最終話 『 明時 』
彼女の回想には、怪民
他にもけなげに弁当を作ったり、ヒヨコ型のクッキーを焼いたり、バレンタインデーの夜も、ハンディカムの入った紙袋を
映像には恋愛指南書に選んだロマンス小説を読みふける場面もあり、カフェラウンジで思い思いにポエムをつづる彼女の思念がしみ渡るように聞こえてきた。
あれは、そういう意味だったのか。
熱くたぎる想いが五感にしみ渡っていく。走馬灯に近付こうと意識を寄せると、白い
おそらく、建物の上にいるのだろう。
(おぉ、かわいそうに。その小さき体で友を守ろうとしたか)
ふいに、男とも女ともつかない不思議な声が傍らから聞こえてきた。
いや。声というよりは、やはり思念のようなはっきりしないものだ。小さな瞳が映し出したのは、淡い月光を宿した奇妙な人物だった。陶器のような肌は
(使いに出したきり戻らぬお前を、どれほど気に
その手になぎ払われた
(ほれ、泣くのはおよし。死は避けられずとも、いずれ新たな命を得た友と再び相まみえる日が来るだろう。それまでに
涙に濡れた視界が、いじけたように屋根の上に座り込む
彼は〈わたし〉の姿をとったまま、まんまと逃げおおせた
不思議な声は言う。
(秀でた力を持ちながら、人の子に救われるとは…。あれはいずれ、われの弟子らに討たせよう。悠久の時に封じ、ぬしの手で
「
阿久津は鬼の姿に戻り、恐ろしいうなり声を発して仙人を威嚇した。小さな瞳には、彼が
(ぬしの力は野に放すに惜しい――― 声は憐れむように和らいだ――― われの配下となり、この者とともに
今にも
(ぬしがうちに抱える苦しみ、それを人は〈心〉と呼ぶのだ)
月のようなあえかな光が、再び視界を遮った。記憶を見させていたのが誰であったのか、今さら問う必要はなかった。
闇を割いて舞う姿に手を伸ばし、わたしはたまらず笑いかけた。
「そうか、兄弟子はお前の方だったのか」
主従関係を読み違えるとは、わたしもとんだ目くらである。小さな光が誇らしげに天へ昇っていくと、どこからか子供のように泣きじゃくる声が聞こえてきた。
この声は…と闇を目でさらううちに視界が晴れ、渚小鳥と思しきシルエットが浮かび上がった。凍てつく寒さが
高い場所から落ちたことは覚えている。背中に翼が生えたように軽くなった感覚も、落ちゆく彼女を抱き寄せたあの瞬間も。
しかし見える範囲に阿久津の姿はないし、
「きみなのか?」
わたしはカラカラに乾いた声を押し出し、痛む体を起こした。
なにがどうなって助かったのだろう。割れた窓の向こうに浮かぶ月の位置からして、さして時間は経っていないようだ。傍らに寄り添う人影が慌てて懐中電灯のスイッチを入れると、
どうして泣いているのか、間の抜けた問いかけは彼女の涙に埋もれてしまった。体が氷のように冷たくなっていたので、わたしが死んだと思い込んで悲しみに暮れていたという。救出に乗り込む前に冷や水を浴びたせいだろう。涙でぐちゃぐちゃになった愛らしい顔を見るうち、胸の奥から熱いものがこみ上げた。
「…きみの目が覚めないうちに言っておきたいんだが」わたしは髪の合間から、おそるおそる彼女を見つめた。
ほどよく頭を打ってぼうっとしていたのがよかった。
「初めてきみを見た時、かわいい人だと思った」
一つ言葉を放ると、抑制を欠いた思いがドミノのように倒れていった。
「小柄で、目がきれいで、真っすぐにものを信じるところもたまらなく好きだった。それに、きみはどんな時も味方でいてくれた。なにを言っても疑わず、ついてきてくれる。きみのような人がわたしみたいな男に興味など持つわけがないと
――― きみも生きているうちが花と思いたまえ。
