第5話 『 羅刹 』

 風が止まるところには、鬼が出る。

 昔、祖母からそんな話を聞いたことがある。家の中の風通しをよくしておかないと、悪いものが中で立ち止まって居ついてしまうのだと。日本ではそうしたやくを鬼と呼び、豆をまいたり門戸に魔除けを施したりと、今尚、邪をはらう風習が根付いている。

 れ鍋があるところには、ぶたが用意されているものなのだ。

「――― おにたろうくん!」

 構内を行くわたしの背に不遜ふそんな声がかかった。窓の外で吹きすさぶ風をなにかと聞き違えたのだろう。構わず歩き続けると、一人の男が颯爽さっそうと行く手を阻んだ。

「わざわざ呼び止めてやっているのだから聞く耳を持ちたまえ、鬼の子よ」

「人の子です」

 阿吽あうんの呼吸で無礼を突っぱね、わたしは二年先輩の風戸かざとそうを髪の合間から見返した。

 魔のどら焼き事件から一週間が経った十一月末日。一命を取り留めたわたしは、さも何事もなったかのようなつらをして、つつがなく学生生活を送っていた。そこへ来て水を差すこの男は、畑違いの経済学部にきょを構えるインテリ村の住人でありながら、泥臭いカルチャー村に住むわたしを遥かにしのぐれ者だった。

 ゆるいウェーブのかかったしゃれ髪に、知的さを演出するボストンメガネ。パイル織の流行はやりズボンに、ドレスシューズを合わせたこじゃれた装いが今日もしゃくにさわる。そんな彼と同じ空気を吸っていられたのも、オカルト倶楽部くらぶ教祖Kを示すピンバッジに一抹いちまつの憐れみを抱いていたからにほかならなかった。

「なんの用です」わたしは一縷いちるの感情も込めずに聞いた。「予定があるので手短に」

「今度うちの部員みんなと、角大師つのだいし巡りに行かないか」

 ただの勧誘だった。

 わたしは内心、肩を落とした。この〝今度みんなでブドウ狩りに行かないか〟みたいなニュアンスでかもされた角大師とは、おみくじを生んだことでも知られる元三がんざん大師――― 良源りょうげん僧侶が疫神えきじんはらうべく、自ら鬼に変じた姿を写し取った魔除け札のことである。

 描かれた絵は一見して魔物のような姿をしているが、良源僧侶は怨霊おんりょうさえも畏怖いふする法力の持ち主で、角大師の御影みかげあるところ疫神は恐れて寄りつかないとされ、今でも門戸や玄関柱などに貼られることが多い。

 不逞ふていやからに声を掛けられるとは、それこそ大禍たいかの前兆やもしれん。佐倉氏の講義を終えたばかりとあり、この不自然すぎる邂逅かいこうにわたしの本能はこう告げていた。

 百害ひゃくがいあって一利いちりなし。「行きませ…」

「今ならもれなく」歯切れよく言葉をかぶせ、風戸爽はパーカのポケットからさっとカードを取り出した。

「参加者全員に、鳥獣人物戯画ちょうじゅうじんぶつぎがとコラボした千円分のクオカードをプレゼントしている。当日には弁当もつくぞ?」これには若干、心が揺れた。

 さすが旅行会社の御曹司おんぞうしとあって、人を魅了するすべけている。彼は自社の送迎バスを運転手付きで借り受け、怪民倶楽部総出で小さなツアーを計画していると言った。

「きみが来てくれないと始まらないんだよ、オニ太郎くん」

 了承した覚えのない呼び名を連呼し、風戸爽は丸めたパンフレットを手に力説した。このオニ太郎というのは目元を隠した妖怪キャラクターの名称で、元をただせば、なぎさ小鳥ことりが同胞らに余計な入れ知恵をしたが為にそう呼ばれることになったのだ。 

「謎の屋台やたいをとらえることはできなかったが、小鳥くんが撮影した怪奇現象は、今や我が部にとって最大の研究対象だ。楼門ろうもんをくぐった直後に消え失せたきみが忽然こつぜん境内けいだい只中ただなかに出現し、その隣に立っていた謎の伊達男だておとこが入れ替わりに消えてしまう…まさに、ファンタスティックだよ!」正確には、食いかけの肉片を携えた伊達男である。

 わたしは苦し紛れに目を細めた。彼の言う通り、渚小鳥が撮影した動画には楼門ろうもんから無人の境内けいだいに踏み入ったわたしが忽然と消え失せ、狼狽ろうばいした彼女があちらこちらにカメラを走らせたわずか数分後に出現するというマジックの一部始終が記録されていた。

 聞けば同じく楼門に立っていた彼女の目に、山師やましの作った屋台は見えていなかったという。また時間の間隔にずれがあることから、浦島太郎よろしく異次元に滞在していたことは明らかで、渚小鳥は映像に一瞬だけ映り込んだ阿久津あくつ御影みかげをしかと肉眼でとらえたと鼻息荒く主張し、あれやこれやの詮索をかわしながらの帰路となった。

 お陰でその夜以降、魑魅魍魎ちみもうりょうを崇拝する輩から的外れな羨望せんぼうを注がれ、髪型が似ているという理由だけで不名誉な称号あだなを付与されるに至ったのである。


「本当に大変な一週間だったのね」

 事情を聞くや否や、鈴音さんは涙ながらに甘味かんみをむさぼる姿に同情を寄せた。

 悪質な勧誘に遭遇した同日の午後。彼女の雑貨屋が入るオフィスビルの一階にて、わたしは食べることの叶わなかったどら焼きと引き替えに、命がけで仕入れた体験談をあっさり明け渡していた。

