最終話 『 明時 』

 彼女の回想には、怪民倶楽部くらぶおさたる風戸かざとそうも登場した。彼女はそこはかとなくわたしの身辺調査を依頼し、勧誘を理由にそこはかとなく協力を仰いだりと余念がなく、まわしいバスツアーでは群れからはぐれて野良猫とたわむれる姿もキャッチされていた。

 他にもけなげに弁当を作ったり、ヒヨコ型のクッキーを焼いたり、バレンタインデーの夜も、ハンディカムの入った紙袋をえさにわたしの反応をうかがったりといじらしいことこの上ない。

 映像には恋愛指南書に選んだロマンス小説を読みふける場面もあり、カフェラウンジで思い思いにポエムをつづる彼女の思念がしみ渡るように聞こえてきた。


 節くれだったきれいな指The beautiful and gnarled fingers厚みのある優しそうな口元The thick and gentle mouth髪に隠れた孤独な眼差しThe lonely eyes hidden in the hair …。

 

 あれは、そういう意味だったのか。

 熱くたぎる想いが五感にしみ渡っていく。走馬灯に近付こうと意識を寄せると、白い雪片せっぺんがひらりと視界を遮った。闇の中で誰かがしくしく泣いている。その先では冬の夜空を彩る白月が幽鬼ゆうきと輝き、檜皮葺ひわだぶきの切妻きりづま屋根が一面に広がっていた。

 おそらく、建物の上にいるのだろう。玉砂利たまじゃりが敷かれた壺庭つぼにわを見下ろすと、息絶えた〈わたし〉と幼馴染おさななじみのきみが重なり合い、姫君に寄り添っていた武士が大声で衛兵このえを呼んでいる。


(おぉ、かわいそうに。その小さき体で友を守ろうとしたか)


 ふいに、男とも女ともつかない不思議な声が傍らから聞こえてきた。

 いや。声というよりは、やはり思念のようなはっきりしないものだ。小さな瞳が映し出したのは、淡い月光を宿した奇妙な人物だった。陶器のような肌は鱗粉りんぷんと見紛う産毛に覆われ、おうぎのような白いまつげが切れ長の瞳を縁取っている。漢王朝時代に見る唐装とうそうも、萌黄色もえぎいろの帯をのぞけば白一色で統一され、羽織り物からしなだれるそでやしなやかになびくスカートが、どことなくはねを休めるちょうを連想させた。織姫おりひめのように結い上げた髪は三つの輪にして束ねられ、耳の横から垂らした房飾りやかんざしが気品を添えている。


(使いに出したきり戻らぬお前を、どれほど気にけていたか)


 その手になぎ払われた死骸しがいを乗せ、仙人は肩にとまる小さな光を見やった。


(ほれ、泣くのはおよし。死は避けられずとも、いずれ新たな命を得た友と再び相まみえる日が来るだろう。それまでに研鑽けんさんを積み、いとしき者を守れるまでに強くなれ。ぬしも口惜しい思いをしたな、鬼の子よ)


 涙に濡れた視界が、いじけたように屋根の上に座り込む阿久津あくつを映し出した。

 彼は〈わたし〉の姿をとったまま、まんまと逃げおおせた根朱ねののぎのツタを握りしめ、ぴくりとも動かなくなった〈わたし〉をただ見つめていた。

 不思議な声は言う。


(秀でた力を持ちながら、人の子に救われるとは…。あれはいずれ、われの弟子らに討たせよう。悠久の時に封じ、ぬしの手であだをなすといい)


五月蠅だまれし…!」

 阿久津は鬼の姿に戻り、恐ろしいうなり声を発して仙人を威嚇した。小さな瞳には、彼が尖塔せんとうのいただきで縮こまるガーゴイル像さながら小さく映っている。


(ぬしの力は野に放すに惜しい――― 声は憐れむように和らいだ――― われの配下となり、この者とともに研鑽けんさんに努めよ。万物のことわりを学び、現世うつしょにはびこる悪を討つのだ。さすれば、人の子がぬしにもたらしたものも生きるだろう。それがなにか、分かるか?)