阿久津の言葉が背中を押すように蘇った。わたしは涙が止まるほど呆けている彼女の手を取り、一念発起と身を寄せて口づけた。かすめた
あとになにが起きたかは
彼女と手を取り合って廃墟を出ると、車の前で
ガラスで手を切った二人の処置が済むまで、わたしは阿久津と出会った経緯や妖怪退治、もとい捕食行為について説明することになった。三人は式神という言葉でようやく胸をなでおろしたが、術師でもないわたしが
わたしは小鳥を伴い、未だ悪夢にとらわれているように待合所のベンチに座り込む真宮女史に阿久津の言葉を伝えた。彼女は一連の騒動を聞くと痛ましい手で泣き顔を覆い、「本当になるとは思わなかったの」と後悔を押し出した。
きっかけは、子供じみた
涙ながらに謝罪の言葉を繰り返す彼女に、鈴音さんもじっとりと瞳を濡らして寄り添った。
「好きな人に手が届かない辛さは分かるわ。わたしなんて、
地獄のような苦しみに耐え抜いたからこそ見える景色がある。佐倉氏が真宮女史ではなく鈴音さんに心を奪われた理由が、そこにはあった。
にっこり笑って罪を許す強さに、我々は来光を拝むような心持ちでしばしたたずんだ。
一度大学に戻って氏の軽ワゴンに乗り換えると、車中のデジタル時計は22時を示していた。SUV車の持ち主に真宮女史の送迎を任せることになり、心置きなく威を発してくれた
「あ。そういえば、頼んでおいたハンディカムは?」また異界に置き忘れた…。
泣き濡れる風戸爽を見送ると、一夜の悪夢におびえる我々を乗せた車は、鈴音さんの計らいのもと、三人がまとめて素泊まりできる
あらかじめ祖父である
折り枝を
その事実は、わたしが見た過去の映像とも
とはいえ、推論はどこまでいっても
「きみは
死に際に見た謎の回想を興味深く
「湯鬼神は地獄谷の薬湯を護る鬼たちで、彼らに感謝を捧げると
つまり、わたしが見たのは…。
「この世は、まだまだ不思議にあふれているということです」
秘かにおののくわたしに、佐倉氏は
「今回みたいな騒動は二度とごめんですけど、きみの話を聞いてもう少し民俗学を追求してみたくなりました。
心の温まることを言ってくれるが、阿久津に関して言えば
あるいは、宿敵の封印が解かれるタイミングを察していた可能性もある。現に阿久津は、わたしに近付いてきた時から内情を伏せ、眠っている
わたしと佐倉氏は同じ客室を宛がえられたが、彼は鈴音さんを守った功績が称えられて善行さん主催の
魔法は去っていったのだ。天に昇っていった蛾の姿が、わたしにそう思わせた。
手入れの行き届いた庭に星の粉をまくと、胸の奥に大きな穴が開いてしまった気分だった。あれほど厄介ごとに巻き込まれたくないと願っていたのに、おかしな反応である。わたしはすり減った神経とのしかかる疲労に屈し、早々に布団に潜り込んだ。闇の中で彼女と交わした口づけを思い返し、あれは夢だったのだろうか…とうとうと舟を漕いでいるうちに、
驚きのあまり眠気が吹き飛んだ。「…小鳥?」
「一人だと怖い夢を見そうなので、しばらくそばにいさせて下さい」
わたしより肝が据わっている彼女は、寝ぼけている男を抱き枕に身を寄せた。鈴音さんが酒宴に出向いていったことで、急に心細くなったという。
照れ隠しに二言三言交わすうち、彼女は思い切った風に打ち明けた。「わたしを助けてくれた時、一瞬だけ先輩の背中に大きな
まさか死に際にそんなものが見えていたとは。
内心驚きながらも、わたしは彼女にふっと耳元で笑いかけた。波のような疲労が押し寄せる中、小難しい
そこで聞こえてきたのは、まさしく波の音だった。
「骨折り損のくたびれもうけとは、まさにこのことだよ」
