第3話 『 雨神 』
木々は鮮やかに色彩を変え、あるものは衣を落として眠りに
涼やかな
正確には、
神域とされる神社仏閣には、俗界から入る邪気を防ぐ結界が山門なり鳥居に施されていると聞く。手水は体に残った
そう、―――これは雨音だ。
小さな気付きに触れた直後、水面のきらめきが思いがけずわたしの顔を照らした。驚いて頭を引っ込めると、空の水盤に水が張っているような青い反射光が半壊した屋根の裏側でたゆたった。そこへ
ちゃぷん。魚のはねた水音が、屋根裏に貼りついていた意識を引き寄せた。空の水盤に目を戻すと、ぼんやりではあるが水が張っているのが見えた。その中から、小さな生き物がひょっこり顔を出している。わたしを垂らし込むつぶらな瞳に、トカゲじみた顔つき。
我こそは
かわいい。わたしは愛らしい
天罰をも恐れぬ動物愛が通じたのか、龍の子は
指に
事の発端は四時間前――― 例によって、わたしは佐倉氏と行動をともにしていた。
彼が小遣い稼ぎに始めたセミナー教室は、T駅から伸びる商店通りに並ぶレンタルオフィスの中にあった。ビルのフロント部分は
そんな場所にきな臭い掛け軸と
「やっぱり助手がいると、場の雰囲気に
一時間半のセミナーを終えると、佐倉氏は回収したアンケート用紙を束ねながら胸をなでおろした。講義中に小話や質疑応答を挟む進行具合は大学の授業と大差ないが、受講者全員が食らいつかんばかりに講師を見つめる異様さは、カエルの
「また
『…もし来てもらえるなら』彼は電話越しに、窓から身を乗り出すわたしに言った。
それはもう、秘蔵の逸品を出し惜しむような声で。『きみに美しい人を紹介します』
「しょうがないな、今日だけですよ」
そんな経緯もあり、危険をかえりみずにのこのこついていったわたしである。
とはいえ、浮き名の一つもない男の口から出た美人の二文字に意表を突かれたのも事実であり、呪われた掛け軸の入った資料箱を抱えたまま、「ここを出る前に、ちょっと買い物を…」と口ごもる姿に益々不信感を募らせた。女性客でにぎわう二階フロアに降り立つ背中は明らかにこわばっており、不審者に続いてネイルサロンや靴修理などの小型ブースが連なる通路を進んでいくと、「そこです」
佐倉氏は指先から光線でも出すのかという遠距離から場所を特定した。目で辿ると、絵本風の愛らしいスタンド看板に〈鈴のなる樹〉と書かれた店に行き着いた。木製のパーテーションでコの字型に仕切られたブースは、店内が広く見通せるように入り口の脇に窓がついていた。店から遠く離れた場所で立ち往生している不審者を残して近付いていけば、カントリー調のオープンラックや食器棚に商品が並べられた店内が見えた。
雑貨屋である。「よかったら、お入りになって」
芯のある透き通った声が店内から聞こえた。見るとブース内の角にある作業机から、太陽のような笑みを浮かべた美しい人がわたしを見ていた。年は三十代半ばほどで、意志の強さを物語る目元は
「見ていくのはタダよ。今ちょうど
「喜んで」わたしは心の中で拝し、店内にいそいそと踏み込んだ。
店はこじんまりとまとまって愛らしかった。色鉛筆を手にした
かわいい。「ここにあるのは全部、手作りですか?」
「そうよ。メインはわたしの描いた絵本なんだけど、それだけじゃここのお家賃を払えないから、ついでに雑貨も置くことにしたの。ちなみに、そのふくろうはうちのおじいちゃんが趣味で彫ったものよ。色合いとかポーズが全部違っていてかわいいでしょ?」
「すずねさん」
一番愛らしいものを見ている後ろから、氏の声が割り込んできた。
美しい人は変わらぬ笑みを入り口に向けた。「あら、
その一言に、
まさか。「いらっしゃい。そんなところで固まっていないで入ってちょうだい」
「お邪魔します」
佐倉氏は小汚い資料箱をお守りに進み出ると、保護者よろしくわたしの傍らに立った。女性は挙動不審な様子に構うことなく、気心が知れたように笑いかけた。
「来てくれてうれしいわ。うちの顧客、数えるぐらいしかいないから寂しくって」
「あしげく通えないのが辛いところです」
