現代鬼譚

樒 -shikimi-

第1話 『 夢魔 』

 あれは、けだるい暑さが残る初秋のことだった。バイト先からの帰り、ぼうっと考えごとにふけっているうちに帰路をたがえ、そのまま歩き続けて次の道を行くことにした、というのが事の発端である。

 大学入学を機に始めた一人暮らしは、交通の便と家賃相場に折り合いをつけ、環境保全を掲げた山伏やまぶしたちに屈して作られたような田舎町を選んだ。コンビニを含め、小さな駅やスーパーといった文明の象徴は山のふもとへ追いやられ、自然との共存を試みる居住区が険しい山肌に沿ってごっそり建ち並んでいる、といった具合である。

 わたしが間借りしている築三十年もののアパートも、最寄り駅からこれでもかと離れた小高い丘の上にあった。どちらにせよ坂を登るのだから相違そういないと腹をくくったものの、住宅の合間を蛇行だこうする坂道を行くうち、乏しくなるばかりの明かりに自然と足が速まった。二本目に選んだ細道は普段からひと気がなく、夜間には風に乗って電車の音が流れてくるほど静まり返っていた。

 道の両端にのきを連ねていた民家が雑木林に取って代わると、途端に闇に包まれた空き家や石塀いしべいが片側に連なるようになった。心臓破りの急勾配きゅうこうばいを奥に控えた曲がり角には、悪意に満ちた年代物の木柱電灯が一本、ノミの心臓をひとひねりせんと不気味な明かりを夜道に投じている。これは、いよいよまずい雰囲気である。

 心を強く持たねば…コンビニ弁当の入ったビニール袋の手提てさげを強く握りしめ、わたしは歩みを止めることなく勇んで角を曲がった。次の瞬間、ふいに視界が暗くなり、真っ向から長い黒髪を垂らした女が突っ込んできた。

 出会い頭にぶつかるということはある。しかし、この時のぶつかり方は異様だった。

 角を曲がったら、すぐそこに女の顔があった─── そんな感覚だったのである。

「うわっ…!」

 突如躍り出てきた人影に、思わず悲鳴が漏れた。とっさに目を閉じて顔の前で腕を交差させると、ガコン、と派手にむこうずねをテーブルのへりにぶつけた。あしを駆けのぼる痛みに目を覚ませば、部屋の中は夕闇に落ちてすっかり薄暗くなっていた。

 それから三日後のことである。


「――― 逢魔おうまとき、という言葉の由来ゆらいを知っているかい」

 かき乱した蓬髪 ほうはつの下で、阿久津あくつは「いや」と気後れするわたしの反応を見るなり、できの悪い教え子を前にしたような渋面しぶづらを浮かべた。掴みどころのない顔立ちもさることながら、その装いも「怪奇民俗倶楽部くらぶ」の名に恥じぬ黒縞くろしまの浴衣に下駄げたと、これから祭りにでも行くのかと目を疑うものだった。パイプ椅子に腰掛けながらだらしなく組んだあしの上には、教本よろしく読み古された鳥山石燕せきえんの『画図えず百鬼夜行ひゃっきやこう』が載っている。

 わたしが通うS大学には民俗文化を扱う文化史学科があり、実習では博物館や資料館に貯蔵された古文書の解読や保存法などの指導を受けている。そこからさらに深み…というよりは、本筋からそれた怪奇民俗倶楽部なるオカルトサークルに属する阿久津は、大学の同期生でなければ、まず知り合うこともなかった偏執狂へんしゅうきょうの一人だった。

「逢魔が時は一日を十二等分にした時辰じしんのっとると、とりの刻である午後五時から七時までの黄昏時たそがれどきを指している」

 阿久津はむげにあしらうことをせず、その筋の見識に乏しいわたしに辛抱強く続けた。

「この時間帯は日が暮れて薄暗いことから、〝彼そ誰〟、〝誰そ彼〟、〝だれそかれ〟、〝黄昏たそがれ〟と変化したと言われ、暗がりの中で相手を見失うこともあれば、幽霊や妖怪といったあやかしものに遭遇することもある」

「遭遇したのは夢の中だ。実際にあった出来事というわけじゃない」

「きみにそれが証明できればの話だろう」

 阿久津は画集を閉じて涼やかにわたしを見やった。

「現実がどこに存在し、自分がどこに立っているかなんて誰にも証明できやしないさ。そこいらにいる人間は、自分が見たいものだけを見て帳尻を合わせているにすぎない。だから闇に隠されるんだ」

