現代鬼譚
樒 -shikimi-
第1話 『 夢魔 』
あれは、けだるい暑さが残る初秋のことだった。バイト先からの帰り、ぼうっと考えごとにふけっているうちに帰路をたがえ、そのまま歩き続けて次の道を行くことにした、というのが事の発端である。
大学入学を機に始めた一人暮らしは、交通の便と家賃相場に折り合いをつけ、環境保全を掲げた
わたしが間借りしている築三十年もののアパートも、最寄り駅からこれでもかと離れた小高い丘の上にあった。どちらにせよ坂を登るのだから
道の両端に
心を強く持たねば…コンビニ弁当の入ったビニール袋の
出会い頭にぶつかるということはある。しかし、この時のぶつかり方は異様だった。
角を曲がったら、すぐそこに女の顔があった─── そんな感覚だったのである。
「うわっ…!」
突如躍り出てきた人影に、思わず悲鳴が漏れた。とっさに目を閉じて顔の前で腕を交差させると、ガコン、と派手にむこうずねをテーブルのへりにぶつけた。
それから三日後のことである。
「―――
かき乱した
わたしが通うS大学には民俗文化を扱う文化史学科があり、実習では博物館や資料館に貯蔵された古文書の解読や保存法などの指導を受けている。そこからさらに深み…というよりは、本筋からそれた怪奇民俗倶楽部なるオカルトサークルに属する阿久津は、大学の同期生でなければ、まず知り合うこともなかった
「逢魔が時は一日を十二等分にした
阿久津はむげにあしらうことをせず、その筋の見識に乏しいわたしに辛抱強く続けた。
「この時間帯は日が暮れて薄暗いことから、〝彼そ誰〟、〝誰そ彼〟、〝だれそかれ〟、〝
「遭遇したのは夢の中だ。実際にあった出来事というわけじゃない」
「きみにそれが証明できればの話だろう」
阿久津は画集を閉じて涼やかにわたしを見やった。
「現実がどこに存在し、自分がどこに立っているかなんて誰にも証明できやしないさ。そこいらにいる人間は、自分が見たいものだけを見て帳尻を合わせているにすぎない。だから闇に隠されるんだ」
そう語る彼の姿もまた、窓から差す夕明かりを背に受け、かろうじて表情が見て取れる程度に影をまとっていた。このサークルは活動資金に乏しいのか、資料が雑多と押し込まれたスチール棚が並ぶ室内は、足を踏み入れた時から照明が落ちていた。
「そういうことは専門外だ」
わたしはすげなく返した。サークルの見学と称して来た手前、不気味な夢を見た不安から相談を持ちかけたなどとは悟られたくなかった。
阿久津は見透かしたように、にっと口の
「道理に暗いのが人間のいいところさ。逢魔が時は、大きな
彼がわたしに突きつけた画集の表紙には、
果たして、夢で見た女は物の
推察にふけっていると、阿久津が妙なことを口走った。
「時間と風がぶつかると止まってしまう。その間に〝鬼〟が出るんだ」
鬼?
わたしは画集から顔を上げた。なにかの聞き違いだろうか。
「何故、時間と風がぶつかるなんておかしなことを考える?」
「おかしくはないだろう」と、彼は至って真面目な顔で返す。「すぎゆく時間は前からやってくる。それに対し、後ろから吹きつける追い風は〝逆流する勢い″だ。それら相反するものが衝突すると〝無″が生ずる。普段重なり合うことのない領域が融合し、闇がきみたちを見つける」
不思議なことを言う男だ。わたしはぐっと眉を寄せ、改めて阿久津という男を眺めた。すらりと細身に見えるが、組んだ腕は筋張るほどに力強く、浴衣の
そもそも彼が見ている世界とわたしが見ている世界は違うのかもしれない。「なんにせよ、気を付けることだ」
阿久津はなにかを見越したように瞳を弓なりにした。
「自覚はないようだが、きみにはその手のものを引き寄せる力がある。夢で遭ったものがなんであれ、一度でも縁が結ばれれば、天界から垂らされた
仰々しく言葉を区切り、阿久津は
「きみが救いを求めてぼくを見つけたようにね」――― え?
