第3話 『 雨神 』

 木々は鮮やかに色彩を変え、あるものは衣を落として眠りにいている。わびしくなった街路樹の横を抜けて目指すは、〈ものやしろ〉と呼ばれる場所だった。

 涼やかな秋日しゅうじつの午後、わたしはのき並ぶビルの合間を抜け、時代に取り残された煙草屋たばこやと百貨店の間にできた〝ちぐはぐ通り〟に足を踏み入れた。猫の通り道を突き進んでいけば、隣接する百貨店の金網フェンスと、防塵ぼうじんシートで覆われた工事現場とに挟まれた空地あきちに出る。敷地の端に資材が積まれるなど雑然としているが、不思議とそこには日差しが届いた。双立そうりつするビルの影に息をひそめながらも、敷地の奥に古いやしろが立っている。

 正確には、東屋あずま風の三角屋根に守られた〝手水舎ちょうずや″である。

 神域とされる神社仏閣には、俗界から入る邪気を防ぐ結界が山門なり鳥居に施されていると聞く。手水は体に残ったけがれを落とす礼法なのだ。しかし手水舎の屋根は年季を示すように半壊し、水盤に水が入っていないばかりか、地下水をくみ上げる喞筒そくとうも欠損していた。長らく人が訪れた形跡はないが、その場所は気持ちよく風が抜けて澄み渡り、枯渇こかつした手水鉢ちょうずばちを前にしたわたしの心は、不安を抱くどころかすっかり洗われていた。空の水盤を深くのぞき込むと、どこかでリン…と鈴の鳴る音が聞こえた。

 耳朶じだをくすぐる喨々りょうりょうたる音色は、水面みなもに広がる波紋のようなやわい響きを持っていた。一つ音が鳴るごとに、空の水盤に意識が吸い込まれていく。

 そう、―――これはだ。

 小さな気付きに触れた直後、水面のきらめきが思いがけずわたしの顔を照らした。驚いて頭を引っ込めると、空の水盤に水が張っているような青い反射光が半壊した屋根の裏側でたゆたった。そこへ三度みたび鈴の音が届くと、反射光にぽつりと描かれた波紋が見えぬ余波となってわたしを通過していった。

 ちゃぷん。魚のはねた水音が、屋根裏に貼りついていた意識を引き寄せた。空の水盤に目を戻すと、ぼんやりではあるが水が張っているのが見えた。その中から、小さな生き物がひょっこり顔を出している。わたしを垂らし込むつぶらな瞳に、トカゲじみた顔つき。珊瑚さんご見紛みまがう小さなエラはウーパールーパーを連想させたが、ぬらぬらした青い美肌と頭部に生えた小さな角が高らかにこう語っていた。

 我こそはりゅうの子である、と。

 かわいい。わたしは愛らしい眼差まなざしに焼かれ、即座に左手を水面に差し入れた。

 天罰をも恐れぬ動物愛が通じたのか、龍の子はみつくでもなく手にすり寄り、金仏かなぶつと知られたわたしのハートを易々やすやすと手玉に取った。その傍ら、鳴り続けていた鈴の音がいよいよ間近に迫ってきた。何事かと耳を傾けると、鈴の音に混じってなにやら呼ぶ声がある。水面にぽつりぽつりと波紋が描かれ、見えぬ慈雨じうが小さな手水舎の中に降り注いだ。驚いたことに、それはわたしを呼ぶ声であった。

 指にからみついていた感触が、ふいに人の手のやわさへと変わった。わたしの意識はつやめいた声に引き寄せられ、すっと見開いたまなこに手を握る天女てんにょが映り込んだ。ほっとしたように雨上がりの笑みを浮かべる彼女の美しさに感化され、鈍っていた頭の中で時計の針が動き出した。同時に突き抜けるような痛みが後頭部に走り、わたしは否応なしに記憶を巻き戻す作業へと追い立てられた。

