第6話 『 而今 』
「にちにちこれこうじつ。今日も生涯の一日なり」
摩訶不思議な呪文を唱え、
わたしと
クリスマスを間近に控えた十二月
「なんだ。今時の若い奴は〝
「〝
さすが、ものを教える立場の人間は時と知識を惜しまない。深くうなずくわたしの横で、くちばしの黄色い娘も舌を巻いた。「教授、その紙は学生の論文では」
「今日も生涯の一日なりというのはだね」吉見教授はかぶせる勢いで話を戻した。「きみたちもよく知る
「ありがたく
わたしは
ふむふむ、と
「ここだけの話、実はきみたち二人に尋ねたいことがあってね。ずばり、きみたちの先生についてなんだが、
わたしは眠気を誘う
場をやりすごそうと木と化したわたしに、教授も行き詰った顔をしてみせる。
「まぁ、専任講師と言えどもじゅうぶんな手取りがあるわけじゃないから、バイトぐらい大目に見てやってもいいとは思うんだが、うちの大学は頭の固い連中ばかりで職員の副業を禁止しているんだよ。彼自身、人目を惹く自覚がないのかちらほら目撃談が出ていてね。
「…記憶にございません」
わたしは使い回された
事情を知らない彼女もこれに同調するかと思いきや、「…実は、ここだけのお話」
わたしは風を切って隣を見やった。一体全体、なにを言い出すかと
「佐倉先生は、どうやら婚活をされているご様子です」
「婚活っ?」
予想外の返答に目を
「そんなもの、彼には必要ないだろう。引く手あまたなんだから」悔しいが、
渚小鳥は
即席とは思えぬストーリー性に、吉見教授も判別しかねる様子で腕を組んだ。彼女なりに氏をかばっているのだろうが、しれっとした顔で
渚小鳥が意中の人の名前さえ明かすと、教授も
「そういうことなら、他人がとやかく口を挟むのは
不穏な会話は
「どうして、あそこで真宮先生の名前が出てくるんだ?」
魔の第三倉庫へ向かう道すがら、わたしは重ねて抱えた資料箱の山に息切らしながら、隣を歩く渚小鳥に尋ねた。小柄な
「それは多分、真宮先生が佐倉先生に恋慕されているからだと思います」
「れんぼ?あの、真宮先生がか?」
「わたし自身はお見かけしたことはありませんが、佐倉先生とお話される時の目つきがなまめかしいと、もっぱら女学生たちの間で
わたしは無言で眉をひそめた。その女学生たちも、おそらくは
話題にのぼった真宮凛は渚小鳥が専攻する英文学科の助教から三十二歳にして専任講師に昇進した有能な
恐怖トンネルから生還してほどなく、わたしはある事象をきっかけとして現れた
「ありがとう。でも、
人の心を動かすことは
「先輩は、どうしてそんなに鈴音さんを気に
話の種に女心の
「それが本来あるべき〝形〟だと思ったからだ」
「カタチ?」
わたしは大きな仮面を照れ隠しに布で拭いた。「うまく言えないが、二人は互いを必要としている気がしたんだ。人との出会いには、良くも悪くもなんらかの意味がある。それが実を結ばずして無に
これまた無駄に長い
渚小鳥はぱちりと
「失くしたハンディカムを弁償する為です」また地雷を踏んだ…。
子供の
例えば、ある晩のことである。
バイトを終えて
通り魔ならぬ
最寄り駅からぐんぐん坂を上って緑道に入ったわたしは、上着のポケットに猫のおやつを忍ばせつつ、街灯に照らされた夜道を呑気に歩いていた。すると前方から、やけに背の高い酔っ払いが
恐ろしいことに、そいつは全身肌色で服さえ着ていなかったのである。
新手の変質者か。わたしは
目を
そいつは全身が粘土のようなものでできていた。不思議と恐怖は感じず、向こうも余裕がないのか、わたしを
正確には、泥の一部である。そいつは体を欠損したことにも気付かない様子で、のっそのっそと歩いていく。犬の落とし物を
