第4話 『 山師 』

「先輩が見たという屋台やたい、まだあるでしょうか?」

 神社まであと少しというところで、デジタルカメラを構えたなぎさ小鳥ことり は緊張した面持ちを見せた。携帯電話の画面には参拝に不向きな時刻が表示され、人気ひとけのない通りでは定間隔に並ぶ街灯が闇夜を退けていた。

 彼女は秘境ひきょうに挑む冒険者のような口ぶりでカメラに声を吹き込んた。「そこでものを買うとどうなるのか、実証した人はまだ誰もいないのです。あるいは、生きて戻れた人がいないだけかもしれません。一般的に、夜の神社は神さまがご不在の為、入ってはならないとされているのです」

「何故、ここにきてそれを言う」わたしは切り込む勢いで立ち止まった。

 渚小鳥は平然と続けた。

「夕方以降は、神さまもお勤めを終えて天に戻られるのです。無人となった神域には魑魅魍魎ちみもうりょうが入りやすくなっている為、護衛を務めるお付きの者がしんがりを務めると聞きます。あいにく、この神社に守護神像は立っていないようですが…」

 彼女は挑むように朱塗しゅぬりのやぐらを見上げた。その隣から境内けいだいを見通すわたしの腹の中では、忍び寄る悪寒と後悔がぐつぐつ煮え立ってみぞおちを重たくしていた。

 さかのぼること、数時間前のことである。


「――― そうした話は、過疎化かそかが進むカントリーサイドなどで報告が上がっています」

 寒さがいや増す晩秋の夕暮れ時。ぐつぐつ煮え立つ鍋を前にして、渚小鳥は冷めゆくばかりのわたしを置き去りに恍惚こうこつと熱弁を振るっていた。

「辺りが暮色蒼然ぼしょくそうぜんと影に覆われる頃。それは途切れた陸橋りっきょう只中ただなかで、時には無人の山中で。ある人は帰路の途中で開催予定のなかったお祭りが粛々しゅくしゅくと開かれている場面に遭遇したと言います。しかしながらそこに人の姿はなく、夜風に吹かれたお囃子はやしの音色とともにふっと立ち消えてしまうのだそうです。我々、怪奇民族倶楽部くらぶでは、そのようなサプライズ的現象を〝いきなりカーニバル〟と呼んで調査を進めているところです」

 和洋折衷わようせっちゅうを織り交ぜた怪しげなプレゼンテーションは、リオの尻振りカーニバルのような騒々そうぞうしさを匂わせて帰結した。本人は至って真剣な顔をしているが、肩の上で切りそろえたおかっぱ頭には、成人式を終えたばかりとしか思えない大振りな花飾りがしなだれ、黒いタートルネックの首元には秘密結社の一員であることを示すKのピンバッジが、「この人K、変なんです」と我々一般人に警鐘けいしょうを鳴らしていた。

 それにも臆さず耳を傾けていたのは、千吉良ちぎら家の夕食に招待してくれた鈴音さんと、その祖父である善行よしゆきさんだけだった。「無人の祭りとはまた、おもしろい話が出たな」

 善行さんは感慨かんがい深げにはしを伸ばした。御年七十七歳を迎える御仁ごじんは、広いひたいに豊かな白髪、たわら型の人懐ひとなつっこい顔に老眼鏡をかけた気のいい老人で、温泉旅行に出かけた家族の留守を預かる傍ら、わたしから〈り物のやしろ〉に迷い込んだ経緯を聞き出そうと晦日鍋みそかを用意してくれたのだ。

 鴨肉やエビ、ハマグリに豚バラ、生麩きぶに締めは蕎麦そば贅沢ぜいたくな寄せ鍋を前にして、鈴音さんも感心した様子で春菊に箸を伸ばした。「わたしも初めて聞いたわ。誰もいないお祭りなんて素敵。小鳥ちゃんは礼儀正しい上に博識なのね」

「恐縮です」

 いじらしくかしこまりながらも、箸は主役の鴨肉をつまんでいる。愛らしい名前とは裏腹につらの皮が厚い彼女は、しくもわたしと同じ文芸学部に属しながら、英文学科を専攻する才女もとい変人である。年も一つ下と学年違いだが、佐倉氏が受け持つゼミに聴講生として参加したことを機に知り合った些末さまつな間柄だった。