 事の発端は四時間前――― 例によって、わたしは佐倉氏と行動をともにしていた。

 彼が小遣い稼ぎに始めたセミナー教室は、T駅から伸びる商店通りに並ぶレンタルオフィスの中にあった。ビルのフロント部分は採光さいこうを通り込む総ガラス張りで、吹き抜けたエントランスフロアにはプロヴァンス風のパラソルを備えた屋台カフェが乱立し、上階にも長屋ながや風のブースがひしめく商業フロアや、きざったらしいブルックリンスタイルのシェアオフィスといった設備が完備されていた。

 寺子屋てらこやのような集会所を想像していただけに、佐倉氏の助手という名目でビルの裏口から入ったわたしは、これでもかと打ち出されたこじゃれた雰囲気に委縮いしゅくし、きらびやかな照明やあでやかな女性たちの姿に目を焼かれたりした。

 そんな場所にきな臭い掛け軸と禍々まがまがしい桐箱きりばこを持ち込んだ佐倉氏は、グループワーク向けの少人数制会議室ではなく、泥臭い民俗学では到底集客が見込めないような大会議室に迷い込んでいった。大型スクリーンやホワイトボード、プロジェクターといった付属設備には見慣れていたが、三人掛けの卓上がつらつらと並ぶ室内に収容人数を無視した女性たちが席を埋めると、顔の美醜びしゅうによって隔てられる格差社会に心の中で涙した。

「やっぱり助手がいると、場の雰囲気に気圧けおされずに済んで気が楽ですね」

 一時間半のセミナーを終えると、佐倉氏は回収したアンケート用紙を束ねながら胸をなでおろした。講義中に小話や質疑応答を挟む進行具合は大学の授業と大差ないが、受講者全員が食らいつかんばかりに講師を見つめる異様さは、カエルのつらに水で知られる氏であっても、それなりに気負うようであった。「きみに来てもらえてよかったです。断られた時は最後のとりでを失ったかと泣き崩れる思いでした」

「また大袈裟おおげさな…」資料の配布とプロジェクター係を任命されたわたしは、既視感きしかんが拭えないまま桐箱に掛け軸を戻し入れた。中身たましいがすっかり抜けているとはいえ、阿久津から警告まがいのうんちくを聞かされたあとで同行を決めたのは、佐倉氏が助手欲しさに打ち出した提案に、どこか思い詰めた感があったからだった。

『…もし来てもらえるなら』彼は電話越しに、窓から身を乗り出すわたしに言った。

 それはもう、秘蔵の逸品を出し惜しむような声で。『きみに美しい人を紹介します』

「しょうがないな、今日だけですよ」

 そんな経緯もあり、危険をかえりみずにのこのこついていったわたしである。

 とはいえ、浮き名の一つもない男の口から出た美人の二文字に意表を突かれたのも事実であり、呪われた掛け軸の入った資料箱を抱えたまま、「ここを出る前に、ちょっと買い物を…」と口ごもる姿に益々不信感を募らせた。女性客でにぎわう二階フロアに降り立つ背中は明らかにこわばっており、不審者に続いてネイルサロンや靴修理などの小型ブースが連なる通路を進んでいくと、「そこです」

 佐倉氏は指先から光線でも出すのかという遠距離から場所を特定した。目で辿ると、絵本風の愛らしいスタンド看板に〈鈴のなる樹〉と書かれた店に行き着いた。木製のパーテーションでコの字型に仕切られたブースは、店内が広く見通せるように入り口の脇に窓がついていた。店から遠く離れた場所で立ち往生している不審者を残して近付いていけば、カントリー調のオープンラックや食器棚に商品が並べられた店内が見えた。

 雑貨屋である。「よかったら、お入りになって」

 芯のある透き通った声が店内から聞こえた。見るとブース内の角にある作業机から、太陽のような笑みを浮かべた美しい人がわたしを見ていた。年は三十代半ばほどで、意志の強さを物語る目元はりんと輝き、大きな口元がどことなく人懐ひとなつっこさを感じさせた。

「見ていくのはタダよ。今ちょうどひましてるし、あなたがお店にいてくれると他のお客さんが中に入りやすくなって助かるんだけど」

「喜んで」わたしは心の中で拝し、店内にいそいそと踏み込んだ。

 店はこじんまりとまとまって愛らしかった。色鉛筆を手にしたあるじを代弁するように、食器棚には面出しにされた絵本がずらりと並んでいる。ラックには一点もののマグカップや羊毛ウールで作られた人形たちが鎮座ちんざし、それらの合間から木彫りと思しき手乗りサイズのふくろうたちが「ホウホウ」とわたしを値踏みしている。