また別の夜こと。
金策尽きたこの日、わたしは久しく実家に立ち寄り、恥をかなぐり捨てて数日分の食料と夕飯をたらふくご
夜道とはいえ通いなれた場所なので、
そこへ、「すみません」
ふいに声が掛かった。辺りにいるのはわたしだけなので人違いということもない。反射的に振り返ると、
「水を持っていませんか?のどが酷く渇いているのです」
気合いの入ったコスプレイヤーかと思いきや、
彼の着ている軍服が、旧日本軍のそれであることに。
「ま、待っていてくれ。すす、すぐそこで買ってくる…!」
青年の気迫に押され、わたしは手で示したコンビニに駆け込んだ。強盗にでも遭ったような
その道は、かつて〝戦車通り〟と呼ばれた旧軍の戦車試走道だったのである。
並木沿いには第二次大戦の末期に道が作られたことを記す解説版が立っていた。軍服を着た彼がどのような経緯があってわたしに声を掛けたかは知れぬが、ひっ迫した面持ちからして想像に
しかし、
つい先日のことである。
その日、わたしは電車に乗っていた。窓からはうららかな日差しが入り、物静かな車内はガタンガタン、と規則的なリズムに揺られていた。
しかしながら、わたしはそこに奇妙な一致を見出した。
彼らは、みな――― 。「お母さん、まだ?」
乗車口の脇に立っていた幼い娘が、母の手を取って急かす声が聞こえた。おさげをした七、八歳ほどの少女である。母親はカーディガンにスカートと質素な装いで、聞こえない程度の声で娘をたしなめていた。顔を見ようと目線を上げたその時、自分のものではない強烈なイメージが頭の中に割り込んできた。本当に息つく暇もなかった。
最初にとらえたのは、荒れ狂う雨音だった。
近くを流れる大きな川が
それは町を
川は過去に幾度も氾濫を起こしたことがあったからだ。
警察官は身寄りのない老女を気遣い、避難指示が出るとすぐに保護しようとやってきたようだった。二人一緒に雨の中に出ると、警察官を探していた町の者たちが各々明かりを携えてやってきた。聞けば一人の少女が行方をくらまし、最後に目撃された川の土手付近を、母親と町の者たち十数名が危険をかえりみずに捜索しているという。
川の
土手を見下ろす堤防の上に着いてみると、闇の中を十数もの明かりが
川の水は闇一色に染まり、不気味なうなりを上げていた。母親はずぶ濡れになりながらも、必死で娘の名を叫んでいる。彼女から放たれる気迫に呑まれ、捜索に加わった者たちはみな、危険と隣り合わせでいる自覚が薄れていた。闇に溶けた川の水は急速に
そこで場面は唐突に終わりを告げる。正気を取り戻したわたしは、今見えた光景に
彼らはみな、昭和初期に見る古めかしい
「―――そろそろ降りんと、きみも捕まるぞ」
右隣りから聞こえてきた声に、びくりと腰が浮きかけた。
「阿久津…!」
「やぁ、鳥山くん。こんなところで遭うとは奇遇だね」
阿久津は帽子のつばの下で、にやりと鋭い
「どうして、こんなところにいるんだ?」
「なにがあったのか覚えていないのか」
呆れたように返し、阿久津はつばの下から物静かに前方を見据えた。
「きみもまた、彼らに等しく〝呼び水〟に捕まったんだよ」
呼び水――― 。「きみにもあれが見えたのか?」
「話はここを出てからにしよう」
「おい…!」
わたしは表情を失くした乗客たちを警戒しつつ、慌てて席を立った。母子が立っている乗車口の反対側に向かう阿久津を追うと、「あの、すみません」と後ろから蚊の鳴くような声が聞こえた。
振り返ると、母親が悲痛な面持ちでわたしを見上げていた。
「どうか、この子だけでも連れていってもらえませんか?」