「でも、サークル内でツアーを組むなんて楽しそうね」鈴音さんは風戸爽が押しつけてきたパンフレットを微笑ましげに眺めた。「いいわね、学生って。わたし大学には行かなかったから、こういうのに結構憧れるのよ」

「そこに書かれているのは、洗脳を目的とした儀式の一環です」

 けなげな夢をにべもなく叩き割り、わたしは〝参加費三千円〟をうたうパンフレットを険しい目つきで見やった。記載されたスケジュールでは角大師の札を授与じゅよしている仏閣ぶっかくを巡りつつ、御朱印ごしゅいんを集めたり観光を楽しんだりと無害を装っているが、夕刻に予定されているミステリーツアーの内容が隠されているところに不信感がいや増す。

「そんな、大袈裟おおげさね」

 鈴音さんは一笑いっしょうした。その笑顔は一時の杞憂きゆうかすませたが、瞳の奥には台所で癇癪かんしゃくを起こしたわびしい背中が、今尚映り込んでいる。

 わたしがうがった見方をするのも、彼女から届いた一通のメールが起因きいんしていた。

〈 急にごめんなさい。どうしても会いたくてメールしました。柊平しゅうへいくんのことで 〉

 最後にしっかり肩透かしを食らわす常套じょうとう手段に気落ちしたものの、文面から並々ならぬ困窮こんきゅうぶりがうかがえたので、交通費さえ惜しまずにのこのこ参上したわたしである。

 同じ鍋をつついた仲とあり、文末には内密に来るようにとの指示が添えてあったのだ。

「今の話、小鳥ちゃんにも内緒にしていたのに、どうして教えてくれる気になったの?」

 テーブルの対面に座る鈴音さんは、不安そうに顔色をうかがった。何故、渚小鳥の名前が出されるのかは不明だったが、わたしは三つ目のどら焼きを手に逡巡しゅんじゅんし、怪しい研究員たちに捕獲されるぐらいなら、例え世迷言よまいごとと見下げられても執筆の手助けをしたかったと答えた。というのも、鈴音さんのメールからは得意分野を離れた創作に早くも行き詰っているむねがうかがえ、実際、彼女はわたしの体験談をこと細かくメモにとったり、「こんな感じ?」と自作の絵を披露ひろうするほどの熱意を見せていた。

 そこで判断がつきかねたのは、やはり阿久津の存在だった。生きて物語の帰結を迎えるには彼の助けが不可欠だが、そうといって式神の話を持ち出せばきな臭さが増すし、首から常に御守りをさげている腰抜けと思われても嫌だったので、結局は悪運に助けられたということにして食後のコーヒーをおいしくすすった。美人とすごす至福のひとときに、血生臭い男の話題を振るのは野暮やぼというものである。

 妖怪談義がひと段落ついたところで、「そうそう、メールに書いたことなんだけど」

 鈴音さんはぎこちなくコーヒーカップを置き、棚上げにしていた問題に触れた。

「あなたに、ちょっと聞きたいことがあったの。実はみんなでお鍋をやった次の日にね、なんていうか、その…柊平くんに日を改めて食事しないかって誘われたの」

「両のほおはたいておきます」

 わたしは自動音声ガイドをもしのぐ速さで切り返した。一宿一飯の恩恵おんけいに与っておきながら善意につけ入るとは、とんだ食わせ者である。

「ち、違うの!」鈴音さんは慌てて両手を突き出した。「別に、デートに誘われたわけじゃないの。本人もそう言ってたし、気分転換にちょっとドライブして映画を観るだけよ。彼は粗相そそうしたおびに夜景スポットに連れていくって言ってたけど、それだって気落ちしていたわたしを元気づけようと提案してくれただけで…!」

 その瞬間、わたしは思った。同じ車で移動し、一緒に映画を観、二人きりで食事をし、また同じ車に乗り、人気 のない場所で夜景を堪能たんのうすることのなにが違うのか、と。

「…それで、相談したいことというのは?」

 のどまで出かかった疑念をすべて飲み下し、わたしはひとまず先をうながした。

 鈴音さんはがけの先端から谷底をのぞき込むような慎重さで、こう切り出した。「…本当のことを言うと、二人きりで会うのがちょっと怖いの」

「怖い?」

 事の意外性に、わたしは眉を寄せた。彼が笑顔とともに振りまくなんやかんやの災禍さいかにようやく気付いたのだろうか。

「あの人のなにが怖いんです?」

「取り立ててなにかあるってわけじゃないの」鈴音さんは苦々しく笑みをつくろった。「柊平くんはいい人だと思うわ。一緒にいると穏やかな気持ちになれるし、どんな時も味方でいてくれる。彼はお店を始めた頃にできた初めての常連さんで、おじいちゃんが判を押して気に入るってことも滅多にないの。だからこそ、不思議でしょうがないのよ。あんなにいい人がどうして、その…そんなによくしてくれるんだろうって」

 鈴音さんはなにかを恐れるように長いまつげを伏せた。言葉尻に漂う余韻よいんには、疑心に留まらないねっとりとした闇が絡みついていた。わたしも驚いた。

 例えるなら、それは〝怒り〟だった。

「返事はまだしてないの」鈴音さんは続けた。「予定がまだつかめないからって、はぐらかしちゃった。でもがっかりしてる彼を見たら、いたたまれなくなっちゃって…」

 ――― あの人とは一生そういう関係にはならないし、うちの代はわたしで終わり。

 あの夜の情景が、さっと脳裏をよぎった。それでいて、わたしの目にはちぐはぐな光景が映っている。奇特にも佐倉氏が独身でいるわけに、まだ気付いていないのだろう。誘いに困っているように見えて、その実、彼女は一歩を踏み出すのが怖いのだ。