 そう語る彼の姿もまた、窓から差す夕明かりを背に受け、かろうじて表情が見て取れる程度に影をまとっていた。このサークルは活動資金に乏しいのか、資料が雑多と押し込まれたスチール棚が並ぶ室内は、足を踏み入れた時から照明が落ちていた。

「そういうことは専門外だ」

 わたしはすげなく返した。サークルの見学と称して来た手前、不気味な夢を見た不安から相談を持ちかけたなどとは悟られたくなかった。

 阿久津は見透かしたように、にっと口のはしを持ち上げた。

「道理に暗いのが人間のいいところさ。逢魔が時は、大きなわざわいが起こる時という意味で〝大禍時おおまがとき〟と呼ばれることもある。肉体を離れたきみの魂は、それにったんだよ」

 彼がわたしに突きつけた画集の表紙には、火車かしゃや鬼火といった妖怪が描かれていた。

 果たして、夢で見た女は物のたぐいであったのだろうか。そもそも何故あんな夢を見たのか、自分でも不思議でならなかった。元来、夢はあまり見ないたちなのだ。

 推察にふけっていると、阿久津が妙なことを口走った。

「時間と風がぶつかると止まってしまう。その間に〝鬼〟が出るんだ」

 鬼?

 わたしは画集から顔を上げた。なにかの聞き違いだろうか。

「何故、時間と風がぶつかるなんておかしなことを考える?」

「おかしくはないだろう」と、彼は至って真面目な顔で返す。「すぎゆく時間は前からやってくる。それに対し、後ろから吹きつける追い風は〝逆流する勢い″だ。それら相反するものが衝突すると〝無″が生ずる。普段重なり合うことのない領域が融合し、闇がきみたちを見つける」

 不思議なことを言う男だ。わたしはぐっと眉を寄せ、改めて阿久津という男を眺めた。すらりと細身に見えるが、組んだ腕は筋張るほどに力強く、浴衣のすそから嫌味たらしくのぞく長いあしは、立ち上がれば竹串と揶揄やゆされるわたしよりも背が高いことがうかがえた。

 そもそも彼が見ている世界とわたしが見ている世界は違うのかもしれない。「なんにせよ、気を付けることだ」

 阿久津はなにかを見越したように瞳を弓なりにした。

「自覚はないようだが、きみにはその手のものを引き寄せる力がある。夢で遭ったものがなんであれ、一度でも縁が結ばれれば、天界から垂らされた蜘蛛くもの糸を辿るかのごとく、鬼が〝こちら側〟へ渡ってくるとも限らない。そう、例えば…」

 仰々しく言葉を区切り、阿久津は嘲笑あざわらうように白い歯を覗かせた。

「きみが救いを求めてぼくを見つけたようにね」――― え?

 そこではっと目が覚めた。

 わたしは上体を起こし、り固まった肩や首を小気味よく鳴らした。レポートを仕上げる途中でを上げてしまったらしい。日暮らしの音が届く室内は夕闇に染まって薄暗かった。テーブルの上では参考書と辞書が塔を築き、鳥山石燕せきえん画図えず百鬼夜行ひゃっきやこうが広げたノートの上に載っていた。女の夢を見てからというもの、思いすごしというにはあまりに度重なる奇怪な出来事に見舞われ、誰にも相談できない不甲斐ふがいなさから、一念発起とばかりに大学の図書館でこの本を借りたのだ。

 わたしは窓からこぼれ落ちる明かりを頼りに、何気なく画集に手を伸ばした。

 山姥やまんば泥田坊どろたぼう、犬神…ぱらぱら不気味な絵をめくりつつ、夢の中で阿久津と名付けていた男のことを考えた。そんな折、ページの合間からほろりと白い物体がこぼれ落ちた。レポート用紙に白銀の粉が散る。わたしは目を見張った。

 小さな死骸しがいだ。

 何故、こんなものが本の合間に…。

 わたしはしげしげと死骸を眺めた。大きさはモンシロチョウほどだが、押し花のように美しい姿のまま時を止め、台座に寝かせておけば今にも飛び立ちそうなほど生き生きとして見える。本に挟まれて死んだのか、はたまた誰かの嫌がらせなのか。奇妙な夢を見たあとではむげに捨てる気にもなれず、わたしは折り畳んだ鼻紙の上にそれを寝かせ、鉱物標本店で購入した琥珀こはくと並ぶように害の及ばない本棚のへりに置いた。

