第11話 『 禍福 』

 なぎさ小鳥が鈴音さんを連れて大学の窓口に姿を見せたのは、約束の十五時より少し早いぐらいだった。

 前日の夕時、見舞いという名目で彼女と千吉良ちぎら家を訪ね、善行よしゆきさんを介して説得したことが功を奏した。同窓会以来、家に引きこもっていたという鈴音さんを連れてくる任を全うした渚小鳥は、わたしと合流するとすぐに窓口で学外者用の入館証を申請した。S大学では一般人の大学見学を自由としているが、授業が閉講している時間帯に部外者がうろついては不審に思われるので、図書館の利用を目的として入館証を発行したのである。

 そこで不測の事態が起きた。「――― あら、渚さんじゃない」

 りんつやめいた声が、冬の寒さに沈む通路に響き渡った。

 振り返ると、英文学科の専任講師である真宮女史が角封筒を抱え、高く結った後ろ髪をなびかせながら向かってくるところだった。事務室になんらかの書類を届けに来たらしい。コンパスのように長い脚を包むパンツに細身を強調する青いネックセーターからは、白いニットワンピースを着用している鈴音さんと真逆の印象を受けた。

 真宮女史も同じ感想を抱いたのか、あるいは単にわたしが彼女の恋心を知っているせいか、軽い挨拶あいさつを挟みながらも観察に余念がないように見えた。無論、わたしのような朴念仁ぼくねんじん蚊帳かやの外で、渚小鳥が手短に鈴音さんを紹介すると訳知り顔を見せた。

「もしかして、風戸かざとくんが前に話してくれた人かしら。佐倉先生と一緒にミステリーツアーに参加したっていう絵本作家さん。噂に聞いていた通り、きれいな人ね」

 知的に微笑む真宮女史の奥歯に、わたしはきらりと光る剣の切っ先を見たように思った。噂と聞いて思い浮かんだものがよくなかったせいもある。

「そうだ。もしよかったら、わたしが図書館までご案内します」

 真宮女史は窓口で出された入館証を受け取り、まごつく教え子を尻目に目を輝かせた。「講師の中で年が若いせいか、構内見学の案内をよく任されるんです。かわいい教え子が粗相そそうをしていないかも含めて、お話を聞かせて下さい」

「で、でも鈴音さんはうちの部で…!」

「喜んでお受けします」

 鈴音さんは渚小鳥の腕を取って快く申し出を受けた。大人として礼儀を重んじたのだろう。髪の合間からテレパシーを送るわたしにも「大丈夫よ、急にいなくなったりしないから」と気丈に微笑んだ。

「小鳥ちゃんがそばにいてくれたら心強いもの。予定の時間まで少しあるし、柊平しゅうへいくんに会う前に気持ちを整理しておきたいの。また一時間後に約束の場所で会いましょう」

 そう言って構内ツアーに出掛けていった彼女だが、真宮女史との時間は思いのほか安らいだと見えて、佐倉氏の手を包む横顔は慈愛に満ちて力強かった。


「ちょっとつまずいただけで仕事を辞めちゃうなんて、いつもわたしを励ましてくれた人はどこにいっちゃったの? わたしなんて、メソメソしてるところを無理矢理、引っ張り出されてお説教よ。あなたのお弟子さんがおじいちゃんをそそのかしたの。人との縁を切るのは簡単だけど、本当のあなたを知る努力もせずに切り捨てるのは道理が違うって。あんな話を聞かされたら、世界で一番不幸だと思ってた自分が馬鹿みたいじゃない」

「ずっと、聞いていたんですか?」

 夢を見ているような口ぶりからは心の動揺がうかがえた。方やその裏側でも、鈴音さんと身をひそめていた渚小鳥が身の上話に涙腺るいせんを破壊され、別の扉から退室するはずが嫌よ嫌よとかぶりを振られてしまい、そこから身動きが取れずにいた。