あいづちを打つ氏の横顔には、やや思い詰めた感があった。気を取り直したように、「その代わり、今日はぼくのかわいい教え子を連れてきました。今回に限りセミナーの助手をお願いしたんですけど、引き上げる前に買い物をしていこうと思いまして…」
「なぁんだ。珍しく若い男の子が来てくれたと思ったら、そういうことだったのね」女性は気持ちよく笑った。「でも、新しいお客さんは大歓迎よ。はじめまして、お
彼女が
「よく言われるの。もしよかったら、柊平くんみたいに名前で呼んでちょうだい。ちぎらって、なんだか怪獣みたいな響きがして好きになれないのよね」
「お二人はご友人同士ですか」
わたしは無心を装い、よこしまに佐倉氏を
「そんな仰々しいものじゃないわ。柊平くんは、ありがたいお得意さま。うちの雑貨を気に入ってくれて、セミナーの帰りによく寄ってくれるの。それに時々、絵本のネタになりそうな珍しいものも持ってきてくれるから、本当に大助かりで」そういうことか。
佐倉氏は下心など
「ぼくは鈴音さんの描く絵本も好きで、足を運ぶうちにすっかりお財布を握られてしまったんです。ただぼくの方も呼び名が女性みたいなので、ついでに名前で呼んでもらっているんですよ」と、横目で射るわたしに取ってつけたようにのたわれた。
佐倉氏の話を要約すると、彼は前任者からセミナーを引き継いで間もなく妖精の国を発見し、女王の気を
「今日は秘蔵の逸品を持ってきたんです」
何度使い回したか知れないうたい文句を皮切りに、氏はセミナーに用いた学識の
「もしよかったら、昼食を挟みながらゆっくり
佐倉氏は
わたしはふっと肩の力を抜いた。浮きに使われた若者がしてやれることなど一つしかない。
「この画を見たが最後、目玉が腐り落ちて呪われます。おやめなさい」
掛け軸の実態を知らない佐倉氏は、驚異的な反射速度でもってわたしを見やった。よもや、愛する教え子に裏切られるとは思ってもみなかったのだろう。わたしからすれば、モテることを前提に生きてきたオスなど、はなから敵である。
しかし、「え。この中に入ってるのって、呪いの絵なの?」
ねじけた思いとは裏腹に、鈴音さんは声のトーンを跳ね上げた。
「やだ、本当に? わたし、そういうの大好きなの! もう、それならそうと言ってくれたらいいのに」と、呆気に取られている佐倉氏の腕を親しげに叩く。忠告も空しく彼女が店を閉めると、氏はわたしの悪意を奇をてらった
「ほら。昔、テレビで放送されて問題になったっていうあれ、知らない?」
肉汁の詰まった特大のハンバーガーにかぶりつく横で、同じものを食していたはずの鈴音さんは、頼んでもいないのに開眼の生首なる掛け軸について話し始めた。
彼女の言うことには、その
温度差が埋まらないまま食事を終え、掛け軸はその場でお
「顔を隠した鬼に、妖怪文字。今の話が本当だとしたら、すごくロマンチックね!」
オカルト好きと豪語した通り、鈴音さんはよりどころのない話を甘美に受け止めた。
「確かに、興味深い話ですね。裏千家の結び目を、きみはそう解きましたか」
「その筋に詳しい知人の話です。とても論文にはできません」わたしは誤解されるより先に釘を刺した。鈴音さんは目くらましに添えられた
「見る目によって解釈がひっくり返るなんて、それこそ
鈴音さんがわたしに目を戻したその時、佐倉氏の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
なんとも絶妙な間合いである。彼が断りを入れて席を外すと、鈴音さんは呼び水を逃さんとするように身を乗り出した。
「ねぇ。もしかしてこの掛け軸を見つけた時、あなたなにか見たんじゃない?」
「どうして、そう思うんです?」いきなり核心を突かれ、わたしはぎょっと身を引いた。
その反応に手応えを得たのか、鈴音さんは、ふふんと得意げに微笑んだ。
「女の洞察力をなめちゃ駄目よ。あなたの話し方、いかにも言いづらいことがあるって感じだったもの。なにを隠しているのか、お姉さんに正直に言ってみなさい」
「いや、実は」
「さっきの鬼の話といい、あなたにはそういうものを引き寄せちゃう力があるのかもしれないわね」耳を塞ぎたくなることを言って、鈴音さんは腕時計に目を落とすと思い立ったように提案した。「ねぇ。もしよかったら、わたしと少し付き合わない?」
