第13話 『 飛出 』

「あ、あれは誰ですか?」

 なぎさ小鳥はわたしの腕を掴んで身を寄せた。闖入者ちんにゅうしゃの登場に呆けているということは、同じものが見えているらしい。言葉を詰まらせているところに、ひっ迫した声が割り込んできた。見れば、風戸かざとそうかれたように暴れる真宮女史を、血のにじむ手で抑え込んでいる。

 慌てて加勢する横から、鈴音さんを伴って駆けてきた佐倉氏が加わった。

「ひとまず、ここを出ましょう!」多くの疑問を飲み下した顔で、佐倉氏がわたしに目配せした。「ここにいる全員を守るには、ぼくたちだけでは手が回りません。彼女たちだけでも外に出すべきです」

「あの人はどうするの?」

 鈴音さんは戸惑いもあらわに阿久津あくつへ目を向けた。満を持して現れた彼は、壁をって逃げ惑う根朱ねののぎを追って鉄骨階段を駆け上がり、猫にも勝る敏捷びんしょうさではりの上を移動していた。やはり、二人にも彼の姿が見えているのだ。

「行きましょう」

 わたしは自我を失っている真宮女史に目を戻し、網掛あみがけの鉄板から降りそそぐ下駄げたの音を頼りに決めた。

「あいつのことなら心配はいりません。ここに残っている方が、むしろ足手まといになる。鈴音さん、さっきと同じ要領で扉に群がるツタを退けてくれませんか?」

「待って!」開かずの扉をうながす後ろで渚小鳥が叫んだ。「あそこに誰か…!」

 一斉に目を向けると、ツタの海原うなばらでのそりと影が立った。一体、二体、三体…渚小鳥が向けた懐中電灯の明かりが、乾留液タールに漬けたように真っ黒な人間たちをかたどっていく。

 ここから逃がさないつもりか。ゾンビ映画さながらの連携ぶりでにじり寄ってくる彼らに佐倉氏が鉄の棒を構えたが、化け物相手ではなんの気休めにもならない。鈴音さんも「近付かないで!」と鶴の一声を発したが、傀儡かいらいたちは動じる素振りを見せただけで、抗えぬ力によって突き動かされる彼らのうめき声に不気味さが増しただけだった。

「死にたくなかったら、そこを動くな!」

 身を寄せ合う我々のもとに、荒ぶる天の声が降ってきた。すがる思いで見上げれば、気心知れた鬼は高みの見物と煙管キセルを吹かしていた。「あいつ…!」

 怒りがこみ上げる中、阿久津は悪びれることなく煙を吐き出すと、火皿の中の燠火おきびをぽとりと落とした。その小さな灯火ともしびは彼が二本指で作った手刀を横一線に切ると同時に白く燃え盛り、そこここに漂う瘴気しょうきに着火したように宙で燃え広がった。

 あいつは普段、なんてものを吸っているのだ。「き、狐火きつね?」

 世紀のイリュージョンに、渚小鳥が驚き様に呟いた。放火犯の素性をかんがみれば、鬼火おにびと呼んでしかるべきなのだろう。それら流星のごとく降りそそいだ火種は、ツタの海原を白く炎上させると、ついでに黒い人間たちをも呑み込んだ。

 まさに、地獄絵図である。ゾンビの群れは苦しみもがきながら一体、また一体と燃え尽きたマッチ棒のようにくずおれていった。周囲で上がる阿鼻叫喚あびきょうかんに女性陣が震え上がったが、不思議なことに白い業火ごうかは我々にはまったくもって無害な代物だった。熱くも冷たくもなく、幻のように肉体を透過して煙さえ出ない。影響を受けたのは、押さえつけていた真宮女史ただ一人だった。体内を焼かれたように荒れ狂い、口から白い炎が垣間見えた直後に気を失った。

