第4話 『 山師 』
「先輩が見たという
神社まであと少しというところで、デジタルカメラを構えた
彼女は
「何故、ここにきてそれを言う」わたしは切り込む勢いで立ち止まった。
渚小鳥は平然と続けた。
「夕方以降は、神さまもお勤めを終えて天に戻られるのです。無人となった神域には
彼女は挑むように
さかのぼること、数時間前のことである。
「――― そうした話は、
寒さがいや増す晩秋の夕暮れ時。ぐつぐつ煮え立つ鍋を前にして、渚小鳥は冷めゆくばかりのわたしを置き去りに
「辺りが
それにも臆さず耳を傾けていたのは、
善行さんは
鴨肉やエビ、ハマグリに豚バラ、
「恐縮です」
いじらしく
一般的に、大学の授業は講師が多数の学生に向けて講義をする一斉授業と、より専門的な学習を学生主体で研究するゼミナールがある。各ゼミによって倍率は異なり、女学生の応募が一点集中する佐倉氏のゼミを受講するには、聴講生であっても面接とレポートという
「遠目から見る限り、
「ちょっと箸を置きなさい」わたしはやんわりと彼女をいさめた。
「たまたま居合わせたから、わたしに声掛けただけでしょう!」
渚小鳥も淑女という体裁をかなぐり捨てて口を尖らせた。その実、接点が限りなく少ない彼女を同行させることになったのは、
「鈴音さんのお宅にきみ一人を行かせるのは、どうにも忍びない。なので、ここは
「若いもんが、そうカリカリしなさんな」ぷくりと
さすが苦境から
こいつ…。「それにしても
鈴音さんは鍋の具を足しながら掛け時計を見上げた。長針は早くも午後八時に迫ろうとしている。厄介者を押しつけてくれた張本人が約束を
〈 かならずいくので ぼくのぶん のこしておいてくだしゃい 〉
こんな時にも人心を
〈 今日の鈴音さんは なまあしです 〉
「もひかすると、しぇんしぇいもいひなりハーニバルにしょうぐうしているのでは」
渚小鳥は熱々の焼き豆腐を口の中で持て余しながら不安を漏らした。何故こうも彼女が飯をまずくするような話題ばかり振るのかというと、先刻のことである。
午後六時すぎ。辺りが
左右に守護神像が置かれているものは、俗に〝
普段なら素通りを決め込むわたしの足を止めさせたのは、ボタンを掛け違えたように参道沿いに並ぶ二つの屋台であった。日中に
これ見よがしに生クリームとあんこを挟んだ、分厚いどら焼きが。
これは行かねば。わたしのハートはにわかに色めき立った。
ここだけの話、わたしは
そのどら焼きは一つが中華まんほどの大きさがあり、たわわな胸を覆うホタテ貝よろしく、スライスされた
金がない。
何故、こんな時に…。わたしは目と鼻の先に垂らされたニンジンを前に
千吉良家の鍋と厚盛どら焼きを乗せた
「あぁ、どうもご親切に…」と軽く頭を下げかけて、冷たい
わたしは今、誰と話しているんだ?