 近頃のわたしは、どうにかなってしまったらしい。首からさげた朱色の御守袋をぎゅっと握ると、病的なまでにため息があふれ出た。

 視界のはしに人影が映り込むようになったのは、女の夢を見て以降のことだった。


 あの夢を見た翌朝は雨が降っていた。傘をさして駅へ向かう道すがら、頭の中では二度とあの道は使うまいと考えていた。ホームに立ち、電車の到来を告げるアナウンスに耳を傾けると、対面のホームに目線が流れた。その際、遠く見える階段のへりから、あからさまに身を乗り出してこちらをうかがう異様な女を見つけたのである。

 あれは――― と思う間もなく、シャッと風を裂いて入ってきた電車が視界を遮った。不穏な胸騒ぎに駆られて車内に踏み込んだが、駆け寄った窓から電車を待つ人の列に目を走らせても、それらしい女は見つけられなかった。ホームに降りずして行き先を確かめていただけだったのかもしれない。ただの思いすごしと参考書を取り出し、わたしは間近に迫った小試験に頭を切り替えた。

 それ以降は学生が多い場所ですごし、特別目に留まるようなものは見なかった。少しのことでびくびくしている自分がなげかわしかった、というのもある。午後の講義を終え、実習に向けた手伝いと称して研究室の片付けを押しつけられた頃には、夢の記憶も徐々に薄れ始めていた。ふと見上げた壁掛け時計は、早くも十七時に迫ろうとしていた。

 忙しくしていると時を忘れるのが、わたしの足りないところである。論文の執筆にうなる講師の背に「そろそろ帰りますよ」と追い詰めることを言って、部屋の半数を占めるスチール棚の奥へ収納箱を抱えて入った。その際、流し見た縦長たてながの窓の向こうに、傘もささずに立っている女の姿を見たように思った。

 心臓がどきりと跳ね上がった。急いで目を戻すも木々の緑しか見えない。当たり前だ。

 その研究室は二階にあり、窓の外に立つなんてことは不可能なのだから。

 なにかを見間違えたに違いない。わたしは自分にそう言い聞かせた。しかし目に見えるものを拒めば拒むほど、遠巻きにこちらをうかがう女の姿を垣間見た気になった。それを夢の産物と無視することは、もはやできなかった。

 その翌日も、わたしは行く先々で女の姿を見ることになったのである。

 歩道で信号待ちをしている時。大学構内を移動している時。講義を受けている時でさえ、プロジェクターが映し出す写真の中に、あたかも風景の一部として溶け込む人影を見つけて鼓動が跳ね上がった。視界にとらえるのはほんの一瞬で、それは目で探すと見えないのに、こちらが気を緩めた瞬間を狙って必ず視界の端に姿を見せるのだ。

 バイトを終えて帰路に着く頃には、すっかり気が滅入っていた。真っ先に家中の施錠せじょうを確かめて回り、夜遅く布団に潜ると、またあの夢を見るのではないかとおびえた。次の日、疲労を引きずって参加した実地調査は由緒ゆいしょある神社の内観と古文書の閲覧えつらんで、この時ばかりは神の領域にいるとあってか女の姿を見ることはなかった。そこでわたしは朱色の御守を気休めに買い求め、大学へ戻る道すがら再び目につくようになった女の幻影に嫌気がさし、レポート作成の合間にきものに関する書物を探そうと決心したのだ。

 その実、焦っていたというのもある。わたしは気が付いていた。

 視界の端にとらえる女の姿が、徐々に近付いてきていることに。

 キャンパス内にある図書館は三階から地下二階まであり、どこにいても人の目が届く吹き抜けた構造をしていた。渡りに船と学習グループの中に怪奇民俗倶楽部に所属している者がおり、不気味な女に付きまとわれていると言って話の種にされるのも嫌だったので、それとなくオカルトじみた本の配架はいか場所を聞き出して三階へ向かった。

 大きな窓からは秋のわびしい日差しが入り、フロアには利用者がちらほらと見受けられた。ここなら害はないだろうと見越し、その手の伝承や実録に基づく資料を漁って半時ばかし時間を費やした。しかし、これぞと思うものになかなか巡り会えず、退魔という観点から呪術に関する書物に手を伸ばしかけた時、背骨をぞわりと寒気が駆け抜けた。