 佐倉氏が信じる通りの男なら、背中を押してもらいたい。

 でも、思うところが一つでもあるなら止めてほしい。

 氏を知る第三者としてわたしに示された選択肢は、二つに一つだった。

「彼、なにかあるの?」

 かすかな動揺を見て取ったのか、鈴音さんは言葉を詰まらせるわたしの顔色をうかがった。疑心に駆られた相手に氏の恋心を明かすことは得策ではないだろう。まして〝彼と一緒にいると不幸になります〟などと真実を明かせば、彼女の抱える不安が爆発して二人の未来が更地さらちと化すことは目に見えている。個人的にはさして惜しくもないが、わたしには素直に佐倉氏をせない理由があった。

 ――― 人との縁もまた必然だ。きみの師とは是非、懇意にしたまえ。

 にたりとほくそ笑む天邪鬼あまのじゃくもまた、わたしにちぐはぐな印象を持たせていた。彼が夢の中で言いかけた言葉の続きが、どうにも頭の片隅に引っかかって外れないのだ。

 ――― いいかい、あの男は。「少し、返事を待ってもらえませんか」

 わたしは暗がりに迷い込んだ顔をする鈴音さんに、一抹いちまつの明かりを持たせた。

「見た目通りの人だとは思いますが、念の為、先生の内情を知る男に話を聞いてきます。りもの、素行調査ならお任せ下さい。こう見えて、とても引きが強いので」

 冗談めかした言い方をすると、雨の気配が漂っていた表情に美しい晴れ間が差した。

 まったく、わたしもとんだれ者である。

 夜、テーブルに乗せた御守りを前に、わたしは固く腕を組んで呻吟しんぎんした。死骸しがいを頼みの綱とすることはもとより、人の恋路をどうにかしようとは気が触れたとしか思えないありさまだった。しかし啖呵たんかを切った手前、災禍を振りまく男の真相をどうにか解き明かさねばならない。

 いやはや、どうしたものか…。

 わたしは悩みに悩んだ。阿久津が素直に助けに応じたのは夢魔むまに追い詰められたあの一度きりで、達磨だるま大師の一件では腹が減ったと苦情を言いに現れただけだ。獲物がかかるまで高みの見物を決め込む彼に助言をもらうには、雨乞あまごいのようにひたすら神に懇願こんがんするか、なにがしかの死肉を供物くもつに捧げる必要がある。

 ここはやはり、安全かつ金のかからない前者にすがってみよう。わたしは御守りの前で南無南無 《なむなむ》…と手を合わせて小さな守護神さまに嘆願たんがんした。

 その夜更けのことである。

 眠るわたしの視界を、ひらりと白い光が遮った。真っ暗闇でなにも見えないのに、不思議と恐怖は感じない。小さな光を目で追うと、ぱらり、ぱらりと半紙がなびくような音が聞こえてくる。ページをめくっているのだと気付いた瞬間、遠くで声がした。

 …あぁ、腹が減ったなぁ…。

 その声は阿久津以外の何者でもなかった。

 朝目を覚ました時、わたしに用意されていた選択肢は一つだけだった。枕元に置いていた御守りを手に、彼が流し見たと思しき卓上のパンフレットを重たい気持ちで見やる。かわいらしい字体で嬉々とつづられた見出しが、たまらなく憎かった。

〈 厄落とし企画@怪奇民族倶楽部とゆく、愉快奇怪なミステリーツアー! 〉


「――― いやぁ、我が部のもよおしに来てくれて本当に嬉しいよ、オニ太郎くん。ようこそ《ウェルカム トゥ》、非日常の世界へ《イクストラディナリワールド》!」

 小型バスの先頭から、風戸爽がマイク越しに賛辞さんじを寄こした。沸き起こる拍手喝采はくしゅかっさい興醒きょうざめするわたしの隣では、部の特別監督という名目で同行した佐倉氏が微笑ましげに缶コーヒーをすすり、前席に座る渚小鳥が「イエス、棚からぼたペニーズ・フロム・ヘヴン!」と意味不明な興奮を添えていた。参加すべきではなかったと早くも後悔した瞬間である。

 阿久津からのオファーを受けた四日後の日曜。わたしは欲望で埋め尽くされた極楽行きの墓場号に乗っていた。「たまには、こういう休日もいいですね」

 佐倉氏はツアーのパンフレットをまったりとめくった。監督役を買って出ただけに、今日の装いもフィールドワークと変わらぬ紺のブルゾンと黒い細身のパンツとカジュアルで、普段と違うのは幸福に満ち足りた穏やかな顔つきぐらいだった。

「家にいても仕事をしているか寝ているかの二択なので、きみから誘ってもらった時はぼくも嬉しかったですよ。鈴音さんに学生気分を味わってもらおうなんて、きみと渚くんも粋な計らいをしますね」と、渚小鳥の隣に座る鈴音さんの後頭部をうっとり眺める。よもや墓場に道連れにされようとは、ゆめゆめ思っていない様子である。人を疑うことを知らない男は、わたしが二人の仲を取り持つべく動いたと思っているのだ。

 悪食鬼を誘い出すにあたり、わたしも考えた。一文の得にもならない仲介役で身を削るなら、せめて煩悩ぼんのうにまみれたデートをぶち壊せないものか、と。そこで一計を案じ、鈴音さんには佐倉氏の誘いを断らずに済む打開策としてツアーの参加を提唱し、佐倉氏には取材という名目で参加する鈴音さんの付き添い役として、衆人環視しゅうじんかんしの元、手を握ることもままならない健全なデートを提唱したのである。

 あくまで彼女を元気づけることを動機としていた佐倉氏にこれを断る理由はなく、どこまで人がいいのか、すり替えられたプランを〝まずはお友達から〟のサインと勘違いして嬉々と罠に飛び込んできた。ミステリーツアーに並々ならぬ興味を抱いていた鈴音さんも、妹分の渚小鳥ともども愉快痛快にすごしている様子で、正午に始まったバスツアーは秘密結社たちの怪談話に異様な盛り上がりを見せつつ、観光も交えて角大師の護符を授与している寺院を一つずつ回っていった。