 一般的に、大学の授業は講師が多数の学生に向けて講義をする一斉授業と、より専門的な学習を学生主体で研究するゼミナールがある。各ゼミによって倍率は異なり、女学生の応募が一点集中する佐倉氏のゼミを受講するには、聴講生であっても面接とレポートという体裁ていさいを取った適格な人選がなされる。畢竟ひっきょうするに、学科違いの彼女が氏に採用されたのは、色恋よりもオカルトに生きる純真さが買われたに違いなかった。

「遠目から見る限り、のき並ぶ屋台にはハッカパイプや水風船、宝釣りに金魚すくいと我々がよく知るものが並んでいたそうです」熱々の鴨肉をフーフーしながら、渚小鳥は核心に迫るべく声を落とした。「では何故、見た人の誰もがお祭りに足を踏み入れなかったのか。それはずばり、能天気な先輩と違って危機察知能力が正常に働いたからです」

「ちょっと箸を置きなさい」わたしはやんわりと彼女をいさめた。

 学兄がっけいを敬えないやつに肉を食う資格はない。「誰がオカルト話にえたれ者を誘ってやったと思っている。こっちは慎ましくネギから始めてるんだぞ…!」

「たまたま居合わせたから、わたしに声掛けただけでしょう!」

 渚小鳥も淑女という体裁をかなぐり捨てて口を尖らせた。その実、接点が限りなく少ない彼女を同行させることになったのは、火急かきゅうの案件を研究室に持ち込んだ際、ゆくりなくも教養を深めに来ていた彼女がその場に居合わせたからで、鈴音さんが頭を打ったわたしを気遣って送ってくれた招待メールを見た佐倉氏が、カレンダーに殴り書きされた〈教授会〉の日程に、ガーンと頭を打ちつけられた為でもあった。

「鈴音さんのお宅にきみ一人を行かせるのは、どうにも忍びない。なので、ここは安牌あんぱいを切ってもう一人誘いましょう。きみのお目付け役となる」とことさら強調し、不要な嫉妬心に駆られた佐倉氏は手近にいた渚小鳥に白羽しらはの矢を立てたのである。

「若いもんが、そうカリカリしなさんな」ぷくりとほおを膨らませる彼女の取り皿にエビを盛り、善行さんは好々爺然こうこうやぜんとたしなめた。「鈴音が珍しく人を招待したいなんていうから、こっちは来るのを楽しみにしてたんだ。寮にも入らないで生計を立ててるってことは、金策にかまけてろくすっぽ食べてないんだろう。遠慮してないで食え、食え」

 さすが苦境からい上がった人物とあって、バイト帰りの心に御仁の気遣いはいたく染み入った。ありがたく豚肉に箸を伸ばす横で「ひょうしゅくです」と彼女も鴨肉を飲み下し、ぬくぬくの実家暮らしを伏せたままエビにかぶりついた。

 こいつ…。「それにしても柊平しゅうへいくん、遅いわね」

 鈴音さんは鍋の具を足しながら掛け時計を見上げた。長針は早くも午後八時に迫ろうとしている。厄介者を押しつけてくれた張本人が約束を反故ほごしたのでは、怒りも倍増である。携帯電話を確認してみると、不定期に開催される教授会が長引いているのか、会議中にブラインドタッチで打ったと思しきSOSが届いていた。

〈 かならずいくので ぼくのぶん のこしておいてくだしゃい 〉

 こんな時にも人心を掌握しょうあくするとは… 。誤字に見る人柄に稚拙ちせつな嫉妬を抱いたわたしは、生麩きぶを箸でつまんで笑みを向ける鈴音さんをぱしゃりと撮影して氏に送りつけた。

〈 今日の鈴音さんは なまあしです 〉

「もひかすると、しぇんしぇいもいひなりハーニバルにしょうぐうしているのでは」

 渚小鳥は熱々の焼き豆腐を口の中で持て余しながら不安を漏らした。何故こうも彼女が飯をまずくするような話題ばかり振るのかというと、先刻のことである。


 午後六時すぎ。辺りが暮色蒼然ぼしょくそうぜんと影に覆われた頃、わたしは渚小鳥と落ち合うべく人気ひとけのない通りを歩いていた。その道はマンションが群立する横を走り、見通しが利く割に車通りの少ない閑静かんせいな場所だった。ふところに吹きすさぶ空風からかぜに震えながら二つ先の駅を目指していると、朱塗りのやぐらを構えた神社の前に差し掛かった。