 かわいい。「ここにあるのは全部、手作りですか?」

「そうよ。メインはわたしの描いた絵本なんだけど、それだけじゃここのお家賃を払えないから、ついでに雑貨も置くことにしたの。ちなみに、そのふくろうはうちのおじいちゃんが趣味で彫ったものよ。色合いとかポーズが全部違っていてかわいいでしょ?」

「すずねさん」

 一番愛らしいものを見ている後ろから、氏の声が割り込んできた。

 美しい人は変わらぬ笑みを入り口に向けた。「あら、柊平しゅうへいくんじゃない」

 その一言に、山椒さんしょうをぴりりとしのぐ衝撃がほとばしった。

 まさか。「いらっしゃい。そんなところで固まっていないで入ってちょうだい」

「お邪魔します」

 佐倉氏は小汚い資料箱をお守りに進み出ると、保護者よろしくわたしの傍らに立った。女性は挙動不審な様子に構うことなく、気心が知れたように笑いかけた。

「来てくれてうれしいわ。うちの顧客、数えるぐらいしかいないから寂しくって」

「あしげく通えないのが辛いところです」

 あいづちを打つ氏の横顔には、やや思い詰めた感があった。気を取り直したように、「その代わり、今日はぼくのかわいい教え子を連れてきました。今回に限りセミナーの助手をお願いしたんですけど、引き上げる前に買い物をしていこうと思いまして…」

「なぁんだ。珍しく若い男の子が来てくれたと思ったら、そういうことだったのね」女性は気持ちよく笑った。「でも、新しいお客さんは大歓迎よ。はじめまして、お弟子でしさん。自称、絵本作家の〝ちぎらすずね〟と申します」

 彼女がうやうやしく渡してくれた名刺は葉の形をしていた。そこには〈千吉良 鈴音〉とご利益のありそうな語呂が並んでいる。「あまり見ない苗字みょうじですね」

「よく言われるの。もしよかったら、柊平くんみたいに名前で呼んでちょうだい。ちぎらって、なんだか怪獣みたいな響きがして好きになれないのよね」

「お二人はご友人同士ですか」

 わたしは無心を装い、よこしまに佐倉氏を窮地きゅうちに追いやった。水を浴びせられたようにぎょっとする氏をよそに、鈴音さんはやなぎに風と爽やかに一蹴いっしゅうした。

「そんな仰々しいものじゃないわ。柊平くんは、ありがたいお得意さま。うちの雑貨を気に入ってくれて、セミナーの帰りによく寄ってくれるの。それに時々、絵本のネタになりそうな珍しいものも持ってきてくれるから、本当に大助かりで」そういうことか。

 佐倉氏は下心など微塵みじんもないような顔ではにかんだ。

「ぼくは鈴音さんの描く絵本も好きで、足を運ぶうちにすっかりお財布を握られてしまったんです。ただぼくの方も呼び名が女性みたいなので、ついでに名前で呼んでもらっているんですよ」と、横目で射るわたしに取ってつけたようにのたわれた。

 佐倉氏の話を要約すると、彼は前任者からセミナーを引き継いで間もなく妖精の国を発見し、女王の気をくべく、なにかにつけては謁見えっけんの機を得ているということだった。その実、彼がわたしを執拗しつように誘ったのも彼女を訪ねる理由に行き詰っていたからで、佐倉氏は作用机から興味深そうに前傾姿勢を取る鈴音さんの前で桐箱を取り出した。