 怪奇現象をまるで期待していないわたしでさえ、訪れる寺院によってはご当地ネコとたわむれる機会もあり、それなりに楽しめた。昼食時には参加費を払えなかったわたし以外に弁当が配されたが、佐倉氏が鈴音さんの参加費を払ったように、渚小鳥が不気味なほど気前よく作ってくれた弁当をむさぼって鋭気を養った。

 しゃれ者の口説き文句が巧みなのか、マイナーな怪民倶楽部は女子部員の割合が圧倒的に多い。佐倉氏の参加に色めく者も少なくなく、美しい鈴音さんを慕う取り巻き連中のお陰で、お友達デートはもくろみ通り子供たちを見守る授業参観と化していた。

 しめしめ…とほくそ笑んでいるうちにツアーは終盤を迎え、うとうと舟をいでいる隙にバスは深山幽谷しんざんゆうこくへと入り込んでいった。目を覚ますと、わたしの隣に何故か渚小鳥が座っていた。前席では他人に悠々と災禍さいかをもたらす男が、意中の人と肩を寄せて語るひとときに浸っている。「落花流水らっかりゅうすいの恋路を邪魔するのは野暮というものです」

 珍しく難しい言葉を用いて、渚小鳥は避難するようにわたしを見やった。

「先輩のせいでお二人の未来が流れてしまったら、どうするつもりですか。をお持ちの先生から鈴音さんをお守りしたい気持ちは分かりますが、バスは今も崖下に転落することなく走り続けています。席ぐらい譲ってあげたらいいじゃないですか」

 なるほど。彼女はわたしが受難をして氏の隣に居座った理由を、そう解釈したらしい。落花流水は相思相愛を示す言葉でありながら、離別を表す場合もある。しかし悲しいかな、二人の未来がご破算はさんすることはあっても、バスが転落することは決してないだろう。何故なら元凶たる佐倉氏の元には、絶対に不幸が訪れないからである。

 彼が放つ災禍はとてもさりげなく、それでいてたちが悪い。氏と話した直後に不良に絡まれたり、氏が座っていたベンチにあとから腰かけても不良に絡まれるのだ。都市伝説と思われた不幸を体験して喜んでいたのは、不良に絡まれ続けて尚、めげない風戸爽だけだった。「――― 古来より、日本には縁起えんぎを担いだ風習が数多く口伝くでんされている」

 最終地が近付いた頃、風戸爽はツアーガイドよろしく長広舌ちょうこうぜつに浸っていた。

「中でも夜に関するタブーは多い。夜に爪を切ると親の死に目に会えない。夜の蜘蛛くもは親でも殺せ。夜にくつをおろしてはならない。夜に口笛くちぶえを吹くと蛇が出る…どれも迷信に思えて、史実に基づく由来ゆらいや古い生活の名残を反映していると言われている。夜に口笛を吹く行為は泥棒の合図であり、夜に爪を切るのは江戸時代の世詰よづめを連想させる語呂ごろ合わせから縁起が悪い、と。しかし、それらは単なる言いがかりにすぎない!」

 風戸爽は空想家連合Kを示すピンバッジを胸に気炎きえんを吐いた。

「人が闇とともに生きていた時代、魑魅魍魎ちみもうりょうがのさばる夜は恐れるべきものだった。夜の蜘蛛は凶兆を知らせる地獄からの使者であり、鬼哭啾々きこくしゅうしゅうとさまよう霊たちは口笛や爪を切る刃物の音を好んで集うのだ。夜に行われる野辺のべ送りでは新しい靴をき、死後の旅立ちにも新しい靴を履かされることから、夜におろす靴は死を連想させるものとなった。これらが示すのは、現代に残る風習や口伝にはれっきとした実体があり、人々が忘れてはならない訓戒くんかいが含まれているということだ。今宵こよい諸君しょくんらには知る人ぞ知る〝清浄地〟へ赴いてもらい、各々が買った護符にいかほどの霊力が宿っているのかを実証してもらいたい。つまりは、肝試しだっ!」それまでの前口上はなんだったのだ。

 あえてしなくてもいいことに意気軒高いきけんこうと湧く車中で、わたしは一人冷風に吹かれた。

 まずい。「…先輩。角大師の護符、もちろん買われましたよね?」

 渚小鳥の鋭い指摘に、わたしは寝たふりをしてやりすごした。

 元三がんざん大師は、かつて修行を積んだ比叡山ひえいざんの最奥に眠っている。そこに立てられた御廟ごびょうは鬼門に当たる場所にあって〝みみょう〟と呼ばれ、今なお、魔を封じ続けていると佐倉氏は語った。

「清浄地というのも神仏の御力で邪なる者を封じているという意味であって、決して清められた安全な場所ということではないんです。良源りょうげんも危険な土地であることを承知の上で、自分の死後、墓所は荒れるに任せよと言い残したといいます」

 佐倉氏が悪気なく知識を披露ひろうすると、肝試しのスタート地点に集った参加者一同から血の気が引いた。「まぁ、まぁ。ここは比叡山じゃありませんから」となぐさめにもならない補足を入れる風戸爽の背後には、夕闇に沈む森が鬱蒼うっそうと広がっていた。

 午後四時すぎ。小型バスは林道沿いにある自噴じふん井戸の脇に設けられた、小さな駐車場に停車していた。湧水わきみずが有名な地であるらしく、山に分け入る小路こみちの入り口には最寄りの滝までの距離を明記した道標が立ち、愛らしいクマのシルエットまでついていた。