 楼門ろうもんである。

 左右に守護神像が置かれているものは、俗に〝随身門ずいじんもん〟と呼ばれている。平安期に貴人の警護に当たっていた武官を由来としているが、そこに該当するものはなく、門の大きさも土蔵どぞうを小ぶりにしたような親しみやすさで景観になじんでいた。方や玉垣たまがきでぐるりと囲われた境内けいだいは広く、やしろへ一直線に伸びる参道脇の灯篭とうろうには明かりが灯っていた。

 普段なら素通りを決め込むわたしの足を止めさせたのは、ボタンを掛け違えたように参道沿いに並ぶ二つの屋台であった。日中にもよおしでもあったのか、撤収しそびれたように点在する屋台は煌々こうこうと明かりを宿して客足を待っている。わたしの知る限り、霜月しもつきの神社で催される儀礼は七五三と新嘗祭にいなめさいと呼ばれる収穫祭の二つしか覚えがなく、楼門から様子をうかがうと、軒に隠れた店主の姿は認められなかったものの、ゆうに離れた場所にいるわたしの目に、それは何故か拡大鏡を用いたようにはっきりと映ったのだ。

 これ見よがしに生クリームとあんこを挟んだ、分厚いどら焼きが。

 これは行かねば。わたしのハートはにわかに色めき立った。

 ここだけの話、わたしは甘味かんみに目がない。普段は前髪でがっつり目元を隠しているが、それも冷淡で人情味に欠けると評される顔だちのせいであって、幼少期から細目の三白眼さんぱくがんにトカゲ顔と揶揄やゆ される大きな口元がコンプレックスだった。今でも喜怒哀楽が分かりづらいと難癖なんくせをつけられることもしばしばあり、そんなわたしが無類の甘党である事実を知る人間は多くなかった。

 そのどら焼きは一つが中華まんほどの大きさがあり、たわわな胸を覆うホタテ貝よろしく、スライスされたくりやらイチゴやらが生クリームの断層に貼りついて目にも鮮やかだった。楼門にたたずんでいたわたしは夢遊病患者のように足を出しかけ、木札に書かれた〈一箇五百円〉の文字にぱちんと鼻提灯はなちょうちんを割られた。

 金がない。

 何故、こんな時に…。わたしは目と鼻の先に垂らされたニンジンを前に歯噛はがみした。そもそも二つ先の駅まで歩いていたのも、待ち合わせの駅まで辿り着くほどの所持金がなかったからで、帰りは佐倉氏が運転する車に同乗させてもらう心づもりでいたのだ。

 千吉良家の鍋と厚盛どら焼きを乗せた天秤てんびんが激しく上下する中、楼門にたたずむわたしに屋台の店主が声を掛けてきた。「そんなに食べたかったら、金を持ってまた来たらいい。うちは夜遅くまで開けてるから、お兄さんが来てくれるのを待ってるよ」

「あぁ、どうもご親切に…」と軽く頭を下げかけて、冷たい戦慄せんりつが胸の奥をねぶった。

 わたしは今、話しているんだ?

 そこで我に返った。目先のものにとらわれて状況がおざなりになっていたが、わたし自身は一歩たりとも境内に踏み入っておらず、まして遠く離れた屋台に並んだものをこと細かにとらえることも、ひさしに隠れた店主と間近に言葉を交わすことなどできるわけがなかった。

 わたしはキツネにつままれたように参道を見通した。掛け違いに並ぶ屋台は依然として人気がなく、目をらしても店先になにが売られているのかは判然としなかった。心には店主からかけられた言葉の温かみが残り、魅惑の甘味がみつを垂らすように脳裏にこびりついて離れなかった。

 人は心から欲するものに出会うと、容易たやすく闇に隠されてしまうのだろう。未練がましく神社を去ったわたしは、のちに煩悩ぼんのうによって突き動かされる人間の底力を目の当たりにすることになった。「――― お初にお目にかかります。佐倉柊平と申します」

 短文メールを送って半時も経たぬうちに、佐倉氏はかすかに息切らしながら千吉良家の間広い玄関先に現れた。よほど無理をしたのか、お得意の笑顔には疲労が色濃く浮かび、現当主である善行さんにぺこぺこ保護者面を下げると、浮世絵うきよえに「くどき上手」とあからさまなラベルが張られた日本酒を手土産てみやげに差し出した。

