第11話 お菓子な半裸
「奥様。ただ今クラッド様は商談中ですので、恐れ入りますがこちらでお待ち下さい」
「わかりました。急に来てごめんなさいね、キリング」
昼食の時間も大幅に過ぎ、そろそろ午後のティータイムになろうかという頃。
到着した私達をアルシュタッド商会事務所の来賓室へ案内してくれたのは、クラッド様腹心の部下であり右腕のキリング=ワズナーという男性だった。
オールバックに流した灰色の髪に、少し垂れ目がちの笑い皺のある目元は上品なのに親しみやすい。日本風に言えば五十過ぎのロマンスグレー素敵紳士といった感じだが、着ているのは商会の秘書制服である。
詰め襟の白いシャツに深緑色のジャケットとズボン。そして商会関係者の証である肘までの簡易ローブを羽織っている。
両腕に銀色のアームバンドをしているので、ローブを外せば銀行員や郵便局員さんにも見えるだろう。
「いいえ奥様。奥様のお可愛らしいお顔が見えてキリングは嬉しゅうございます。特に今日は、いつもより一層お美しくおみえで」
「そ、そう?」
「ええ。クラッド様も大変お喜びになると思いますよ」
キリングが微笑むと、彼の眦に優しい笑い皺が浮かび上がった。笑顔が素敵な紳士とは、まさに彼のような人のことを言うのだろう。
相変わらず気遣いのある人だな、と思う。なんとなく、実家の執事セヴェルに通じる優しさを彼からは感じる気がした。
そういえば、私がクラッド様の妻になるとこの商会へ挨拶に来た時にも、彼は初対面からとても丁寧に接してくれた覚えがある。
「ずっとお待ちしておりました。奥様」と彼に言われた時に、私は初めてクラッド様の妻になったことを実感したのだ。あれからキリングは私が商会に顔を出すたびに、嬉しそうに私を出迎えてくれる。
「エブリン嬢もお会いできて光栄です。お母上も、その後お変わりはございませんか」
キリングが私の後ろに控えていたエブリンに声をかける。
一応屋敷以外では『ザ・侍女!』を貫き通している彼女も、キリングの前では少しだけ力が緩むようだ。
エブリンは糸目の瞳を一度ふっと開いて鮮やかな青い虹彩を覗かせ笑顔を見せた。
彼女がこうして普通に笑うのはとても珍しい事である。キリングさんは彼女の母であるエディナと幼馴染みの間柄だというから、きっと見知った仲ゆえの気安さがあるのだろう。
「ありがとうございますキリングさん。母も元気にしておりますわ。相変わらずロクシアナ様のお世話を楽しんでおります」
「左様ですか。それはようございました」
キリングは満足げに頷いた後、私とエブリンに紅茶とお菓子を用意してくれた。
来賓室に備えられた赤褐色のマホガニーテーブル上には、青い花絵に金彩が施されたカップ&ソーサーが並べられ、二段重ねで猫脚のケーキスタンドやデザート皿がとりどりの菓子を乗せて中央に置かれている。
種類はざっと見ただけでも十数種類。
元の世界知識で言えば、クッキーにケーキ類は勿論のこと、エクレアやブラウニー、ミルフィーユパイにゼリーに果物を挟んだバージョンのマカロンなどもある。さながらホテルのスイーツバイキングだ。
行ったことはないけれど。
正直な所、私は目が幸せだった。
甘いお菓子は大好きだ。前世ではそんな余裕はなかったので、日常食と言えばドラッグストアのセール品で買った栄養ゼリーかバランス食のブロックタイプばかりを食べていたからなおさら。
けれど、美しいお菓子達を眺める私の背後からは今まさに吹雪が吹き荒れていた。
言うまでもなくその主はエブリンだ。
恐る恐る視線を向けると、彼女はまるで雪女のような冷たい表情をして、無言で「お嬢様? そんなボディラインぴったりくっきりなドレス着ておいて、まさかお腹いっぱい食べられるなんて思ってませんわよね?」と語っていた。
そのあまりにも強い脅しに、お菓子に埋め尽くされていた私の思考が停止する。理由は主に恐怖だ。
思わずびくりと震える私に、糸目の侍女がにっこりと恐ろしい笑みを浮かべた。
おかげで脳内のデザート花畑気分が一瞬で吹き飛んでしまった。むしろ枯れた。
私の心に荒野の風が吹きすさぶ。
確かに、彼女が顔面で訴えている通り、今の私の装いはキリングにも褒めて貰えるほどの完璧な淑女スタイルである。商会のカラーに合わせた菫色のドレスはグラデーションになっており、スクエア型に開いた胸元はマダムの指圧で存在感を増した鎖骨と寄せて上げた胸の谷間を強調し、腕から腰のラインに至るまではくびれに生地がぴったり沿うようになっている。そのため上半身はほっそりして見え、上品に広がったAラインのスカート部は繊細な手刺繍と真珠の装飾により艶やかさを演出している。
この姿で思う存分食べたりなんかしたら、お腹がぽっこりになってしまうことは容易に想像できた。
うう……お洒落に我慢はつきものだと知ってはいるけれど……!