「あなたの気持ちも知らずに酷いことばかり言って、ごめんなさい」

 黒子くろこ二名が逃げ遅れているとも知らずに、鈴音さんは瞳を濡らした。「柊平くんはいつもわたしのことを思ってくれていたのに、これまで近付いてきた男の人たちと同じなんじゃないかって信じ切れなかったの。そういう人たちは、わたしに触れないって分かると途端に冷めちゃうのよ。もう傷付きたくなくて、引き返せなくなる前に遠ざけなきゃって自分の気持ちにふたをしたの。あなたに過去を知られて嫌われたくなかったから」

「そんなもの、嫌う理由になんかなりませんよ」

 涙で言葉を潰す鈴音さんに、彼もまた苦しみから目をそらすように笑みを繕った。

「あの夜、見たでしょう。人に害をなす存在という点では、ぼくに誰かを裁く権利なんてないんです。それに本当は、ものすごく打たれ弱いんです。笑っていないと、辛いと思っている自分をあざむけないんです。嫌われるのは、むしろぼくの方ですよ」

「お店で言ったことは本心じゃない」鈴音さんは涙を散らした。「あなたがうちに来てくれた時、本当は離れないでいてくれたことが嬉しかったの。この人は本物かもしれないって思えた。わたしも塞ぎ込んでいた時に、おばあちゃんに言われたの。千吉良家の女なら、どんなに辛くとも立ち上がりなさいって。苦難に耐えている自分を誇りに思えれば、いずれ向こうから幸せがやってくるからって。でもわたし、自分が幸せになってる未来がちっとも想像できなくて、それがあなただってすぐに気付けなかった」

 佐倉氏は悲しげに笑った。「おかしな話ですね。ぼくは厄病神ですよ」

「それがなによ」

 鈴音さんは敢然かんぜんと立ち上がり、思い切ったように佐倉氏を抱きしめた。

「わ、わたし、男の人とこうやって触れ合うのも、本当はすごく苦手なの」鈴音さんは震えを押し殺しながら続けた。「でも柊平くん、言ってくれたでしょう。地獄のような苦しみに耐えてきた分、これからは自分の幸せだけを考えてって。それはあなただって同じよ。本当にわたしのことが欲しかったら、簡単にあきめたりしないで」

 彼は心に突き動かされるまま、一も二もなく鈴音さんを抱き返した。

 こわごわと回された腕は、生涯の宝を手に入れたように力んでいた。長い苦しみの果てに辿り着いた相手だからこそ、その尊さが身にしみるのだろう。二人はみしめるように互いを感じ、言葉なくして想いを通わせた。その傍ら、溶け合う心からこぼれ落ちた一滴の喜びが、リン…と美しい波紋を描いて耳朶じだを震わせた。

 その音色がわたしだけに聞こえたものなのかは分からなかった。見ているだけで顔が火照ほてりそうな展開に、わたしは泣き濡れる渚小鳥を連れだって床をい、いそいそと部屋を脱した。照明が連なる廊下は森々しんしんと冷え込み、音もなく扉を閉めるとリュックサックと上着のミリタリーコートを部室に置き忘れてきたことを思い出した。

「先輩、いいことをしましたね」

 ぐずぐず鼻をすすり、渚小鳥は妖怪が描かれたハンカチで涙を拭った。雨降って地固まるとは、まさにこのことである。

 禍福かふくあざなえる縄のごとし。幸福と不幸は変転するものだという教えは、戦国の戦いを記した史記や漢書を由来としているが、一説では福の神と貧乏神は一心同体とされ、不幸を追い出そうとすれば、本来得られるはずだった幸せも逃げてしまうといわれている。

 本当の幸福を手にする為には、利己をかえりみず信念を貫いた氏のように、そして厄をも恐れぬ鈴音さんのように、清濁せいだくあわせ呑む度量と覚悟が求められるのかもしれない。

