第5話 『 羅刹 』
風が止まるところには、鬼が出る。
昔、祖母からそんな話を聞いたことがある。家の中の風通しをよくしておかないと、悪いものが中で立ち止まって居ついてしまうのだと。日本ではそうした
「――― おにたろうくん!」
構内を行くわたしの背に
「わざわざ呼び止めてやっているのだから聞く耳を持ちたまえ、鬼の子よ」
「人の子です」
魔のどら焼き事件から一週間が経った十一月末日。一命を取り留めたわたしは、さも何事もなったかのような
「なんの用です」わたしは
「今度うちの部員みんなと、
ただの勧誘だった。
わたしは内心、肩を落とした。この〝今度みんなでブドウ狩りに行かないか〟みたいなニュアンスで
描かれた絵は一見して魔物のような姿をしているが、良源僧侶は
「今ならもれなく」歯切れよく言葉をかぶせ、風戸爽はパーカのポケットからさっとカードを取り出した。
「参加者全員に、
さすが旅行会社の
「きみが来てくれないと始まらないんだよ、オニ太郎くん」
了承した覚えのない呼び名を連呼し、風戸爽は丸めたパンフレットを手に力説した。このオニ太郎というのは目元を隠した妖怪キャラクターの名称で、元をただせば、
「謎の
わたしは苦し紛れに目を細めた。彼の言う通り、渚小鳥が撮影した動画には
聞けば同じく楼門に立っていた彼女の目に、
お陰でその夜以降、
「本当に大変な一週間だったのね」
事情を聞くや否や、鈴音さんは涙ながらに
悪質な勧誘に遭遇した同日の午後。彼女の雑貨屋が入るオフィスビルの一階にて、わたしは食べることの叶わなかったどら焼きと引き替えに、命がけで仕入れた体験談をあっさり明け渡していた。
「でも、サークル内でツアーを組むなんて楽しそうね」鈴音さんは風戸爽が押しつけてきたパンフレットを微笑ましげに眺めた。「いいわね、学生って。わたし大学には行かなかったから、こういうのに結構憧れるのよ」
「そこに書かれているのは、洗脳を目的とした儀式の一環です」
けなげな夢をにべもなく叩き割り、わたしは〝参加費三千円〟をうたうパンフレットを険しい目つきで見やった。記載されたスケジュールでは角大師の札を
「そんな、
鈴音さんは
わたしがうがった見方をするのも、彼女から届いた一通のメールが
〈 急にごめんなさい。どうしても会いたくてメールしました。
最後にしっかり肩透かしを食らわす
同じ鍋をつついた仲とあり、文末には内密に来るようにとの指示が添えてあったのだ。
「今の話、小鳥ちゃんにも内緒にしていたのに、どうして教えてくれる気になったの?」
テーブルの対面に座る鈴音さんは、不安そうに顔色をうかがった。何故、渚小鳥の名前が出されるのかは不明だったが、わたしは三つ目のどら焼きを手に
そこで判断がつきかねたのは、やはり阿久津の存在だった。生きて物語の帰結を迎えるには彼の助けが不可欠だが、そうといって式神の話を持ち出せばきな臭さが増すし、首から常に御守りをさげている腰抜けと思われても嫌だったので、結局は悪運に助けられたということにして食後のコーヒーをおいしくすすった。美人とすごす至福のひとときに、血生臭い男の話題を振るのは
妖怪談義がひと段落ついたところで、「そうそう、メールに書いたことなんだけど」
鈴音さんはぎこちなくコーヒーカップを置き、棚上げにしていた問題に触れた。
「あなたに、ちょっと聞きたいことがあったの。実はみんなでお鍋をやった次の日にね、なんていうか、その…柊平くんに日を改めて食事しないかって誘われたの」
「両の
わたしは自動音声ガイドをもしのぐ速さで切り返した。一宿一飯の