そこで我に返った。目先のものにとらわれて状況がおざなりになっていたが、わたし自身は一歩たりとも境内に踏み入っておらず、まして遠く離れた屋台に並んだものをこと細かにとらえることも、ひさしに隠れた店主と間近に言葉を交わすことなどできるわけがなかった。
わたしはキツネにつままれたように参道を見通した。掛け違いに並ぶ屋台は依然として人気がなく、目を
人は心から欲するものに出会うと、
短文メールを送って半時も経たぬうちに、佐倉氏はかすかに息切らしながら千吉良家の間広い玄関先に現れた。よほど無理をしたのか、お得意の笑顔には疲労が色濃く浮かび、現当主である善行さんにぺこぺこ保護者面を下げると、
それからほどなくして、「うちの教授会は大概ルーチンで、プロセスを踏むことに重点が置かれているので時間を食うんですよ。
勧められるまま空けた酒を手に、佐倉氏は珍しく目尻にしわを刻んだ。吉見というのは文化人類学を分野とする文化史学科の教授で、暇さえあれば遺跡発掘へ赴く
冬休みを一ヵ月に控えた今、難航していた論文が一段落ついたところで、専任講師である佐倉氏に休みはないという。学生たちが
「大学の先生っていうのも大変だねぇ」礼儀正しい若者にすっかり気をよくした御仁は、箸でつまんだつくねを
「ぼくから逃げないでいてくれるのは、きみだけです」
佐倉氏はしみじみとわたしにお
「危うく何人か引きそうになりましたけど、大丈夫でした」と、冗談とも知れぬことを笑顔で言う。一風、爽やかな風をまとって見えるが、こやつもご多分に漏れずオスである。渚小鳥と妖怪談義に花を咲かせる鈴音さんを微笑ましく眺めながらも、くるぶし丈のジーンズからのぞく素足に目を
「改めまして、作家デビューおめでとうございます」
佐倉氏は酔いも手伝って
同じく酒を飲んでいた鈴音さんは、慌てて手を振った。「そんな、よしてちょうだい。デビューといっても指導がつくだけで、望んでいた仕事とも違うんだから。それにすんなり事が運んだのは、柊平くんたちのお陰よ。実力とは違うわ」
「なに言ってんだ」善行さんはお猪口を突き出した。「きっかけは確かに先生方だったかもしれないが、お前の才能が認められたのは
御仁は愛する孫の成功を手放しで喜んでいる様子だった。陰の功労者であるわたしでさえ、誇らしく思えたものだ。幻の
本人が言うことには、製作中は湯水のようにアイデアが湧き、両手に
「運も実力のうちです」と、佐倉氏も判を押した。「あのタイミングで彼をお店に連れていったのも、あらかじめそうなるように仕組まれていたのかもしれません。彼はこう見えて、ぼくの福の神なんですよ。ご利益があるうちにたかっておきましょう」
「
白熱する応援合戦を尻目に、わたしは火の粉が降りかからない場所でせっせと鍋の残りをつついた。和をもって
「そういえば、先生が乗ってこられた車は、帰りは誰が運転されるのですか?」
「…あ」その一言で場の空気が凍りついた。
金もないのに、どうやって家まで帰ったらいいのだ。
「先程のお話、なにからなにまで本当でしょうか」
びくりと肩を浮かしたわたしに構わず、渚小鳥は出し抜けに言った。
「神社で見たという屋台のくだりです。実直に申し上げて、先程のお話にはいたく興味をそそられました。
わたしは気休めに言葉をかけた。「フクロウは一体、五千円だそうだ」
「そういうことが聞きたくて待っていたわけではありません」
ぴしゃりと言葉を突き返し、渚小鳥は小柄な
「ここは怪民倶楽部の一員として、いきなりカーニバルの実態調査に乗り出すべきと考え至ったのです。ですが佐倉先生のお話から察するに、怪奇現象とエンカウントするには先輩のお力添えが不可欠なご様子。そこで、折り入ってお願いが…!」
「さっき聞いたことは、なにからなにまで忘れなさい」
正常に作動した危機察知能力に
しかし、相手は手強かった。「帰りの電車賃が欲しくないですか」
渚小鳥は脇をすり抜けようとしたわたしの行く手を抜け目なく
「これから話すことは、人としての
