第12話 『 怪士 』

 彼女が借りてきた虎は、なかなか有能で使い勝手がよかった。

「目的地までは、あと五分ほどで着く。小鳥くん、GPSトラッカーの位置情報に変化は?」

 「妖怪が出た」の電話一本ひとことで駆けつけた風戸かざとそうは、カーナビのルート案内から三列シートの中ほどにちょこんと座るなぎさ小鳥をバックミラー越しに見やった。

「今のところ、動きはありません」

 彼女はノートパソコンの画面から目を上げて歯切れよく返し、助手席で小刻みに震えるわたしを心配そうに眺めた。濡れた御守りを送風口に当てる姿が奇異に映るのだろう。最大七人まで乗れるというSUV車は、持ち主を代弁するシックな外観とラグジュアリーな内装を備えて至極快適だったが、厚手のコートが少し濡れるのと衣服がびっしょり濡れるのとでは、引きずるダメージが違う。

 それでも気前よく車に乗せてくれた風戸爽は、さすがオカルト集団の教祖ともあり、一般人なら引きつけを起こすほどの経緯を聞くや否や当意即妙に動いてくれた。彼は自前のノートパソコンを起動させると、渚小鳥が鈴音さんに渡した〝魔除け〟を頼りに衛星測位システムにアクセスし、神隠しにあった二人の現在地を特定してみせたのだ。

「わたし、約束したんです。なにかあったら、すぐに助けに行くって」

 渚小鳥は心苦しそうに目を伏せた。鈴音さんの過去に胸を痛めていた彼女は、真宮女史の構内ツアーを終えてすぐ、風戸爽から与えられていたGPS機能つきの防犯アラームを、惜しげもなく鈴音さんに渡していたのである。

 風戸爽もカーナビを確認しながら言う。

「佐倉先生には悪いけど、さらわれたのが機転の利く小鳥くんじゃなくてよかったよ。この手の話は、警察に駆け込んでも相手にされないからね。もし小鳥くんが通路の先に現れた真宮先生に駆け寄っていたらと思うと、背筋が寒くなるよ」

 確かに、真宮女史と鈴音さんが顔を突き合わせたタイミングで神隠しが起こったと考えれば、佐倉氏に岡惚おかぼれする真宮女史が入館証にツルを仕込んだ可能性は高い。風戸爽の到着を待つ間、わたしたちも怪奇現象の発端に現れた彼女を疑って捜索していたが、佐倉氏や鈴音さんの携帯電話ががんとして繋がらないように、大学に自家用車を置き去りに姿をくらました真宮女史の足取りは、ようとして掴めなかった。

 渚小鳥は不安そうに声を潰した。「鈴音さんは無事でいるでしょうか?」

「あの人がついてる。絶対に大丈夫だ」

 幾度と知れぬ答えを繰り返す胸中では、無力さを噛みしめる自分がはやる鼓動を押さえつけていた。車はS大学からぐんと南下して河川かせんを越え、流れに逆らうように東へ進んで城跡地じょうせきちのある里山に入っていった。

 その一帯は工場や廃棄物処理施設が並び、GPSトラッカーが示す廃工場の周辺は深い木々に覆われていた。大学から直線距離で測ればさして離れているとは言えないが、あの一瞬でここまで移動したとなれば侮れぬ相手であることは間違いない。それにもまして、廃墟探索に長けた虎の威は頼もしかった。

 侵入を拒む金網フェンスの前で車を止めた風戸爽は、足取り軽やかに車を降りると荷室ラゲッジルームを開け放ち、手ぶらに等しい我々に懐中電灯と怪しげな護符を手渡した。魔除け云々うんぬんの説明を挟みながら背負ったリュックには、救急セットや無線機、モバイルバッテリーや予備の懐中電灯が詰まっているという。

 とはいえ、勇気と無謀をはき違えていることに変わりはない。彼はいざという時の待機要員としてわたしを車に留まらせようとしたが、車を運転できないと知るや否や水を得たうおのようにハンディカムを構えて言い放った。

「我が怪民倶楽部くらぶに恐れるものなし。あと、男なら車の免許ぐらい持っておけ!」

 ぐさっと傷付く一言を放つと、風戸爽は怪民倶楽部に入れぬ廃墟なしと豪語していた通り、フェンスに取り付けられた南京錠をものの数秒で解除したばかりか、工場脇に見つけた従業員用出入口さえ華麗に開け放ってみせた。