お昼を抜いているうえ目の前に楽園があるのにほとんどお預けってこれはどんな拷問だろうかっ。
何より勿体ないという気持ちが強い。せっかくキリングが出してくれたというのに、彼の心遣いを無駄にするのは忍びなかった。
「リイナ様。こちらとこちら、とても美味しそうですわ。今お取りしますね(訳:カロリーも量も少なめに選んでおきますのでそれ以外は食べちゃ駄目です)」
「ありがとうエブリン。本当、どれもとっても美味しそうだわ。あのクリームがたっぷりのったパイなんか特に(訳:そんなご無体な。せめてあと一個くらいおまけしてよこっちはお昼抜いてるんだから。それに作ってくれた人に申し訳無いわよ)」
「果実のゼリーもございますわお嬢様(訳:駄目です。ゼリーまでが限度です。屋敷の者にお持ち帰りするので大丈夫です)」
「そ、そうね、いただくわ……(訳:持ち帰り!? それってどうなのっ!? そこまでして食べちゃ駄目とかエブリンの意地悪っ!泣)」
「それでは奥様もエブリン嬢もどうぞごゆっくりおくつろぎ下さいませ」
私とエブリンが無言の攻防をしている中、キリングは笑顔でそう告げて来賓室を出て行った。
おそらくクラッド様の商談の様子を見に行ってくれたのだろう。
パタンと扉が閉まると同時に、すかさずミニサイズのエクレアを口に放り込もうとしたが、エブリンの『必殺! 真剣白刃取り(フォーク版)』によってあえなく阻止されてしまった。
キリングもいないので思わず舌打ちしたら、ギロリと糸目の侍女に睨まれる。
あああごめんなさいつい。
「お嬢様。舌打ちは駄目です舌打ちは。それに無駄な抵抗はお辞め下さいませ。食欲に負けて当初の目的をお忘れでは?」
「っく……わ、わかってるわ。私もせっかくこれだけ化けた(主に化粧とドレスで)のだからクラッド様に見て欲しいって気持ちはあるのよ。でも……お腹の虫が暴れオウムなんだからしょうがないじゃないっ」
「暴れオウムの意味は存じ上げませんが、もう暫しの辛抱ですから耐えてください。……女磨き、頑張ると仰ったでしょう」
「うう……はい」
糸目のエキゾチック美人が開眼しながら怒る様は中々に恐ろしい。くわっと見開いた目はまるで鬼女のようだ。いえ私の侍女なんですが。あまり敬われている気はしませんね。
しかしエブリンの言うとおり、旦那様の貞操を奪え計画……じゃない、鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス作戦第二弾として、自ら女磨きすることを決意したのだ。今日はひとまず拘ってこなかった化粧とドレスという形から入ったわけだけけれど、今食べてしまったらせっかく綺麗に着付けてくれたマダム・アマゾアナの親切を無駄にすることになってしまう。
それは流石に駄目だと思った。
というわけで、私はエブリンが選んでくれた三つのデザート(大分小さい)だけを食べて我慢した。
うう……目の前にあるのにおあずけとか、かなりの拷問だわ……しかしそれも円満な夫婦生活のため!
二兎を追う者は一兎をも得ず! 忍耐あるのみなのよ!
「……それにしても、クラッド様は商談中だったのはまずかったかしら。予告なく急に来るなんて……差し入れの時もあまり嬉しそうに見えないもの……本当は私に来てほしくないんじゃないかしら」
キリングが去った扉を見つめながら、私は正直な不安を吐露した。
クラッド様と私が結婚してからおよそ一年の時が経つけれど、その間ここには何度か足を運んだことがある。
最初は彼の妻になると関係者への紹介の時。二度目以降は―――私が勝手に、押しかけただけだ。
彼は私が来ると笑顔で出迎えてはくれるものの、すぐさま客室か書斎に私を連れていき他の商会の人間には会わせないようにする。それがとても……なんと言えば良いのか、悲しいというか、寂しいというか。
もしかして、意中の女性がこの商会内にいるのだろうかと思ったけれど、ここはほとんどが男性で、女性と言えば六十近い年配の女性ばかり。以前四十代くらいの綺麗な人が一人いたが、今日は見かけていない。
ただ可能性が無いとは言い切れないにしろ、真面目で紳士なクラッド様のことを考えれば心の浮気といえどありえない気がした。
だけど彼は自ら私を商会に連れてきたのは一度だけ。それがどうにも、心に重く伸し掛かっている。
「その理由については大体察しはついておりますのでご心配無く。むしろ、旦那様が今のお嬢様を目にした時のお顔が見物ですわ」
私が吐露した不安を、エブリンはなぜか問題ないとばかりに受け流した。こちらは真剣に悩んでいるというのに。しかも、彼女はこれから面白いことが起こるような顔で楽しげである。
「……? 何だかよくわからないけど、嫌がられているわけではないってことかしら? だったらいいのだけど……。はあ、クラッド様が私を商会に連れてきてくれないのって、やっぱり私が本当の妻じゃないからなのかしら。形だけだから、一緒に連れて歩きたいと思わないのかも」
「お嬢様、お嬢様のその自己評価が異常なくらい低くいらして鈍感で無意識なところは美点だとは思いますが、過ぎると周りに迷惑かと」
ぼやいていたら、なぜかエブリンに凄く呆れた顔をされてしまった。いや、ほんとうに、もの凄く呆れられている。エブリンの顔の造形が前衛芸術のような状態になるくらいには。って何なの、その顔。
「え、ごめんなさい意味が分からないわ」
「お嬢様、商会に着いた時の、受付の青年を見てどう思われましたか?」
頭を疑問符で埋め尽くしていると、はあ~っと深く長い溜息を吐いたエブリンが唐突な話を始めたのできょとんとする。
また急に何の話だろうか?