「今日は秘蔵の逸品を持ってきたんです」

 何度使い回したか知れないうたい文句を皮切りに、氏はセミナーに用いた学識の前口上まえこうじょうをつらつらと挟み、箱を開けずしてぷらりと釣り糸を垂らした。

「もしよかったら、昼食を挟みながらゆっくりを鑑賞してみませんか」

 佐倉氏は裏千家うらせんけの結い紐をほどくでもなく、ぎこちなくそう切り出した。女性を誘い慣れていないのか、はたまたこれまで誘う必要に駆られなかったせいか、耳を真っ赤に染める氏を前に、鈴音さんは迷いあぐねたようにわたしを見やった。高嶺たかねの花が垂らされたえさに食いついていないのは明らかである。また彼女の反応を見るに、けなげに店に通い詰めた佐倉氏が一世一代の大勝負に打って出たことも自明であった。

 わたしはふっと肩の力を抜いた。浮きに使われた若者がしてやれることなど一つしかない。

「この画を見たが最後、目玉が腐り落ちて呪われます。おやめなさい」

 掛け軸の実態を知らない佐倉氏は、驚異的な反射速度でもってわたしを見やった。よもや、愛する教え子に裏切られるとは思ってもみなかったのだろう。わたしからすれば、モテることを前提に生きてきたオスなど、はなから敵である。

 しかし、「え。この中に入ってるのって、呪いの絵なの?」

 ねじけた思いとは裏腹に、鈴音さんは声のトーンを跳ね上げた。

「やだ、本当に? わたし、そういうの大好きなの! もう、それならそうと言ってくれたらいいのに」と、呆気に取られている佐倉氏の腕を親しげに叩く。忠告も空しく彼女が店を閉めると、氏はわたしの悪意を奇をてらった手練てだれの戦術と勘違いし、一階にあるカフェ激戦区にて約束のランチをご馳走してくれた。

「ほら。昔、テレビで放送されて問題になったっていうあれ、知らない?」

 肉汁の詰まった特大のハンバーガーにかぶりつく横で、同じものを食していたはずの鈴音さんは、頼んでもいないのに開眼の生首なる掛け軸について話し始めた。

 彼女の言うことには、そのは幕末の町与力まちよりき ――― 市中しちゅうの治安維持にあたった実在の役人を描いた斬首図で、切り口に本物の血が使われているとか、夜な夜なうめき出すといった不気味な逸話に加え、番組の生放送中に閉じられていた目が開くといった斬新なオプションまで備えているということだった。この血も滴る話題にニコニコ応じていたのは、言うまでもなく下心満載の佐倉氏だけである。

 温度差が埋まらないまま食事を終え、掛け軸はその場でお披露目ひろめされることになった。周囲のテーブル席から白々しらじらしい視線が集まる中、鈴音さんは畏怖いふの入り混じった目で問題の画を眺め、佐倉氏を悩ませた文字にも感心を寄せた。はからずも火蓋ひぶた切ってしまった手前、阿久津から仕入れた禍々まがまがしいうんちくを語って聞かせたが、一方では怪奇民族倶楽部くらぶの手先になり下がってしまった感がいなめなかった。

「顔を隠した鬼に、妖怪文字。今の話が本当だとしたら、すごくロマンチックね!」

 オカルト好きと豪語した通り、鈴音さんはよりどころのない話を甘美に受け止めた。怪民かいみん倶楽部の面々が垂涎すいぜんすること間違いなしの逸材である。夢で享受されたとはとても言えないが、意外なことに、目を爛々らんらんと輝かせる鈴音さんとは別のところで、佐倉氏もまた持論をど返しするオカルト話に関心を寄せたようだった。

「確かに、興味深い話ですね。裏千家の結び目を、きみはそう解きましたか」

「その筋に詳しい知人の話です。とても論文にはできません」わたしは誤解されるより先に釘を刺した。鈴音さんは目くらましに添えられた禅語ぜんごを見ながら歎声たんせいを漏らした。

「見る目によって解釈がひっくり返るなんて、それこそだまし絵ね。この掛け軸が魔除けなのだとしたら、松樹千年翠しょうじゅせんねんのみどりっていうのも、それぐらい長く効力がもつようにって願いが込められていたのかも。そういえば――― 」