「ち、違うの!」鈴音さんは慌てて両手を突き出した。「別に、デートに誘われたわけじゃないの。本人もそう言ってたし、気分転換にちょっとドライブして映画を観るだけよ。彼は
その瞬間、わたしは思った。同じ車で移動し、一緒に映画を観、二人きりで食事をし、また同じ車に乗り、人気 のない場所で夜景を
「…それで、相談したいことというのは?」
のどまで出かかった疑念をすべて飲み下し、わたしはひとまず先をうながした。
鈴音さんは
「怖い?」
事の意外性に、わたしは眉を寄せた。彼が笑顔とともに振りまくなんやかんやの
「あの人のなにが怖いんです?」
「取り立ててなにかあるってわけじゃないの」鈴音さんは苦々しく笑みを
鈴音さんはなにかを恐れるように長いまつげを伏せた。言葉尻に漂う
例えるなら、それは〝怒り〟だった。
「返事はまだしてないの」鈴音さんは続けた。「予定がまだつかめないからって、はぐらかしちゃった。でもがっかりしてる彼を見たら、いたたまれなくなっちゃって…」
――― あの人とは一生そういう関係にはならないし、うちの代はわたしで終わり。
あの夜の情景が、さっと脳裏をよぎった。それでいて、わたしの目にはちぐはぐな光景が映っている。奇特にも佐倉氏が独身でいるわけに、まだ気付いていないのだろう。誘いに困っているように見えて、その実、彼女は一歩を踏み出すのが怖いのだ。
佐倉氏が信じる通りの男なら、背中を押してもらいたい。
でも、思うところが一つでもあるなら止めてほしい。
氏を知る第三者としてわたしに示された選択肢は、二つに一つだった。
「彼、なにかあるの?」
かすかな動揺を見て取ったのか、鈴音さんは言葉を詰まらせるわたしの顔色をうかがった。疑心に駆られた相手に氏の恋心を明かすことは得策ではないだろう。まして〝彼と一緒にいると不幸になります〟などと真実を明かせば、彼女の抱える不安が爆発して二人の未来が
――― 人との縁もまた必然だ。きみの師とは是非、懇意にしたまえ。
にたりとほくそ笑む
――― いいかい、あの男は。「少し、返事を待ってもらえませんか」
わたしは暗がりに迷い込んだ顔をする鈴音さんに、
「見た目通りの人だとは思いますが、念の為、先生の内情を知る男に話を聞いてきます。
冗談めかした言い方をすると、雨の気配が漂っていた表情に美しい晴れ間が差した。
まったく、わたしもとんだ
夜、テーブルに乗せた御守りを前に、わたしは固く腕を組んで
いやはや、どうしたものか…。
わたしは悩みに悩んだ。阿久津が素直に助けに応じたのは
ここはやはり、安全かつ金のかからない前者にすがってみよう。わたしは御守りの前で南無南無 《なむなむ》…と手を合わせて小さな守護神さまに
その夜更けのことである。
眠るわたしの視界を、ひらりと白い光が遮った。真っ暗闇でなにも見えないのに、不思議と恐怖は感じない。小さな光を目で追うと、ぱらり、ぱらりと半紙がなびくような音が聞こえてくる。ページをめくっているのだと気付いた瞬間、遠くで声がした。
…あぁ、腹が減ったなぁ…。
その声は阿久津以外の何者でもなかった。
朝目を覚ました時、わたしに用意されていた選択肢は一つだけだった。枕元に置いていた御守りを手に、彼が流し見たと思しき卓上のパンフレットを重たい気持ちで見やる。かわいらしい字体で嬉々とつづられた見出しが、たまらなく憎かった。
〈 厄落とし企画@怪奇民族倶楽部とゆく、愉快奇怪なミステリーツアー! 〉
「――― いやぁ、我が部の
小型バスの先頭から、風戸爽がマイク越しに
阿久津からのオファーを受けた四日後の日曜。わたしは欲望で埋め尽くされた極楽行きの墓場号に乗っていた。「たまには、こういう休日もいいですね」