「ここから先は二人一組でゴールを目指してもらう」

 クマ除けの鈴を所望しょもうする部員たちに、風戸爽はプリントした手書きの地図とともに、謎の赤いよりひもかかげた。

「これは一種のおまじないだ。古来より日本では、麻紐あさひもや赤色には魔をはらう神聖な力が宿るとされている。山にまう狐狸こりや妖怪に取替とりかえ子にされないよう、目的を果たすまでは互いの手首をこれで繋いで離れないように」

 取替え子とは、西洋民話における神隠しの一種である。

「これに鈴をつけたらどうでしょう」渚小鳥は速やかに挙手きょしゅをして全員の心を代弁した。「清らかな鈴の音色には、悪霊や猛禽類もうきんるいを退ける効果があると言われますが」

「そんなものはつけないよ」自作のくじを用意しながら、風戸爽はにべもなく返した。

神楽鈴かぐらすずならまだしも、清らかな音色を奏でる鈴というのは、そうそうあるものじゃないんだよ。安いまがいものを鳴らせば、かえって悪しきものを呼び寄せかねない。あと、クマは人の気配に敏感なだけであって、鈴の音にさしたる効果はない!」そんな。

 ほぼ丸腰という状況に、部員たちはこぞって美しい鈴音さんとペアを組みたがった。しかし不運を呼び寄せる佐倉氏と誰も組みたがらなかったように、怪奇現象とエンカウントする確率の高いわたしには、何故か撮影係と称して渚小鳥が同行することになり、暗がりに異様な恐怖心を見せた鈴音さんが辞退を申し出たことで、監督役の佐倉氏と風戸爽が彼女を連れてゴール地点で待機することになった。

「さっきの鈴音さん、なんだか様子がおかしかったですね」

 生贄いけにえならぬトップバッターに任命されたわたしと渚小鳥は、手を繋ぐでもなく手首を赤い紐で結ばれ、心許こころもとない懐中電灯と地図を手に薄暗い林道を歩いていた。

「途中まではすごく楽しそうにされていたのに、ここに来て急に尻ごまれるなんて…」

「むしろ正常な反応だと思うが」わたしはハンディカムを構えたパートナーに代わり、懐中電灯で手元の地図を照らした。暮色蒼然ぼしょくそうぜんと暮れなずむ周辺一帯は、外灯はおろか人気ひとけやクマ影もなく、遠くで流れる水の音やささめく枝葉の音が届くばかりであった。

「ここまで来たら、ホラーなシチュエーションをとくと堪能たんのうするまでです。先輩もそう思ったからこそ、わざわざ先生にひもを結んでもらったのではないのですか?」

 渚小鳥は紐で繋がれた片手を上げた。そこには佐倉氏によって器用に結われた裏千家うらせんけの結び目がある。阿久津が勇んで推参すいさんするほどの大物を釣り上げるには、氏が誇る厄災やくさいの力に頼る必要があると判断し、安全祈願と称して結ってもらったのだ。

「考えすぎだ」と一蹴いっしゅうしたものの、裏千家の結び目に宿った負のパワーに胸騒ぎがやまない。わたしと彼女を紐で繋いだ佐倉氏は、縁結びの仲人なこうどよろしく仏顔ほとげがおを浮かべ「寄り道しちゃ駄目ですよ」と、予言とも取れる不吉な揶揄やゆを言い残していた。

「でも昔からのしきたりって、確かに馬鹿にできない部分があると思います」

 借りもののハンディカムに声を吹き込みながら、渚小鳥はわたしに話を振った。

「先輩は〝落ちている鏡は縁起が悪い〟という話はご存じですか? 子供の頃、祖母はわたしに手鏡を上に向けておくと悪いものが入ってしまうから、落ちている鏡は持ち帰ってもいけないし、中を覗き込んでもいけないと口酸くちすっぱく言っていたんです。大人になって由来を聞いてみたら、祖母は実際に落ちている手鏡の中に女の霊を見たことがあったそうなんです。そうした実例をかんがみるに、この手の話をしていると幽霊が寄ってくるという話も、あながち嘘ではないかもしれませんね」

「それならそれで時と場所を選びなさい」

 わたしは空気が読めないKティーンエイジャーに切り込む勢いで苦言を呈した。耳の横を鬼哭啾々きこくしゅうしゅうと風がすり抜けていくと、渚小鳥の小話につられて古い訓戒くんかいが蘇った。

 風が止まるところには鬼が出る。

 頭の中に潜り込んだ隙間風がひやりと心臓をなめた直後、互いを繋いでいた結び目が前触れもなく断ち切られた。「え?」

 この不吉すぎる異変に、渚小鳥は慌ててカメラを向けた。かまいたちのたわむれとでも思ったのだろう。わたしの目には、獣道へ分け入る白いの姿がしっかり見えていた。

「ここか」わたしは一人ごちて、シャツの下に隠してある御守りに手を添えた。二人の縁が切れたところが分かれ目である。わたしは地図と明かりを渚小鳥に差し出した。

「すまないが、急に腹が痛くなってきた。すぐに追うから先に行っててくれないか」

「それ、嘘ですよね」残念なことに、わたしは嘘がうまくない。

 渚小鳥はハンディカムを下げ、いつになくまじめ腐った顔でわたしを見上げた。

「日が暮れかかっているのに、こんな場所で先輩を置き去りにしたら生きて会える気がしません。森で実際に出会うクマさんは、それほど優しくありませんよ」確かに…。

「いや、駄目だ。一緒に連れていくわけにはいかない」

 わたしはかぶりを振った。阿久津を招くとなれば命を賭す覚悟でゆかねばならない。

「鈴音さんとある約束をしたんだが、それを果たすには危険を冒す必要がある。きみだってむざむざ妖怪に食われたり、取り替え子にされたくはないだろう」

「え…!」その瞬間、渚小鳥は満天の星空を見るように目を輝かせた。「そういうお話でしたら、是が非でもご一緒します。わたし、妖怪に会うのが子供の頃からの夢だったんです。少しぐらいかじられたって、へっちゃらです!」