「さぁ、行こうか」振り向き際に見せた爽やかな笑みに、ぞっと鳥肌が立った。

 教祖に憧憬しょうけいの眼差しを注ぐ渚小鳥を尻目に、わたしは上着のポケットから御守りを取り出した。表面上は乾いているように見えるが、いざという時に助けが呼べなければ、間抜けなミイラ取りで終わってしまう。祈る思いで御守りを手のひらに載せると、煙が立ち上るようにふわりと淡い光が抜きん出た。

 わたしの小さな守護神さまである。「え、あの時のフェアリー?」

 ほっと胸をなでおろす横で、動向を見守っていた渚小鳥が豆鉄砲を食らっていた。どうやら、神の使わしめは見せる相手を選ぶらしい。呆ける彼女の向かいでは、心の卑しい男がハンディカムを右往左往うおうさおうさせている。そんなことはお構いなしにとわたしの鼻根びこんにそれがとまると、広げたはねで視界を遮ったあとに見えた景色が一変した。

 わたしはこみ上げる悪寒を押し殺した。「ツタだらけだ…」

 ガラスや瓦礫がれきが散在する通路は、ちた天井や壁に至るまで、毛細血管のごとく張り巡らされたツタに浸食されていた。入り口から見る限り被害は工場内部に留まっているようだが、異変をとらえられない探索のプロも、廃墟特有のほこり臭さを感じないと首を傾げてわたしに先頭をゆだねた。

「あのフェアリーは、先輩のお友達かなにかですか?」

 わたしの傍らについた渚小鳥は、闇を裂く白い羽ばたきに魅せられていた。答えあぐねて「あぁ…まぁ」と適当に返す後ろでは、撮影係が携帯電話の画面表示から消えた電波マークの怪異に「おぉ…!」と感嘆している。神使しんしが現れてくれたのだから、式神である阿久津あくつもどこかで動向を見守ってくれていると信じたいが、歩を進めるごとに増す冷気が警戒心を強め、死に絶えた無音が神経をすり減らしていった。

 相手はすでに我々の存在に気付いているはずだ。通路の奥に鎮座する扉の前に立つと、さびを上回るツタが隙間なく生い茂ってびくともしなかった。迂回うかいを余儀なくされた我々は、先導されている感が拭えないまま二階へ上がり、割れたガラス窓が連なる通路から開かずの間を俯瞰ふかんした。

 機械産業の一端を担っていたと思しき内部は、天井の一部が崩落して瓦礫がれきが散在している以外は、配管設備や製造レーンなど当時の様相をありのまま残していた。中は広く吹き抜けているが、不思議とツタの一片さえ見当たらず薄闇に包まれている。撮影係が懐中電灯の明かりを差し入れても、照らせる範囲で二人の姿をとらえることはできなかった。「場所を間違えたのでしょうか?」

「いや、そうじゃない」わたしは直感を頼りに窓の向こうを見据えた。「あの空間だけ無害というのはおかしい。多分、楼門ろうもんの先でわたしが消えた時と同じだと思う。ここと向こう側では、同じ場所に見えても次元が違う」

 ――― ぼくのいる世界ときみのいる世界は違うんだよ。

 阿久津の言葉が空しく通りすぎていく。通路の途中に見える扉から内部に踏み込むことはできそうだが、ウナギうけの教訓を踏まえるとむざむざ敵の領分に飛び込むのは得策とは言えない。小さな神使も、わたしの頭上ではねを休ませながら思案しているらしい。

 方やその手の専門家は、ふんふんと娯楽施設にいるかのように声を弾ませた。

「なるほど。つまり今の言葉を翻訳すると、相手は無人に見せかけて人質をかくまっているということか。それならまず、あちら側の秘密を暴くのが先決だな」

「なにかお考えが?」

 渚小鳥はリュックを漁り始めた教祖にありありと期待を寄せた。

 その姿を味気なく懐中電灯で照らすわたしに、風戸爽は得意満面と年季の入ったテープレコーダーを掲げ、「我が部に代々伝わる秘蔵の逸品だ!」とうそぶいた。

 やはり人選を見誤ったか。これにおののく渚小鳥と白けるわたしの前で、風戸爽は悪霊退散と息巻いて再生スイッチを押した。流れ始めたのは、素人でも聞き覚えのある般若心経はんにゃしんぎょうだった。

 一拍間を置く我々に、彼はふふんと鼻を鳴らした。

「まぁ、聞きたまえ。古来より、お経には波動の低い霊や魔物を退ける聖なる力が宿っていると…」と言っているそばから、茂みが揺れるような音が辺りに瀰漫びまんした。

 なんだ? 委縮する我々に反し、流れ続けるお経をむようにツタがうごめいている。窓の向こうに広がる闇が濃さを増したかと思うと、余すところなく根やツタに覆われた別の景色があらわになった。