 今にもみつきそうな鬼を前に、仙人はかすかに笑みを浮かべて言った。


(ぬしがうちに抱える苦しみ、それを人は〈心〉と呼ぶのだ)


 月のようなあえかな光が、再び視界を遮った。記憶を見させていたのが誰であったのか、今さら問う必要はなかった。

 闇を割いて舞う姿に手を伸ばし、わたしはたまらず笑いかけた。

「そうか、兄弟子はお前の方だったのか」

 主従関係を読み違えるとは、わたしもとんだ目くらである。小さな光が誇らしげに天へ昇っていくと、どこからか子供のように泣きじゃくる声が聞こえてきた。

 この声は…と闇を目でさらううちに視界が晴れ、渚小鳥と思しきシルエットが浮かび上がった。凍てつく寒さが四肢ししの先端から蘇り、ぼんやりしていた頭が明瞭めいりょうさを取り戻していく。

 高い場所から落ちたことは覚えている。背中に翼が生えたように軽くなった感覚も、落ちゆく彼女を抱き寄せたあの瞬間も。

 しかし見える範囲に阿久津の姿はないし、根朱ねののぎの気配どころかツタの一片さえ見当たらない。今も長夜ちょうやの夢の中にいるのか、あるいは呆気なく死んだのやもしれん。涙に濡れるほおにおそるおそる手を伸ばしてみると、泣きじゃくっていた人影がぎょっと身をこわばらせた。「…先輩?」

「きみなのか?」

 わたしはカラカラに乾いた声を押し出し、痛む体を起こした。

 なにがどうなって助かったのだろう。割れた窓の向こうに浮かぶ月の位置からして、さして時間は経っていないようだ。傍らに寄り添う人影が慌てて懐中電灯のスイッチを入れると、あごの下から照らして泣き濡れた顔をあらわにした。このホラーな照らし方は、間違いなく渚小鳥本人である。

 どうして泣いているのか、間の抜けた問いかけは彼女の涙に埋もれてしまった。体が氷のように冷たくなっていたので、わたしが死んだと思い込んで悲しみに暮れていたという。救出に乗り込む前に冷や水を浴びたせいだろう。涙でぐちゃぐちゃになった愛らしい顔を見るうち、胸の奥から熱いものがこみ上げた。

「…きみの目が覚めないうちに言っておきたいんだが」わたしは髪の合間から、おそるおそる彼女を見つめた。

 ほどよく頭を打ってぼうっとしていたのがよかった。

「初めてきみを見た時、かわいい人だと思った」

 一つ言葉を放ると、抑制を欠いた思いがドミノのように倒れていった。

「小柄で、目がきれいで、真っすぐにものを信じるところもたまらなく好きだった。それに、きみはどんな時も味方でいてくれた。なにを言っても疑わず、ついてきてくれる。きみのような人がわたしみたいな男に興味など持つわけがないとふたをしてきたが、死にかけてみて分かった。想いを伝えるのに、明日でなければならない理由はないのだと」

 ――― きみも生きているうちが花と思いたまえ。

 阿久津の言葉が背中を押すように蘇った。わたしは涙が止まるほど呆けている彼女の手を取り、一念発起と身を寄せて口づけた。かすめたほおは冷えていたが、涙に濡れたくちびるは思いのほか温かかった。柔らかくて、塩気の奥にかすかな甘みがある。顔色をうかがうべく一度は離れてみたが、揺れる瞳の中に同じ思いを見つけると勝手に体が動いた。

 あとになにが起きたかはやぶの中――― と、いうことにしておこう。


 彼女と手を取り合って廃墟を出ると、車の前で右往左往うおうさおうしていた佐倉氏と鈴音さんが血相を変えて駆けてきた。聞けば、怪我人を連れた彼らが異空間から脱して半時も経っていないという。幸い、真宮女史は意識を取り戻していたので、氏は浦島太郎状態の我々を早々に車中に引き込むと、自身の幸運体質に任せてアクセルを踏み込み、愛車を気にける持ち主の悲鳴を無視して最寄りの病院へ直行した。

