第6話 『 而今 』

「にちにちこれこうじつ。今日も生涯の一日なり」

 摩訶不思議な呪文を唱え、吉見よしみ教授は空になった弁当箱の前で軽く両手を合わせた。

 わたしとなぎさ小鳥ことりもこれに続き、「にちにちなんとか、ご馳走ちそうさまでした」とバイトのまかないとして出された幕の内弁当の余韻に浸った。

 クリスマスを間近に控えた十二月某日ぼうじつ。わたしと渚小鳥は骨と皮ばかりになる佐倉さくら氏に頼まれ、吉見教授の管轄下かんかつかにある研究室と倉庫の年末大掃除を任されていた。氏によって最初に選抜された数名が、厄落やくおとしならぬ厄もらいを恐れて辞退したためである。

「なんだ。今時の若い奴は〝而今にこん〟の教えも知らないのか」

 座椅子ざいすに深く腰掛けていた吉見教授は、わざわざ上体を起こすと近くにあった資料をひっくり返してボールペンを走らせた。

「〝日日是好日にちにちこれこうじつ〟。直訳すると、毎日が安らかで良い日である、という意味だ。中国とう時代に生まれた禅語ぜんごで、掘り下げて言うと〝留まることなくすぎゆく時間こそ命の真実であり、無常迅速むじょうじんそくの世においては、この一瞬こそがすべてである〟…とまぁ、そんなような意味だ」

 さすが、ものを教える立場の人間は時と知識を惜しまない。深くうなずくわたしの横で、くちばしの黄色い娘も舌を巻いた。「教授、その紙は学生の論文では」

「今日も生涯の一日なりというのはだね」吉見教授はかぶせる勢いで話を戻した。「きみたちもよく知る啓蒙家けいもうか、福沢諭吉先生のお言葉だ。すぎ去った昨日はすでになく、明日は来るともしれない。だからこそ、その日その日を精一杯生きる、という教えだよ。〝ただ今を生きる〟、それが而今だ」

「ありがたく頂戴ちょうだいいたします」

 わたしはうやうやしく頭を下げた。腹中ふくちゅうさけと海老天も、わたしのような慎ましい人間に食われてさぞ幸せであっただろう。

 ふむふむ、と啐啄同時そったくどうじ妙味みょうみに浸る教授も、午前中に片付いた研究室の清々しさに満足げである。さて、これから午後の部に取りかかろうと腰を浮かしかけた清掃員二名を、「まぁ、まぁ、待ちたまえ」と押し留めた。

「ここだけの話、実はきみたち二人に尋ねたいことがあってね。ずばり、きみたちの先生についてなんだが、風来坊ふうらいぼうたるわたしの耳にまでよからぬ噂が届いているんだよ。佐倉くんが大学に伏せて副業してるって」おっと、これはまずい流れだ。

 わたしは眠気を誘う白樺しらかばのような静謐せいひつを漂わせて閉口へいこうした。こういう時、目元を髪で隠していると表情が顔に出にくいので、大変便利である。

 場をやりすごそうと木と化したわたしに、教授も行き詰った顔をしてみせる。

「まぁ、専任講師と言えどもじゅうぶんな手取りがあるわけじゃないから、バイトぐらい大目に見てやってもいいとは思うんだが、うちの大学は頭の固い連中ばかりで職員の副業を禁止しているんだよ。彼自身、人目を惹く自覚がないのかちらほら目撃談が出ていてね。真偽しんぎのほどを確かめよと理事たちからしつこく言いつけられているんだよ。それで実際、どうなんだね。きみたち二人は、ゼミ生の中でもとりわけ彼と親しいだろう。きみに至っては、佐倉くんの副業を手伝ってるとまでささやかれているぞ」なんと。

「…記憶にございません」

 わたしは使い回された常套句じょうとうくを盾に、降りかる火の粉を振り払った。例え秋葉山あきばさんから火事になろうと、退学に追い込まれる事態だけはなんとしても避けたかった。

 事情を知らない彼女もこれに同調するかと思いきや、「…実は、ここだけのお話」

 わたしは風を切って隣を見やった。一体全体、なにを言い出すかときもを冷やす横で彼女は断言した。

「佐倉先生は、どうやら婚活をされているご様子です」

「婚活っ?」

 予想外の返答に目をくわたしの前で、教授もとりわけ声を跳ね上げた。

「そんなもの、彼には必要ないだろう。引く手あまたなんだから」悔しいが、いなめない。

 渚小鳥はおくすことなく、立て板に水の調子で甘いロマンスを語って聞かせた。それによると、多忙を極める佐倉氏は心のオアシスを求めて婚活パーティーに参加し、そこで出会った壁の花ウォール フラワーに心を奪われて以来、日夜求婚にいそしんでいる…とのことだった。