 それからほどなくして、「うちの教授会は大概ルーチンで、プロセスを踏むことに重点が置かれているので時間を食うんですよ。吉見よしみ先生も仕事丸投げしてくるし」

 勧められるまま空けた酒を手に、佐倉氏は珍しく目尻にしわを刻んだ。吉見というのは文化人類学を分野とする文化史学科の教授で、暇さえあれば遺跡発掘へ赴く健脚けんきゃくぶりと放浪癖ほうろうへきで知られた老獪ろうかいである。

 冬休みを一ヵ月に控えた今、難航していた論文が一段落ついたところで、専任講師である佐倉氏に休みはないという。学生たちが欣喜雀躍きんきじゃくやくとクリスマスを謳歌おうかするかげで、学位論文の審査やら授業計画書シラバスの作成やら、センター試験のあれやこれに時間を費やし、年明けには骨と皮ばかりになっていると氏は遠くを見つめた。

「大学の先生っていうのも大変だねぇ」礼儀正しい若者にすっかり気をよくした御仁は、箸でつまんだつくねをかかげて同情を示した。「どうりで今も独り身なわけだ。そんなに忙しくしてちゃ、嫁さんはもらえないだろうな」と、心安立こころやすだてに氏の胸を突き刺した。

「ぼくから逃げないでいてくれるのは、きみだけです」

 佐倉氏はしみじみとわたしにお猪口ちょくを傾けた。聞けば、メールに添付された鈴音さんの楽しげな様子に感化され、強引に教授会を取りまとめて車を飛ばしてきたという。

「危うく何人か引きそうになりましたけど、大丈夫でした」と、冗談とも知れぬことを笑顔で言う。一風、爽やかな風をまとって見えるが、こやつもご多分に漏れずオスである。渚小鳥と妖怪談義に花を咲かせる鈴音さんを微笑ましく眺めながらも、くるぶし丈のジーンズからのぞく素足に目をかすませている。うまい話には大概、裏があるものだ。

「改めまして、作家デビューおめでとうございます」

 佐倉氏は酔いも手伝ってうやうやしく平伏へいふくしてみせた。

 同じく酒を飲んでいた鈴音さんは、慌てて手を振った。「そんな、よしてちょうだい。デビューといっても指導がつくだけで、望んでいた仕事とも違うんだから。それにすんなり事が運んだのは、柊平くんたちのお陰よ。実力とは違うわ」

「なに言ってんだ」善行さんはお猪口を突き出した。「きっかけは確かに先生方だったかもしれないが、お前の才能が認められたのは手水ちょうずの神さまがこれまでの労をんで下さったからだ。民話だろうが七不思議だろうが、絵本になるならいいじゃないか」

 御仁は愛する孫の成功を手放しで喜んでいる様子だった。陰の功労者であるわたしでさえ、誇らしく思えたものだ。幻の手水舎ちょうずしゃを見つけた数日後、鈴音さんは後頭部を打ちつけたわたしの労を汲み、〈在り物の社〉にまつわる物語を描いてくれたのだ。

 本人が言うことには、製作中は湯水のようにアイデアが湧き、両手にき物でも宿ったように筆が運んだという。試しにできたものを出版社に持っていたところ、好評を得てとんとん拍子に絵本の製作が決まったということだった。

「運も実力のうちです」と、佐倉氏も判を押した。「あのタイミングで彼をお店に連れていったのも、あらかじめそうなるように仕組まれていたのかもしれません。彼はこう見えて、ぼくの福の神なんですよ。ご利益があるうちにたかっておきましょう」

お二人のおっしゃる通りですジャスト アズ ゼイ セッド!」オレンジジュースに甘んじていた未成年も異様な気迫を見せた。「神さまがお力添えしたということは、鈴音さんはその手の伝承を世に広めるメッセンジャーに選ばれたのです。引け目を感じる必要などありません」

 白熱する応援合戦を尻目に、わたしは火の粉が降りかからない場所でせっせと鍋の残りをつついた。和をもってたっとしとなすには水を差さないのが一番である。渚小鳥が思い立つままくちばしを入れたのも、大人たちにたんまり酒が回った頃のことだった。

「そういえば、先生が乗ってこられた車は、帰りは誰が運転されるのですか?」

「…あ」その一言で場の空気が凍りついた。

 金もないのに、どうやって家まで帰ったらいいのだ。

 懊悩おうのうと用を足しに席を立ったわたしは、オーギュスト・ロダンもかつては取ったであろうポーズで呻吟しんぎんした。今日ばかしは佐倉氏から厄をもらうこともないだろうと見越した矢先のふい打ちであった。「ええい、ままよ!」と息んで洗面所を飛び出すと、何故か扉の前で出待ちをしていた渚小鳥とばったり顔を突き合わせることになった。