 わたしは慰労いろうの意を込めて、協賛者の頭をぽんぽんとなでた。思い返してみれば、魔のどら焼き事件や恐怖トンネルしかり、厄に当てられたあとには思いがけない出会いや恵みがもたらされた気がしないでもない。

 わたしは鼻をかんでいる渚小鳥を改めて見やった。「そういえば、さっきなんで電話なんてかけ――― 」

「操作を誤りました」彼女は切り捨てる勢いで言葉をかぶせた。

 メロウなエンディングに心をかき乱されたのか、丸めた鼻紙をショートコートのポケットに突っ込み、そこから申し訳程度に携帯電話を覗かせた。そうか、と秘かに気落ちするわたしの頭上から、慰めとは程遠いにわか雨が裾引すそびくように降り出した。 

 彼女が悲鳴を漏らすと同時に、わたしも天井を見上げた。眠り続ける火災報知器を尻目に、何故かスプリンクラーだけが作動している。それもわたしたちがいる一角に限り、今度は照明が落ちてしまった。「先輩…!」

 薄闇の中、渚小鳥がおびえたようにわたしにひっついた。佐倉氏から離れていた厄が駆け足で戻ってきたのだろうか。急いで部室に避難したいところだが、熱々ムードの最中に水を差すわけにもいかず、どうしたものかと廊下を見通すと、異変を嗅ぎつけたようにたたずむ人影を遠くにとらえた。

 あれは…。「真宮先生?」

 渚小鳥は晴れ間を見つけたように声を上げた。「大変です、スプリンクラーが…!」

 明かりを背に受けた姿は、見紛うことなく真宮女史であった。しかし、なにやら様子がおかしい。わたしは雨宿り先を見つけたように駆け出そうとした渚小鳥の腕を、半ば反射的に掴んで押し留めた。

 その近くで計ったように扉が開いた。

「わっ、どこかで火事ですか?」と、対岸で燃え上がっていた男が長暖簾ながのれんの間から顔を覗かせた。見れば部屋の中は明かりが灯り、暖房もしっかり生きている。人を呼びにいったのか、改めて廊下の先を見通した時には真宮女史の姿はなく、用はなしたとばかりにスプリンクラーが停止した。なにがなんだか分からぬうちに氏によって部屋に引き入れられると、ずぶ濡れた我々の姿に鈴音さんがぎょっとした。

「やだ、大変…!どうしてそんな酷いことになってるの?一体、なにが――― 」

 途切れた言葉の先は短い悲鳴にすり替わった。廊下の照明が息を吹き返すと同時に、卒然と部屋の明かりが落てしまったのだ。パニックに陥る鈴音さんに駆け寄ろうと、佐倉氏が我々の横をすり抜けた時だった。

 天井から思いがけず衣擦きぬずれの音が降ってきた。

 ふと目を向けると、万有ばんゆう引力の法則をど返しして鎮座する黒い人影をとらえた。

 闇の中で見えたのは、能面を連想させる白い顔だった。首がねじれているとしか思えない角度で上向き、糸目がくり抜かれたように黒く広がった直後、帯と思しき無数の物体が鈴音さんの首周りに絡みついた。その姿が闇に溶け消える直前、あえかな悲鳴を掴むように伸ばされた氏の一手が彼女の腕に届いた。

 すべては一瞬の出来事であった。乾坤一擲けんこんいってき、渦中に飛び込んだ佐倉氏もろとも、二人の姿が忽然こつぜんと目の前から消え失せた。「え?」と声が枯れると同時に、薄闇に目を走らせていた我々の頭上で明かりが戻った。締め切られた室内に人が出入りした形跡はなく、髪やあごの先から滑稽こっけいしずくがしたたると、胸の奥で冷たい予感がこみ上げた。

 ――― そいつを使うにさし当たって、注意事項がいくつかある。

 わたしは濡れたスウェットの上から御守りを掴んだ。「お、お二人はどこにいったんですか?」と聞かれて動悸が早まる。暮れなずむ窓の外に焦燥と目を向けると、鏡面世界にたたずむわたしの姿が揺らいで浴衣ゆかた姿の男が険しい面持ちで見返してきた。