 ガラスで手を切った二人の処置が済むまで、わたしは阿久津と出会った経緯や妖怪退治、もとい捕食行為について説明することになった。三人は式神という言葉でようやく胸をなでおろしたが、術師でもないわたしが使役しえきさせているところに不安を残したようだった。そうこうするうち、手に包帯を巻いた二人が処置室から出てきた。

 わたしは小鳥を伴い、未だ悪夢にとらわれているように待合所のベンチに座り込む真宮女史に阿久津の言葉を伝えた。彼女は一連の騒動を聞くと痛ましい手で泣き顔を覆い、「本当になるとは思わなかったの」と後悔を押し出した。

 きっかけは、子供じみた嫉妬心しっとしんだった。彼女は佐倉氏の想い人を初めての当たりにした動揺から、恋を叶えるという根朱ねののぎの誘惑に屈してしまったのだという。

 涙ながらに謝罪の言葉を繰り返す彼女に、鈴音さんもじっとりと瞳を濡らして寄り添った。

「好きな人に手が届かない辛さは分かるわ。わたしなんて、天岩戸あまのいわとに引きこもって人生の半分も無駄にしちゃったのよ。悔いている時間がもったいないぐらいだわ」

 地獄のような苦しみに耐え抜いたからこそ見える景色がある。佐倉氏が真宮女史ではなく鈴音さんに心を奪われた理由が、そこにはあった。

 にっこり笑って罪を許す強さに、我々は来光を拝むような心持ちでしばしたたずんだ。

 一度大学に戻って氏の軽ワゴンに乗り換えると、車中のデジタル時計は22時を示していた。SUV車の持ち主に真宮女史の送迎を任せることになり、心置きなく威を発してくれたとらも別れを惜しむように思い出した。

「あ。そういえば、頼んでおいたハンディカムは?」また異界に置き忘れた…。

 泣き濡れる風戸爽を見送ると、一夜の悪夢におびえる我々を乗せた車は、鈴音さんの計らいのもと、三人がまとめて素泊まりできる千吉良ちぎら邸へと向かった。

 あらかじめ祖父である善行よしゆきさんに了承を得ていたので、風紀に厳しいなぎさ家には佐倉氏と鈴音さんが電話で承諾を得、女性陣が風呂に入っている間に誘拐事件の一部始終と、根朱ねののぎにまつわる一切合切を氏と善行さんに打ち明けることになった。

 折り枝をしろに生きながらえた〈夾竹桃きょうちくとう〉の化身について、である。

 根朱ねののぎの正体に行き着いたのは、園芸にさといい善行さんだった。桃に似た花をたわわに咲かせる夾竹桃は、排ガスや公害に強い樹木として街路に植えられることが多いものの、その美しさとは裏腹に花や葉、枝、くき、根、果実、周辺の土壌とあますところなく毒性を持ち、その強さは青酸カリをも上回ると善行さんは警鐘を鳴らした。

 その事実は、わたしが見た過去の映像とも符合ふごうしていた。ウェブサイトで調べてみると、記録上、夾竹桃が中国を経由して原産国のインドから日本に入ってきたのは十八世紀頃とされていた。しかし、インド発祥の仏教が日本に伝来したのが飛鳥時代以前だったと加味すれば、思想とともにぐにの植物が渡来とらいした可能性は十分あると佐倉氏は判を押した。

 とはいえ、推論はどこまでいっても机上きじょうを離れることがない。阿久津にまつわるセンシティブな話題も、千吉良家が誇るヒノキ風呂に場を移して行われた。摩訶不思議な冥加みょうがによって生かされた体には打ち身やり傷が多く見られ、佐倉氏と肩を並べて熱い湯に浸かると、魑魅魍魎ちみもうりょうが湧き出る地獄から生還したのだとようやく実感が沸いた。