 わたしは導かれるように本を引き抜いた空白に目をやった。すると、棚を挟んだ列のさらに向こう側から、やはり本棚の隙間からこちらを食い入るように見ている血走った目玉を見つけた。のどの奥で衝撃を食い止めたのも束の間、棚を挟んだ向こうの列に学生が横切っていくと、棚の空白から見えたものは幻のように消え失せていた。

 もう時間がない。わたしはおぼつかない手つきで呪術本を差し戻した。今のわたしに必要なのは書物から得る学びではなく、その手の知識に富んだはらい屋、あるいは神仏の冥加みょうが以外には考えられなかった。その切なる願いが、奇妙な縁を結んだらしい。

 逃げるようにその場から立ち去りかけた時、わたしが見ている目の前で、それこそ見えぬ手に引き抜かれたように、棚から一冊の書物が床にこぼれ落ちたのだ。

 それが、鳥山石燕せきえん画図えず百鬼夜行ひゃっきやこうだった。


 あの時は、まさかページの合間に蛾の死骸が挟まっていようなどとは、つゆほども思わなかった。それが縁で、この世ならざる者の手を借りることになるとも。

 とはいえ、阿久津からは少しの知識と警告を受けたにすぎず、翌日も女の気配は絶えずつきまとっていた。気にしなければ目に留まることはないのではないかと心を強くしたものの、ふと気を抜いた瞬間に、それは視界の端から手招くように木立こだちの合間や電柱の陰などに幻影を残した。わたしはその都度、首からさげてシャツの下に隠している御守袋を握りしめ、これ以上、女との距離が縮まらないことを祈るしかなかった。

 情けないことに、もっとも神経をすり減らしたのは便所に行く時だった。大学にいる時は人で込み合うタイミングを見計らい、バイト先でも手早く用を足して長居はしなかった。それがどういうわけか、バイトを終えて帰宅の途に着く中で腹を下し、駅構内にある便所へ駆け込むことになってしまった。

 利用者の多い駅であったから、便所を利用する人もちらほら見受けられた。個室で熾烈しれつな戦いを繰り広げていくばくかすぎた頃、遠くから流れてくる構内アナウンスに混じって、ドアを挟んだ通路を行き来する足音をとらえた。

 個室の数が少ないから、はやし立てているのだろう。憐れな仲間意識に急かされる形で個室を出てやると、先程まで感じていた気配は煙のように消え失せ、おまけに個室はどれも空いていた。背筋に冷たい予感が忍び寄り、これはまずいと洗面台の横を通過した際、鏡に薄汚れた女がわたしの傍らに立っているのが見えた。

 ぼさぼさに乱れた長い髪と、異様に膨らんだ大きな頭。さっと視界の端に映っただけなので、それがなんなのかは皆目かいもく分からなかった。わたしは一目散に便所を飛び出し、帰宅ラッシュに沸く電車に飛び乗った。

 そこで思いがけない出会いが待っていた。

「いよいよまずいことになっているね」

「…阿久津?」

 わたしは消え入りそうな声を押し出した。他人の空似そらにだろうか。吊り革に掴まれる場所まで移動すると、涼し気なカンカン帽をかぶった阿久津が、やはり悠然と目の前の座席に腰掛けている。これは一体、どういうわけだ?

 彼は動揺するわたしを面白そうに見やり、「鬼のおでましだ」と暗にほのめかした。

「どういうことだ。きみは…どうして、こんなところに?」

 夢の産物とは切り出せずに、わたしは浴衣のそでに腕を入れて組んでいる阿久津をじろじろと眺めた。

 それから、すぐに思い至った。「そもそも、きみは誰なんだ?」

「誰というより、〝なにか〟と訊くべきじゃないかな。名前なら知っているだろうに」

「尋ねた覚えがない。きみは学生でもないだろう」

「そもそも学生と名乗った覚えもない」阿久津は涼やかに詰問を一蹴いっしゅうした。「あの夢の中で、きみはそうであってほしいと思ったものを見ていたにすぎない。この顔を見て〝阿久津〟と名が思い浮かんだのなら、それで十分じゃないか。真名まなは魂に結びつくから、容易に渡せるものではないんだよ。それはきみも同じことさ、〝鳥山とりやま〟くん」