胸をうがつ光景だった。二度と放すまいと手を繋いでいた我が子を差し出す母親と、状況がまるで分っていない
「情けをかけるな」阿久津は電車から降りずにいる母子とわたしの間に立ちはだかった。「これときみとでは行き先が違う。引き留めることに意味はない」
母親の悲しみを受け止めたのは、いつの間にか彼女の背後に立っていた警察官だった。彼は震える肩に手を置き、もの言わぬ
今のは一体、なんだったんだ?「まったく、きみには手を焼かされるな。その年まで、どうやって平穏無事に生きながらえたのか不思議でならないよ」
唖然とたたずむわたしを置き去りに、阿久津は嫌味を挟んで近くのベンチに腰かけた。長い
「ここは一体、どこなんだ?」
わたしは無人のホームを見渡した。トタン屋根が乗っただけの簡素な造りで、標識に書かれた駅名も日に焼けてしまったせいかまっさらだった。駅周辺に漠然と広がる
「きみが見たのは、彼らが死の間際に刻みつけた〝魂の記憶〟だよ。きみは例によって、師が招き寄せた不運に捕まってしまったんだよ、鳥山くん。それが呼び水の正体だ」
呼び水は本来、ポンプでくみ上げる水を上部へ導く差し水のことを言うが、ある事象を引き起こすきっかけという意味でも使われる。
電車に乗る以前の記憶を辿るわたしに、「前に
「それはわたしに限った話じゃないだろう。あの人が振りまく不幸は人を選ばない」
「それはそうとも。なんといっても、彼は
すいけつ?「きみの師がなにか、前に知りたがっただろう。今のが、その答えだよ」
眉をひそめるわたしに、阿久津は目を弓なりに弁を振るった。
「きみは〈五大元素〉という言葉を知っているかい? 万物は地、水、火、風、空からなるという考えで、
指折り数えていた手を開き、阿久津は煙管を吹かして一拍置いた。ふぅーと長く煙を吐いて、道理に暗いわたしに「要は、ぼくが吸っているこれと同じだよ」と
「窓を開けて風通しを良くするように、人間という生き物は他人と気を交流させながら生きている。裏を返せば、良くも悪くも他人の影響を受けるということだ。それを、きみたちは感覚的に〝相性〟と呼んで良し悪しを区別している。しかしきみの師は、五行思想の
「とんでもない人だな」わたしは
運も実力のうち。以前、佐倉氏が鈴音さんに豪語していた背景に
「いや、ちょっと待て」わたしは災禍の裏に隠された悪意に気付き、さも
「むしろ、それ以外になにがあると思ったんだい?」開き直られた。
「泣きたいのはぼくの方だよ、鳥山くん」
親しげに振る舞いながら、阿久津はさもくたびれたような
「彼らはどこに行く途中だったんだ?」
「さてね。失くした過去を惜しんでいるうちは、どこにも辿り着けやしないさ」
カコン、と煙管から灰を落とし、阿久津は虚ろな景色からわたしを流し見た。
「木は燃えて火を生み、残った灰は土に
「
わたしは水に呑まれた多くの人生を思って気を重たくした。
「きみも生きているうちが花と思いたまえ」
阿久津は使い終わった煙管を戻しながら言った。「咲き続けるには苦を伴うが、
「人の運を吸い込む以外の機能がついていると?」
「きみがぼくにご馳走を運んできてくれるように、とだけ答えておくよ」
阿久津は小馬鹿にするように表情を和らげた。内心こぶしを固めるわたしに涼やかに言う。
「この世に無意味なことなんてありはしないさ。人との出会いもしかり、
穢れた鈴。その意味を解した時、ホームに立つわたしの肩を誰かが掴んだ。
驚き様に振り返ろうとした体は、何故か少しも動かなかった。衝撃を受けたものの、父親のような優しさと力強さが伝う感触に妙な安らぎが広がった。
「どうやら迎えが来たようだ」