丘に向かって歩いていくと、白浜を見下ろす松のたもとから男が言った。あぐらをかく
「あれは、そんなにまずかったのか」
わたしはさして驚くでもなく奴の隣に立った。
「うまい話に乗ったのが運の尽きだよ。千年も待ち焦がれた獲物が、煮ても焼いても食えない有毒植物だったんだ。擬態の方も首をもぐ前に消し炭にしてしまったし、あんな雑魚一匹に手を焼かされるんじゃ、ぼくもあれもまだまだ未熟ってことさ」
阿久津が目を向けた先では、ひらひら舞い飛ぶ光を追う小鳥の姿があった。
「ま、きみはさぞかしおいしい思いをしたんだろうね」
阿久津は含みを持たせて恨みがましい目を向けた。しどろもどろにあいづちを打ちつつ、丘から見える景色を一望する。東の空が薄っすら白ばみ、静寂に溶け込む
「御守りに入れていた
わたしは小鳥を導く光を目で追いながら、おずおずと切り出した。
返ってきたのは、わびしげな冷笑だった。
「用が済めば、ぼくらはお役御免さ」
顔をのぞかせた朝日が、立ち上がる阿久津の影を鬼の姿に切り取った。
「そう気落ちすることもあるまい。あやかしを引き寄せる体質を変えることはできないが、限りある命だ。きみも残りの人生を好きに生きたらいい。望むものも手に入ったようだし、
「言っただろう、制約の多い身だと。それは、あれも同じさ。目的を遂げた以上、きみのもとに留まる理由はない。ふやけた鬼どもと違って、ぼくの腹は感謝の言葉で膨れるほど安くはできてないんだよ」風呂での会話も盗聴済みか。
「それでも感謝してる。きみは、わたしの大切な人たちも守ってくれた」
こう言うと、浅瀬に浮かぶ
それを承知で同盟を申し出るのだから、わたしもとんだお人好しと言えた。
「この先、わたしが五体満足で生き抜くには、まだまだきみたちの助けが必要だ」
わたしは傍らにそびえる松に手を添え、ここぞとばかりに切り出した。
「この千年あまり、きみが
まるで料理教室の勧誘みたいな口上になったが、付き合いの長い彼にはわたしの心が伝わったらしい。「
ここはかつて、
おとり役の〈わたし〉に、盾の
「一蓮托生、という言葉もある」わたしは言及し、白浜から上がる声に手を上げて応えた。阿久津は彼女が来るのを待たずして答えを出した。
「きみは変わらんな。何度生まれ変わっても」
「え?」
目を戻すと、阿久津は松から離れた場所に立っていた。
手で押さえた帽子のつばの下から、あの夜を再現したように言う。
「そうまで言うなら、よかろう。おとりに関して言えば、きみの右に出る者もそうはいまい。またうまいものを食わせてくれるというのなら、勇んで
「あぁ」わたしは笑みが広がるに任せて言った。「これからもよろしく頼むよ――― 〝あかとき〟」
鬼が驚く顔を、生まれて初めて見た。
相手は素面を見られたのが気に食わなかったのか、夢からはじき出されるようにして目を覚ました。最初に目に飛び込んできたのは、
わたしは手を伸ばして笑いかけた。
「お前は〝しののめ〟。ちゃんと覚えているよ」
東雲は嬉しそうに旋回すると、庭に面する
随分と長い時間眠っていたのか、半分閉じられた障子戸には真昼の陽光に切り取られた鈴音さんの影が映っていた。子供みたく寄り添って眠るわたしたちを微笑ましく思っているのだろう。肩を寄せ合い、声をひそめてくすくす笑っている。方や、わたしの寝ぼけ
目覚めの気付けに、神の使わしめが魔法の粉を振りまいていったに違いない。
現代鬼譚 樒 -shikimi- @-shikimi-
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