 改めて懐中電灯の明かりを差し込んだ直後、闇が吹き溜まる階下から静寂をつんざくアラーム音が鳴り響いた。

 渚小鳥は飛びつかんばかりに窓枠から身を乗り出した。「鈴音さん!」

 驚いた。彼女を抑えつつ階下を見下ろすと、ツタの海原うなばらで抱き合う佐倉氏と鈴音さんが見えた。向こうも光をかざす我々の姿を認め、鳴り続けるアラームを止めて叫んだ。「もっと人を呼んできて下さい! なにかが近くにいて動けないんです!」

 なにか?「この有様じゃ、庭師を呼んできた方が早いんじゃないかな」

「風戸先輩にも、あれが見えるのですか?」

 秘密のベールが剥がれたお陰か、怪民倶楽部くらぶの二人にも同じ景色が見えているようだった。とはいえ、人を呼ぶとなれば時間がかかる上に、二人が再び隠されてしまわないとも限らない。般若心経を流し続ける男は、インテリ眼鏡の奥で打算を働かせた。

「よし、ここは二手に分かれよう! ぼくとオニ太郎くんで妖怪の姿をカメラに収める。小鳥くんは、その間に先生たちを安全な工場の外に!」我々の安全はどうするのだ。

「いえ、わたしもここに残ります!」

 渚小鳥は決然と浅ましい作戦を突っぱねた。「こんな危険な場所にお二人を置き去りにはできません。それになんていうか、離れちゃいけない気がするんです。わたしがそばについていないと、なにかあった時に助けてあげられません」

 いじらしく目を伏せるさまに血流が速まった。いわずもがな、彼女が誰を気に留めているのかは、色恋にうといわたしであっても察しがついた。しかし、今は火急の事態である。

 我々は論争する間も惜しんで虎穴こけつに飛び込むことに決めた。白い羽ばたきに従って通路途中にある扉を抜けると、壁に沿って張り巡らされた粗悪な通路に出た。足場は網掛けの鉄板のみで、九十九折 つづらおりの鉄骨階段は手すりに至るまでか細い根とさびに浸食されていた。

 いつ足場が抜けるとも知れない危険な階段を下り切ると、「鈴音さん…!」

 渚小鳥は列を乱して二人に駆け寄った。おびえた子供のように佐倉氏にひっついていた鈴音さんは、こわばった体を引きずりながら彼女を抱きしめた。「小鳥ちゃん…!」

「きみなら絶対に助けに来てくれると信じていました」

 上着もなく長時間冷気にさらされていた佐倉氏は、憔悴しょうすいしきった顔で微笑みながらも目は警戒を緩めていなかった。唯一濡れていないミリタリーコートを渡すと、氏はこの場所に連れ去られてからというもの、獲物を狙うように闇の中を徘徊はいかいする気配を警戒し、パニックに陥る鈴音さんをなだめながらお経を唱えていたと言った。

「ぼくもお寺の子ですから、神にもすがる思いで唱え続けていたんです。ただ相手の姿がはっきり見えない上に、ここがどこかも分からなかったので、渚くんが持たせてくれた防犯グッズを心の支えに、この場所で夜が明けるのを待とうと決めたんです。二階から光が差し込んだ時は泣きそうでした」

 阿久津は以前、氏に強大な守護がついているとほのめかしていた。鈴音さんを腕に抱いて離さなかったのも、それでいて危険な場所に留まるという英断を下したのも、彼自身にその自覚があったからにほかならない。

「ひとまず、ここを出ましょう」手持ちの懐中電灯を託し、わたしは固く腕を組んで冷えた両手を脇の下に潜らせた。

 その近くで渚小鳥が声を荒げた。「先輩!」

 わたしと佐倉氏は弾かれたように目を走らせた。フロア全体を覆うツタが、なにかの動きに合わせて葉をこすり合わせている。「あれです、ぼくが言っていたのは!」

 氏が口調を強めて警戒態勢を取る傍ら、流し続けていた般若心経が間延びしたようにゆがんで停止した。風戸爽が驚き様に手放したテープレコーダーを見ると、内部から芽吹いたツタにテープが絡めとられていた。この怪奇現象に目を輝かせる撮影係に代わって護符を取り出した渚小鳥は、授けられたばかりの紙片が真っ黒に染まっているのを見て息を詰めた。わたしが持っていたものも同様の状態にあり、風戸爽が予備の護符を取り出すと、見えない炎にあぶられているかのように上部から黒ずんでいった。