 即席とは思えぬストーリー性に、吉見教授も判別しかねる様子で腕を組んだ。彼女なりに氏をかばっているのだろうが、しれっとした顔でまことしやかに振るわれた二枚舌に、わたしは首元で小さく光るピンバッチに「怪人二十面相K」の文字を見出した。

 渚小鳥が意中の人の名前さえ明かすと、教授も信憑性しんぴょうせいを見出したのか、あっさり引き下がってくれた。

「そういうことなら、他人がとやかく口を挟むのは野暮やぼというものだろう。真宮まみやくんにはすまない気もするが、理事たちには適当に説明しておくよ。わたしとしても、佐倉くんは使いがっ…仕事のできる男だから手放すに惜しくてね。ここは一丸となって彼を守ろうじゃないか」今、なにか言いかけたな。

 不穏な会話は各々おのおのの思惑にのっとり、速やかに終止符が打たれた。


「どうして、あそこで真宮先生の名前が出てくるんだ?」

 魔の第三倉庫へ向かう道すがら、わたしは重ねて抱えた資料箱の山に息切らしながら、隣を歩く渚小鳥に尋ねた。小柄な体躯たいくでえっちらおっちら掃除道具を運んでいた彼女も、急に野暮用を思い出したという吉見教授に私怨しねんを飛ばすように声をとがらせた。

「それは多分、真宮先生が佐倉先生に恋慕されているからだと思います」

「れんぼ?あの、真宮先生がか?」

「わたし自身はお見かけしたことはありませんが、佐倉先生とお話される時の目つきがなまめかしいと、もっぱら女学生たちの間でささやかれているのです」

 わたしは無言で眉をひそめた。その女学生たちも、おそらくは幻想コイという名の流行性感冒インフルエンザ罹患りかんしているに違いない。日本ではやきもちを焼くことをつのを生やすと言うが、けんを競う女性たちが同胞らに向ける私怨の陰険さにはおののかされる。

 話題にのぼった真宮凛は渚小鳥が専攻する英文学科の助教から三十二歳にして専任講師に昇進した有能な女史じょしで、リスを彷彿ほうふつさせる愛らしい顔立ちに長い黒髪をポニーテールにまとめ上げたインテリジェンスな容姿をしている。彼女を崇拝する罹患者りかんしゃも多く、年上好きの佐倉氏がなびかなかった意外性に、わたしも少なからず首をひねっていた。

 恐怖トンネルから生還してほどなく、わたしはある事象をきっかけとして現れた阿久津あくつの言葉を伝えるべく、鈴音さんが経営する〈鈴のなる樹〉を訪ねていた。佐倉氏にまつわる一切合切の不幸をあげつらうのは性に合わないので、もっとも重要な相性云々うんぬんのくだりだけ説明すると、これを聞いた鈴音さんは作業机の上で組んだ両手に暗い眼差しを落とし、断腸の思いとばかりに苦い笑みを浮かべて言った。

「ありがとう。でも、柊平しゅうへいくんのことはもういいの。やっぱり、彼とはそういう関係にはなれないから。せっかく協力してくれたのに、本当にごめんなさい」

 人の心を動かすことは容易よういではない。その一言で羅刹らせつに食われかけた一連の騒動が徒労とろうに終わり、彼女の心に影を落としているものがなんであったのか、それすらも分からないまま天岩戸あまのいわとの前から撤退しなければならなかった。取り持ちであるわたしには、暗い穴ぐらに引きこもった彼女の心をノックすることしかできないからだ。

「先輩は、どうしてそんなに鈴音さんを気にけるのですか?」

 話の種に女心の推移すいいについて意見をうと、渚小鳥は心中をし量るように指示書から目を上げた。軍手をはめた手でオセアニア部族の仮面を掴んでいたわたしは、それと熱く見つめ合いながら呻吟しんぎんした。