 延焼えんしょうする炎は壁に群生するツタを伝って上昇したものの、燃料となる瘴気しょうきが尽きたのか、天井近くに貼りつく根朱ねののぎを残して鎮静化していった。

「まったく、こんな非常時まで世話を焼かせるんじゃないよ」

 辺り一面を焼け野原にした張本人が、人間だったシケモクをぐしゃりと踏み潰して地に降り立った。無慈悲にしかばねを踏み越えてくる姿に、佐倉氏はすかさず鈴音さんの前に立ちはだかり、渚小鳥に至っては躊躇ちゅうちょなくわたしを盾にした。

「あいつはいいのか?」

 真宮女史を風戸爽に託して向き直ると、わたしは延焼を免れた天井を目でうながした。はりや通路を呑み込む細やかな根は蜘蛛くもの巣を連想させたが、阿久津は「あぁ」と味気なく見上げただけだった。

「心配せずとも逃げやしないさ。きみが真名まなを暴くまでの間、ぼくがなにをしていたと思うんだい。同じてつを踏むほど愚かでもないさ」

 にたりと細めた目には危険な光が浮かんでいる。目と鼻の先にいる相手に手が届かないもどかしさがあるのだろう。

 わたしもうなるように歯噛はがみした。「それで来るのが遅れたのか…!」

「骨を折っていた、と言ってもらいたいな」阿久津はわざとらしく渋面しぶづらを作った。「きみの連れが次元を繋いだ時から、この空間一帯に結界を張って回っていたんだよ。どれほど知恵が回ろうとも、ここからはあり一匹逃れられやしない。まさに袋のネズミだよ」

「…それって、わたしたちのことですよね?」背後から的確な指摘が飛んできた。

 佐倉氏も目の色を変えた。「ぼくたちもここを出られないということですか?」

「ぼくが思うに、あれが木偶でくどもを生み出したのも、それが理由じゃないかな」

 阿久津はわたし以外の言葉を遮断しているのか、氏には見向きもせずに言った。

「きみらが見たのは、おそらく過去に食われたむくろどもだ。あれは捕食した人間の生気をかてとしているが、使い終わった抜け殻でさえこまに使うらしいね。窮鼠きゅうそのあがきとばかりに、浮きに使った宿主もろとも差し向けて、ぼくの気をそらそうとしたんだよ」

 あるじを尊ぶ式神の忍耐を試したのだろう。結果として策に陥った彼は、犬のくそを見るような目で真宮女史を見下ろした。

「まったく人間という奴は、欲深くて救いようがないな。その女は己の欲に食われたんだ。あれに植えつけられた蜘蛛くもの糸も一緒くたに燃え尽きたはずだが、手付けに食われた寿命はなにをしても戻らない。因果応報だよ」

「あ、あなたは人間じゃないの?」

 俯瞰ふかんした物言いに、鈴音さんがたまらず口を挟んだ。阿久津はちらりと氷の一瞥いちべつを寄こしただけで、「あいつはぼくがつ」と根朱ねののぎに目を戻した。

「隠れみのとなる真名を暴いた以上、あれが姑息こそくな手を使うことはないはずだ。ぼくが腹を満たす間、鳥山くんは目障めざわりなノミどもをここから連れ出しておいてくれ。結界の一部なら、それが解いてくれるよ」と、暴言を交えてわたしの頭上にとまる一瞥いちべつし、佐倉氏の手から暴君さながら鉄の棒をひったくった。まさに、鬼に金棒である。

 苦言を呈そうと氏が口を開きかけた時だった。「あの、ちょっといいかな」

 ノミと見下げられた憤りからか、真宮女史を介抱していた風戸爽が、おずおずと片手を上げて聞いてきた。「あのさ。さっきからみんな、誰と話しているのかな?」

「…まじか」

 場が凍りつく中、渚小鳥が淑女の仮面をおざなりに呟いた。

 恐ろしいことに、風戸爽にだけ阿久津の姿が見えていなかった。メガネの度が合っていない上に、心の目も塗り潰されてしまっているのだろう。彼は場を仕切り直すように真宮女史を抱き上げると、白い目を向ける我々に颯爽さっそうと呼びかけた。