 ――― そして一番大事なことは、相手の姿をはっきり見るということだ。

 闇に反転した世界では、小さなが窓に突進しては突っぱねられるということを繰り返していた。こちらを見据える金色こんじきの瞳にも、一刻の猶予ゆうよも許さない苦い思いがありありと浮かんでいる。

 それこそ、悪夢の続きを見ているように。「あの夢と同じだ」

 わたしは瞳を揺らし、誰のものともしれぬ古い記憶に目を向けた。

 〝彼〟に再会したのは、佐倉氏と鈴音さんを引き合わせる二日前のことだった。


 例によって、〈わたし〉は小さな蛾を守護神にあやかしをおびき寄せ、腹を空かせた鬼に食わせるということしていた。子供をさらう人食いに、四つつじに現れる人食い。旅人を惑わす人食いなど、どれも行商の合間を縫って行うには過酷だったが、鬼が気まぐれに寄こす食べ物は実入りの少ない生活を大いに支え、屋敷に改めて招いてくれた幼馴染おさななじみのきみも、頭上にとまる蛾はもとより、〈わたし〉の血色がいいのを見てすこぶる不信感を抱いていた。訥々とつとつとなりゆきを語り始めると見る見るうちに血の気を失い、鬼と親しくしているくだりでくらりとめまいを起こした。

 彼女は呆れ果てながらも言った。きな臭い鬼の力など借りずとも、〝天眼通てんがんつう〟を持つ〈わたし〉ならば、まがつものの正体もたやすく暴けましょう、と。まして、聖域たる宮中にむざむざ鬼を招くなど笑止千万。仮に小さな虫が天神の使いだったとしても、屋敷に潜むあやかしをあぶり出すことはおろか、天井裏のほこりを払うほどの器量さえ見受けられない…と、ここまで言われて〈わたし〉の守護神さまが怒り狂った。小さな身をていして彼女にまとわりつき、こちらで上がる悲鳴に反して、くっくっ…と御簾みすの前で笑いが起こった。

 姫君の身を案じてせ参った、くだんの想い人である。

 彼は武芸を磨く家の生まれと聞いていた通り、貴族に仕える身でありながら敷居しきいが低かった。平民である〈わたし〉の話をあしらうことをせず、なにかあれば対処すると請け負って姫君をなぐさめた。人の作ったか細き刀で鬼が切れると思っていたのだろう。

 月が高く昇る頃、釣殿つりどの――― 池に面して設けられた寝殿造りの一角――― から離れた庭園の中島にて鬼を呼び出すと、闇を介して現れた用心棒の姿に、意気軒高いきけんこうと構えていた武士殿はあんぐりと口を開けて刀を抜いた。頼みの綱を切られてはかなわぬと慌てて間に入ったが、彼は鬼をかばう〈わたし〉に寝殿にておぞましき姿をさらせば、おのずと近衛このえが集うといさめて刀を収めた。

 礼を欠いた言い草に、鬼も気を悪くしたようだった。「しからば」と息巻いて闇に溶け消えると、どこか見覚えのある男がぬらりと木陰からでた。いささか大振りではあるが、かき乱した蓬髪ほうはつにひょろりとした長身痩躯そうく。借り物にしか見えない狩衣かりぎぬ姿といい、まさに生き写しと見紛う出来栄えであった。唯一、薄ぼんやりとした表情に抜かりを見て取ったので指摘すると、池に映る奴に言えと開き直られた。