渚小鳥はまじめ腐った顔で弱みを突いた。
「いいですか。成功の足掛かりを掴んだ今の鈴音さんには、先輩が体を張って得た怪奇談が必要なのです。そして今のわたしには、先輩にお駄賃を与えることはおろか、例のスイーツを買い占めるほどの財力があります。本当に鈴音さんの幸せを願っているのなら、これからわたしをその神社に連れていくべきです」
「正気か。屋台がまだあるとは限らないんだぞ。疲れて幻覚を見た可能性もある」
「それならそれで日を改めます」
声には鋼鉄の響きがあった。鈴音さんの幸せを天秤にかけられたのでは断る理由もなく、結局は食後の甘味を食べに行くという名目で彼女に
いとまを告げようと居間に戻る途中のことだった。
「なかなか気のいい若者じゃないか」
台所から、ふとそんな言葉が聞こえてきた。わたしたちは互いに自分のことかと勘違いし、台所にいる鈴音さんと善行さんの会話に地獄耳を近付けていった。こちらに背を向けて洗い物をする鈴音さんに、
「ああいう性格を
「やぁね、おじいちゃん。すっかり〝くどかれ〟ちゃってるじゃない」
鈴音さんは呆れ顔で卓上に置かれた空き瓶を
「柊平くんとは、この先もずっとお友達よ」
鈴音さんは表情を隠し、蛇口から流れ出る水音に心を流した。「確かにいい人だとは思うけど、わたしのことは上っ面でしか見てないわ。これまで付き合ってきた人たちと同じ。結局はがっかりされておしまいよ。だから、彼とはずっと友達でいたいの」
「お前は、それでいいのかい?」御仁は
「だから、無理なのっ!」
ばしゃん、と派手に打った水しぶきが静寂を引き裂いた。
鈴音さんは流れ続ける水に向かって
思いがけない情景の一コマであった。きらめく
これは、なにやら込み入った事情がありそうである。
「――― 専門家の中には鳥居や山門は結界にあらず、神域を定めるのは
午後十一時すぎ。意味不明な
「もう一つの屋台でなにが売られていたのかも気になるところです」
渚小鳥は臨場感あふれる口調でカメラに声を吹き込んだ。わたしとしては、録画したものを誰に見せるつもりなのかが気になるところではある。
よもや、オカルト倶楽部の信者と夜半に出歩くことになろうとは…。
わたしは音もなく肩を落とした。過去、彼女の勧めで『
広い境内は参拝者を気遣い、しっかり明かりが灯されていた。しかしながら
あった。「なんだ、普通の屋台じゃないか。無駄足にならずに済んでよかったな」
「え?…あ、ちょっと先輩!」
気後れする財布係を従え、わたしは真っすぐ参道を歩いていった。屋台に近付くにつれ、掛け違いに並ぶもう一つの店で売られていたものが見えてきた。怪しく
「いらっしゃい。待ってたよ、お兄さん」
屋台横に立つのぼりの陰で店主が言った。店先では
「お待たせしてすみません」
声を掛けると、店主は顔を上げるでもなく言った。
「おや、お知り合いを連れてこられたんで。こりゃあ、景気がいいや」
「えぇ、景気のいい奴を連れてきました」調子のいいことを言い、わたしは鉄板に並んだキツネ色の生地をうっとりと眺めた。
これは…と目を見張るわたしに、店主は見上げるでもなく眉を寄せた。
「あー、あー。困るんだよなぁ。ここに人間以外のもんを連れてこられちゃあ」
「え?」
驚き様に目を戻すと、うつむいていた店主が置き物のように正面を向いていた。
そこに見る顔は、ラバーマスクのようなものに覆われていた。くり抜かれた小さな二つの
この顔は…人の生皮だ。
ひっと息を呑む間もなく、店主の口が横一線に割けて視界が狭まった。
食われる――― 化け物が差し迫る直前、恐怖に見入られたわたしの肩を後ろに立っていた財布係がぞんざいに掴んだ。
「お使いご苦労、鳥山くん」
耳を疑う前に、体がぐんと後方に引き倒された。派手に打った尻に鈍い衝撃が走り、反転した世界で
また、このパターンか…。わたしは上体を起こして辺りを見渡した。気付けば
どこかで、くぐる門を間違えたのやもしれん。ひとまず一命を取り留めたものの、あれほど魅惑的な匂いを漂わせていた屋台も