「よく分からないけど、ここは五体満足でいられるうちに逃げよう。小鳥くんはぼくの荷物を。千吉良ちぎらさんは足元を照らして下さい。佐倉先生はぼくの代わりに車の運転をお願いします。オニ太郎くんは…急いでぼくのハンディカムを!」しかばねの山から探してこいということか。

 せせこましい男が上役風うわやくかぜを吹かせると、キツネにつままれていた全員の金縛りが解けた。

 佐倉氏は目の覚める声で行動をうながした。「行きましょう!」

 彼は懐中電灯で行く手を照らす鈴音さんの手を取り、真宮女史を抱えた風戸爽と渚小鳥を率いて開かずの扉へ向かった。白い火炎が焼き払ってくれたとはいえ、観音かんのん開きになっている扉の向こう側は未だツタがはびこっている。押しても引いても手応えのない扉の前で立ち尽くす彼らのそばで、小さな神使しんしはかない光を解き放った。

 その様子が見えているのは、わたしと渚小鳥だけだった。彼女がおそるおそる扉に手をかけると、びついた扉の片側がかろうじて開いてくれた。わたしはしんがりを務めて彼らが扉を抜ける姿を見届けると、異変に気付いた渚小鳥が振り返ったタイミングで扉に手をかけた。

「先輩、どうされたのですか?早くこっちに…!」

「悪いが、先に行っててくれ」青い顔を見せる彼女に、わたしは口早に言った。「これはわたしが持ち込んだ案件だ。あいつ一人を残していくわけにはいかない。すぐにあとを追うから、急いで風戸と真宮先生を病院に連れていってくれ」

「先輩…!」

 わたしは彼女の言葉を遮り、問答無用と扉を締め切った。そこで次元が切り替わったのか、扉を叩く音はおろか、わたしを呼ぶ声すら聞こえなくなった。

「また、つまらない見栄を張ったね」

 鼻で笑う声に振り向けば、阿久津は近くに置かれた箱型装置の上から根朱ねののぎを見据えていた。下駄の音さえ消すとは、軽業師かるわざしさながらの身のこなしである。視界の端から白い光が抜きん出ると、思わず口元が緩んだ。

 雪辱せつじょくを果たしたいと思っているのは、なにもわたしたちだけではないのだ。

「あれをどうやって引きずりおろす?」

 わたしは懐中電灯片手に、イモリのごとく壁に貼りつく不気味な女を見定めた。

「ここで会ったが千年目だ」

 くゆらした言葉には、生き血の入ったグラスを回しているような残忍さが潜んでいた。

 阿久津は佐倉氏からひったくった棒を構えて笑った。「ぼくを殺し損ねたことを心ゆくまで後悔させてやるさ…!」

 言った直後、阿久津は根朱ねののぎ目がけて鉄の棒をうち放った。

 やり投げの選手さえ刮目かつもくする、力強い一投であった。矢のごとく放たれたそれは、軌道をそれることも勢いを欠くこともなく、天井付近にいる根朱ねののぎの肩を見事貫いてみせた。ガラスをひっかいたような耳障みみざわりな悲鳴とともに地に落ちた根朱ねののぎは、四肢ししを使ってこともなげに着地すると、怒りもあらわに肩に刺さった鉄の棒を引き抜いてうち捨てた。

 なるほど。あれをおびき寄せるべく、あえて怒りを買う手法に出たのか。ざんばら髪に埋もれた顔の中で落ちくぼんだ眼窩がんかが広がり、口が真っ黒に裂けた直後に虫のような動きで迫ってきた。あまりの速さに身じろぐわたしの傍らから、阿久津も下駄の音を響かせてロケットスタートを切った。互いに衝突し合うかと思われたが、床を衣擦きぬずれの音がふっと途絶えると、根朱ねののぎの姿だけが視界から消え失せた。目を走らせる横で闇が動く。まずい。反射的に駆け出す後ろから、にわかに衣擦れの音が迫った。