 阿久津はキツネみたく目を細めて笑った。どうやら、彼はわたしの顔と鳥山石燕せきえんを結びつけたらしい。調子が狂うようで、彼の語り口には旧友を前にした時のような親近感が呼び覚まされる。

 わたしは賭けに出るような心持ちで切り出した。

「頼む、助けてくれ。もうきみにすがるしかないんだ」

「だろうね。首からさげている安い護符を見た時から分かっていたよ」

 呆れたように胸元へ目をやり、阿久津は理解に苦しむといった風に苦い顔をした。

「まったく人間というやつは、何故ここぞという時に大衆向けの魔除けに頼るんだ」

 席が空き、わたしは彼の隣に座って改めて事情を説明した。

 阿久津は早々に答えを出した。

「そういうものを、人は夢魔と呼んでいたのではないかな」

「むま?」

 その筋にうといわたしの頭の中で、ゾウを小さくしたような白黒の生き物が、桃色の綿飴わたあめをむしゃむしゃとんでいた。

 阿久津はそれが見えているように鼻で笑った。

「どうやら、きみには想像力が欠如しているようだね。かの葛飾かつしか北斎ほくさい も描いたばくという生き物は、中国伝承の聖獣みたいなものさ。邪を退け悪夢を食べてくれるありがたい存在として知られている。間違っても、きみのような男の夢には出てこないんじゃないかな」一言多い男だ。

河童 かっぱなら夢で見たことがある」と負け戦で臨むと、彼は存外、「へぇ、水神を見るとはすごいな」とこれを真に受けた。河童は水神なのか。

「話がそれたが」阿久津は鼻頭をかいた。「ぼくの言う夢魔とは、夢の中で人間にとりき、恐怖をかてに生きる寄生虫みたいものだ。彼らは宿主が恐れるものに姿を取り、現実世界で実体を得ようと、最後は一宿一飯いっしゅくいっぱんの礼とばかりに宿主の魂を食らうという」

 わたしは顔色がんしょくを失くした。「最悪じゃないか」

「だから、まずいことになっていると言っただろう」阿久津は平然と返す。「きみが生み出す恐怖心が夢魔に力を与えているんだ。現に先程、きみがもっとも恐れている場所で接近してきただろう。こうなっては手を出してくるのも時間の問題だ」

「どうしたらいい。そもそも、何故こんな目に遭わなければならないんだ?」

「あやかしから見ても、きみはお人好しに見えるんだろう。学業柄、われのある古物に接する機会が多いとあらば、その内のどれかがあたったとも考えられる」

「まるで食あたりにあったみたいな言い方だな」

「相違あるまい。もっとも、腹を下すのは相手方やもしれんが」

 くっくっと皮肉な笑みを漏らし、阿久津は帯に挟んだ煙管筒きせるづつに手を伸ばした。

 このご時世に煙管きせるを吹かすとは粋な奴である。よくよく見ると、緒締おじめについているトンボ玉は血のようなザクロ色に照り、象牙と思しき根付けは五つの能面――― 女、老人、神、霊、鬼が重ねて彫られた悪どい代物だった。

 骨董品かと見入るわたしに構わず、阿久津は煙管筒に付随ふずいする革製の煙草たばこ入れを手に取った。前金具まえかなぐの龍を摘まんでふたを開け、中から見覚えのあるものを取り出す。

 鳥山石燕せきえんの本から出てきた、あの死骸である。

「きみのような男にも扱える〝式神〟を一体、貸してやろう」

「…式神?」

 わたしは豆鉄砲を食らったように目を丸くした。聖獣の次は陰陽道おんみょうどうか。

「そう気負ってくれるな」阿久津は薄く笑って手のひらに蛾の死骸を載せた。「式神とは術師に仕える鬼神のことだ。思念によって作られたものと、屈服させ使役しているもの、それと形代かたしろに念を入れたものとがある。いつ何時襲われてもいいように、その巾着袋から安い護符を取り除いて、代わりにこれを入れておきたまえ。助けが必要な時に使いを果たしてくれる。そのあとになにが来るかは、お楽しみだ」

 息吹いぶきを得たように、彼の手からふわりと白い蛾が羽ばたいた。それは銀色に輝く星の粉をまき散らしながら、唖然と見守るわたしの前でふぅっと立ち消えてしまった。

「そいつを使うにさし当たって、注意事項がいくつかある」

 キツネにつままれているわたしに、阿久津は淡々と説明した。

「一つは巾着袋に入れた蛾を水に濡らさないこと。はねが濡れたら飛べなくなる。次に、殺される前に助けを呼ぶこと。命あっての物種と言うだろう。そして一番大事なことは、相手の姿をはっきり見るということだ」