「きみは登別のぼりべつ温泉に出るという、湯鬼神ゆきじんを知っていますか?」

 死に際に見た謎の回想を興味深く傾聴けいちょうしていた佐倉氏は、風呂に引っかけていたずらに目を輝かせた。

「湯鬼神は地獄谷の薬湯を護る鬼たちで、彼らに感謝を捧げるとやくを持ち帰ってくれると言います。現に鬼子母きしぼ神社などでは、鬼の漢字から天辺の〝つの〟を取った異体字を用いて「かみ」と呼んでいるところもあるんです。きみの見たものが事実なら、彼はその力を買われて眷属神けんぞくしんに下ったのかもしれませんよ。漢王朝時代から抜け出してきた人物ですけど、織姫や乙姫さまがしている髪型にもちゃんと名前があってですね、髪のたばが二つなら飛仙髻ひせんけい、三つ以上なら飛天髻ひてんけいと呼ばれているんですよ」

 飛天ひてん。その言葉にピンときたわたしの顔を、佐倉氏はしたり顔で見やった。羽衣はごろもをなびかせながら優雅に天空を舞う飛天は、散華さんか奏楽そうがく薫香くんこうを用いて仏の世界を礼讃らいさんすると言われ、法隆寺ほうりゅうじ壁画へきがに描かれた天女の姿が有名である。

 つまり、わたしが見たのは…。

「この世は、まだまだ不思議にあふれているということです」

 秘かにおののくわたしに、佐倉氏はあごの下まで湯に浸かって仏顔を浮かべた。

「今回みたいな騒動は二度とごめんですけど、きみの話を聞いてもう少し民俗学を追求してみたくなりました。鬼神きじん横道おうどうなし、なんて言葉もありますから、善悪の概念はさておき、きみの変わった友達にまた会うことがあれば、無事生還できたことを感謝しておかないとですね。きみが助けに来てくれた時は、本当に嬉しかったですよ」

 心の温まることを言ってくれるが、阿久津に関して言えば神算鬼謀しんさんきぼうという言葉もある。小鳥が自分の意志で本を選んだのだとすれば、神使しんししろを紛れ込ませられるものなら、なんでもよかったということになるのだ。

 あるいは、宿敵の封印が解かれるタイミングを察していた可能性もある。現に阿久津は、わたしに近付いてきた時から内情を伏せ、眠っている天眼通てんがんつうを開花させるべく、化け物退治の際は必ずわたしの目で正体を見極めさせた。小さな守護神を与えたのも、夜討ちを遂げる計画の一環だったのだろう。

 わたしと佐倉氏は同じ客室を宛がえられたが、彼は鈴音さんを守った功績が称えられて善行さん主催の酒宴しゅえんに出向いていった。わたしは寝間着に借りた浴衣姿で敷布団の上に腰かけ、和室に誰もいないことを確かめて御守り袋の中身を開けた。出てきたのは蛾の死骸ではなく、夜空にまけばあまの川が作れそうなほど美しい星の粉だった。

 魔法は去っていったのだ。天に昇っていった蛾の姿が、わたしにそう思わせた。

 手入れの行き届いた庭に星の粉をまくと、胸の奥に大きな穴が開いてしまった気分だった。あれほど厄介ごとに巻き込まれたくないと願っていたのに、おかしな反応である。わたしはすり減った神経とのしかかる疲労に屈し、早々に布団に潜り込んだ。闇の中で彼女と交わした口づけを思い返し、あれは夢だったのだろうか…とうとうと舟を漕いでいるうちに、夜這よばいに訪れた人影が猫のような身のこなしで布団に潜り込んできた。

 驚きのあまり眠気が吹き飛んだ。「…小鳥?」

「一人だと怖い夢を見そうなので、しばらくそばにいさせて下さい」

 わたしより肝が据わっている彼女は、寝ぼけている男を抱き枕に身を寄せた。鈴音さんが酒宴に出向いていったことで、急に心細くなったという。心安立こころやすだてに抱き返すと、華奢きゃしゃな体は測ったように腕の中に収まり、女性特有のやわさと香りに至福が広がった。想い人の方から飛び込んできてくれるとは、いい時代になったものである。