佐倉氏はツアーのパンフレットをまったりとめくった。監督役を買って出ただけに、今日の装いもフィールドワークと変わらぬ紺のブルゾンと黒い細身のパンツとカジュアルで、普段と違うのは幸福に満ち足りた穏やかな顔つきぐらいだった。
「家にいても仕事をしているか寝ているかの二択なので、きみから誘ってもらった時はぼくも嬉しかったですよ。鈴音さんに学生気分を味わってもらおうなんて、きみと渚くんも粋な計らいをしますね」と、渚小鳥の隣に座る鈴音さんの後頭部をうっとり眺める。よもや墓場に道連れにされようとは、ゆめゆめ思っていない様子である。人を疑うことを知らない男は、わたしが二人の仲を取り持つべく動いたと思っているのだ。
悪食鬼を誘い出すにあたり、わたしも考えた。一文の得にもならない仲介役で身を削るなら、せめて
あくまで彼女を元気づけることを動機としていた佐倉氏にこれを断る理由はなく、どこまで人がいいのか、すり替えられたプランを〝まずはお友達から〟のサインと勘違いして嬉々と罠に飛び込んできた。ミステリーツアーに並々ならぬ興味を抱いていた鈴音さんも、妹分の渚小鳥ともども愉快痛快にすごしている様子で、正午に始まったバスツアーは秘密結社たちの怪談話に異様な盛り上がりを見せつつ、観光も交えて角大師の護符を授与している寺院を一つずつ回っていった。
怪奇現象をまるで期待していないわたしでさえ、訪れる寺院によってはご当地ネコとたわむれる機会もあり、それなりに楽しめた。昼食時には参加費を払えなかったわたし以外に弁当が配されたが、佐倉氏が鈴音さんの参加費を払ったように、渚小鳥が不気味なほど気前よく作ってくれた弁当をむさぼって鋭気を養った。
しゃれ者の口説き文句が巧みなのか、マイナーな怪民倶楽部は女子部員の割合が圧倒的に多い。佐倉氏の参加に色めく者も少なくなく、美しい鈴音さんを慕う取り巻き連中のお陰で、お友達デートはもくろみ通り子供たちを見守る授業参観と化していた。
しめしめ…とほくそ笑んでいるうちにツアーは終盤を迎え、うとうと舟を
珍しく難しい言葉を用いて、渚小鳥は避難するようにわたしを見やった。
「先輩のせいでお二人の未来が流れてしまったら、どうするつもりですか。特異体質をお持ちの先生から鈴音さんをお守りしたい気持ちは分かりますが、バスは今も崖下に転落することなく走り続けています。席ぐらい譲ってあげたらいいじゃないですか」
なるほど。彼女はわたしが受難を
彼が放つ災禍はとてもさりげなく、それでいて
最終地が近付いた頃、風戸爽はツアーガイドよろしく
「中でも夜に関するタブーは多い。夜に爪を切ると親の死に目に会えない。夜の
風戸爽は
「人が闇とともに生きていた時代、
あえてしなくてもいいことに
まずい。「…先輩。角大師の護符、もちろん買われましたよね?」
渚小鳥の鋭い指摘に、わたしは寝たふりをしてやりすごした。
「清浄地というのも神仏の御力で邪なる者を封じているという意味であって、決して清められた安全な場所ということではないんです。
佐倉氏が悪気なく知識を
午後四時すぎ。小型バスは林道沿いにある
「ここから先は二人一組でゴールを目指してもらう」
クマ除けの鈴を
「これは一種のおまじないだ。古来より日本では、
取替え子とは、西洋民話における神隠しの一種である。
「これに鈴をつけたらどうでしょう」渚小鳥は速やかに
「そんなものはつけないよ」自作のくじを用意しながら、風戸爽はにべもなく返した。
「