 やはり頭が切れる。わたしが逆の立場でも、勝てる見込みのない相手とやり合うよりも、無力な人間を人質に取るからだ。「阿久津!」

 手足を振り抜き、わたしは入れ違うように横を抜けていった用心棒に対応を任せて鉄の棒を回収しに向かった。

 自分の身ぐらい、自分で守らなければ。ここで足手まといになれば、阿久津はきっとわたしを優先して手を抜く。明かりを頼りに血濡れた棒を拾い上げると、先程と同じ金切り声が飛んできた。見れば、根朱ねののぎがすれた十二単じゅうにひとえを引きずりながら、再び壁をって阿久津と距離を取っている。再び攻守が逆転したらしい。人間を釣りえさに使うところは彼と同じでも、間接的に攻撃を仕掛けてくるところからして、体の構造は案外もろいのかもしれない。それを証明するように、下衣したごろもから伸びる二本のけ帯の引腰ひきごしが、生き物のように浮遊して阿久津に襲い掛かった。

 目を剥く奇抜な仕掛けに、思わず声が枯れた。阿久津は避けることも逃げることもせず、力相撲とばかりに突き出した腕をからめとらせて帯を引っ張った。ここは剛力を誇る彼にがあるはずだが、どれほど帯を引っ張っても根朱ねののぎはびくともしなかった。

「本物じゃない」ふいに、そんな言葉が口を突いた。忙しなく舞う蛾に釣られて目を走らせると、白い顔がにたりと闇の向こうで笑った。懐中電灯が明滅を繰り返す中、火蓋ひぶたを切ったように阿久津の周囲で黒い人間たちが湧いて現れた。それらが続々と彼にのしかかると、わたしはなけなしの武器を手に慌ててきびすを返した。

 阿久津が対峙していたはずの根朱ねののぎは、無骨な鉄筋へと姿を変えていた。幻覚をおとりに使ったのだ。根朱ねののぎが阿久津を足止めする理由は一つしかない。突如として伸びてきた帯がわたしの腕をとると、驚きざまに振り向いた首に別の帯が巻きついた。

「――― 忘らるる…身をば思はず誓ひてし…人の命の、惜しくもあるかな…」

 ひび割れたかすれ声が頭上から降りそそいだ。首を絞めつける帯を掴んでもがくも、抗いなくかかとが宙に浮く。あまりの息苦しさに頭の中が真っ白に吹き飛んだ。

 柳のようにしなだれる黒髪が顔にかかると、目と鼻の先で上下逆さまになった女の顔が視界一杯に広がった。どこまでも暗く深い眼窩がんかに意識が吸い込まれていく。

 そこで見えたのは、雑木林の中で泣き暮れる女の姿だった。


 映像は女を見下ろす位置で固定されていた。上質な女房装束にょうぼうしょうぞくとは裏腹に長い黒髪を乱し、顔を伏せながら恨みごとを漏らしている。そこへ、あでやかな桃色の花びらが慰めるように舞い落ちた。木のたもとで嘆いていたのだろう。白粉おしろいは涙で流れ落ち、女はその場で竹筒たけづつに入れていた液体を飲み干すと、恨みを抱えたまま息絶えてしまった。

 次に見えた女も、平安時代に見るうちき唐衣からぎぬという装いだった。恋文と思しき紙を握りしめながら恐ろしい剣幕で木から花を摘んでいたが、なんらかの罪をとがめられ、季節が移ろう前に木のたもとで切り殺されてしまう。生き血を吸った木は益々美しい花を咲かせたが、恨みを抱えた者があとを絶たないように、どこからともなく伸びてきたツタがみきい、いつしか呪いを招く木として恐れられるようになった。めかけの女が首をくくったことを機に伐採されたものの、ぐにからたまわった貴重な植物とあり、盆栽という形で植樹されると別邸を転々とすることになった。行く先々で失踪者や怪死が続いたが、強い毒性を持つことは伏せられたまま、恋文に添える〝折り枝〟として新たな屋敷へ届けられてしまう。