 照れ隠しに二言三言交わすうち、彼女は思い切った風に打ち明けた。「わたしを助けてくれた時、一瞬だけ先輩の背中に大きなはねが見えた気がしたんです。月みたいに白くて、夜明けの空みたいにきれいでした。あれは夢だったんでしょうか?」

 まさか死に際にそんなものが見えていたとは。

 内心驚きながらも、わたしは彼女にふっと耳元で笑いかけた。波のような疲労が押し寄せる中、小難しい異聞奇譚いぶんきたんをちまちま語るのは野暮というものである。甘い夢が覚めぬうちにと彼女に口づけ、わたしたちはともに夢の世界へ旅立った。

 そこで聞こえてきたのは、まさしく波の音だった。


 長夜ちょうやの終わりを告げる黎明れいめいの空が一面に広がっていた。雑木林を抜けた先にそびえる丘の下には白浜が連綿と続き、うねる松の影が切り絵のように海辺を縁取っている。

「骨折り損のくたびれもうけとは、まさにこのことだよ」

 丘に向かって歩いていくと、白浜を見下ろす松のたもとから男が言った。あぐらをかくひざにはすすのついた帽子が載り、いつもは隠している角が蓬髪ほうはつから飛び出していた。

「あれは、そんなにまずかったのか」

 わたしはさして驚くでもなく奴の隣に立った。

 金色こんじきの目を上げる阿久津の顔は、とげのある言葉とは裏腹にどこか清々しかった。

「うまい話に乗ったのが運の尽きだよ。千年も待ち焦がれた獲物が、煮ても焼いても食えない有毒植物だったんだ。擬態の方も首をもぐ前に消し炭にしてしまったし、あんな雑魚一匹に手を焼かされるんじゃ、ぼくもあれもまだまだ未熟ってことさ」

 阿久津が目を向けた先では、ひらひら舞い飛ぶ光を追う小鳥の姿があった。

「ま、きみはさぞかしをしたんだろうね」

 阿久津は含みを持たせて恨みがましい目を向けた。しどろもどろにあいづちを打ちつつ、丘から見える景色を一望する。東の空が薄っすら白ばみ、静寂に溶け込む海原うなばらが夜明けを待っている。この景色には見覚えがあった。

「御守りに入れていたしろ端微塵ぱみじんになっていたんだが、この先、きみたちと繋がるにはどうすればいい?」

 わたしは小鳥を導く光を目で追いながら、おずおずと切り出した。

 返ってきたのは、わびしげな冷笑だった。

「用が済めば、ぼくらはお役御免さ」

 顔をのぞかせた朝日が、立ち上がる阿久津の影を鬼の姿に切り取った。心許こころもとなくたたずむわたしに、彼はどこ吹く風と装った。

「そう気落ちすることもあるまい。あやかしを引き寄せる体質を変えることはできないが、限りある命だ。きみも残りの人生を好きに生きたらいい。望むものも手に入ったようだし、万々歳ばんばんざいじゃないか」

 天邪鬼あまのじゃくな奴め。「きみはどうするんだ?」

「言っただろう、制約の多い身だと。それは、あれも同じさ。目的を遂げた以上、きみのもとに留まる理由はない。ふやけた鬼どもと違って、ぼくの腹は感謝の言葉で膨れるほど安くはできてないんだよ」風呂での会話も盗聴済みか。

「それでも感謝してる。きみは、わたしの大切な人たちも守ってくれた」

 こう言うと、浅瀬に浮かぶ魚影ぎょえいのようなかすかな感情が鬼の目によぎった。感謝されることになれていないのか、まんまと罠にかかったとほくそ笑んでいるのやもしれん。