「先程のお話、なにからなにまで本当でしょうか」

 びくりと肩を浮かしたわたしに構わず、渚小鳥は出し抜けに言った。

「神社で見たという屋台のくだりです。実直に申し上げて、先程のお話にはいたく興味をそそられました。懇意こんいにしている雑貨屋さんにお呼ばれしたというので、てっきりお鍋を挟んでの新作お披露目ひろめ会が開かれると思っていたのです。願わくば、試作品のいくつかがいただけるのではないかと…」と、いやしくもフクロウの木彫りが並んだ和室を物欲しそうに眺める。彼女は佐倉氏が大学側に伏せて闇バイトを始めたことを知らない。

 わたしは気休めに言葉をかけた。「フクロウは一体、五千円だそうだ」

「そういうことが聞きたくて待っていたわけではありません」

 ぴしゃりと言葉を突き返し、渚小鳥は小柄な体躯たいくでずいっと詰め寄ってきた。

「ここは怪民倶楽部の一員として、いきなりカーニバルの実態調査に乗り出すべきと考え至ったのです。ですが佐倉先生のお話から察するに、怪奇現象とエンカウントするには先輩のお力添えが不可欠なご様子。そこで、折り入ってお願いが…!」

「さっき聞いたことは、なにからなにまで忘れなさい」

 正常に作動した危機察知能力にのっとり、わたしは忍び寄る悪寒を即座に退けた。

 しかし、相手は手強かった。「帰りの電車賃が欲しくないですか」

 渚小鳥は脇をすり抜けようとしたわたしの行く手を抜け目なくさえぎった。ぷらりと垂らされたえさに思わず足が止まる。釣りが得意なのは阿久津あくつに留まらないらしい。

「これから話すことは、人としてのり方を問うものです」

 渚小鳥はまじめ腐った顔で弱みを突いた。

「いいですか。成功の足掛かりを掴んだ今の鈴音さんには、先輩が体を張って得た怪奇談が必要なのです。そして今のわたしには、先輩にお駄賃を与えることはおろか、例のスイーツを買い占めるほどの財力があります。本当に鈴音さんの幸せを願っているのなら、これからわたしをその神社に連れていくべきです」

「正気か。屋台がまだあるとは限らないんだぞ。疲れて幻覚を見た可能性もある」

「それならそれで日を改めます」

 声には鋼鉄の響きがあった。鈴音さんの幸せを天秤にかけられたのでは断る理由もなく、結局は食後の甘味を食べに行くという名目で彼女に随伴ずいはんすることになったのだ。

 いとまを告げようと居間に戻る途中のことだった。

「なかなか気のいい若者じゃないか」

 台所から、ふとそんな言葉が聞こえてきた。わたしたちは互いに自分のことかと勘違いし、台所にいる鈴音さんと善行さんの会話に地獄耳を近付けていった。こちらに背を向けて洗い物をする鈴音さんに、椅子いすに腰かけた御仁が事あり顔で水を向けている。

「ああいう性格を温厚篤実おんこうとくじつというんだろうな。女に好かれそうな見てくれはしちゃいるが、芯がしっかりして誠実そうだし、仕事もちゃんとしたものを持って邁進まいしんしてる。その証拠に、彼の教え子たちも柊平くんを慕っているようだったじゃないか」

「やぁね、おじいちゃん。すっかり〝くどかれ〟ちゃってるじゃない」

 鈴音さんは呆れ顔で卓上に置かれた空き瓶を一瞥いちべつした。珠暖簾たまのれんの間からさらに様子をうかがうと、

「柊平くんとは、この先もずっとお友達よ」

 鈴音さんは表情を隠し、蛇口から流れ出る水音に心を流した。「確かにいい人だとは思うけど、わたしのことは上っ面でしか見てないわ。これまで付き合ってきた人たちと同じ。結局はがっかりされておしまいよ。だから、彼とはずっと友達でいたいの」

「お前は、それでいいのかい?」御仁はれ物に触れるように声をやわらげた。「彼とはそうなるとも限らないじゃないか。うちに招待したってことは、おじいちゃんにしっかり目利きしてほしかったんだろ?まだ知り合ったばかりなんだし、これから二人で時間をかけてだな…」