「それが本来あるべき〝形〟だと思ったからだ」

「カタチ?」

 わたしは大きな仮面を照れ隠しに布で拭いた。「うまく言えないが、二人は互いを必要としている気がしたんだ。人との出会いには、良くも悪くもなんらかの意味がある。それが実を結ばずして無にすというのは、はたから見ていて気持ちのいいものじゃない。だから世話を焼きたくなるんだろう」

 これまた無駄に長いやりに手を伸ばし、わたしは話の矛先ほこさきを変えた。「ところできみは、どうして先生の依頼を引き受けたんだ? 危険を冒すほど金に困っている風には見えないが」わたしも酷い言いようである。

 渚小鳥はぱちりとまばたきを落とし、仮面のような無機質さで返した。

「失くしたハンディカムを弁償する為です」また地雷を踏んだ…。

 子供の駄賃だちんほどの報酬にすがるとは、わたしに劣らず貧窮ひんきゅうしているに違いあるまい。ウナギうけに引き込んだ負い目もあり、わたしは彼女の分までせかせかと体を動かし、ものを目撃した倉庫のかどにも勇んで足を踏み入れた。

 達磨だるま偽装事件以降、鬼大師おにだいしが描かれた掛け軸は開眼供養かいがんくようの機が訪れるまで、この倉庫で眠りにかされていた。明かりの届かない通路でせっせとはたきをかける傍ら、わたしは首からさげている御守りになけなしの安寧あんねいを求め、ズボンのポケットに忍ばせた角大師の加護にすがった。というのも、異次元に度々足を踏み入れているせいか、はたまた異界の生物とたわむれた後遺症か、近頃やたらとおかしなものを目にするのだ。

 例えば、ある晩のことである。

 バイトを終えて帰途きとに就いたわたしは、山伏やまぶし連合が開拓陣営と折り合いをつけて作られた緑道りょくどうを歩いていた。この緑道というのは自然公園の外周をふち取る散歩道のようなもので、平地林と住宅街の合間を縫って長く伸びている。夜ともなれば街灯がついて明るいし、犬の散歩やジョギングをするやからなども頻繁に通るので安全この上ない。

 通り魔ならぬ夢魔むまに遭遇してからというもの、わたしはやや遠回りではあるが、こちらの道を使うようにしていた。緑道には定感覚に住宅街へ抜ける出口が設けられており、運がよければパトロール中の野良猫にも会える癒しスポットだった。

 最寄り駅からぐんぐん坂を上って緑道に入ったわたしは、上着のポケットに猫のおやつを忍ばせつつ、街灯に照らされた夜道を呑気に歩いていた。すると前方から、やけに背の高い酔っ払いが千鳥足ちどりあしで歩いてくるのが見えた。足元がおぼつかない上に歩行速度も遅く、その横を平然と通り抜ける女性ランナーを見て安全と判断したわたしはさくさく足を速めた。しかしあと少しと距離を詰めた時、わたしは酔っ払いの背丈がゆうに二メートルを超えている事実に気付いて足を止めた。

 恐ろしいことに、そいつは全身肌色で服さえ着ていなかったのである。

 新手の変質者か。わたしは寒風かんぷうに臆さぬ気骨に感服し、表情一つ変えずに追い抜いていったランナーの胆力たんりょく礼讃らいさんしかけて、はっと目を見張った。変質者の顔が、やけに簡単にできているのだ。それこそ、はにわのような手抜き具合である。

 目をらしてみると、そいつの顔は棒で穴を空けただけの質素な作りをしていた。鼻もなければまゆもなく、丸刈りというよりは髪さえ生えていない。言うまでもなく、人外の生物である。普通なら一目散に逃げ出すところだが、ふらつきながらも懸命に歩を進めるさまがいじらしく、わたしは沿道えんどうからランナーに声援を送る観衆よろしく、わざわざ道を譲ってやった。あまりにも働きすぎて知覚が鈍っていたのだろう。

 そいつは全身が粘土のようなものでできていた。不思議と恐怖は感じず、向こうも余裕がないのか、わたしを一瞥いちべつするでもなくふらふら脇を抜けていく。どこへ行くのかと背中を見送った矢先、色気のない尻からぼたりと肉片が落ちた。

 正確には、泥の一部である。そいつは体を欠損したことにも気付かない様子で、のっそのっそと歩いていく。犬の落とし物を彷彿ほうふつさせる物体に尻込みしたものの、今にも息絶えそうな姿を不憫ふびんに思ったわたしは、心を起こしてみずみずしい泥を手ですくい上げた。なえがすくすく育ちそうな、よい土である。背後から忍び寄って元あった場所に泥をくっつけてやると、そいつは礼を言うでもなく歩き続け、曲がり角に差しかかったところで跡形もなく消えてしまった。正体は分からずじまいである。