 鈴音さんがわたしに目を戻したその時、佐倉氏の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。

 なんとも絶妙な間合いである。彼が断りを入れて席を外すと、鈴音さんは呼び水を逃さんとするように身を乗り出した。

「ねぇ。もしかしてこの掛け軸を見つけた時、あなたなにか見たんじゃない?」

「どうして、そう思うんです?」いきなり核心を突かれ、わたしはぎょっと身を引いた。

 その反応に手応えを得たのか、鈴音さんは、ふふんと得意げに微笑んだ。

「女の洞察力をなめちゃ駄目よ。あなたの話し方、いかにも言いづらいことがあるって感じだったもの。なにを隠しているのか、お姉さんに正直に言ってみなさい」

「いや、実は」蠱惑こわく的な眼差まなざしに焼かれ、わたしは第三倉庫で見た白顔はくがんかいについて打ち明けた。これに、鈴音さんは「すごい…!」と顔の前で手を組むほど喜び、遠くからこちらをうかがっていた佐倉氏を思う存分、不安にさせた。

「さっきの鬼の話といい、あなたにはそういうものを引き寄せちゃう力があるのかもしれないわね」耳を塞ぎたくなることを言って、鈴音さんは腕時計に目を落とすと思い立ったように提案した。「ねぇ。もしよかったら、わたしと少し付き合わない?」

「えっ!」

 驚き様に飛び出した声が重なった。見ると、通話を終えて戻ってきた佐倉氏が、わたし同様、明後日の方向から飛来した隕石メテオに打たれて立ち尽くしていた。

「違う、違う!そういう意味じゃなくて」慌てて両手を突き出し、鈴音さんは真逆の反応を見せる我々にこう切り出した。「二人は〈ものやしろ〉って聞いたことない?」

「ありもの?」

「その界隈かいわいじゃ、そう呼ばれているみたいなの」声をそろえたわたしたちに、鈴音さんは神妙な顔つきで語った。「そこにるのに誰にも見つけられない不思議な神社。それがなんと、このビルがある商店通りのどこかに在るらしいの。というのもね、実はうちのおじいちゃんが若い頃、実際にそこに行ったことがあるっていうのよ」

 佐倉氏は椅子いすに腰かけながら聞いた。「その神社には、なにがあるんですか?」

「幸運を授けてくれる、ありがたい〝ご神水しんすい〟よ」

 鈴音さんは思い出を語るように在りし日を見つめた。

 話の流れはこうである。

 彼女の祖父、善行よしゆきさんは貧困をかて傑出けっしゅつした苦学生だった。近所でも知られた良家の娘に子供の頃から想いを寄せていたが、彼女には親が決めた結婚相手がいる上に当人からもそでにされてしまい、破れかぶれに帰路を辿っていたところに例の神社に迷い込んでしまったという。

 そこは通いなれたはずの道の途中に突如現れたか細い路地の先にあって、鳥居や社がない代わりに何故か清めの手水舎ちょうずやだけがあった。そこで善行さんは、彼女への未練を洗い流そうと手や口をすすぎ、ついでに頭からも水をかぶって苦学生のみぞ知る格差の烙印らくいんに涙した。あまりに塩辛い涙が水面を打つと、彼はいつの間にか元の帰路に立っており、キツネにつままれたような心持ちで数日をすごすことになった。

 すると、ある日の朝。なんと想い人の方から家を訪ねてきて、他ならぬ彼に駆け落ちを持ちかけてきた。というのも、娘が善行さんを袖にした背景には格式を重んずる親の支配があり、彼女は前日に降った雨に打たれた際、悪夢から覚めたように正気に返ったのだと打ち明けた。善行さんは神水で清めた手で娘の手を引き、けがれを取り除いた口で彼女に口づけ、なんやかんやの逃避行をて頭から祝い酒をかぶる運びとなった。

「二人は、そのままゴールイン。千吉良ちぎらはおばあちゃん方の姓で、おじちゃんは婿養子むこようしになったのよ」じんと胸を打たれているわたしたちに、鈴音さんは続けた。「でもその神社に行けたのは一度きりで、街の開発が進んでからは街並みも変わっちゃったし、場所の記憶が曖昧あいまいだから未だに見つけられないでいるの。おじいちゃんが言うには、そこに呼ばれるには〝神様に見初みそめられる素質〟がないと駄目なんですって」