「だから、無理なのっ!」

 ばしゃん、と派手に打った水しぶきが静寂を引き裂いた。

 鈴音さんは流れ続ける水に向かって吐露とろした。「おじいちゃんがなにを言いたいのかは分かってる。でも、わたしには無理なの。あの人とは一生そういう関係にはならないし、うちの代はわたしで終わり。だって、しょうがないでしょ? だから、もうその話はしないで…!」

 思いがけない情景の一コマであった。きらめく水面みなもの下にどんな闇が潜んでいるものなのか、癇癪かんしゃくを起した鈴音さんの震える背中を見て己の無知を思い知らされた。

 これは、なにやら込み入った事情がありそうである。愁嘆場しゅうたんばに遭遇した我々はいそいそとその場を離れ、はしを構えたまま器用に寝落ちした佐倉氏を置き去りに、ぺこぺこ頭を下げながら邸宅をあとにした。願わくは千吉良家の朝食に加わった彼が二人の仲を取り持ち、なおかつ余計な災禍さいかを振りまかないことを祈りつつ、話は振り出しに戻る。


「――― 専門家の中には鳥居や山門は結界にあらず、神域を定めるのは玉垣たまがきの有無と唱える人もいます。とはいえ、それらが正中せいちゅうの入り口であることは周知の事実。倶楽部くらぶ内でも意見が割れるところですが、わたしは俄然がぜん、結界説を推奨しています」

 午後十一時すぎ。意味不明な米塩博弁べんえんはくべんを聞かされながら、わたしは重たい足取りで例の神社に向かっていた。隣を歩く秘密結社の一員は、最寄り駅から動画も撮れるデジタルカメラを作動させ、黙っていれば愛らしい容姿をオカルトトークで台無しにしていた。

「もう一つの屋台でなにが売られていたのかも気になるところです」

 渚小鳥は臨場感あふれる口調でカメラに声を吹き込んだ。わたしとしては、録画したものを誰に見せるつもりなのかが気になるところではある。

 よもや、オカルト倶楽部の信者と夜半に出歩くことになろうとは…。

 わたしは音もなく肩を落とした。過去、彼女の勧めで『画図えず百鬼夜行』を見つけるに至らなければ、こうして面倒な糸が絡みついてくることもなかっただろう。色っぽい話題が出るでもなく問答もんどうを交わすうち、わたしたちはついに楼門ろうもんの前に到達した。

 広い境内は参拝者を気遣い、しっかり明かりが灯されていた。しかしながら人気ひとけはなく、渚小鳥は顔を見合わせるなり、わたしにこくりとうなずいて先をうながした。あれほど愉悦ゆえつに浸っていた撮影班が安全なしんがりを務めるらしい。半ば呆れながら門下に立ったわたしは、参道沿いに至極当然と居座る屋台を見つけて目を丸くした。

 あった。「なんだ、普通の屋台じゃないか。無駄足にならずに済んでよかったな」

「え?…あ、ちょっと先輩!」

 気後れする財布係を従え、わたしは真っすぐ参道を歩いていった。屋台に近付くにつれ、掛け違いに並ぶもう一つの店で売られていたものが見えてきた。怪しくつやめくりんごあめである。ひさしに隠れて店主の姿は見えないものの、手前に建つ屋台のひさしに書かれた〈銅鑼どら焼き〉の文字が判読できる位置までやってきた。

「いらっしゃい。待ってたよ、お兄さん」

 屋台横に立つのぼりの陰で店主が言った。店先では垂涎すいぜんもののどら焼きが来客を待っている。いよいよ店の前に立つと、いかにも和菓子屋の老職人といった割烹かっぽう姿の親父がわたしを出迎えた。居眠りをしていたのか、はたまた金勘定にいそしんでいたのか、特徴のない顔を薄っすら伏せている。寒い夜空の下では腰も曲がるというものだ。

「お待たせしてすみません」

 声を掛けると、店主は顔を上げるでもなく言った。

「おや、お知り合いを連れてこられたんで。こりゃあ、景気がいいや」

「えぇ、景気のいい奴を連れてきました」調子のいいことを言い、わたしは鉄板に並んだキツネ色の生地をうっとりと眺めた。あんをしこたま挟んだどら焼きは木箱の中でどっしりと整列し、手招く女郎のような居住まいで香りを放っている。どれをどれだけ買ってもらおうかと卑しい計算を始める前に、ジジッと焼けるような音を立てて裸電球が明滅した。見れば一匹のがはたはたと明かりにたかり、魔法をかけるように鱗粉りんぷんを振りまいている。