 これは…。「瘴気しょうきだ」

 わたしは懐中電灯の明かりを遮る黒いもやに気が付いた。口から吐く息も、いつの間にやら白さを増している。室温が急激に下がっているのだ。急いで来た道を確かめると、割れた窓が連なっていた二階部分が勢力を取り戻したツタによって覆われていた。

「どうやら、きみたちが来る前に戻ってしまったようですね」

 封じられた出口を見て、佐倉氏は冷静に状況を分析した。瘴気しょうきを長時間吸い込むと、危機感が麻痺まひするのだろう。彼は懐中電灯で忙しなく辺りを照らすと、根がはびこる大型機器のそばに落ちていたなにかを見つけて離れていった。根の一部を果敢に剥ぎ取って戻ってきた氏の手には、バールのような鉄の棒が固く握りしめられていた。

 まさか。「かわいい教え子を守る為にも、ここからは攻守交代でいきます。安心して下さい。こう見えて、実は剣道三段の腕前ですから!」

「それ、部活やってたら普通に取得できるレベルですよ」

 ハンディカム片手に、風戸爽が鋭い指摘を入れた。目の前が一層、暗くなる。

 やはり、この状況を覆せる奴は一人しかない。救いを求めて神使しんしを探すと、なにかを伝えるように鈴音さんの周囲を飛んでいた。それが見えている渚小鳥は意味をとらえかねてわたしを見るが、答えを教えてくれたのは意外な奴だった。「うわっ…!」

 視界の端で、風戸爽がにわかに態勢を崩した。驚き様に振り返ると、見えないなにかに足首を掴まれ、ものすごい速さで引きずられていく。

 闇の中に連れ去られる姿を見た鈴音さんは、突発的に叫んだ。

「やめてっ!」

 リン――― その瞬間、頭の中で神楽鈴かぐらすずが振られたような騒音がこだました。

 思わず耳を塞ぐわたしとは裏腹に、置き去りにされた風戸爽の元へ佐倉氏が駆けていった。見えないなにかが、鈴音さんの一声でひるんだのだ。命からがら氏によって回収された男を遠目とおめに、電光石化のひらめきが口からこぼれ落ちた。

 ――― 清らかな鈴の音色には、悪霊や猛禽類もうきんるいを退ける効果があると言われますが。

「そうか、言霊ことだまだ」

 わたしは渚小鳥と身を寄せ合う鈴音さんに目を向けた。

 古来より、日本では物事を実現させる不思議な力が言葉に宿ると考えられてきた。その思想は万葉集に並ぶ和歌にも見受けられ、祝詞のりと神言かみごとのように祈りをて出された言葉にこそ霊力が宿るとされている。

 鈴の音が入り混じった声で〈り物のやしろ〉からわたしを呼び戻した実績を踏まえると、端的たんてきに出された言葉にさえ力を持たせる彼女の言霊は、ことさら強力なのかもしれない。

 二人が想いを通わせた際にとらえた鈴の音がわたしに確信させた。

 ――― けがれた鈴が音を取り戻すには、彼が持って生まれた気質がかなめだ。

「鈴音さん、あれに向かって強く命じてみてくれませんか」

「え?」

 わたしはわらにもすがる思いで、今し方とらえた現象を口早に説明した。闇にトラウマを持つ彼女は「そんなの、無理よ…!」と、この突拍子もない提案を突っぱねた。

「なにを言い出すかと思えば、自分にそんな力があるとは思えないわ。それに、相手を刺激して襲ってきたらどうするの? どこにいるのかも分からないのに…!」

「だからこそです」

 わたしは荒立った感情をなだめるべく声を落とした。

「あれを仕留めるには、正体を見極める必要がある。人数が増えた今、襲われるのは時間の問題です。彼女を助けると思って試してみてもらえませんか?」

 誰よりも華奢きゃしゃな渚小鳥を引き合いに出すと、鈴音さんは教え子の救済に身を乗り出した佐倉氏のように目の色を変えた。人は守りたいものがあるほど強くなれる生き物だ。

「ここは彼を信じてやってみましょう」

 回収物をひっさげて戻った当人が、横合いからわたしに加勢した。渚小鳥も鼓舞こぶするように鈴音さんの手を取り、「お願いします」と懇願してくれた。

 その姿が次の瞬間、か細く漏らされた悲鳴とともに遠のいていった。

 わたしは弾かれたように駆け出した。「ことりっ!」

 無意識に叫んだ言葉は、どこにも届かなかった。彼女は小柄な体を九の字に折り曲げた姿で闇の奥へ連れ去られていった。小さな守護神も必死に羽ばたいてわたしの前を飛ぶが、誰よりも先に彼女に追いついたのは〝音〟だった。

