼むから、今度ばかりはしくじってくれるなよ」
その意味を解した時には、すでに取り返しのつかない事態に陥っていた。
佐倉氏と鈴音さんが消失した一室で、わたしは救いを求めるように窓に映る
これを聞くと、彼女は思案顔で妖怪の名を挙げた。「まるで〈
彼女が見せてくれた怪民
渚小鳥はひらめいたように息を詰めた。「諦めるのは、まだ早いかもしれません」
彼女は慌ただしくコートのポケットから携帯電話を取り出し、愛らしくも力強い瞳に美しい光を浮かべてわたしを見つめた。
立ち行かない時代に支えてくれた、彼女のように。
「今こそ虎の威を借りる時です。
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