 それを承知で同盟を申し出るのだから、わたしもとんだお人好しと言えた。

「この先、わたしが五体満足で生き抜くには、まだまだきみたちの助けが必要だ」

 わたしは傍らにそびえる松に手を添え、ここぞとばかりに切り出した。

「この千年あまり、きみが歳寒松柏さいかんのしょうはくとも言うべき道を歩いてきたことは想像にかたくない。だが狩猟の経験が足りない自覚があるのなら、今しばらくわたしと行動をともにし、ほどよい火加減と新たな調理法を模索してみてはどうだろう。定期開催は約束できないが、未知の食材を味わわずして次の千年を生きる手はあるまい」

 まるで料理教室の勧誘みたいな口上になったが、付き合いの長い彼にはわたしの心が伝わったらしい。「松樹千年翠しょうじゅせんねんのみどり、か」と皮肉な笑みを浮かべて松の木を見上げた。談話にこの場所を選んだところからして、ほころびた古い記憶に浸っているのだろう。

 ここはかつて、波間はざまに潜む人食いのあやかしを退治した思い出の場所なのだ。

 おとり役の〈わたし〉に、盾の神使しんし。腹を空かせた鬼がほことなって悪を討つ。命からがら仕事を遂げた〈わたし〉は夜明けの美しさに感化され、彼らに呼び名を贈った。

「一蓮托生、という言葉もある」わたしは言及し、白浜から上がる声に手を上げて応えた。阿久津は彼女が来るのを待たずして答えを出した。

「きみは変わらんな。何度生まれ変わっても」

「え?」

 目を戻すと、阿久津は松から離れた場所に立っていた。

 手で押さえた帽子のつばの下から、あの夜を再現したように言う。

「そうまで言うなら、よかろう。おとりに関して言えば、きみの右に出る者もそうはいまい。またうまいものを食わせてくれるというのなら、勇んでまいりつかまつろう」

「あぁ」わたしは笑みが広がるに任せて言った。「これからもよろしく頼むよ――― 〝あかとき〟」

 鬼が驚く顔を、生まれて初めて見た。

 相手は素面を見られたのが気に食わなかったのか、夢からはじき出されるようにして目を覚ました。最初に目に飛び込んできたのは、はねを広げて鼻根びこんにとまる昔馴染むかしなじみみだった。こちらは申し出を渋っているのか、なにかを訴えるように羽ばたいて離れない。

 わたしは手を伸ばして笑いかけた。

「お前は〝しののめ〟。ちゃんと覚えているよ」

 明時あかとき東雲しののめも、太陽が昇る前のほの暗い時間帯を指す言葉である。どちらも過去の映像から得たひらめきだったが、初めて夢に出てきた彼を阿久津と呼んだのも、平安時代と現代では子音の発音が異なる為、あかときをあくつと読み違えたと考えられた。

 東雲は嬉しそうに旋回すると、庭に面する障子戸しょうじどから漏れ差す日差しの中に溶けていった。隣で寝息を立てる小鳥は、未だ白浜にいると見えて丘から消えたわたしを捕まえるようにすり寄った。その先には縁側えんがわに腰かけて談笑する佐倉氏の背中があった。

 随分と長い時間眠っていたのか、半分閉じられた障子戸には真昼の陽光に切り取られた鈴音さんの影が映っていた。子供みたく寄り添って眠るわたしたちを微笑ましく思っているのだろう。肩を寄せ合い、声をひそめてくすくす笑っている。方や、わたしの寝ぼけまなこには、狩衣かりぎぬ姿の武士殿と御簾みす越しに見た姫君の影が並んで見えていた。

 目覚めの気付けに、神の使わしめが魔法の粉を振りまいていったに違いない。まばたきを一つ落とすと幻は消え去り、幸せに満ちたのどかなひとときが広がった。夜のうちに、龍の子がまた雨を降らせたのだろうか。わたしは白浜をさまよう小鳥をとらえるべく腕に抱き、甘露かんろしずくともいうべきこの一瞬をみしめて目をつむった。

 日日是好日にちにちこれこうじつ。今日も生涯の、一日なり。

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現代鬼譚 樒 -shikimi- @-shikimi-

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