 怒る〈わたし〉をよそに、武士殿はこれに気をよくして少しの信頼を寄せた。鬼らしからぬ近しい振る舞いに真髄しんずいを見たのだろう。雛月ひいなづき迫る寒空の下、小さな虫と人に化けた鬼を連れ、武士殿と〈わたし〉は姫君が暮らすひんがしたい――― 主殿の東に位置する対の屋――― には戻らず、人目を避けて寝殿の外周を進み、列柱と手すりからなる透廊すいろうを通って室礼しつらいに潜り込んだ。裏鬼門に当たる南西の部屋は女房どもが集う台盤所だいばんどころからほど近い場所にあったが、寝入る時間帯とあって蔀戸しとみどが閉じられ、守衛このえも外から入る冷気を忌んで火鉢を囲っているようだった。御簾みす几帳きちょうで仕切られた部屋の前をずんずんやりすごせば、壁で囲われた塗籠ぬりごめの裏手に調度品を並べた角部屋が見えてくる。あやかしものが現れたという、鬼の間である。

 中は〈わたし〉が前回訪れた時と変わらず、ぜいを尽くした調度品に飾られ無人であった。透廊すいろうに面する側は御簾みすで仕切られ、対面では隣室を隔てる鳥居障子とりいしょうじ――― 台盤所から鬼の間まで立て渡した衝立ついたて障子――― に大和絵やまとえが連なっている。奥の壁には白雲に乗った武神が暗雲をまとう鬼を退治するさまが描かれているが、用心棒が漏らした言葉は意表を突くものだった。

 彼は美しい内装を一目見るなり、この部屋がもっとも荒れていると言ったのである。

 鬼の目になにが映っているのか、〈わたし〉の鼻根びこんにとまった蛾が羽を広げて視界を遮ったあとにそれが見えた。巻物やことを載せた二階厨子にかいずし高灯台たかとうだいといった調度品はおろか、屏風びょうぶ障子しょうじに至るまで、青々と茂ったに覆われているのである。

 どこが発生源かは分からなかった。床をう根は部屋に留まっていたが、上方へ伸びたツタは柱を伝って天井へ達し、はり垂木たるきを伝って屋敷全体を網羅もうらしているようだった。

 このことを伝えると、武士殿は血の気を欠いて姫君の暮らす対屋たいのやを案じた。寝殿とは渡殿わたどの――― 二つの建物をつなぐ屋根付きの廊下――― で繋がっているからだ。

 彼は何故早く異変を伝えなかったと口を尖らせたが、人間の巣に初めて足を踏み入れた方からすれば、とんだとばっちりである。鬼が眼光鋭く武士殿をすくめると、衣擦きぬずれの音が楚々そそと床をって近付いてきた。透廊すいろうを通って角から姿を見せたのは、姫君についていたはずの幼馴染おさななじみのきみであった。

 彼女は顔を突き合わせるなり、張り詰めた表情を解いて〈わたし〉にすがった。姫君と居室に留まっていたところ、女官の一人が血相を変えて武士殿に鬼がついていると告げに来たのだという。抜かりを見て取った彼女は、自分より身分の高い女官に姫君を託し、〈わたし〉が近衛このえに切り捨てられる前に勇んで推参すいさんしたと目尻を吊り上げた。これにのけぞる〈わたし〉の背後で、もう一人の〈わたし〉が脇目も振らずに駆け出した。

 彼女が瓜二つの顔を持つ男の登場に目を剥く横で、お守役の蛾もはたはたと天井高く舞った。呆気に取られているわたしたちに、この意味を察した武士殿が声を尖らせた。

 かりそめの姿を見破れるのは、同じ鬼だけだと。

 床をってひんがしたいへ向かうと、無礼を承知で飛び込んだ夜御殿よんのおとどは、今し方まで人がいた気配を漂わせながらも無人であった。柱にはびこるツタを辿って天を仰げば、闇の奥へと連れ去られる白小袖しろこそで長袴ながはかまが見えた。それを追うは大猿もとい鬼の用心棒である。大捕り物の場を移して部屋を出ると、二本の橋廊はしろう――― 池や通路の上に渡した廊下――― と透渡殿すきわたどので囲われた壺庭つぼにわにて、神使しんしの放つかそけし光に当てられた姿なき者が、よりにもよって高みから姫君を手放した。