 また別の夜こと。

 金策尽きたこの日、わたしは久しく実家に立ち寄り、恥をかなぐり捨てて数日分の食料と夕飯をたらふくご馳走ちそうになった。かわいげのない妹に小遣いを無心されて逃げ出すと、無人のバス停に容赦ない定着時刻が記されていたので歩くことにした。

 夜道とはいえ通いなれた場所なので、人気ひとけがなかろうが金がなかろうが怖気おじけづく理由もなく、リュックサックに詰まった食料の重さが足取りを大胆にさせていた。これで三日は生きながらえると腹をさすって歩いていると、対角にコンビニのある交差点に差し掛かった。信号待ちをしていたわたしは、春ともなれば桜一色に染まる並木通りをぼうっと眺めては夢想にふけっていた。

 そこへ、「すみません」

 ふいに声が掛かった。辺りにいるのはわたしだけなので人違いということもない。反射的に振り返ると、行軍こうぐん帰りかと見紛みまがう軍服姿の青年が疲弊した面持ちでわたしの後ろに立っていた。

「水を持っていませんか?のどが酷く渇いているのです」

 気合いの入ったコスプレイヤーかと思いきや、土埃つちぼこりにまみれた顔は水を欲する以前に酷くせこけていた。よほど過酷な演習を行ったのか、救世主でも見たような目をして苦しそうである。とっさの出来事に声を奪われていたわたしは気付いてしまった。

 彼の着ている軍服が、旧日本軍のそれであることに。

「ま、待っていてくれ。すす、すぐそこで買ってくる…!」

 青年の気迫に押され、わたしは手で示したコンビニに駆け込んだ。強盗にでも遭ったような狼狽ろうばいぶりでミネラルウォーターを手にし、なけなしの小銭をはたいて会計を済ませた。店を飛び出して信号を渡ると、待っていてくれと頼んだにもかかわらず、旧日本軍の制服を着た彼は忽然こつぜんと姿を消していた。わたしは辺りを見渡し、しばしその場に立ち尽くした。こうも慌てふためいたのには、れっきとしたわけがあった。

 その道は、かつて〝戦車通り〟と呼ばれた旧軍の戦車試走道だったのである。

 並木沿いには第二次大戦の末期に道が作られたことを記す解説版が立っていた。軍服を着た彼がどのような経緯があってわたしに声を掛けたかは知れぬが、ひっ迫した面持ちからして想像にかたくない。わたしは母から施された菓子と買ったばかりの水を彼が立っていた場所に供え、心苦しくも手を合わせてその場をあとにした。

 しかし、災禍さいかはこれに留まらなかった。

 つい先日のことである。

 その日、わたしは電車に乗っていた。窓からはうららかな日差しが入り、物静かな車内はガタンガタン、と規則的なリズムに揺られていた。田舎線いなかせんともあり、乗客の数は少し席が埋まっている程度で、わたし自身は乗車口に近い角席を取っていた。何気なく髪の合間から前の座席を眺めると、当然ながら老若男女、規則性のない人たちが一様に口を閉ざして座っている。

 しかしながら、わたしはそこに奇妙な一致を見出した。

 彼らは、みな――― 。「お母さん、まだ?」

 乗車口の脇に立っていた幼い娘が、母の手を取って急かす声が聞こえた。おさげをした七、八歳ほどの少女である。母親はカーディガンにスカートと質素な装いで、聞こえない程度の声で娘をたしなめていた。顔を見ようと目線を上げたその時、自分のものではない強烈なイメージが頭の中に割り込んできた。本当に息つく暇もなかった。

 最初にとらえたのは、荒れ狂う雨音だった。

 轟々ごうごうと風を巻き上げるほどの酷い嵐が、一つの町を襲っていた。外はすでに日が暮れ、掘立ほったて小屋に住む老女は寄り添う家族もなく、心許こころもとないかさ電球の明かりを頼りに嵐がすぎ去るのを待っていた。時代背景は古く、窓を叩く雨音に紛れて玄関から呼ぶ声がある。急いで向かうと、懐中電灯を手に雨合羽あまがっぱを羽織った警察官が立っていた。顔は緊張からこわばり、自分と急いで避難するようにと言う。老女は突如として理解した。