そこではっと目が覚めた。
わたしは上体を起こし、
わたしは窓からこぼれ落ちる明かりを頼りに、何気なく画集に手を伸ばした。
小さな
何故、こんなものが本の合間に…。
わたしはしげしげと死骸を眺めた。大きさはモンシロチョウほどだが、押し花のように美しい姿のまま時を止め、台座に寝かせておけば今にも飛び立ちそうなほど生き生きとして見える。本に挟まれて死んだのか、はたまた誰かの嫌がらせなのか。奇妙な夢を見たあとではむげに捨てる気にもなれず、わたしは折り畳んだ鼻紙の上にそれを寝かせ、鉱物標本店で購入した
近頃のわたしは、どうにかなってしまったらしい。首からさげた朱色の御守袋をぎゅっと握ると、病的なまでにため息があふれ出た。
視界の
あの夢を見た翌朝は雨が降っていた。傘をさして駅へ向かう道すがら、頭の中では二度とあの道は使うまいと考えていた。ホームに立ち、電車の到来を告げるアナウンスに耳を傾けると、対面のホームに目線が流れた。その際、遠く見える階段のへりから、あからさまに身を乗り出してこちらをうかがう異様な女を見つけたのである。
あれは――― と思う間もなく、シャッと風を裂いて入ってきた電車が視界を遮った。不穏な胸騒ぎに駆られて車内に踏み込んだが、駆け寄った窓から電車を待つ人の列に目を走らせても、それらしい女は見つけられなかった。ホームに降りずして行き先を確かめていただけだったのかもしれない。ただの思いすごしと参考書を取り出し、わたしは間近に迫った小試験に頭を切り替えた。
それ以降は学生が多い場所ですごし、特別目に留まるようなものは見なかった。少しのことでびくびくしている自分が
忙しくしていると時を忘れるのが、わたしの足りないところである。論文の執筆にうなる講師の背に「そろそろ帰りますよ」と追い詰めることを言って、部屋の半数を占めるスチール棚の奥へ収納箱を抱えて入った。その際、流し見た
心臓がどきりと跳ね上がった。急いで目を戻すも木々の緑しか見えない。当たり前だ。
その研究室は二階にあり、窓の外に立つなんてことは不可能なのだから。
なにかを見間違えたに違いない。わたしは自分にそう言い聞かせた。しかし目に見えるものを拒めば拒むほど、遠巻きにこちらをうかがう女の姿を垣間見た気になった。それを夢の産物と無視することは、もはやできなかった。
その翌日も、わたしは行く先々で女の姿を見ることになったのである。
歩道で信号待ちをしている時。大学構内を移動している時。講義を受けている時でさえ、プロジェクターが映し出す写真の中に、あたかも風景の一部として溶け込む人影を見つけて鼓動が跳ね上がった。視界にとらえるのはほんの一瞬で、それは目で探すと見えないのに、こちらが気を緩めた瞬間を狙って必ず視界の端に姿を見せるのだ。
バイトを終えて帰路に着く頃には、すっかり気が滅入っていた。真っ先に家中の
その実、焦っていたというのもある。わたしは気が付いていた。
視界の端にとらえる女の姿が、徐々に近付いてきていることに。
キャンパス内にある図書館は三階から地下二階まであり、どこにいても人の目が届く吹き抜けた構造をしていた。渡りに船と学習グループの中に怪奇民俗倶楽部に所属している者がおり、不気味な女に付きまとわれていると言って話の種にされるのも嫌だったので、それとなくオカルトじみた本の
大きな窓からは秋のわびしい日差しが入り、フロアには利用者がちらほらと見受けられた。ここなら害はないだろうと見越し、その手の伝承や実録に基づく資料を漁って半時ばかし時間を費やした。しかし、これぞと思うものになかなか巡り会えず、退魔という観点から呪術に関する書物に手を伸ばしかけた時、背骨をぞわりと寒気が駆け抜けた。
わたしは導かれるように本を引き抜いた空白に目をやった。すると、棚を挟んだ列のさらに向こう側から、やはり本棚の隙間からこちらを食い入るように見ている血走った目玉を見つけた。のどの奥で衝撃を食い止めたのも束の間、棚を挟んだ向こうの列に学生が横切っていくと、棚の空白から見えたものは幻のように消え失せていた。