 これは…と目を見張るわたしに、店主は見上げるでもなく眉を寄せた。

「あー、あー。困るんだよなぁ。ここにを連れてこられちゃあ」

「え?」

 驚き様に目を戻すと、うつむいていた店主が置き物のように正面を向いていた。

 そこに見る顔は、ラバーマスクのようなものに覆われていた。くり抜かれた小さな二つの双眸そうぼうから、〝なにか〟がこちらを見ている。

 この顔は…人の生皮だ。

 ひっと息を呑む間もなく、店主の口が横一線に割けて視界が狭まった。

 食われる――― 化け物が差し迫る直前、恐怖に見入られたわたしの肩を後ろに立っていた財布係がぞんざいに掴んだ。

「お使いご苦労、

 耳を疑う前に、体がぐんと後方に引き倒された。派手に打った尻に鈍い衝撃が走り、反転した世界で石畳いしだたみを蹴る下駄げたの音が小気味よく響いていった。

 また、このパターンか…。わたしは上体を起こして辺りを見渡した。気付けば灯篭とうろうに灯っていた明かりは消え失せ、連れだって歩いていたはずの渚小鳥の姿もなかった。わたしの足元には見覚えのあるカンカン帽が転がり、わちわちと不格好に逃げ出した餓鬼がきのような生き物を阿久津が追っている。

 どこかで、くぐる門を間違えたのやもしれん。ひとまず一命を取り留めたものの、あれほど魅惑的な匂いを漂わせていた屋台も夢幻泡影むげんほうようと消え失せ、食うか食われるかの鬼ごっこはガラスを引っかいたような阿鼻叫喚あびきょうかんを皮切りに片が付いた。鬼の姿でなにがしかの肉をむさぼる阿久津の背中は、守護神像さながらたくましく見えたものである。

 腰を抜かす傍ら、ひらりと白い光が舞った。わたしの小さな守護神さまである。闇を裂きながら飛んでいった先にも、ケタケタと壊れた玩具おもちゃのような音を立てて逃げ出す影があった。おそらく、もう一つあった屋台の主人だろう。「そいつを逃がすな!」と食べ物を口に含みながら叫んだ阿久津は、巨躯きょくに見合わぬ俊敏さで駆け出すと、忠実なしもべがひらひら足止めした獲物を無事捕獲した。耳を塞ぎたくなる音を立ててそれが真っ二つに引き割かれた瞬間、全身の血が凍りついて泣きたくなった。

「いやぁ、今夜は実に景気がいいね」

 腰を抜かしているわたしの元に、阿久津は食べかけの手羽先を上機嫌に引きずりながら戻ってきた。その姿は冬仕様の着物に羽織り物を合わせた人間に戻っており、わたしの手から季節外れのカンカン帽を拾い上げる顔は、しこたま栄養をとったお陰が、はたまた血濡れているせいか血色がよかった。わたしに向ける笑みにも屈託がなく、阿久津はうぷっとのどからこみ上げるものを手で押さえるわたしに合わせてかがみ込んだ。

「そう、景気の悪い顔をするものじゃないよ。きみのお陰で、ぼくは当座の飢えをしのぐことができた。今夜はぐっすり眠れそうだよ」えらい神経の持ち主である。

「あ、あれは一体…!」

「きみに等しく飢えた者たちさ」

 自分のことを棚に上げ、阿久津は血濡れた肉片を掲げた。「こいつらは〝山師やまし〟だよ。人間が油断しやすい場所で罠を張り、ありもしない幻を見せて餌をおびき寄せる。華やかなにぎわいに惹かれる人間の習性を利用し、心が求めるものをうまく作り出すんだ」

「つまり、詐欺師か」わたしはすとんと全身の力を抜いた。山師は山々を練り歩いて地下資源を探り当てる古い職業だが、嘘を言って利益を得ようとするやからが出始めた頃から、詐欺師の代名詞として使われるようになった言葉である。

「一度は金がないことで難を逃れたというのに、むざむざ食われに戻るとは、さすがぼくが見込んだだけのことはあるね。相手が狐狸こりなら人間を取って食うまではしないんだが、今回きみが遭遇したのは、ひと際たちの悪い餓鬼がきだったんだよ」