ほぼ丸腰という状況に、部員たちはこぞって美しい鈴音さんとペアを組みたがった。しかし不運を呼び寄せる佐倉氏と誰も組みたがらなかったように、怪奇現象とエンカウントする確率の高いわたしには、何故か撮影係と称して渚小鳥が同行することになり、暗がりに異様な恐怖心を見せた鈴音さんが辞退を申し出たことで、監督役の佐倉氏と風戸爽が彼女を連れてゴール地点で待機することになった。
「さっきの鈴音さん、なんだか様子がおかしかったですね」
「途中まではすごく楽しそうにされていたのに、ここに来て急に尻ごまれるなんて…」
「むしろ正常な反応だと思うが」わたしはハンディカムを構えたパートナーに代わり、懐中電灯で手元の地図を照らした。
「ここまで来たら、ホラーなシチュエーションをとくと
渚小鳥は紐で繋がれた片手を上げた。そこには佐倉氏によって器用に結われた
「考えすぎだ」と
「でも昔からのしきたりって、確かに馬鹿にできない部分があると思います」
借りもののハンディカムに声を吹き込みながら、渚小鳥はわたしに話を振った。
「先輩は〝落ちている鏡は縁起が悪い〟という話はご存じですか? 子供の頃、祖母はわたしに手鏡を上に向けておくと悪いものが入ってしまうから、落ちている鏡は持ち帰ってもいけないし、中を覗き込んでもいけないと
「それならそれで時と場所を選びなさい」
わたしは
風が止まるところには鬼が出る。
頭の中に潜り込んだ隙間風がひやりと心臓をなめた直後、互いを繋いでいた結び目が前触れもなく断ち切られた。「え?」
この不吉すぎる異変に、渚小鳥は慌ててカメラを向けた。かまいたちの
「ここか」わたしは一人ごちて、シャツの下に隠してある御守りに手を添えた。二人の縁が切れたところが分かれ目である。わたしは地図と明かりを渚小鳥に差し出した。
「すまないが、急に腹が痛くなってきた。すぐに追うから先に行っててくれないか」
「それ、嘘ですよね」残念なことに、わたしは嘘がうまくない。
渚小鳥はハンディカムを下げ、いつになくまじめ腐った顔でわたしを見上げた。
「日が暮れかかっているのに、こんな場所で先輩を置き去りにしたら生きて会える気がしません。森で実際に出会うクマさんは、それほど優しくありませんよ」確かに…。
「いや、駄目だ。一緒に連れていくわけにはいかない」
わたしはかぶりを振った。阿久津を招くとなれば命を賭す覚悟でゆかねばならない。
「鈴音さんとある約束をしたんだが、それを果たすには危険を冒す必要がある。きみだってむざむざ妖怪に食われたり、取り替え子にされたくはないだろう」
「え…!」その瞬間、渚小鳥は満天の星空を見るように目を輝かせた。「そういうお話でしたら、是が非でもご一緒します。わたし、妖怪に会うのが子供の頃からの夢だったんです。少しぐらいかじられたって、へっちゃらです!」
思い切り地雷を踏んだ。「いや、しかし…」
言葉が迷走する中、
「こうしておけば、離れ離れになる心配はありません。撮影の方はお任せ下さい!」
この、凍てつく湖面に石を放られたような気持ちは、一体なんだろう。甘ったるいロマンスを一瞬でも期待した自分を殴ってやりたいが、今はあいにく手が塞がっているので彼女の手で暖を取るほかにない。「あとで泣いても知らんぞ」
「望むところです!」
渚小鳥はレンズ越しに嬉々とわたしを見返した。駄目だ、手に負えん。
押し問答をしている間に後続のペアと合流しても困るので、片手に懐中電灯、もう片手にお荷物をひっさげ、わたしは気乗りしないまま正規のルートをそれて
「ほらこ…ぐち?」
渚小鳥は秘かにおののくわたしの隣で、
やっぱり引き返そう。わたしはぽっかり空いた深い闇に早くも気骨をへし折られた。
心情を察したのか、渚小鳥は繋いだ手にきゅっと力を込めて愛らしく微笑んだ。
「大丈夫です。中は結構高さがあるので、先輩が頭をぶつける心配はないかと」