もう時間がない。わたしはおぼつかない手つきで呪術本を差し戻した。今のわたしに必要なのは書物から得る学びではなく、その手の知識に富んだ
逃げるようにその場から立ち去りかけた時、わたしが見ている目の前で、それこそ見えぬ手に引き抜かれたように、棚から一冊の書物が床にこぼれ落ちたのだ。
それが、鳥山
あの時は、まさかページの合間に蛾の死骸が挟まっていようなどとは、
とはいえ、阿久津からは少しの知識と警告を受けたにすぎず、翌日も女の気配は絶えずつきまとっていた。気にしなければ目に留まることはないのではないかと心を強くしたものの、ふと気を抜いた瞬間に、それは視界の端から手招くように
情けないことに、もっとも神経をすり減らしたのは便所に行く時だった。大学にいる時は人で込み合うタイミングを見計らい、バイト先でも手早く用を足して長居はしなかった。それがどういうわけか、バイトを終えて帰宅の途に着く中で腹を下し、駅構内にある便所へ駆け込むことになってしまった。
利用者の多い駅であったから、便所を利用する人もちらほら見受けられた。個室で
個室の数が少ないから、はやし立てているのだろう。憐れな仲間意識に急かされる形で個室を出てやると、先程まで感じていた気配は煙のように消え失せ、おまけに個室はどれも空いていた。背筋に冷たい予感が忍び寄り、これはまずいと洗面台の横を通過した際、鏡に薄汚れた女がわたしの傍らに立っているのが見えた。
ぼさぼさに乱れた長い髪と、異様に膨らんだ大きな頭。さっと視界の端に映っただけなので、それがなんなのかは
そこで思いがけない出会いが待っていた。
「いよいよまずいことになっているね」
「…阿久津?」
わたしは消え入りそうな声を押し出した。他人の
彼は動揺するわたしを面白そうに見やり、「鬼のおでましだ」と暗にほのめかした。
「どういうことだ。きみは…どうして、こんなところに?」
夢の産物とは切り出せずに、わたしは浴衣の
それから、すぐに思い至った。「そもそも、きみは誰なんだ?」
「誰というより、〝なにか〟と訊くべきじゃないかな。名前なら知っているだろうに」
「尋ねた覚えがない。きみは学生でもないだろう」
「そもそも学生と名乗った覚えもない」阿久津は涼やかに詰問を
阿久津はキツネみたく目を細めて笑った。どうやら、彼はわたしの顔と鳥山
わたしは賭けに出るような心持ちで切り出した。
「頼む、助けてくれ。もうきみにすがるしかないんだ」
「だろうね。首からさげている安い護符を見た時から分かっていたよ」
呆れたように胸元へ目をやり、阿久津は理解に苦しむといった風に苦い顔をした。
「まったく人間というやつは、何故ここぞという時に大衆向けの魔除けに頼るんだ」
席が空き、わたしは彼の隣に座って改めて事情を説明した。
阿久津は早々に答えを出した。
「そういうものを、人は夢魔と呼んでいたのではないかな」
「むま?」
その筋にうといわたしの頭の中で、ゾウを小さくしたような白黒の生き物が、桃色の
阿久津はそれが見えているように鼻で笑った。
「どうやら、きみには想像力が欠如しているようだね。かの
「
「話がそれたが」阿久津は鼻頭をかいた。「ぼくの言う夢魔とは、夢の中で人間にとり
わたしは
「だから、まずいことになっていると言っただろう」阿久津は平然と返す。「きみが生み出す恐怖心が夢魔に力を与えているんだ。現に先程、きみがもっとも恐れている場所で接近してきただろう。こうなっては手を出してくるのも時間の問題だ」
「どうしたらいい。そもそも、何故こんな目に遭わなければならないんだ?」
「あやかしから見ても、きみはお人好しに見えるんだろう。学業柄、
「まるで食あたりにあったみたいな言い方だな」
「相違あるまい。もっとも、腹を下すのは相手方やもしれんが」
くっくっと皮肉な笑みを漏らし、阿久津は帯に挟んだ
このご時世に
骨董品かと見入るわたしに構わず、阿久津は煙管筒に