 幼馴染おさななじみのきみが仕えた、くだんの姫君のもとに。

 鬼の間に飾られていた装飾品の中に、それがあったのだ。


 ってはなりません――― 冬の凍てる日差しが、刀を振り下ろしたようにわたしの意識を剥がし取った。はっと目をまばたくと、小さな光がわたしの顔前で必死に羽ばたいていた。生気を奪おうと迫る根朱ねののぎから守ってくれているのだ。

 今見たものは一瞬の出来事であったらしい。小さな蛾がなぎ払われると、わたしは怒りに任せて鉄の棒を振るった。蜂の一刺しは根朱ねののぎの顔を見事打ちつけ、首を絞めつけていたツタが緩むとひざから崩れ落ちてむせ返った。その後ろで猛々たけだけしい咆哮ほうこうが上がった。

 阿久津。逃げ帰る根朱ねののぎを尻目に振り返ると、黒い人だかりを蹴散けちらす鬼が見えた。

 人の倍はあろうかという巨躯きょくに、よろいを着込んだような筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの肉体。ぼさぼさのたてがみから伸びる湾曲わんきょくした二本の角。闇に同化しながらも異彩を放つ金色こんじきの瞳は、鬼の姿に見慣れた今でさえ圧倒される。

 あらかた黒子くろこを片付けると、阿久津は荒々しく手を組み合わせて玉のようなものを周囲に浮かび上がらせた。全部で五つ。それらはまたたく間に膨れ上がり、薄紫色のオーラをまとって見覚えのある人面に姿を取った。

 女、老人、神、霊、鬼――― 阿久津が腰からさげていた、あの不気味な根付けである。

 能面を象った女は小面。老人は白色尉はくしきじょう。神は大癋見おおべしみの神。霊が山姥やまんばだとすれば、鬼は般若はんにゃの面だ。

 せせこましい攻撃にいらだちがピークに達したのか、阿久津は怒りとともに人面ボールを拡散させた。「その首、もらうぞ…!」

 持ち主の思念を宿した人面たちは、逃げ惑う根朱ねののぎを追い詰めるべく役に徹した。小面の女は錯乱さくらんを招く笑い声を発し、白色尉はくしきじょうおきなは行く手を遮って先導するという頭脳プレーを見せた。大癋見おおべしみの神は隠れみのとなるツタを風で吹かしてはちぎり、鬼の般若は雄牛のようなつのと勢いで根朱ねののぎを追っている。残る霊役はわたしのお守を任されたのか、視界の端でぼうっと浮かび上がった山姥やまんばの顔にびくりと体がこわばった。

 悪意とも取れる気遣いに委縮している間に、根朱ねののぎもまた能を舞うかのような動きを見せていた。蜘蛛くもの巣と化したツタを足場に飛び跳ねては、柳に暖簾のれんと攻撃をしのいでいる。時間を稼いでいるのか、あるいは隙をうかがっているのか。

 だが、あれの正体は分かっている。締めつけられた首をさすりながら、わたしは闇に慣れた目で忍耐強く天井をさらった。これに一役買ったのは、生い茂るツタを荒らして回る大癋見おおべしみの神だった。風で割れたツタの海原の中に、それが一瞬だけ見えた。

 細やかな根に埋もれながらも、はかなげに咲くあでやかな桃色が。

「本体はあそこだ!」跳ね上がる鼓動に任せ、わたしは鉄の棒で場所を指し示した。「あの女は目くらましのおとりだ。あの辺りに隠れている花を狙え!」

 わたしの指示に、大癋見おおべしみの神と鬼の般若はんにゃが耳を傾けた。お手玉に苦戦する鬼に金棒を投げて寄こすと、秘密を暴かれた根朱ねののぎは一転して強行手段に出た。行く手を阻むおきなを手でひっつかみ、哄笑こうしょうを続ける小面にぶつけて一目散に根をったのである。