「心臓に毛でも生えているのか」なんとも心強い同行者である。
彼女の言うように、トンネル内部は竹のようにすくすく育ったわたしでさえ、悠々と歩けるほどの高さがあった。目測するに全長も百メートルほどと短く、歩行速度を秒速一メートルと仮定すれば、一分半ほどでトンネルを抜けられる計算になる。
ええい、ままよ! わたしは臆病者と
トンネルの中は外気よりも冷えていた。
「ここを抜けると、どこに出るんでしょうか?」
雪国、と答えたい衝動をこらえ、わたしは分からないと正直に打ち明けた。小さな導き手とっくに姿を消し、今や二人分の足音が
「ほらこぐちって、どういう意味なんでしょう。地名に引っかけている風でもないし、文字のニュアンスからすると、〝ほら〟は
――― 時間と風がぶつかると止まってしまう。その間に〝鬼〟が出るんだ。
「…先輩?」思わず足を止めると、渚小鳥は髪で隠れた目元をうかがうようにわたしを見上げた。あえかな残照にくり抜かれた出口までは、あと半分ほどの距離がある。
にもかかわらず、
これによく似た形状の〝罠〟を、突拍子もなく思い出したからだ。
「きみは天然のウナギをどうやって捕まえるか、知っているか?」
「え、ウナギ?」渚小鳥はきょとんと目を
その反応に、わたしは確信した。「くちは出口という意味じゃない。すぐにここを出るぞ。このトンネルは…!」
おーい。
まさにその時、トンネルの先で声が上がった。
わたしたちは反射的に声の
おーい、こっちだ、こっち。
「え。あれって…」
わたしも目を疑った。遠く離れて顔や身なりは見えないものの、その声は明らかに風戸爽のものだったのである。
「どういうことでしょう」渚小鳥は急いで手元の地図を見やり、戸惑いも
「いや、そんなはずはない。あれは…」
わたしは彼女と繋いだ手を引いてあとずさった。向こうはしびれを切らしたようにトンネルに入り、影をまとったまま一歩、また一歩と大股で近付いてくる。足取りに見るふてぶてしさは親しみからは程遠く、目の錯覚か、その姿は
「戻れ! あいつは風戸じゃない!」
わたしは渚小鳥を背後に押しやった。
にわかに人影が走り出す素振りを見せた。まごつく渚小鳥をせっつき、わたしも彼女を追う形で駆け出した。トンネルにかしましく足音が反響し、背後から差し迫る気配に呑まれて、闇にすぼまる視界が
向かう先に出口はなく、分厚い石壁が道を塞いでいたのである。
「嘘、どうして…!」渚小鳥は打ちのめされた声を出して壁に手をついた。
「ウナギ
わたしも壁に手をつき、早々に見切りをつけて後方に向き直った。
ウナギ筌とは、狭いところに潜り込むウナギの習性を利用した筒状の仕掛けである。すぼまった入り口を通ると引き返せない構造になっており、通常は出口に
懐中電灯で通路を照らすと、後方から迫っていたはずの人影が
「一体、どうなっているのですか?」
渚小鳥はわたしを盾にカメラの照明をあちらこちらに飛ばした。恐怖に
目を見開くわたしの後ろで、渚小鳥が闇をもつんざく悲鳴を上げた。天井に貼りついたそれは、全身が黄緑色で人の倍はあろうかという巨体をしていた。折れ曲がった手足は異様に長く、落ちくぼんだ目玉に口が大きく裂けた顔は、人間と野犬を交えたような具合だった。そいつの姿をとらえた直後、懐中電灯の明かりがふっとついえた。
闇の中から恐ろしい気配が迫りくる中、わたしは渚小鳥を背後にかくまり叫んだ。
「阿久津、早くしろっ!」
わたしの叫びが
それを打ち破ったのは、トンネルの奥深くから小気味よく届いた異変だった。
誰かが
これだけ大きな異変に気付かぬわけがない。場違いな気炎を吐きながら駆けてきたのは、