 思い切り地雷を踏んだ。「いや、しかし…」

 言葉が迷走する中、夜気やきに冷えた手にか細い手がからみついた。やわい温もりにどきりと目を落とすわたしに、渚小鳥は繋いだ手を掲げて鼻息を荒くした。

「こうしておけば、離れ離れになる心配はありません。撮影の方はお任せ下さい!」

 溌剌はつらつと構えられたハンディカムを見て一気に熱が冷めた。

 この、凍てつく湖面に石を放られたような気持ちは、一体なんだろう。甘ったるいロマンスを一瞬でも期待した自分を殴ってやりたいが、今はあいにく手が塞がっているので彼女の手で暖を取るほかにない。「あとで泣いても知らんぞ」

「望むところです!」

 渚小鳥はレンズ越しに嬉々とわたしを見返した。駄目だ、手に負えん。

 押し問答をしている間に後続のペアと合流しても困るので、片手に懐中電灯、もう片手にお荷物をひっさげ、わたしは気乗りしないまま正規のルートをそれてやぶの中に分け入った。小さな引率者は「早く、早く」と手招くように少し先を飛び、渚小鳥に姿を現さないまま、山道に埋もれた〈洞子口隧道〉なるトンネルの前に我々を導いた。

「ほらこ…ぐち?」

 渚小鳥は秘かにおののくわたしの隣で、びたプレートを読み上げた。トンネルは直線に伸びて出口が見えているものの、中は二人並んで歩ける程度の幅しかなく、劣化したレンガ壁はツタに覆われて一片の明かりも灯っていなかった。

 やっぱり引き返そう。わたしはぽっかり空いた深い闇に早くも気骨をへし折られた。

 心情を察したのか、渚小鳥は繋いだ手にきゅっと力を込めて愛らしく微笑んだ。

「大丈夫です。中は結構高さがあるので、先輩が頭をぶつける心配はないかと」

「心臓に毛でも生えているのか」なんとも心強い同行者である。

 彼女の言うように、トンネル内部は竹のようにすくすく育ったわたしでさえ、悠々と歩けるほどの高さがあった。目測するに全長も百メートルほどと短く、歩行速度を秒速一メートルと仮定すれば、一分半ほどでトンネルを抜けられる計算になる。

 ええい、ままよ! わたしは臆病者とさげすまれる前にいさんで足を踏み出した。

 トンネルの中は外気よりも冷えていた。こけむしたレンガ壁に灯具とうぐなどは見当たらず、懐中電灯の明かりに白い吐息が浮かび上がった。幸い、足元はコンクリートで固められて歩きやすかったが、二人の声がより反響しやすい状況を作ってもいた。

「ここを抜けると、どこに出るんでしょうか?」

 雪国、と答えたい衝動をこらえ、わたしは分からないと正直に打ち明けた。小さな導き手とっくに姿を消し、今や二人分の足音が追随ついずいするばかりである。気丈にカメラを回している渚小鳥も、不安を紛らわせるように肩を寄せて口数を増やしていた。

「ほらこぐちって、どういう意味なんでしょう。地名に引っかけている風でもないし、文字のニュアンスからすると、〝ほら〟は洞窟どうくつで、〝こ〟は通行人でしょうか。だとすると、くちは出口という意味で、ちゃんと抜けられますよというメッセージかもしれませんね。ここって、一本調子な割に風の通りが悪いじゃないですか」

 ――― 時間と風がぶつかると止まってしまう。その間に〝鬼〟が出るんだ。

「…先輩?」思わず足を止めると、渚小鳥は髪で隠れた目元をうかがうようにわたしを見上げた。あえかな残照にくり抜かれた出口までは、あと半分ほどの距離がある。

 にもかかわらず、警鐘けいしょうを鳴らすように蘇った阿久津の言葉が足に根を張らせた。

 これによく似た形状の〝罠〟を、突拍子もなく思い出したからだ。

「きみは天然のウナギをどうやって捕まえるか、知っているか?」

「え、ウナギ?」渚小鳥はきょとんと目をまたたいいた。

 その反応に、わたしは確信した。「くちは出口という意味じゃない。すぐにここを出るぞ。このトンネルは…!」

 おーい。

 まさにその時、トンネルの先で声が上がった。

 わたしたちは反射的に声の出処でどころを見やった。くり抜かれた薄暮はくぼの中に、ぽつんと人影がたたずんでいる。それはトンネル内部に留まる我々に親しげに手を振り、尚も間の抜ける声で呼び掛けてくる。

 おーい、こっちだ、こっち。

「え。あれって…」懐疑的かいぎてきに目を細めていた彼女も気が付いた。「?」

 わたしも目を疑った。遠く離れて顔や身なりは見えないものの、その声は明らかに風戸爽のものだったのである。

「どういうことでしょう」渚小鳥は急いで手元の地図を見やり、戸惑いもあらわにわたしを見やった。「このトンネルって、目的地までの最短ルートだったのですか?」

「いや、そんなはずはない。あれは…」

 わたしは彼女と繋いだ手を引いてあとずさった。向こうはしびれを切らしたようにトンネルに入り、影をまとったまま一歩、また一歩と大股で近付いてくる。足取りに見るふてぶてしさは親しみからは程遠く、目の錯覚か、その姿は遠近法えんきんほうをど返しした倍率でぐんぐん体格を増している。誰何すいかする必要などなかった。