「その子を離して!」

 後方から矢のごとく飛んできた言葉が、荒ぶる鈴の音となって頭の中を打ちつけた。

 周囲に生い茂るツタの海が大きくさざめいた。派手に尻もちをついた渚小鳥に駆け寄ると、言葉とともに振りかざされた鈴の音が三度、打ち鳴らされた。

「この卑怯者! いさぎよく姿を見せなさいっ!」

 山椒さんしょうを遥かにしのぐキレのよさに、足場を覆っていたツタが委縮いしゅくしたように身を引いた。振り返ると、鈴音さんは我々でさえ平伏へいふくしたくなるほどの威光を放ち、どこにいるとも知れぬ相手に怒りを爆発させていた。怒りの赴くまま鳴らされた鈴の音は、見えぬ波紋を描いて反響し合い、それを避けようとうごめく闇の中にわたしは見た。

 カメレオンのようにツタをう、異形の者を。

 その時、滴が水面を打つようにぽつりとある名が頭の中に思い浮かんだ。

 そうだ、あれの名は…。「駄目っ!」

 あらぬ方角を見据えている横から渚小鳥が抱きついてきた。押し倒される形になったわたしの視界でひらりと蛾が舞い、背後に忍び寄っていた人物へと導いた。

 そこには行方知れずだった真宮女史が、大きなガラス片を携えて立っていた。

 わたしを刺すつもりだったのだ。「…たっ、助けて」

 真宮女史は出刃でば包丁よろしくガラス片を握りしめたまま、涙ながらに訴えた。

「か、体が…動かないの。なにかに…操られて…お願い、助けて…!」

 助けを乞う声とは裏腹に、ガラス片を強く握る手からぽたぽたと血が滴っていた。

 これが呪いの代償か。わたしはひっつく渚小鳥をかばう傍ら、抗う意志を示すようににじり寄る姿に強い既視感きしかんを覚えた。

 あの夜、怪士あやかし果敢かかんに挑んだ若者は、こうやって闇に葬られたのだ。

「逃げて…!」

 真宮女史は歩を進めながらも声を押し出した。彼女の中に生きる良心が教え子を守ろうとしているのだ。しかし、今回はあの夜とは大きく状況が異なる。

 真宮女史が抵抗空しく刃を振りかざした直後、横合いから突進してきた不確定要素が強行を食い止めた。「風戸先輩!」

 素手でガラス片を掴んだ彼の勇姿に、渚小鳥は悲鳴に近い声で叫んだ。

「こんなところで、なにをしているんです…!」

 言いながら、風戸爽は力任せに彼女からガラス片を奪いとった。目の上のたんこぶも時には役立つものである。彼が体格差を生かして真宮女史を抑え込む横で、わたしも急ぎ早に渚小鳥を立たせて天を仰いだ。

「どこにいる、阿久津っ!」

 いらだちもあらわに放った声は、自分でも驚くほどの声量が出た。わたしは渚小鳥が目を剥くのも構わず怒声をとどろかせた。

、だ! そいつの名前は、〈根朱〉だっ!」

 言った瞬間、ツタに覆われた闇の一部が剥がれ落ちた。

 まるで無数に群がる蝙蝠こうもりが一斉に飛び立っていったような感覚だった。フロアを埋め尽くしていたツタの半数が引き潮のごとく身を引き、蜘蛛くものような肢体したいで壁に貼りつく不気味な女の姿を剥き出した。

 朽ちた十二単じゅうにひとえから触手と化したおびが風もなくなびき、能面を思わせる白い顔がくっきりと闇に浮かび上がっている。その近くでは佐倉氏と鈴音さんが身を寄せ合い、正体を現した化け物に目を奪われていた。

 渚小鳥が逃げろと叫ぶ中、二人に飛び掛かる素振りを見せた女が一陣の黒い風に取り巻かれた。

 人影である。そいつはまばたく隙も与えずに女を掴むと、二人に飛びかかろうとしていた勢いを受け流すようにして壁に叩きつけた。

 わたしは安堵あんどに声を押し出した。「阿久津!」

「随分と待ちくたびれたよ、鳥山くん」

 化け物と二人の間に立ちはだかった阿久津は、悠然と態勢を整えてわたしに背を向けた。頭に乗るカンカン帽を手で押さえながら、視界の端でにたりと笑いかける。

「きみにしては上出来だった。ここからはぼくが引き継ごう」

 余計な一言を残し、阿久津は下駄の音を小気味よく響かせながら駆けていった。

 あの夜の雪辱せつじょくを、ともに果たすべく。

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