 しかし、何故か核となる花から遠く離れていく。わたしの当てが外れたのか、あるいは恨みがましく鉄の棒にまじないをかけている鬼の姿に恐れをなしたのか。逃げる背を目で追っていくと、張り巡らされた空中回廊の端にある扉が開いてわたしを驚かせた。

「あ、開いた」彼女もまた同じ顔をしてわたしを見やった。「先輩!」

「嘘だろう…!」

 あまりの間の悪さに怖気おぞけほとばしった。

 向こう見ずにも修羅場しゅらばに飛び込んできたのは、見紛うことなく渚小鳥だった。根朱ねののぎは新たな人質が到来することを察して標的を変えたのだ。彼女もわたしの身を懸念して戻ったのだろうが、迫り来る化け物を前にして首を絞められたように悲鳴を発した。

 無我夢中で駆け出す頭の中は恐怖に塗り潰されていた。結界を張る際に労を惜しんだのか、ここから出ることはできずとも外からは入れる仕組みになっているらしい。扉は無情にも閉まり、逃げ道を失った渚小鳥は呆気なく捕獲された。おび引腰ひきごしに絡めとられた体が宙に浮き、彼女の悲鳴を聞きつけた人面たちが一斉に動きを止めた。

 振り向かずとも、阿久津が舌打ちまじりに術を止めたのは分かった。彼女の命を取るか根朱ねののぎをここで討つか、わたしの動向をうかがっているのだ。九十九折つづらおりの鉄骨階段を駆け上がる間にも悲鳴は遠ざかり、息切らして回廊に立ったわたしを嘲笑あざわうかのごとく、根朱ねののぎはおびえる渚小鳥を背後から抱き留める形で欄干らんかんの上に立たせていた。

「…風吹けば、おきつ白波たつた山…夜半やはにやきみが、ひとり越ゆらむ…」

 また和歌か。風もなくなびく衣や乱れ髪でさえ、鬼気ききとわたしに選択を迫っていた。根朱めののぎが口にする詩は、どれも恋に破れた女たちが木のたもとで詠んだものなのだろう。そこでは誰もが同じことを思っていたに違いない。

 何故、自分がこんな目に、と。

「思いが届かない辛さは分かる」

 こう切り出すと、人質の首に手をかけていた根朱ねののぎは意表を突かれたように動きを止めた。ゆっくり足を踏み出す傍ら、夜道をさまよう木精が記憶の中から語り語りかけてくる。人の都合で生かされ、死していく者たちの声なき嘆きを。

 根朱ねののぎも、元々は無垢むくな木だったはずだ。欲する者には惜しみなく花を摘ませ、時には痛みをこらえて枝を分けてやった。救いを求める声に情を寄せてくれたのは、名もないツタだけだったのだろう。それでも恨みを晴らしたいと望む声に耳を貸し続けたが、結局はわれのない罪を押しつけられて根を断たれた――― 。

「その身を切られた時は、さぞかしお前も人を恨んだだろう」

 わたしは警戒を強める根朱ねののぎから離れたところで足を止めた。

「毒に魅せられるのは、人の中にも毒があるからだ。それが時に言霊ことだまとなって他者をも毒す。だが、見えない美しさに気付く人間も中にはいるんだ」

 彼女と植えた鬼の醜草しこくさが、わたしにそう言わせた。

「声が聞こえずとも、その痛みを自分のことのように感じる人間も。お前が今、手にかけているその子のことだ…!」

 わたしの怒声を皮切りに、根朱ねののぎに忍び寄っていた大癋見おおべしみの神と鬼の般若はんにゃが一斉に襲いかかった。一方は肩に、もう一方もかせとなるように足に噛みついて動きを抑制した。ふい打ちを食らった根朱ねののぎは、渚小鳥を抱きかかえたまま逃げる素振りを見せたが、わたしもまた近くを浮遊していた山姥やまんばを掴んで投げつけた。「すまん!」