「戻れ! あいつは風戸じゃない!」

 わたしは渚小鳥を背後に押しやった。

 にわかに人影が走り出す素振りを見せた。まごつく渚小鳥をせっつき、わたしも彼女を追う形で駆け出した。トンネルにかしましく足音が反響し、背後から差し迫る気配に呑まれて、闇にすぼまる視界が延々えんえんと続くような錯覚を覚えた。わずか五十メートルの道のりであったはずが、揺れる懐中電灯の明かりはどこにも届かなかった。

 向かう先に出口はなく、分厚い石壁が道を塞いでいたのである。

「嘘、どうして…!」渚小鳥は打ちのめされた声を出して壁に手をついた。

「ウナギうけだ」

 わたしも壁に手をつき、早々に見切りをつけて後方に向き直った。

 ウナギ筌とは、狭いところに潜り込むウナギの習性を利用した筒状の仕掛けである。すぼまった入り口を通ると引き返せない構造になっており、通常は出口にせんがされるものだが、人間用に作られた罠では奥へ追い込むだけで事足りるようだった。

 懐中電灯で通路を照らすと、後方から迫っていたはずの人影が忽然こつぜんと消えていた。

「一体、どうなっているのですか?」

 渚小鳥はわたしを盾にカメラの照明をあちらこちらに飛ばした。恐怖にかれた彼女の目に、わたしの傍らから飛び立った光は映っていなかったらしい。天井に向かって羽ばたく蛾を目で追うと、数メートル離れた通路の天井にやもりのごとく貼りついている化け物と目が合った。

 目を見開くわたしの後ろで、渚小鳥が闇をもつんざく悲鳴を上げた。天井に貼りついたそれは、全身が黄緑色で人の倍はあろうかという巨体をしていた。折れ曲がった手足は異様に長く、落ちくぼんだ目玉に口が大きく裂けた顔は、人間と野犬を交えたような具合だった。そいつの姿をとらえた直後、懐中電灯の明かりがふっとついえた。

 闇の中から恐ろしい気配が迫りくる中、わたしは渚小鳥を背後にかくまり叫んだ。

「阿久津、早くしろっ!」

 わたしの叫びが銅鑼どらのように反響し、久遠くおんとも思える数秒が重たくのしかかった。

 それを打ち破ったのは、トンネルの奥深くから小気味よく届いた異変だった。

 誰かが下駄げたの歯をって駆けてくる。一縷いちるの光明が恐怖を退けると、唐突に懐中電灯の明かりが復活し、手の届く場所で立ち往生していたものの背中を照らし出した。

 これだけ大きな異変に気付かぬわけがない。場違いな気炎を吐きながら駆けてきたのは、こいねがってやまなかった阿久津の姿だった。

 怒涛どとうに駆けながら人の姿を崩していく豹変ひょうへんぶりは、早急かつ力強かった。目の前にいた物の怪は望まぬ来客を出迎えようといきり立ち、ひょろりとした巨躯きょくを広げて真っ向から阿久津と取っ組み合った。トンネル内部にたけり狂う獣の咆哮ほうこうが入り混じり、わたしの背に顔をうずめる渚小鳥のか細い悲鳴が体の震えとともに伝わった。

 瞠目結舌どうもくけつぜつの決闘は、体格の差をものともせず渡り合っているように見えた。物の怪は突出した口で敵に食らいつこうともがき、一回り小さな阿久津はたくましい腕力で相手を抑え込んでいた。結論から言えば、今回肩を掴まれたのはわたしではなかった。

 機先を制したのは、取っ組み合った手を力任せにへし折った阿久津だった。悪食鬼は相手が痛みにひるんだ隙に肩を掴むと、わたしの視界をけなげに遮る蛾の向こうで容赦なく物の怪の頭をもぎとった。

懐中電灯が照らしてしまった惨状に、渚小鳥は血飛沫ちしぶき が噴き出した辺りでぱたりと現実から退しりぞいた。頭部を失くした物の怪もわずかによろめき、勝ち目がないと踏んで逃げ出す素振りを見せた。出口のない罠に追い込まれたのが誰であったのか、この時になってようやく思い至ったに違いない。弱肉強食の世においても、狩猟者は往々おうおうにして獲物を追う自分の背後に注意を払わないものである。胸にこぶし大の風穴が空き、カニのように四肢ししをもがれてようやく、それは初めて自分が獲物になったことを知ったのだ。

「むざむざ罠に飛び込むとは、きみもとんだれ者だね」

 白目をむく渚小鳥を抱き起こすわたしに、鬼の姿をした阿久津は採れたての死肉を手に苦言を呈した。「入り口が塞がっていたから山を迂回うかいするのに骨を折ったよ。きみには是非とも、仕掛けられた罠の前でえさをおびき寄せる程度の知恵は身に着けておいてもらいたいね。いくらぼくでも、奇術師みたく自在に登場できるわけじゃないんだよ」

 確かに若干じゃっかん、息が上がっている。「そ、そいつはなんなんだ?」

「羅刹だよ」

「らせつ?」

「人を惑わし食らう悪鬼のことさ」血濡れた口元を拭い、阿久津はぶらりと獲物の腕をかかげた。「こいつはまだまだ若輩者じゃくはいものだが、力を買われて眷属神けんぞくしんとなった者もいるほど厄介な相手だ。現に、これからはたんまり死を食らったみつの味がしたよ。この山で長いこと、きみのような人間を食い漁ってきたんだろう。このぼくに真っ向から喧嘩けんかを売る度胸は買ってやったが、自分を捕食する者がいるという認識ぐらいは持っておくべきだったね。お陰で、ぼくは大満足だ」阿久津は血濡れた歯を見せてにっこりした。