 それには自信がない――― と言い切る前に、阿久津は畳みかけるように続けた。

「正体が分からないうちは、追い払うことなどできやしないさ。相手もそれが分かっているから、いじましい手を使うんだろう。今度は目を閉じてくれるなよ」

「ま、待ってくれ!」

 ガタン、と車内が揺れて停車駅に止まり、わたしは立ち去ろうとする阿久津を慌てて呼び止めた。「きみは一体、なんだ?」

 外に出た阿久津はくるりと振り返り、カンカン帽を手で押さえながら笑った。

「じき分かる」

 扉が閉ざされると、立ち尽くすわたしの肩を誰かがとんとん、と叩いた。

「お客さん、終点ですよ」

 驚き様に目を開けた先では、点検に回ってきた駅員がわたしを見下ろしていた。いつの間に寝てしまったのか、そこは乗り込んだ駅からそう離れていない乗換え駅だった。

 もしかすると、あいつは本当にキツネやもしれん。

 地元の駅からコンビニに寄った帰り道、わたしは現実とも夢ともつかない現象に頭を悩ませた。実際どこからどこまでが夢で、今見ているものが現実かどうかの区別さえ曖昧あいまいになっている。気なしか弁当の入ったビニール袋を持つ手も、格別寒いわけでもないのにこわばっている。人通りのない住宅街を行くうち、遠く離れた遮断器のカンカン音が夜風に乗って背中に吹きつけた。

 ――― 時間と風がぶつかると止まってしまう。その間に鬼が出るんだ。

 魔が差すとは、このことである。胸にしまい込んだ恐怖が夜陰やいんいざなわれ、闇に隠されたすべてのものが息づいている気にさせる。それがよからぬものを引き寄せたらしい。

 路地に連なる石塀の横を歩いていると、猫ほどもある物体が乗っているのが視界の端に映り込んだ。それが女の生首だと気付いた時にはすでに駆け出していた。直接見たわけでもないのに、塀の上から顔だけ出している絵がはっきりと頭によぎったのだ。

 わたしは弁当を気にかけるでもなく腕を振り抜き、住宅の明かりが連なる緩やかな坂道に差しかかった。助けを呼ぶ為に必要な蛾の死骸は家の中にある。しかし、アパートまであと少しというところで足が止まった。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、坂の中ほどでもの言わずたたずむ人影を見つけたのである。

 〝彼そ誰〟――― 余計な知識が恐怖をあおってくる。それはまばたき一つで消え失せると、次の瞬間にはより近い暗がりの中に潜んでいた。わたしの足は意思に反してきびすを返し、理性を呼び覚ます余地もなく別の道へと駈け出していた。

 二度と通るまいと誓った、二本目の道へ。

 まるで悪夢を再現しているような感覚だった。あの時と違うのは息切らして疾走していることと、曲がり角に立つ街灯の明かりが消えていることだった。右手に広がる雑木林が、〝止まれ!〟と叫ぶようにさざめいている。どうして忘れていたのだろう。

 その先で女が待ち構えていることを。わたしは引き寄せられたのだ。

 一瞬でも冷静にものを考えられたのは、角を曲がる直前に足を止めてくれた摩訶まか不思議な力だった。気付くと木々を揺すっていた風の音が不穏に絶え、石塀をなでながら音もなく現れた白い手を見て思考が吹き飛んだ。

 女の手だ。暗がりにあるのに、ひび割れた爪やすすけた腕がはっきり見て取れる。それはぎこちない動作で徐々に姿を現すと、頭を大きく見せている乱れ髪がゆっくり角から覗いた。想像を絶する恐怖に堪忍袋かんにんぶくろ がはち切れた。

 わたしはそこからも逃げ出した。すると、白月のように青白いなにかが視界の端をかすめて両目を覆った。石膏せっこうのように無慈悲で氷のように冷え切った二本の手が、背後からわたしの顔を抑えつけていたのだ。

 鋭い爪が顔の肉に食い込み、阿久津の忠言が虚しく恐怖に塗りたくられていった。目玉をえぐる気だと分かって抗うも、掴んだ手は恐ろしいほどの怪力を発してわたしを闇の中へ引き込み始めた。

 このままでは殺されてしまう。「阿久津っ!」

 わたしはのどから恐怖を押し出した。ふいに両目を覆っていた手が外れ、淡い光がひらりと胸元から飛び立った。夢の中で見た、あの白い蛾である。

 あいつ、いつの間に…。旋回せんかいする蛾の動きに導かれて振り返ると、女が顔の前で腕を交差させ、蛾の発する微弱な光をんで身じろいでいた。

 おびえているのだ。わたしは余計な考えが潜り込むより先に、勇んで女の腕を掴んだ。

 〝今度は目を閉じてくれるなよ〟――― 今こそ、正体を見極める時だ!