 乾坤一擲けんこんいってきと放った生首は、渚小鳥の悲鳴を避けて根朱ねののぎの顔面に差し迫った。しかしあと一歩というところでかせを振りほどき、根朱ねののぎは人質をおざなりに這々ほうほうの体で逃げ出した。死に物狂いで向かったのは、核となる花の元だった。阿久津が雄叫びとともに放った鬼の金棒がそれを貫くと、紫色の火炎が天井にはびこるツタを呑み込んで燃え広がった。

 擬態ぎたいである根朱ねののぎも、一瞬のうちに業火ごうかに包まれていた。凄絶な断末魔の叫びがとどろく中、わたしもまた死に物狂いで網掛あみがけの通路を駆け抜けた。

 わたしの目には、根朱ねののぎから放たれた渚小鳥がバランスを崩して欄干らんかんから落ちていくさまが緩慢かんまんと映っていた。無我夢中で手足を振り抜き、体が軽くなったような不思議な感覚に乗じて欄干を飛び越えると、脇目も振らずに落ちゆく彼女を追いかけた。

 彼女を捕まえられたのは執念の賜物たまものだった。緩慢に流れていた時間の流れが元に戻り、コンクリート敷きの地面が急速に差し迫った。おびえる彼女の頭を抱えて死を覚悟した時、視界がぱっと切り裂かれたように開けた。「――― 妖怪はいます!」

 桜舞う季節。冬の寒さが残る中庭の一角から、異様な熱気が飛んできた。

 これは走馬灯だろうか。目を向けた先には、サークルの勧誘合戦に巻き込まれたと思しき女学生が、すかした装いの上級生どもに食って掛かっていた。足元に落ちているチラシには、タコのように踊り狂うことを信条とする団体名が記載されている。いたいけな新入生をからめとるつもりで声を掛けたのだろうが、彼女は可憐かれんな容姿にそぐわぬおどろおどろしい『怪奇民族倶楽部くらぶ』のパンフレットを我が子のように抱いていた。

 なるほど、それで標的にされたのか。寄ってたかって馬鹿にされている姿を不憫ふびんに思い、わたしはノミの心臓を隠して「なにしてる」と一声を投じた。タコどもはすかさず標的をすげ変えたが、背丈が足らずにわたしを見上げる形となった。

「痛々しいのは、どっちだ」わたしは彼女をさげすんだ言葉をすげなく彼らに突っ返した。「偏見を押しつけるだけでは、それが存在しないことの証明にはならない。寄ってたかって人を見下している自分を恥ずかしいとは思わないのか」

 あぁ、そうだ。彼女とは、そのようにして出会ったのだ。

 勧誘部員たちは髪の合間からのぞく目つきの悪さにひるんだのか、チクリと諫言かんげんしてやると安い戯言ざれごとを残して去っていった。オカルト倶楽部に肩入れしたつもりはなかったが、彼女の目には頼もしく映ったらしい。聞けば教室を探している途中で迷子になったというので、先輩風を吹かせて送り届けてやった。映像は味気なく立ち去る背中をしばし見つめたあとも、何故か彼女の目を通して見るわたしを中心に流れていった。

 バイト疲れを引きずって構内をふらつくわたし。佐倉氏にやくをもらいながらも食堂で飯を食っているわたし。図書館で課題に頭を悩ませ、ひたいを抑えてうっかり素面をさらしているわたし。視線に気付いたわたしの目をあざむくべく、妖怪図鑑でさっと顔を隠す彼女。そんな彼女に気付いて聴講生ちょうこうせい制度を勧める佐倉氏。ゼミのグループ学習に参加した彼女にわたしが本の配架はいか場所を尋ねるシーンもあり、顔色を心配した彼女がわたしのあとをつけ、なにかにおびえたあとに途方に暮れる背中が映った時はさすがに驚いた。

 隣のレーンに身を潜めていた彼女は探し物が見つからなかったと勘違いし、お勧めの妖怪本をそっと押し出して床に落としてみせたのだ。

 阿久津と知り合うきっかけになった、あの鳥山石燕せきえんの『画図えず百鬼夜行』を。

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