機先を制したのは、取っ組み合った手を力任せにへし折った阿久津だった。悪食鬼は相手が痛みにひるんだ隙に肩を掴むと、わたしの視界をけなげに遮る蛾の向こうで容赦なく物の怪の頭をもぎとった。
懐中電灯が照らしてしまった惨状に、渚小鳥は
「むざむざ罠に飛び込むとは、きみもとんだ
白目をむく渚小鳥を抱き起こすわたしに、鬼の姿をした阿久津は採れたての死肉を手に苦言を呈した。「入り口が塞がっていたから山を
確かに
「羅刹だよ」
「らせつ?」
「人を惑わし食らう悪鬼のことさ」血濡れた口元を拭い、阿久津はぶらりと獲物の腕を
――― 清浄地というのも神仏の御力で邪なる者を封じているという意味であって、決して清められた安全な場所ということではないんです。
佐倉氏の警告が遅まきながら意味をなした。人間であった良源が鬼と化して厄神を上回ったように、どんなつわものにも封じ手がいるのだろう。
阿久津は手ずからばらした獲物を、
小さな体でお守を務めた白い蛾が、ひらりと視界を舞った。
「ま、待ってくれ!」わたしは身を引きかけた彼を急いで呼び止めた。「誰が好き好んでこんな場所に足を踏み入れたと思っている。むざむざ危険を冒したのは…!」
「きみの師が〝なに〟か、それをぼくに
阿久津は細めた瞳にざらついた感情をよぎらせた。
「一言で
「鈴音さんのことか?」
「今はとかく時間がない」それらしい理由をつけ、阿久津は含みのある眼差しを別れのはなむけとわたしに向けた。「どんなものにも
腹を叩く
こんなものは買った覚えがない。腕に抱えた渚小鳥を見下ろすと、一喝するように
あれは、ここに封印されていたのか。わたしは力なく懐中電灯の明かりを石碑に向けた。邪悪を遮る道の神として
人が拝するのを
ようやく正規のルートに抜けたところで、「…あれ、先輩?」
コートのフードファーに埋もれていた頭が持ち上がった。渚小鳥は忙しなく辺りを見渡し、「ここはどこです? あの化け物は? わたしのハンディカムは?」と寝言を
「もうじきゴールだ」
わたしは彼女をおぶったまま、足場の悪い道をせっせと進んだ。
「貧血で倒れて夢でも見たんだろう。ハンディカムのことは……もう忘れなさい」
「貧血…というよりは、むしろ出血していたような?」
妖怪に会えてよほどうれしかったのか、渚小鳥は失くした機材に落胆するでもなく、ぼうっとした声を出した。それから「
それからしばらくは穏やかな沈黙が続いた。わたしも重荷を背負って息が上がっていたし、渚小鳥も沸き起こる様々な疑念を検分するように口をつぐんでいた。その間、彼女の頭部からしなだれる花飾りがこそばゆく
そうこうするうちに案内係が消え失せ、前方にとらえた高台の入り口から「おーい」と声が上がった。
「せ、先輩。あれは…!」
こちらにひとしきり手を振る人影を見て、渚小鳥はおびえた声を出した。盛り上がりに欠ける会話ははるか
監督役である佐倉氏が血相を変えて駆けてきたあとは、トップバッターがしんがりを務めた言い訳を野生のクマに押しつけ、同じく我々の身を案じていた鈴音さんにも、無事戻れたツアーバスの中からメールを送って約束を果たした。
〈 知人によれば、佐倉柊平はひとまず無害だそうです。詳細は、また後日。 〉
まったく、人の世話を焼くとろくなことにならない。
佐倉氏と並んで座る鈴音さんの後頭部を見守り、わたしはどっと噴き出した疲労に任せて固く腕を組むと、図々しくも人の肩を枕代わりに眠るヒヨコの頭部に頭を乗せ返し、グロテスクな悪夢を見ることもなく泥のように眠った。
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