「お前は、!」

 わたしは怒りもあらわに、顔を隠している腕を力づくでほどきにかかった。

 そこで見たものは、目鼻が消えた青白い顔にぽこぽこと浮かび上がる無数の〝人面〟だった。

 なんだ、これは?

 わたしはぞっと息を詰めた。あたかも地獄の釜ででられているように、女の顔に浮かび上がる人面はどれも苦悶くもんの表情を浮かべて叫んでいた。

「今すぐ離れんと、きみも食われるぞ」

 声がしたと同時に、女の顔が横一線に裂けて大きな口が現れた。

 目を見張る間もなかった。食いつかれるより先に首根っこが掴まれ、わたしは手荒に引き倒されて尻を打った。さっと入れ替わるように抜きん出た人影が、カッカッと小気味よく下駄げたの歯を鳴らして逃げる女を追う。

 阿久津。

 わたしはすっかり声を抜き取られていた。黒縞くろじま浴衣の下でぼこりと膨らんだ体は、およそ人間離れした長躯ちょうくとともに筋骨隆々きんこつりゅうりゅうとたくましく変容し、ぼさぼさの蓬髪ほうはつから湾曲わんきょくした二本の角が突出した。彼は鋭い爪を生やした手で情け容赦なく女を抑えつけると、なんと血に飢えた獣のごとき残忍さでその肉をむさぼり始めた。

 わたしは腰を抜かしたまま動くことができなかった。耳を塞ぎたくなる断末魔の叫びはすぐさま途絶え、肉をほふり、骨を砕く音が夜のしじまにみずみずしく沈み込んだ。女は手羽先のような手軽さで平らげられ、阿久津だったものは恥じ入るでもなくげっぷを吐き出した。ついでに食後の爪楊枝つまようじ が欲しいのか、血濡れた口元を手の甲で拭いながら、皮と骨ばかりのわたしに向き直って言った。「心配せずとも、生きた人間は食わんよ」

 驚いたことに、彼の声をしたものは親しげにわたしに呼びかけた。

「ぼくの専門は不浄の気だ。あれにはたんまり死が詰まっていたから、なかなか食べ応えがあったよ」

 そして、またげっぷ。顔にかかった血生臭い吐息には生気が抜き取られるほどの威力があった。こみ上げる吐き気をこらえる姿に、物の怪は金色こんじきの瞳を弓なりにせせら笑った。肌は鉄のような色をしているが、眼差まなざしの奥に阿久津の面影がある。

 わたしは遅まきながら気付いた自分に腹が立って仕方がなかった。

「鬼は、きみの方だったのか…!」

「いかにも」

 わたしの問い掛けに、阿久津は涼やかに返した。巨体は見る間に人の大きさまで縮み、水牛のようないかつい角も砂塵さじんと化して消え失せた。

 カラン、と下駄を蹴って目の前に立った男に、わたしはじわりと目頭を熱くした。

「何故、もっと早く来てくれなかったんだ。あと少しで死ぬところだったんだぞ!」

「だから前もって助けを呼べと言っておいただろう。男のくせに泣くな」

 まるで悪意のない顔をして、阿久津はすっと手を差しのべた。それをおそるおそる取ると、信じがたいほどの怪力に助け起こされた。

 手が若干、ぬらぬらする。

「ぼくのいる世界ときみのいる世界は違うんだよ」

 血濡れた手を見つめるわたしの傍らで、阿久津は血だまりを流し見ながら言った。

「こう見えて制約が多い身でね。誰かに呼ばれない限り、ぼくはこちらへは渡ってこられない。あの女も夢の世界で結んだ縁をつたい、きみの意識に潜り込んでいたんだろう。ひとまず間に合ってよかったよ」にっこり笑う瞳の奥には温情の欠片かけらもなかった。

 意識下に潜り込んでいたというように、惨劇の舞台に目を戻すと、何事もなかったように血だまりが消えていた。阿久津の目が満足そうに輝いているばかりである。

 そこへひらりと舞い戻ってきた蛾も、誰があるじか知らしめるように阿久津の周りを旋回し、首からさげた御守の辺りで消えてしまった。まるで化かされている気分である。

 未だ放心状態のわたしに、彼は出し抜けに言った。

「またうまいものを食わせてくれるというのなら、勇んでまいりつかまつろう」

 うまいもの?