腰を抜かす傍ら、ひらりと白い光が舞った。わたしの小さな守護神さまである。闇を裂きながら飛んでいった先にも、ケタケタと壊れた
「いやぁ、今夜は実に景気がいいね」
腰を抜かしているわたしの元に、阿久津は食べかけの手羽先を上機嫌に引きずりながら戻ってきた。その姿は冬仕様の着物に羽織り物を合わせた人間に戻っており、わたしの手から季節外れのカンカン帽を拾い上げる顔は、しこたま栄養をとったお陰が、はたまた血濡れているせいか血色がよかった。わたしに向ける笑みにも屈託がなく、阿久津はうぷっとのどからこみ上げるものを手で押さえるわたしに合わせてかがみ込んだ。
「そう、景気の悪い顔をするものじゃないよ。きみのお陰で、ぼくは当座の飢えをしのぐことができた。今夜はぐっすり眠れそうだよ」えらい神経の持ち主である。
「あ、あれは一体…!」
「きみに等しく飢えた者たちさ」
自分のことを棚に上げ、阿久津は血濡れた肉片を掲げた。「こいつらは〝
「つまり、詐欺師か」わたしはすとんと全身の力を抜いた。山師は山々を練り歩いて地下資源を探り当てる古い職業だが、嘘を言って利益を得ようとする
「一度は金がないことで難を逃れたというのに、むざむざ食われに戻るとは、さすがぼくが見込んだだけのことはあるね。相手が
「今回は場所が悪かっただけだ」おまけに運も悪かった。
「確かに、神域を利用するのは賢いやり方だとぼくも思うよ」阿久津は帽子を手で押さえながら立ち上がった。「人間は昼夜を問わず、神のおわすところは神聖かつ安全と思い込んでいる。
「神域に結界が張られているというのは迷信なのか?」
民俗学的見地から口を挟むと、阿久津は異星人でも見るような目をしてわたしを見返した。答えは、今まさに神域に立っている鬼と、その手に握られた肉片が物語っている。「あるにはあるが、そんなものはただの気休めだよ」
阿久津はやれやれ、といった風に無人の境内を流し見た。「どこの山師に吹き込まれたかは知らないが、じゅうぶんな数の見張りを
「
わたしは役立たなかった古人の教えに肩を落とした。知識があっても誘惑に屈してしまったのは、明かりを自在に生み出せるようになった現代において、闇夜は恐れるに足らないものと認知されているからだ。渚小鳥の言ったことは正しかった。
――― それはずばり、能天気な先輩と違って危機察知能力が正常に働いたからです。
「きみに限っては賢くあってほしくないというのが正直なところだけどね」
わたしを餌に使う鬼は見透かしたように笑った。「恥じ入ることはないさ。闇夜を飛ぶ虫たちが光に集うのも、月の光を指針に飛ぶ習性が備わっているからなんだ。それはきみたち人間だって同じだよ。例えその手の知識に富んでいようとも、知りたいとうずく己の欲に負けてむざむざ火中に飛び込んでしまう。まったく、愚かな生き物さ」
阿久津は血濡れた手を差し出した。わたしを餌に使った点では、こやつも立派な山師である。怒りも
吐息を手で払うわたしに、「そろそろ境界線が別れる頃合いだね」
阿久津は無礼を恥じ入るでもなく、闇に落ちた楼門を見据えた。
「こうした特殊な場所は次元の境界線が混じりやすくてね。特に夕闇が漂い始める
ずっと後ろにいたのか。「これは、わたしの見ている夢じゃないのか?」
「じき分かる」
「先輩…!」と、その時。今し方まで無人だった楼門の下から声が上がった。
驚いた。
「今夜は
本物の神域。そう聞いて、頭の中の結び目がしゅるりとほどけた。
――― そこに呼ばれるには〝神様に
「
「さて、どうだったかな」阿久津は
白い蛾が視界を遮って飛ぶと、次の瞬間には阿久津の姿は消えていた。山師がくわだてた悪事の痕跡も闇に隠され、境内には灯篭の明かりが戻っていた。小さな歩幅で駆けてくる渚小鳥の足音が静寂を動かし、あえかな秋月を
どうやら、わたしは無事戻ってきたらしい。
ただ一人、こちら側に。
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