鳥山
「きみのような男にも扱える〝式神〟を一体、貸してやろう」
「…式神?」
わたしは豆鉄砲を食らったように目を丸くした。聖獣の次は
「そう気負ってくれるな」阿久津は薄く笑って手のひらに蛾の死骸を載せた。「式神とは術師に仕える鬼神のことだ。思念によって作られたものと、屈服させ使役しているもの、それと
「そいつを使うにさし当たって、注意事項がいくつかある」
キツネにつままれているわたしに、阿久津は淡々と説明した。
「一つは巾着袋に入れた蛾を水に濡らさないこと。
それには自信がない――― と言い切る前に、阿久津は畳みかけるように続けた。
「正体が分からないうちは、追い払うことなどできやしないさ。相手もそれが分かっているから、いじましい手を使うんだろう。今度は目を閉じてくれるなよ」
「ま、待ってくれ!」
ガタン、と車内が揺れて停車駅に止まり、わたしは立ち去ろうとする阿久津を慌てて呼び止めた。「きみは一体、なんだ?」
外に出た阿久津はくるりと振り返り、カンカン帽を手で押さえながら笑った。
「じき分かる」
扉が閉ざされると、立ち尽くすわたしの肩を誰かがとんとん、と叩いた。
「お客さん、終点ですよ」
驚き様に目を開けた先では、点検に回ってきた駅員がわたしを見下ろしていた。いつの間に寝てしまったのか、そこは乗り込んだ駅からそう離れていない乗換え駅だった。
もしかすると、あいつは本当にキツネやもしれん。
地元の駅からコンビニに寄った帰り道、わたしは現実とも夢ともつかない現象に頭を悩ませた。実際どこからどこまでが夢で、今見ているものが現実かどうかの区別さえ
――― 時間と風がぶつかると止まってしまう。その間に鬼が出るんだ。
魔が差すとは、このことである。胸にしまい込んだ恐怖が
路地に連なる石塀の横を歩いていると、猫ほどもある物体が乗っているのが視界の端に映り込んだ。それが女の生首だと気付いた時にはすでに駆け出していた。直接見たわけでもないのに、塀の上から顔だけ出している絵がはっきりと頭によぎったのだ。
わたしは弁当を気にかけるでもなく腕を振り抜き、住宅の明かりが連なる緩やかな坂道に差しかかった。助けを呼ぶ為に必要な蛾の死骸は家の中にある。しかし、アパートまであと少しというところで足が止まった。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、坂の中ほどでもの言わずたたずむ人影を見つけたのである。
〝彼そ誰〟――― 余計な知識が恐怖をあおってくる。それは
二度と通るまいと誓った、二本目の道へ。
まるで悪夢を再現しているような感覚だった。あの時と違うのは息切らして疾走していることと、曲がり角に立つ街灯の明かりが消えていることだった。右手に広がる雑木林が、〝止まれ!〟と叫ぶようにさざめいている。どうして忘れていたのだろう。
その先で女が待ち構えていることを。わたしは引き寄せられたのだ。
一瞬でも冷静にものを考えられたのは、角を曲がる直前に足を止めてくれた
女の手だ。暗がりにあるのに、ひび割れた爪や
わたしはそこからも逃げ出した。すると、白月のように青白いなにかが視界の端をかすめて両目を覆った。
鋭い爪が顔の肉に食い込み、阿久津の忠言が虚しく恐怖に塗りたくられていった。目玉をえぐる気だと分かって抗うも、掴んだ手は恐ろしいほどの怪力を発してわたしを闇の中へ引き込み始めた。
このままでは殺されてしまう。「阿久津っ!」
わたしはのどから恐怖を押し出した。ふいに両目を覆っていた手が外れ、淡い光がひらりと胸元から飛び立った。夢の中で見た、あの白い蛾である。
あいつ、いつの間に…。
おびえているのだ。わたしは余計な考えが潜り込むより先に、勇んで女の腕を掴んだ。
〝今度は目を閉じてくれるなよ〟――― 今こそ、正体を見極める時だ!
「お前は、なんだ!」
わたしは怒りも
そこで見たものは、目鼻が消えた青白い顔にぽこぽこと浮かび上がる無数の〝人面〟だった。
なんだ、これは?