金縛りにあったように瞳を揺らすわたしに、阿久津はベンチに腰かけたまま言った。
「今回助けてやった恩はツケておくよ。次に会う時は大物を頼むぜ、鳥山くん」
言いたいことは山ほどあったが、
長いこと冷気にさらされていたのか、体は酷く冷え切っていた。小さな窓から降り注ぐ雨音とともに、ゆっくり記憶が戻ってくる。
わたしは佐倉氏とともに古民家を利用した町の資料館を訪ね、
倒れている近くには根元から折れた欄干の一部が転がり、壁にかけられた額縁写真の中から、モノクロに染まる町民たちがもの言わぬ笑みをわたしに向けていた。
厚く
「その話を伝える為に、わざわざ鈴音さんのお店を訪ねたのですか?」
食堂の片隅で
彼女が作ったというヒヨコ型のクッキーをむさぼっていたわたしは「むしろ、それ以外になにがあると思ったんだ?」と冷風吹きすさぶ胸のうちを隠して温かいコーヒーをすすった。生きていてよかったと思う瞬間である。
つつがなく倉庫清掃を終えた夕刻、わたしと渚小鳥は作業終了間近に姿を現した
「先輩がそんなご不幸に見舞われていたとは知りませんでした」
佐倉氏がもたらす恐怖に、渚小鳥もコーヒー片手におののいた。
「おそるべし、エナジーヴァンパイア。西洋魔術では心霊吸血鬼とも呼ばれる存在で、善良な人間を好んで活力や運気を奪っていくといいます。それにも屈せず、二階から落ちて怪我一つ負わなかった先輩の悪運の強さにも感服です」
「今日のところは賛辞と受け取っておこう」
わたしはやたらとうまいクッキーをむさぼった。これで明日の筋肉痛も緩和されるだろう。
「でも今のお話、鈴音さんは本に書いてくれるでしょうか?」
渚小鳥は人知れず
「兵隊さんも電車に乗っていた方々も、救う手立てがないだけにかわいそうです。自分がどんな風に生きて死んだのか、それを誰も知らない世の中に埋もれて、さもなかったようにされてしまうのは、とてもやりきれないと思います」
「そう思って鈴音さんに託したんだ。本に載ることが供養になるかは分らんが…」
「きっとなります!」
渚小鳥はぱっと
「先輩がそうしたものを見るようになったのは、鈴音さんにチャンスが与えられたように、現代に生きるわたしたちが忘れてしまったことを知る必要があったからじゃないでしょうか。にちにちなんとか、今日もなんとかというやつです!」ほとんど忘れている。
「ぼくも今日一日を生き延びるので精一杯ですよ」
話し込む横から聞きなれた声が割り込んできた。見ると目の下に薄っすらクマをつけた佐倉氏が、一部のファンからは
彼は
「今日はお掃除、ご苦労さまでした。ぼくは片付けが大の苦手なので、真面目できれい好きな教え子がいてくれて大変ラッキーでした」それはそうだろう。
「順調に寿命を削られているようで安心しました」
恐縮です、と慎ましやかに日当に手を伸ばす渚小鳥の前で、わたしもにべもなく日当に手を伸ばした。しかし彼の手から引き抜こうとした封筒は、どちらも卓上に貼りついてしまったようにびくともしなかった。
ん?と険しく
「ものは相談なんですけど、よければ今度の日曜日、ぼくの用事に付き合ってもらえませんか」佐倉氏はわざとらしく笑みを
「え、行きます!」
趣味の
たかだか誕生日を祝うのに、なんて回りくどい、それでいてなんとあざとい手を使うのだろう。
日当を惜しむわたしに、「この時期、進路や単位のことで相談もしたいでしょう。どうです?」と悪魔が親切を装って
「…行きます」
悲しいかな、自分の声がそう言うのがはっきり聞こえた。
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