 ――― 清浄地というのも神仏の御力で邪なる者を封じているという意味であって、決して清められた安全な場所ということではないんです。

 佐倉氏の警告が遅まきながら意味をなした。人間であった良源が鬼と化して厄神を上回ったように、どんなつわものにも封じ手がいるのだろう。

 まばたきを一つ落とすと、阿久津はわたしに合わせて人間の姿に戻っていた。「闇が濃くなる前に人の世に戻りたまえ」

 阿久津は手ずからばらした獲物を、まきを拾い上げる要領で脇に抱えた。「ここは術で作られたあやふやな場所だ。間違っても向こう側に抜けようとは思わない方がいい。帰りも、これが案内するよ」

 小さな体でお守を務めた白い蛾が、ひらりと視界を舞った。

「ま、待ってくれ!」わたしは身を引きかけた彼を急いで呼び止めた。「誰が好き好んでこんな場所に足を踏み入れたと思っている。むざむざ危険を冒したのは…!」

「きみの師が〝なに〟か、それをぼくにく為だろう」

 阿久津は細めた瞳にざらついた感情をよぎらせた。

「一言でさとすには難しい話だね。だが、きみが懸念している問題に唯一影響を受けない人間がいるとすれば、それはきみに直接話を持ち込んできた当人だけだ。彼女もきみの師同様、特異な体質を生まれ持った人間なんだよ」

「鈴音さんのことか?」

 阿吽あうんの呼吸で、ぐぅと阿久津の腹がこたえた。

「今はとかく時間がない」それらしい理由をつけ、阿久津は含みのある眼差しを別れのはなむけとわたしに向けた。「どんなものにもついをなす存在があるということを、きみもすぐに知るさ。その娘には感謝しておいた方がいいんじゃないかな。ぼくが来るまでの時間を稼いでくれた」

 腹を叩く仕草しぐさにつられ、わたしは渚小鳥を抱えながらミリタリーコートのポケットに手を差し入れた。中に、なにか入っている。指先に触れたものを取り出してみると、小さな木札に角大師の御影みかげが彫られたストラップが出てきた。

 こんなものは買った覚えがない。腕に抱えた渚小鳥を見下ろすと、一喝するようにほおに夜風が当たった。驚き様に上げた目に映ったのは、森の木々に囲われた小さな空き地だった。特大サイズのうけはきれいさっぱり消え失せ、視界をひらりと遮った蛾を目で追いかければ、石碑せきひに彫られた古い道祖神どうそしんやぶに埋もれているのを見つけた。

 あれは、ここに封印されていたのか。わたしは力なく懐中電灯の明かりを石碑に向けた。邪悪を遮る道の神として路傍ろぼうまつられる小さな守護者は、長きに渡って孤軍奮闘してきたことを示す分厚いこけに浸食され、細いしめ縄が腐って地に落ちていた。

 人が拝するのをおこたれば、神もまた人を見捨てる。あわや災禍さいかを《こうむ》るところではあったものの、この地を悩ませてきた元凶も今頃はおいしく食されていることだろう。長居は無用と、わたしは失神している渚小鳥を背におぶってその場を立ち去った。

 ようやく正規のルートに抜けたところで、「…あれ、先輩?」

 コートのフードファーに埋もれていた頭が持ち上がった。渚小鳥は忙しなく辺りを見渡し、「ここはどこです? あの化け物は? わたしのハンディカムは?」と寝言をつらねた。体の一部を欠損しても構わないと豪語していた人間の反応からは程遠い。

「もうじきゴールだ」

 わたしは彼女をおぶったまま、足場の悪い道をせっせと進んだ。

「貧血で倒れて夢でも見たんだろう。ハンディカムのことは……もう忘れなさい」異界トンネルに置き忘れた。

「貧血…というよりは、むしろ出血していたような?」

 妖怪に会えてよほどうれしかったのか、渚小鳥は失くした機材に落胆するでもなく、ぼうっとした声を出した。それから「取替とりかえ子じゃありませんよね?」と不躾ぶしつけに顔をのぞき込んできた。いっそ自分の足で歩かせたいが、ストラップの一件もある。弁当に免じて運賃はまけてやるとだけ答えると、彼女は妖怪にも勝る身のこなしで「恐縮です」と首にしがみついた。

 それからしばらくは穏やかな沈黙が続いた。わたしも重荷を背負って息が上がっていたし、渚小鳥も沸き起こる様々な疑念を検分するように口をつぐんでいた。その間、彼女の頭部からしなだれる花飾りがこそばゆく耳朶じだをかすめたが、上気する頬に小さな顔が寄り添うと文句も出なくなった。

 そうこうするうちに案内係が消え失せ、前方にとらえた高台の入り口から「おーい」と声が上がった。

「せ、先輩。あれは…!」

 こちらにひとしきり手を振る人影を見て、渚小鳥はおびえた声を出した。盛り上がりに欠ける会話ははるか彼方かなたの星となり、風戸爽の横からわらわら出てきた秘密結社の顔ぶれを見てようやく、わたしたちはほっと胸をなでおろすことができたのである。

 監督役である佐倉氏が血相を変えて駆けてきたあとは、トップバッターがしんがりを務めた言い訳を野生のクマに押しつけ、同じく我々の身を案じていた鈴音さんにも、無事戻れたツアーバスの中からメールを送って約束を果たした。

〈 知人によれば、佐倉柊平はひとまず無害だそうです。詳細は、また後日。 〉

 まったく、人の世話を焼くとろくなことにならない。

 佐倉氏と並んで座る鈴音さんの後頭部を見守り、わたしはどっと噴き出した疲労に任せて固く腕を組むと、図々しくも人の肩を枕代わりに眠るヒヨコの頭部に頭を乗せ返し、グロテスクな悪夢を見ることもなく泥のように眠った。

 蓼食たでくう虫も好き好き、である。

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