「今回は場所が悪かっただけだ」おまけに運も悪かった。

「確かに、神域を利用するのは賢いやり方だとぼくも思うよ」阿久津は帽子を手で押さえながら立ち上がった。「人間は昼夜を問わず、神のおわすところは神聖かつ安全と思い込んでいる。蜘蛛くもがどこにでも巣を張る事実を忘れてしまうんだよ」

「神域に結界が張られているというのは迷信なのか?」

 民俗学的見地から口を挟むと、阿久津は異星人でも見るような目をしてわたしを見返した。答えは、今まさに神域に立っている鬼と、その手に握られた肉片が物語っている。「あるにはあるが、そんなものはただの気休めだよ」

 阿久津はやれやれ、といった風に無人の境内を流し見た。「どこの山師に吹き込まれたかは知らないが、じゅうぶんな数の見張りを駐屯ちゅうとんさせているならまだしも、一晩中、闇夜をしのぐほど目の細かいあみなんてあるわけがない。だからこそ、恐怖という感情が役に立つんだよ。その点においては、昔の人間たちの方がよほど賢かっただろうね」

君子くんし危うきに近寄らず、か」

 わたしは役立たなかった古人の教えに肩を落とした。知識があっても誘惑に屈してしまったのは、明かりを自在に生み出せるようになった現代において、闇夜は恐れるに足らないものと認知されているからだ。渚小鳥の言ったことは正しかった。

 ――― それはずばり、能天気な先輩と違って危機察知能力が正常に働いたからです。

「きみに限っては賢くあってほしくないというのが正直なところだけどね」

 わたしを餌に使う鬼は見透かしたように笑った。「恥じ入ることはないさ。闇夜を飛ぶ虫たちが光に集うのも、月の光を指針に飛ぶ習性が備わっているからなんだ。それはきみたち人間だって同じだよ。例えその手の知識に富んでいようとも、知りたいとうずく己の欲に負けてむざむざ火中に飛び込んでしまう。まったく、愚かな生き物さ」

 阿久津は血濡れた手を差し出した。わたしを餌に使った点では、こやつも立派な山師である。怒りもあらわに手を取ると、立ち上がりざまに血生臭いげっぷを吹きかけられてむせ返った。

 吐息を手で払うわたしに、「そろそろ境界線が別れる頃合いだね」

 阿久津は無礼を恥じ入るでもなく、闇に落ちた楼門を見据えた。

「こうした特殊な場所は次元の境界線が混じりやすくてね。特に夕闇が漂い始める黄昏時たそがれどきというのは、きみも知っての通り、もっとも曖昧あいまいな時間帯とされている。餓鬼どもは門前を通りかかったきみと〝波長〟を合わせて入り口を繋いだんだよ。きみがのこのこ戻ってきたのもその余波が残っていたからで、あの門を通ってこちら側に来られたのは、招待状を持たされたきみとぼくの二人だけだったというわけさ」

 ずっと後ろにいたのか。「これは、わたしの見ている夢じゃないのか?」

「じき分かる」

「先輩…!」と、その時。今し方まで無人だった楼門の下から声が上がった。

 驚いた。忽然こつぜんと姿を消した渚小鳥が、デジタルカメラを構えたまま楼門の下に立っているのだ。彼女が駆け出す素振りを見せると、阿久津は手土産を携えたまま身を引いた。

「今夜は馳走ちそう になったね。この間助けてやった借りは、これで帳消しにしようじゃないか。いくらぼくでも、本物の神域に人間を引き込むのは骨が折れるんだぜ」

 本物の神域。そう聞いて、頭の中の結び目がしゅるりとほどけた。

 ――― そこに呼ばれるには〝神様に見初みそめられる素質〟がないと駄目なんですって。

り物のやしろに繋いでくれたのは、きみなのか?」

「さて、どうだったかな」阿久津は会釈えしゃくするように腰をかがめ、手で押さえた帽子のつばでにやけ顔を隠した。「真相はやぶの中さ」

 白い蛾が視界を遮って飛ぶと、次の瞬間には阿久津の姿は消えていた。山師がくわだてた悪事の痕跡も闇に隠され、境内には灯篭の明かりが戻っていた。小さな歩幅で駆けてくる渚小鳥の足音が静寂を動かし、あえかな秋月をはかなむ夜虫の歌声が色を添えた。

 どうやら、わたしは無事戻ってきたらしい。

  ただ一人、こちら側に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る