「えっ!」
驚き様に飛び出した声が重なった。見ると、通話を終えて戻ってきた佐倉氏が、わたし同様、明後日の方向から飛来した
「違う、違う!そういう意味じゃなくて」慌てて両手を突き出し、鈴音さんは真逆の反応を見せる我々にこう切り出した。「二人は〈
「ありもの?」
「その
佐倉氏は
「幸運を授けてくれる、ありがたい〝ご
鈴音さんは思い出を語るように在りし日を見つめた。
話の流れはこうである。
彼女の祖父、
そこは通いなれたはずの道の途中に突如現れたか細い路地の先にあって、鳥居や社がない代わりに何故か清めの
すると、ある日の朝。なんと想い人の方から家を訪ねてきて、他ならぬ彼に駆け落ちを持ちかけてきた。というのも、娘が善行さんを袖にした背景には格式を重んずる親の支配があり、彼女は前日に降った雨に打たれた際、悪夢から覚めたように正気に返ったのだと打ち明けた。善行さんは神水で清めた手で娘の手を引き、
「二人は、そのままゴールイン。
――― 自覚はないようだが、きみにはその手のものを引き寄せる力がある。
「素質と言えば、水はすべての情報を転写する鏡と言われていますよね」
ぶるりとかぶりを振る横で、佐倉氏が
「いい歳してこんな話を信じるなんて、やっぱり馬鹿げてるかしら」
科学的な見解に尻込んだのか、鈴音さんはわびしさを匂わせた。「実は出版社に自作の絵本を持ち込んでいるんだけど、未だに手応えがなくて自費出版を勧められているの。絵本のコンクールも落選続きだし、誰かに見てもらいたいと思って始めたお店も、家族が趣味で作ってくれた雑貨を置かなかったら一ヵ月ともたなかったわ。今じゃ、なにをやってもうまくいく気がしないの。でも、おじいちゃんを助けてくれたご神水があれば…って、こんなことを考えてる時点で作家になれる素質なんてないのよね」
鈴音さんは立ち込めた暗雲を払うように
「いえ、行きましょう!」
佐倉氏はかぶせる勢いで立ち上がった。まさかと見上げるわたしの前でこぶしを
「やっぱり、きみを連れてきてよかったです」
道中、佐倉氏は突拍子もなくわたしに打ち明けた。「ちょっと不思議な話なんですけど、きみと一緒にいるとすごく運が向くんですよ。昨日みたく困ったことがあってもすんなり解決するし、今日もきみがいてくれたお陰で会話が弾みました」
彼女の気が引けたとは言わないつもりらしい。「いい加減、教え子をだしに使うのはやめて下さい。鈴音さんの話、
「きみが話してくれた鬼法師同様、信じます」
胸を
めっけものは目付物 と書き、偶然に得た幸運を指す言葉である。在るのか無いのか判然としないものを探そうとする心中には、確かに彼と同じ思いがあるに違いなかった。
図書館で古地図をコピーしたあと、わたしたちは再びT駅へ戻り、約束の時間が来るまで現地調査をすることにした。当時を知る人たちを探し、鈴音さんの祖父と同じ体験をしたり、問題の
結論から言えば、わたしの方に当たりはなかった。どの
疲労を覚えたわたしとは違い、年の離れた彼の声は明朗に届いた。聞けば、開発以前の街に通ずる
『ね、実のある話だったでしょう? これは一歩、謎の神社に近付きましたね!』
氏は
『…早くそ…動か…と…が来るぞ』――― え?
通話口にジジっと雑音が入り混じり、すぐ近くで「ちっ」と舌打ちが聞こえた。直後に首根っこをひっ掴まれ、遠くで危ないと叫ぶ人の声を聞いたのを最後に音が途絶えた。力任せに引き倒された体を起こすと、通りにいた人たちの姿もまた忽然と消えており、秋の
ランプの魔人も気まぐれを起こすことがあるらしい。わたしは「カモン」と指をなびかせるように路地の奥へ消えた蛾を追いかけ、地図から消えた〝ちぐはぐ通り〟に身を入れた。あとに起きたことは、先に述べた通りである。
記憶が
「気が付いてよかった」佐倉氏もまた泣き顔を緩めて
「二人のことが気になって早くお店を閉めてきたの。もう、心配させるんだから」
鈴音さんは佐倉氏に衆人の
わたしは遣わされたのだ――― そう思った時、ぽつりと
予報になかった
願いは聞き入れられた、と。
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