 近くを流れる大きな川が氾濫はんらんしかけているのだ。

それは町を一刀いっとうする大きな川だった。堤防ていぼうはあるもののじゅうぶんな高さがあるとは言えず、今夜のような酷い嵐が来る度、人々は肝を冷やしながら避難指示を聞き逃すまいと耳をそば立てている。

 川は過去に幾度も氾濫を起こしたことがあったからだ。

 警察官は身寄りのない老女を気遣い、避難指示が出るとすぐに保護しようとやってきたようだった。二人一緒に雨の中に出ると、警察官を探していた町の者たちが各々明かりを携えてやってきた。聞けば一人の少女が行方をくらまし、最後に目撃された川の土手付近を、母親と町の者たち十数名が危険をかえりみずに捜索しているという。

 川の水嵩みずかさは土手に達していないものの、この酷い嵐では氾濫するのは時間の問題と思われた。警察官は捜索している者たちに避難指示をあおぐ為、そして自らも捜索に加わるべく土手へ向かった。その中には、幼い少女を心配した老女の姿も混じっていた。

 土手を見下ろす堤防の上に着いてみると、闇の中を十数もの明かりがやぶの中に散在していた。警察官は危険を承知で土手に降り、住民たちとともに少女の捜索を始めた。周囲は雨音が酷く、町に鳴り響くサイレンの音さえかすませていた。

 川の水は闇一色に染まり、不気味なうなりを上げていた。母親はずぶ濡れになりながらも、必死で娘の名を叫んでいる。彼女から放たれる気迫に呑まれ、捜索に加わった者たちはみな、危険と隣り合わせでいる自覚が薄れていた。闇に溶けた川の水は急速にかさを増し、避難をあおぐ警察官の叫び声が雨音をつんざいた。闇の中を逃げ惑う捜索隊と、土手に留まって娘を探し続ける母親。激流をまとった川の水は瞬く間に堤防に達し、彼らを一緒くたにはらんだまま町の中へなだれ込んでいった。

 そこで場面は唐突に終わりを告げる。正気を取り戻したわたしは、今見えた光景に愕然がくぜんとし、目の前の座席に座る人たちの姿に身震いした。

 彼らはみな、昭和初期に見る古めかしい恰好かっこうをしていた。その顔ぶれは老女に町の者たちと記憶に新しいものばかりで、中には警察官の彼もいる。無表情な彼らは生気を失い、抗うことなく電車に揺すられている。乗車口に立っていた親子に再び目を向けると、母親は幼い娘の手を固く握り、やはり無表情のまま立ち尽くしている。電車は止まる気配を見せないまま、ガタンガタンと規則正しいリズムを刻んで静寂を持て余していた。

「―――そろそろ降りんと、きみも捕まるぞ」

 右隣りから聞こえてきた声に、びくりと腰が浮きかけた。

「阿久津…!」

「やぁ、鳥山くん。こんなところで遭うとは奇遇だね」

 阿久津は帽子のつばの下で、にやりと鋭い八重歯やえばをのぞかせた。できすぎた邂逅かいこうに、わたしは彼を頭のてっぺんからつまさきまで見やった。固く腕を組む姿は冬仕様の着物に包まれているが、素足で焼き下駄げたを履くところは相変わらず寒々しい。

「どうして、こんなところにいるんだ?」

「なにがあったのか覚えていないのか」

 呆れたように返し、阿久津はつばの下から物静かに前方を見据えた。

「きみもまた、彼らに等しく〝呼び水〟に捕まったんだよ」

 呼び水――― 。「きみにもあれが見えたのか?」

「話はここを出てからにしよう」言下げんかくじき、阿久津は組んだ腕をほどいて立ち上がった。「その為にそばについていてやったんだ。ぼさっとしていないで早く来たまえ」

「おい…!」

 わたしは表情を失くした乗客たちを警戒しつつ、慌てて席を立った。母子が立っている乗車口の反対側に向かう阿久津を追うと、「あの、すみません」と後ろから蚊の鳴くような声が聞こえた。

 振り返ると、母親が悲痛な面持ちでわたしを見上げていた。

「どうか、この子だけでも連れていってもらえませんか?」

 胸をうがつ光景だった。二度と放すまいと手を繋いでいた我が子を差し出す母親と、状況がまるで分っていない幼子おさなご無垢むくな面持ちは、それこそ水を誘うように心を揺すぶった。人情など微塵みじんも持ち合わせてない鬼畜きちくが一緒でなければ、電車から降りることもままならなかっただろう。