 玉砂利たまじゃりが敷かれた小さな庭では下をくぐる遣水やりみずが小川を作り、天を仰げば澄んだ冬の空が広がっている。間一髪、橋廊にて姫君を受け止めた武士殿だったが、なぎ払われて力尽きた蛾に等しく、痛手を負ったと見えて地に伏せていた。ぴくりとも動かぬ姫君に幼馴染のきみが駆け寄る中、天井裏でネズミを追いかけていた頼みの綱も、姿をくらます相手に手を焼かされているのか、体に絡まるツタを引きちぎってはわめいている。誰よりも先に闇を暴いたのは、彼の動向を目で追っていた〈わたし〉だった。

 天井裏にはびこるツタの中に、〈わたし〉は異形の者をしかととらえたのである。それを目にした瞬間、ぽっとしずくが水面を打つように、ある名が頭の中に思い浮かんだ。

「それの名は――― !」と、口を突いた矢先のことだった。

 執拗しゅうねく絡むツタと格闘していた用心棒が、思いがけずはりから足を滑らせた。首に巻きついたツタが切れずに宙吊りになり、釣りえさのように苦しみもがく姿を見た〈わたし〉は、武士殿が手放した刀を急ぎ早に拾い上げて鬼を救った。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、〈わたし〉を見る幼馴染の瞳に戦慄せんりつが広がった。

 そこで、ぶつりと記憶が途切れた。

 一体、なにが起きたというのか。乱暴な幕引きにいぶかると、「あれの代わりに命を落としたのです」と闇がさざめいた。

 男とも女ともつかない、はかない声だった。それは闇に姿をくらましたまま、頭の中でつらつらと顛末てんまつを語った。あれは若さゆえに、自分に勝る者はないとおごっていたのだと。しかし屋敷に取りいていた者は知恵が働く上に警戒心が強く、狩りをする上でも自ら危険を冒さない周到さも持ち合わせていた。時間をかけて恨みを抱く人間に近付き、代わってあだをなしてやると言葉巧みに惑わすのだという。手を下すのはあくまで人間であり、復讐したい相手の体の一部に植物のツルに似たあやかしの触手しょくしゅを巻きつけさせれば、あとは巣に引きずり込まれて神隠しのようなことが起こる。

 つけ入る相手は誰でもよかった。人間なら誰しも、一度ならず嫉妬や憎しみを抱くからだ。あの時は、武人に岡惚おかぼれしていた女官が裏で手を引いていたと声は言った。鬼の正体を見抜けたのも立派な後ろ盾があったからで、呪いの代償がいかほどのものか知りもせずに手を出したのだと。しかし、白羽の矢を立てた姫君には強大な力で守られた想い人の影がついて離れなかった為、手を出す頃合いを慎重に見極める必要があった。時期が遅れたのも、そそのかした人間の中にも良心があり、想い人が鬼退治に身を乗り出す夜まで犯行を思い留まっていたからだったという。

 しかし、さいは投げられてしまった。末路を語る声には、遺恨いこんと哀愁の念がさめざめとたなびいていた。真名まなを暴いた若者が空しくほうむられたように、生気を吸われた姫君はとこに伏って長生きしなかった。身をていして彼女を救った武人も、その時に負った怪我が元で刀を握れなくなり、想い人のあとを追うように命を落とした。声の主は言う。

 災禍さいかの元凶をのぞけば、あの騒動で生き残れたのは、鬼ただ一人だけだったと。

「待ってくれ…!」

 わたしは闇に溶け消える声を呼び止めた。その目には心に灯る恐怖が見えたのだろう。ひらりと白いものが視界を遮ったあとに、古くほころびた記憶が脳裏をよぎった。

 こと切れた〈わたし〉に寄り添い、泣き崩れる幼馴染の姿である。

 あの娘は誰よりも先にってしまった、と声がかすれた。彼女はひとしきり泣くと、鬼の命を繋ぎ止めた刀を自らに突き立てて命を断った。重なり合うように伏した二人の姿を最後に夢は終わり、わたしは打ち砕かれた胸の痛みを抱えながら目を覚ました。