 ――― 自覚はないようだが、きみにはその手のものを引き寄せる力がある。

「素質と言えば、水はすべての情報を転写する鏡と言われていますよね」

 ぶるりとかぶりを振る横で、佐倉氏が感慨かんがい深げに博識を振るった。「実際に、水に向かってかける言葉によって味が変わったり、凍結した際に美しい結晶を作ったりという研究結果が出ているそうです。神域で清められた水を飲むと病気が治ったり運が身に着くと言われるのも、体内を巡る六十五パーセントもの水分に影響を与えるからじゃないかという説があります。でも鈴音さんのおじいさんは、体の一部をみそいだだけで体内には取り入れていない。そこがまた不思議なところなんですよね」と考え込む。

「いい歳してこんな話を信じるなんて、やっぱり馬鹿げてるかしら」

 科学的な見解に尻込んだのか、鈴音さんはわびしさを匂わせた。「実は出版社に自作の絵本を持ち込んでいるんだけど、未だに手応えがなくて自費出版を勧められているの。絵本のコンクールも落選続きだし、誰かに見てもらいたいと思って始めたお店も、家族が趣味で作ってくれた雑貨を置かなかったら一ヵ月ともたなかったわ。今じゃ、なにをやってもうまくいく気がしないの。でも、おじいちゃんを助けてくれたご神水があれば…って、こんなことを考えてる時点で作家になれる素質なんてないのよね」

 鈴音さんは立ち込めた暗雲を払うように自虐的じぎゃくてきな笑みを貼りつけた。「ごめんなさい、こんな話しちゃって。二人ともすごく話しやすい雰囲気だから、つい…」

「いえ、行きましょう!」

 佐倉氏はかぶせる勢いで立ち上がった。まさかと見上げるわたしの前でこぶしをかがげる。「いち民俗学者として、知られざる神社があるという話には大変興味をそそられます。失せもの、古物調査ならお任せ下さい。こう見えて、ぼくはとってもんです!」あなた以外、みんな知っています。

 が非でも辞退を申し出ようかと逡巡しゅんじゅんしたものの、わたしもまた雲間からのぞく晴れやかな笑みに胸を打たれ、結局は佐倉氏の下心に付き合うことに決めた。捜索は鈴音さんが店を閉める十七時からということになり、彼女と一時別れると、氏は民俗学者たるフットワークの軽さを駆使し、街の古地図を求めて市立図書館へと車を走らせた。

「やっぱり、きみを連れてきてよかったです」

 道中、佐倉氏は突拍子もなくわたしに打ち明けた。「ちょっと不思議な話なんですけど、きみと一緒にいるとすごく運が向くんですよ。昨日みたく困ったことがあってもすんなり解決するし、今日もきみがいてくれたお陰で会話が弾みました」

 彼女の気が引けたとは言わないつもりらしい。「いい加減、教え子をだしに使うのはやめて下さい。鈴音さんの話、鵜呑うのみにするんですか?」

「きみが話してくれた鬼法師同様、信じます」

 胸を穿うがつことを言って、佐倉氏は前方を見据えながら教えをさとした。「ぼくは内容の実相じっそうよりも、それを信じている人を信じたいんです。それで馬鹿を見たとしても、大切に想っている人と同じ夢が見られたなら、それだけでめっけものじゃないですか」

 赤心せきしんして人の腹中ふくちゅうに置く。わたしは胸のすく思いで氏の横顔を見つめた。

 めっけものは目付物 と書き、偶然に得た幸運を指す言葉である。在るのか無いのか判然としないものを探そうとする心中には、確かに彼と同じ思いがあるに違いなかった。

 図書館で古地図をコピーしたあと、わたしたちは再びT駅へ戻り、約束の時間が来るまで現地調査をすることにした。当時を知る人たちを探し、鈴音さんの祖父と同じ体験をしたり、問題の手水舎ちょうずやを見たという証言を集めて場所の特定をはかろうという試みである。古地図を手に二手に分かれた時には、すでに日が傾き始めていた。