 いぶかるわたしに、阿久津は腕を組んで分かりやすいまでに困り顔を作った。

「いや、なに。悪鬼どもが跳梁跋扈ちょうりょうばっこしていた時代には食いぶちに困るなんていうことはなかったんだが、幸か不幸か、ぼくには今食わせてくれる主がいなくてね。しかし、きみはおとりとしてはなかなか見込みがある」

「人をえさみたいに言うな」地獄の煮え湯を飲まされる前に、わたしはにべもなく突っぱねた。「あんなものを相手にしていたのでは、命がいくつあっても足らんわ!」

「だからこそ助けがいるんだろう。このご時世、鬼が出るかじゃが出るか分からんぞ?」

 訴えを軽くあしらい、阿久津はぽんぽん、と親しげにわたしの肩を叩いた。

「ま、これからもよろしく頼むよ。鳥山くん」

「え?」名を呼ばれたところで、チカッとまばゆい光が目を刺した。

 今度はなんだ? 思わず目を細めると、「もしもし、大丈夫ですか?」と呼ぶ声があった。手をかざして遮った光の向こうでは、巡回中の警察官二名が懐中電灯片手に顔を覗き込んでいた。むくりと体を起こせば、わたしは女が現れた曲がり角に倒れていた。


 果たして、夢魔はどちらだったのだろう。

 あの騒動から数日が経ったあとも、御守の中から蛾の死骸が夢幻泡影むげんほうようと消え失せることはなかった。女がぴたりと姿を見せなくなったことを考えると、あの恐ろしい顛末てんまつもまるきり夢というわけではなかったらしい。手元に使い魔がいるうちは、阿久津が持ち掛けてきた申し出も生きていると思った方がいいのだろう。

 とはいえ、今でも思うところは多い。

 彼は電車の中で、わたしに〝式神を貸してやろう〟と言っていた。しかし実際に助けに現れたのは彼で、以前に飼い主がいたようなことをほのめかしていたところを見ると、式神は阿久津自身だったいうことになるのだ。

 大学の図書館で仕入れた浅識せんしきによれば、阿久津の話していた通り、式神というのはざっくり三種類に分類できるということだった。

 一つは形代かたしろで作られる擬人式神。二つ目は、陰陽師の思念で生み出された思業しごう式神。こちらは自ら意思を持って主を補佐するということだったか、場合によっては霊格の高いどこぞの守護者を仕えさせる場合もあると説明書きがあった。

 思い返せば、阿久津はものの域を遥かに超えた知識を持っていた。なにを問うても、手近にある抽斗ひきだしからメモを取り出すような気軽さで答えてくれたし、鼻につく傲慢ごうまんさや挑発まじりの会話の中にも人間らしさがあった。

 しかし残忍な一面を考慮するに、彼の正体は過去に悪行を行った霊を屈服させた〝悪業罰示あくぎょうばっし式神〟というやつではないかとも考えられた。阿久津は地名として知られる一方、悪戸と記載される場合もあり、実際は低地を指す言葉ながら、なんとも語呂が悪い。しかも彼は、涼しい顔をしながらわたしにおとりの素質があると言ってのけた。もしかすると、阿久津は悪鬼が恐怖によって肥えていく様を密かに見守っていたのやもしれん。だとすれば、相当食えぬ輩であることは間違いない。

 まったく、妙なものに懐かれたものだ…。

 阿久津とのやり取りを思い出しながら、わたしはアパートの窓から見える味気ない景色を眺めた。高台にあるとあって、いくらか眺めがいい。窓の上部から吊るしたままになっている風鈴が、チリン…と季節外れの音色を響かせた。

 野良の式神か。鬼も蛇も大して違わないだろうに。

 鳥山石燕の画図百鬼夜行を手に、わたしは窓から吹きつける柔い風にふっと呟いた。

「あいつは腹を下さんのか」

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