 その痛みがもたらしたのは、小さくも大きな気付きだった。

「あやかしを退治するのに、何故きみにいちいち正体を見極めさせると思う?」

 同窓会事件の夜、夢に現れた阿久津の言葉が遅まきながら意味をなした。

 彼はあやかし談義と称して、榎田えのきだいていた蛇の正体に迫った。あれは執着心に憑かれた人間に寄生するもので、蛇が元で人間性が狂ったのではなく、不安や孤独といった強迫観念、あるいは奸佞邪智かんねいじゃちが呼び寄せる一種の憑き物だと説かれた。宿主が健全な心を取り戻せばおのずと去るが、利己に目がくらんだ人間というのは自滅するまで己のあやまちに気付かないので、あのような大蛇にまで成長してしまったのだと。

「それにもまして、憑き物を見抜ける人間というのもまれなんだよ、鳥山くん」

 阿久津は大蛇をむさぼった腹を愛おしげにさすり、瘴気しょうきに染まる黒いげっぷを吐いて言った。「狐狸こりや犬猫といった霊なら、顔つきや言動にあからさまな異変が現れる。だが蛇のように立ち回ることにけた生き物は、簡単にしっぽを掴ませないものなんだよ。それを、きみは一目で見抜いてみせた。ぼくの顔を見て〝あくつ〟と名が思い浮かんだようにね。そこで最初の問いの答えに立ち返るというわけさ」

「わけが分からん」わたしは投げやりに腕を組んだ。「たまたま、そう見えただけだ」

「この世に〝たまたま〟なんてものはありはしないよ」

 闇の中、金色こんじきの瞳が鈍く光った。「合縁奇縁、因果応報。禍福でさえ結び目がある。道を選ぶ自由はあるが、果たさねばならぬ役目もある。どれも自分に必要なんだ。窮地に立たされたきみの前に、ぼくが現れたようにね。これから起こることも同じさ」

 見てみろ、とあごでうながされて手首に目が向いた。そこには、かつてテグスほどにか細かった糸が実葛さねかずらを彷彿させるツタとなって巻きついていた。

 ぎょっとするわたしに、「さて、今度はどちらが釣られる側かな」

 阿久津が氷の笑みを浮かべると、二人の間でひらりと白銀の粉が舞った。夢が遠ざかる間際、彼は小さなお供を頭上に載せてわたしをひたむきに見つめた。

「頼むから、今度ばかりはしくじってくれるなよ」

 その意味を解した時には、すでに取り返しのつかない事態に陥っていた。


 佐倉氏と鈴音さんが消失した一室で、わたしは救いを求めるように窓に映る阿久津あくつを見返した。そこでわたしの呟きを拾い上げた渚小鳥に夢の内容を問われたので、訥々とつとつながら主要人物を削ってあやかしの特徴を伝えた。

 これを聞くと、彼女は思案顔で妖怪の名を挙げた。「まるで〈青女房あおにょうぼう〉みたい…」

 彼女が見せてくれた怪民倶楽部くらぶ所蔵の妖怪図鑑には、荒れたる古御所ふるごしょに女官の姿をした妖怪と記述があった。そこには鳥山石燕せきえんが描いたも載っており、お歯黒や化粧を施した醜い姿を鏡に映す後ろ姿は、わたしが見た天井の怪に通ずるところがあった。

 渚小鳥はひらめいたように息を詰めた。「諦めるのは、まだ早いかもしれません」

 彼女は慌ただしくコートのポケットから携帯電話を取り出し、愛らしくも力強い瞳に美しい光を浮かべてわたしを見つめた。

 立ち行かない時代に支えてくれた、彼女のように。

「今こそ虎の威を借りる時です。竹藪たけやぶに連れ込まれたお二人を探しに行きましょう!」

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