 結論から言えば、わたしの方に当たりはなかった。どの界隈かいわいで知られているのか、在り物の社について知っている人はおろか、インターネットで検索しても目ぼしい情報はなく、五里霧中ごりむちゅうの状況に右往左往するばかりであった。その筋の専門家に意見をいたいところだが、ランプをこすれば登場する魔人とは違い、わたしを釣りえさに見立てる男にすがれば、それなりの代償を伴う。さてどうしたものかと途方に暮れていると、佐倉氏から電話がかかってきた。『聞いて下さい。耳寄りな情報を手に入れましたよ!』

 疲労を覚えたわたしとは違い、年の離れた彼の声は明朗に届いた。聞けば、開発以前の街に通ずる古老ころうを一体、捕獲したという。鼻息荒く説明されたことには、商店通りに開発のメスが入る前、証言者が酩酊めいていした足取りで帰路を辿っていると、昔ながらの煙草屋たばこやの横にあるはずのない道を見つけたのだという。しかし翌日、酒が抜けた頭でよくよく思い返してみると、その煙草屋自体、ずっと昔に店を畳んでいて存在しておらず、今となってはどこにあったのかも思い出せない、ということだった。

『ね、話だったでしょう? これは一歩、謎の神社に近付きましたね!』

 氏は矛盾むじゅんすることを言ってわたしを混乱させた。愛という目くらましに陥っている男の情熱は冷めることがないらしい。こちらの状況を伝えるとすぐに落ち合おうということになり、佐倉氏が提案した場所に何気なく足を向けた時だった。

『…早くそ…動か…と…が来るぞ』――― え?

 通話口にジジっと雑音が入り混じり、すぐ近くで「ちっ」と舌打ちが聞こえた。直後に首根っこをひっ掴まれ、遠くで危ないと叫ぶ人の声を聞いたのを最後に音が途絶えた。力任せに引き倒された体を起こすと、通りにいた人たちの姿もまた忽然と消えており、秋の斜陽しゃようを受けて輝く白い蛾が一匹、目の前を優雅に飛んでいた。

 阿久津あくつの仕業か。わたしは立ち上がり、痛む尻をさすりながら辺りを見渡した。なにが起こったのかは分からないが、ひとまず小さなガイドを追いかけると、時代に取り残された煙草屋の前に辿り着いた。無人の窓口を唖然と見つめる横では現代を象徴する百貨店が屹立きつりつし、切り取った時間の境目とでもいうべきか細い路地が店の横を走っていた。

 ランプの魔人も気まぐれを起こすことがあるらしい。わたしは「カモン」と指をなびかせるように路地の奥へ消えた蛾を追いかけ、地図から消えた〝ちぐはぐ通り〟に身を入れた。あとに起きたことは、先に述べた通りである。

 記憶が走馬灯そうまとうのように流れていく横では、鈴音さんがわたしの頭をひざに乗せて手を握り締めていた。意識がはっきりしてくると、彼女の傍らに佐倉氏の姿を認めた。

「気が付いてよかった」佐倉氏もまた泣き顔を緩めて安堵あんどのため息をついた。阿久津によって引き倒された体は商店通りの脇を走る路地の中にあり、氏が目撃者から聞いた話では、二階建ての店舗から落とされた植木鉢を避けようとしたわたしが路地に倒れ込み、頭を打って気絶したところに偶然、鈴音さんが居合わせたということだった。

「二人のことが気になって早くお店を閉めてきたの。もう、心配させるんだから」

 鈴音さんは佐倉氏に衆人の離散りさんを任せて微笑んだ。やわい手の感触をみしめる傍ら、わたしはぼんやりする目を驚きざまに見開いた。最初はなにかの見間違いかと思った。

 りゅうの子がすり寄っていた手を握る彼女の手に、美しくほの光る水のかたまりって移るのを見たのである。

 わたしはのだ――― そう思った時、ぽつりとほおしずくがしたたった。それは音もなく天から降りそそぎ、誰かの悲しみをいたむようにあまねく地を濡らしていった。

 予報になかった夕立ゆうだちを不思議そうに見上げる鈴音さんに、わたしはかすれ声で伝えた。

 願いは聞き入れられた、と。

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