 不遜ふそんに肩を掴まれた直後、力任せに後方へ引っ張られてようやく、わたしは電車がホームに停車していることに気が付いたのだ。

「情けをかけるな」阿久津は電車から降りずにいる母子とわたしの間に立ちはだかった。「これときみとではが違う。引き留めることに意味はない」

 母親の悲しみを受け止めたのは、いつの間にか彼女の背後に立っていた警察官だった。彼は震える肩に手を置き、もの言わぬ眼差まなざしでわたしたちに語りかけると扉が閉まるに任せた。発車した電車を見送る心中では、しのつく雨が依然として降り続いていた。

 今のは一体、なんだったんだ?「まったく、きみには手を焼かされるな。その年まで、どうやって平穏無事に生きながらえたのか不思議でならないよ」

 唖然とたたずむわたしを置き去りに、阿久津は嫌味を挟んで近くのベンチに腰かけた。長いあしをだらしなく組み、容器から取り出した煙管キセル一式に火をつけてうまそうに吹かす。

「ここは一体、どこなんだ?」

 わたしは無人のホームを見渡した。トタン屋根が乗っただけの簡素な造りで、標識に書かれた駅名も日に焼けてしまったせいかまっさらだった。駅周辺に漠然と広がる田園でんえん風景を流し見ながら、切符を買った覚えがないことに遅まきながら気付く。頭の中を見透かしたように、阿久津が先駆けて言った。

「きみが見たのは、彼らが死の間際に刻みつけた〝魂の記憶〟だよ。きみは例によって、師が招き寄せた不運に捕まってしまったんだよ、鳥山くん。それが呼び水の正体だ」

 呼び水は本来、ポンプでくみ上げる水を上部へ導く差し水のことを言うが、ある事象を引き起こすきっかけという意味でも使われる。

 電車に乗る以前の記憶を辿るわたしに、「前に河童かっぱの夢を見たと言っていたが、雨神うじんに呼ばれたところからして、きみは水と相性がいいらしい。それが呼び水の受け口になっているんだろう」

「それはわたしに限った話じゃないだろう。あの人が振りまく不幸は人を選ばない」

「それはそうとも。なんといっても、彼は類稀たぐいまれなる〈睡穴〉だからね」

 すいけつ?「きみの師がなにか、前に知りたがっただろう。今のが、その答えだよ」

 眉をひそめるわたしに、阿久津は目を弓なりに弁を振るった。

「きみは〈五大元素〉という言葉を知っているかい? 万物は地、水、火、風、空からなるという考えで、陰陽道おんみょうどうでは五行思想という形で事象を現し、人間もいずれかの性質を備えて生まれてくると言われている。この特徴を持つものの一つに〈経穴けいけつ〉というものがある。きみに分かりやすく言えば、体にある〝ツボ〟のことだよ。古くは気穴きけつ孔穴こうけつとも呼ばれ、ここから入る気の状態によって、せいえいけいごう と分けられる。どれも人間の体に備わっているが、どこがもっとも活発に開いているかで気質を分類することができる。活力にあふれた汚穴おけつ、精気に乏しい閉穴へいけつ、相互作用をもたらす互穴ごけつ、攻撃的な刺穴しけつ。そして、他人の気を吸い取る睡穴すいけつだ。きみの師はこれに当たる」

 指折り数えていた手を開き、阿久津は煙管を吹かして一拍置いた。ふぅーと長く煙を吐いて、道理に暗いわたしに「要は、ぼくが吸っているこれと同じだよ」とさとした。

「窓を開けて風通しを良くするように、人間という生き物は他人と気を交流させながら生きている。裏を返せば、良くも悪くも他人の影響を受けるということだ。それを、きみたちは感覚的に〝相性〟と呼んで良し悪しを区別している。しかしきみの師は、五行思想の相互そうご関係にはばかることなく、縦横無尽じゅうおうむじんに精気を吸い込んでいる。その証拠に、彼自身はとても運に恵まれているだろう。運気も一緒に吸い込んでいるからだよ」