わたしはぞっと息を詰めた。あたかも地獄の釜で
「今すぐ離れんと、きみも食われるぞ」
声がしたと同時に、女の顔が横一線に裂けて大きな口が現れた。
目を見張る間もなかった。食いつかれるより先に首根っこが掴まれ、わたしは手荒に引き倒されて尻を打った。さっと入れ替わるように抜きん出た人影が、カッカッと小気味よく
阿久津。
わたしはすっかり声を抜き取られていた。
わたしは腰を抜かしたまま動くことができなかった。耳を塞ぎたくなる断末魔の叫びはすぐさま途絶え、肉を
驚いたことに、彼の声をしたものは親しげにわたしに呼びかけた。
「ぼくの専門は不浄の気だ。あれにはたんまり死が詰まっていたから、なかなか食べ応えがあったよ」
そして、またげっぷ。顔にかかった血生臭い吐息には生気が抜き取られるほどの威力があった。こみ上げる吐き気をこらえる姿に、物の怪は
わたしは遅まきながら気付いた自分に腹が立って仕方がなかった。
「鬼は、きみの方だったのか…!」
「いかにも」
わたしの問い掛けに、阿久津は涼やかに返した。巨体は見る間に人の大きさまで縮み、水牛のようないかつい角も
カラン、と下駄を蹴って目の前に立った男に、わたしはじわりと目頭を熱くした。
「何故、もっと早く来てくれなかったんだ。あと少しで死ぬところだったんだぞ!」
「だから前もって助けを呼べと言っておいただろう。男のくせに泣くな」
まるで悪意のない顔をして、阿久津はすっと手を差しのべた。それをおそるおそる取ると、信じがたいほどの怪力に助け起こされた。
手が若干、ぬらぬらする。
「ぼくのいる世界ときみのいる世界は違うんだよ」
血濡れた手を見つめるわたしの傍らで、阿久津は血だまりを流し見ながら言った。
「こう見えて制約が多い身でね。誰かに呼ばれない限り、ぼくはこちらへは渡ってこられない。あの女も夢の世界で結んだ縁をつたい、きみの意識に潜り込んでいたんだろう。ひとまず間に合ってよかったよ」にっこり笑う瞳の奥には温情の
意識下に潜り込んでいたというように、惨劇の舞台に目を戻すと、何事もなかったように血だまりが消えていた。阿久津の目が満足そうに輝いているばかりである。
そこへひらりと舞い戻ってきた蛾も、誰が
未だ放心状態のわたしに、彼は出し抜けに言った。
「またうまいものを食わせてくれるというのなら、勇んで
うまいもの?
いぶかるわたしに、阿久津は腕を組んで分かりやすいまでに困り顔を作った。
「いや、なに。悪鬼どもが
「人を
「だからこそ助けがいるんだろう。このご時世、鬼が出るか
訴えを軽くあしらい、阿久津はぽんぽん、と親しげにわたしの肩を叩いた。
「ま、これからもよろしく頼むよ。鳥山くん」
「え?」名を呼ばれたところで、チカッと
今度はなんだ? 思わず目を細めると、「もしもし、大丈夫ですか?」と呼ぶ声があった。手をかざして遮った光の向こうでは、巡回中の警察官二名が懐中電灯片手に顔を覗き込んでいた。むくりと体を起こせば、わたしは女が現れた曲がり角に倒れていた。
果たして、夢魔はどちらだったのだろう。
あの騒動から数日が経ったあとも、御守の中から蛾の死骸が
とはいえ、今でも思うところは多い。
彼は電車の中で、わたしに〝式神を貸してやろう〟と言っていた。しかし実際に助けに現れたのは彼で、以前に飼い主がいたようなことをほのめかしていたところを見ると、式神は阿久津自身だったいうことになるのだ。
大学の図書館で仕入れた
一つは
思い返せば、阿久津は
しかし残忍な一面を考慮するに、彼の正体は過去に悪行を行った霊を屈服させた〝
まったく、妙なものに懐かれたものだ…。
阿久津とのやり取りを思い出しながら、わたしはアパートの窓から見える味気ない景色を眺めた。高台にあるとあって、いくらか眺めがいい。窓の上部から吊るしたままになっている風鈴が、チリン…と季節外れの音色を響かせた。
野良の式神か。鬼も蛇も大して違わないだろうに。
鳥山石燕の画図百鬼夜行を手に、わたしは窓から吹きつける柔い風にふっと呟いた。
「あいつは腹を下さんのか」
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