「とんでもない人だな」わたしは木槌きづちを振り下ろす勢いでおののいた。

 運も実力のうち。以前、佐倉氏が鈴音さんに豪語していた背景にしかばねの山があるとは、誰が想像しただろう。

「いや、ちょっと待て」わたしは災禍の裏に隠された悪意に気付き、さもつのを折ったように振る舞う鬼に食って掛かった。「あの人と懇意こんいにしろと言ったのは、不幸が元で化け物が寄ってくることを期待したからか…!」

「むしろ、それ以外になにがあると思ったんだい?」開き直られた。

「泣きたいのはぼくの方だよ、鳥山くん」

 親しげに振る舞いながら、阿久津はさもくたびれたようなつらをしてみせる。「垂らした釣りえさが余計なものまで引っかけてしまうから、その都度かかったものをばらす作業に追われる。さっきの連中がいい例さ。彼らは過去の幻影となり果てた自分たちを知ってもらおうと、都合のいいお人好しを捕まえて連れて行こうとしたんだ。ぼくが竿さおを握っていなければ、どうなっていたことやら」

「彼らはどこに行く途中だったんだ?」

「さてね。失くした過去を惜しんでいるうちは、どこにも辿り着けやしないさ」

 カコン、と煙管から灰を落とし、阿久津は虚ろな景色からわたしを流し見た。

「木は燃えて火を生み、残った灰は土にす。それが時をかけて金となり、呼び込んだ水が木をはぐくむ。姿形を変えて流転るてんし続ける輪廻りんねこそ、生命の根本さ。留まれば不浄を招き、過去にしがみつけば得られたはずのものさえ流れていってしまう。水と同じだよ」

諸行無常しょぎょうむじょうか」

 わたしは水に呑まれた多くの人生を思って気を重たくした。

「きみも生きているうちが花と思いたまえ」

 阿久津は使い終わった煙管を戻しながら言った。「咲き続けるには苦を伴うが、千変万化せんぺんばんかの世を眺めるうちに気付くだろう。自分もまたこの世に欠かせぬ一つの存在であり、なにかに恵みをもたらすことができるということを。きみの師も例外ではない」

「人の運を吸い込む以外の機能がついていると?」

「きみがぼくにご馳走を運んできてくれるように、とだけ答えておくよ」

 阿久津は小馬鹿にするように表情を和らげた。内心こぶしを固めるわたしに涼やかに言う。

「この世に無意味なことなんてありはしないさ。人との出会いもしかり、けがれた鈴が音を取り戻すには、彼が持って生まれた気質がかなめだ。本人にもそう伝えたまえ」

 穢れた鈴。その意味を解した時、ホームに立つわたしの肩を誰かが掴んだ。

 驚き様に振り返ろうとした体は、何故か少しも動かなかった。衝撃を受けたものの、父親のような優しさと力強さが伝う感触に妙な安らぎが広がった。

「どうやら迎えが来たようだ」

 金縛りにあったように瞳を揺らすわたしに、阿久津はベンチに腰かけたまま言った。

「今回助けてやった恩はツケておくよ。次に会う時は大物を頼むぜ、鳥山くん」

 言いたいことは山ほどあったが、麻痺まひしていた知覚が徐々に呼び覚まされると、肩を掴む手が激しく体を揺すっていることに気が付いた。呼ばれるまま目を向けた先には、佐倉氏の顔がある。彼は非業ひごうの死を目の当たりにしたような狼狽ろうばいぶりで、目が覚めたと分かると泣き顔でわたしに微笑んだ。

 長いこと冷気にさらされていたのか、体は酷く冷え切っていた。小さな窓から降り注ぐ雨音とともに、ゆっくり記憶が戻ってくる。

 わたしは佐倉氏とともに古民家を利用した町の資料館を訪ね、併設へいせつされた土蔵どぞうの中で古物を検証している最中さなかだった。氏が館長と席を外し、黙々とあと片付けをしていたわたしは、彼が寄贈きぞうの交渉を進めていた二階の欄干らんかんに何気なく体を預けたところで記憶を失った。

 倒れている近くには根元から折れた欄干の一部が転がり、壁にかけられた額縁写真の中から、モノクロに染まる町民たちがもの言わぬ笑みをわたしに向けていた。

 厚くほこりをかぶったそれは、町でかつて起きた水害を知らせるはずのものであった。


「その話を伝える為に、わざわざ鈴音さんのお店を訪ねたのですか?」

 食堂の片隅で爛々らんらんと怪奇話に聞き入っていた渚小鳥は、れ物に触れるような口ぶりで訊いた。

 彼女が作ったというヒヨコ型のクッキーをむさぼっていたわたしは「むしろ、それ以外になにがあると思ったんだ?」と冷風吹きすさぶ胸のうちを隠して温かいコーヒーをすすった。生きていてよかったと思う瞬間である。

 つつがなく倉庫清掃を終えた夕刻、わたしと渚小鳥は作業終了間近に姿を現した吉見よしみ教授からなけなしの缶コーヒーを差し入れにもらい、バイト代をもらうまでの間、食堂でしばし時間を潰すことになった。ハンディカムの埋め合わせにと始めた体験談だったが、悪食鬼の釣り具にされているとは言い出せず、例によって阿久津の登場シーンはごっそり省いていた。

「先輩がそんなご不幸に見舞われていたとは知りませんでした」

 佐倉氏がもたらす恐怖に、渚小鳥もコーヒー片手におののいた。

「おそるべし、エナジーヴァンパイア。西洋魔術では心霊吸血鬼とも呼ばれる存在で、善良な人間を好んで活力や運気を奪っていくといいます。それにも屈せず、二階から落ちて怪我一つ負わなかった先輩の悪運の強さにも感服です」

「今日のところは賛辞と受け取っておこう」

 わたしはやたらとうまいクッキーをむさぼった。これで明日の筋肉痛も緩和されるだろう。

「でも今のお話、鈴音さんは本に書いてくれるでしょうか?」

 渚小鳥は人知れずつゆと消えた命を思って表情を暗くした。

「兵隊さんも電車に乗っていた方々も、救う手立てがないだけにかわいそうです。自分がどんな風に生きて死んだのか、それを誰も知らない世の中に埋もれて、さもなかったようにされてしまうのは、とてもやりきれないと思います」

「そう思って鈴音さんに託したんだ。本に載ることが供養になるかは分らんが…」

「きっとなります!」

 渚小鳥はぱっとおもてを上げ、鼓舞こぶするように小さな手で握りこぶしを作った。

「先輩がそうしたものを見るようになったのは、鈴音さんにチャンスが与えられたように、現代に生きるわたしたちが忘れてしまったことを知る必要があったからじゃないでしょうか。にちにちなんとか、今日もなんとかというやつです!」ほとんど忘れている。

「ぼくも今日一日を生き延びるので精一杯ですよ」

 話し込む横から聞きなれた声が割り込んできた。見ると目の下に薄っすらクマをつけた佐倉氏が、一部のファンからは垂涎すいぜんものとされるメガネをかけた姿で立っていた。

 彼は悪寒おかんに震える我々に構わず別席から引き抜いた椅子いすに疲弊した体を預け、封筒に〈このことは〉、〈内密に〉と書かれた二人分の日当を卓上に載せた。

「今日はお掃除、ご苦労さまでした。ぼくは片付けが大の苦手なので、真面目できれい好きな教え子がいてくれて大変ラッキーでした」それはそうだろう。

「順調に寿命を削られているようで安心しました」

 恐縮です、と慎ましやかに日当に手を伸ばす渚小鳥の前で、わたしもにべもなく日当に手を伸ばした。しかし彼の手から引き抜こうとした封筒は、どちらも卓上に貼りついてしまったようにびくともしなかった。

 ん?と険しくまゆをひそめる我々に、

「ものは相談なんですけど、よければ今度の日曜日、ぼくの用事に付き合ってもらえませんか」佐倉氏はわざとらしく笑みをつくろった。「いや、しくもその日は鈴音さんの誕生日で、これまた折りよく鳥獣人物戯画ちょうじゅううじんぶつぎがの鑑賞チケットが四枚手に入ったので、どうせならこのめんつ》で祝ってあげたいなと思ったんですよ」

「え、行きます!」

 趣味の範疇はんちゅうとあり、渚小鳥は小学生レベルの餌に速攻で食いついた。

 たかだか誕生日を祝うのに、なんて回りくどい、それでいてなんとあざとい手を使うのだろう。

 日当を惜しむわたしに、「この時期、進路や単位のことで相談もしたいでしょう。どうです?」と悪魔が親切を装ってささやいた。関わらなければ無害と分かっていても、関わらなければ単位を授けてもらえないジレンマに陥っているわたしである。

「…行きます」

 悲しいかな、自分の声がそう言うのがはっきり聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る