受付の青年……? って確か、商会の玄関を入って直ぐのカウンターにいた男子二人組のことね。
一人は焦げ茶の髪で、もう一人は青い髪の。顔は……普通に綺麗系だったような。ちょっと朧気だけど。
受付って日本じゃ女性が多いイメージだったから、男の子なんだなぁって少し意外だったのよね。
確か、前回ここに来た時は四十代くらいの綺麗な女性だった気がしたのだけど。今日はお休みなのだろうか。
「受付の青年? って綺麗な子達だったわよね。前回見た女性じゃなくて男の子になっていて少し驚いたけど。……それがどうしたの?」
「はあ。その程度の印象しか持たれなかったのですね。二人とも、熟した林檎のように真っ赤になってましたのに」
振られた話に乗ったというのに、どうしてかエブリンには再び深~い溜息を吐かれてしまった。だから何なんですか一体。顔なんて赤かったかしら? 普通に元気にはきはき喋ってくれていた気がするけれど。ああ、若干緊張はしてたかしら。私がクラッド様の妻だと名乗ったからだとは思うけど。
「顔が赤かった? 風邪でも引いてたのかしら。クラッド様に会ったら言っておいた方がいいと思う?」
「色々と間違ってますわお嬢様。病ではありませんのでご安心を。ある意味間違いではないかもしれませんが今頃は元気にしてますわ。旦那様にお知らせすると彼らが路頭に迷いかねませんので、この件は口にされないことをお勧めいたします」
「そう? 全然意味が分からないけど……エブリンがそう言うならそうするわ」
「はい。本当に、どこで育て方を間違ったのでしょうかわたしは。まあお嬢様は前世持ちでいらっしゃいますから魂の問題という気もしますが……」
「エブリン何か言った?」
「いえ。それよりお嬢様、誰かこちらに来たようです。顔をお戻し下さい」
よくわからないエブリンの話に首を傾げながら紅茶を飲んでいると、彼女の言った通り扉の向こうから人の足音が聞こえてきた。一瞬クラッド様かと思ったけれど、歩き方の音が彼ではない。
クラッド様は静かに歩く人なので、彼ではこんなどかどかした足音にはならない筈だ。それになんというか、音が重い。大柄な男性の足音、という感じがする。
恐らくその人の声なのだろう豪快な笑い声も響いてきた。大きな声だからか、廊下から部屋の中まで内容が聞こえてくる。
「えらい別嬪さんが来てるって!? キリング水臭いじゃねえか! オレにも合わせろっ!」
「ですからヴェルナー様、その方は……っ」
「勿体付けんじゃねえよ! こちとらもう二ヶ月もご無沙汰なんだぜ!」
がははは、という笑い声と、キリングさんの焦ったような声がして、内容から恐らく商会関係者なのだとわかった。
聞いた事の無い名前だけれど、元々私は商会に差し入れくらいでしか顔を出したことがないので知らなくて当然だ。
クラッド様にとってどういう人なのか不明だが、商会長の妻として下手なことはできないので、慌てて淑女スマイルを貼り付け、エブリンと一緒に来訪者が来るのを待つ。
ちなみに、彼女は私の右後ろすぐ傍に控えている。いつもより少し前に出気味なのは、初対面の人間と接する時の基本位置だからだ。悲しいかな、貴族である以上、出会う人間全てが好意的とは限らないので。
ともあれ、足音と騒々しい声が部屋の前で止まった。素早く二回扉がノックされたかと思うと、案の定こちらが返事をする前に扉が開く。
「っな」
「え?」
ばあん、と両扉を押し開け入ってきたのは、身長百九十以上はあろうかという長身の、そして体格の良い男性だった。
その男性を見た瞬間、エブリンと、私の声が順に飛び出た。滲んでいるのは怒りと驚きだ。
「アンタが噂の別嬪さんか? 二人も居るとは豪勢だなぁ! 商会にこんな美女が来るとは珍しい。クラッド目当てならアイツはもう妻帯者だぞ! 悪い事ぁ言わねえ! 既婚者なんてやめてオレにしとけ!」
「ヴェルナー様……!」
キリングが慌ててがははと笑う男を止めようとするが、仁王立ちして宣言した男は我関せずだ。
だけど私とエブリンは、男性の言った台詞より彼の身なりに呆気に取られていた。
し……!
○ルベスター! スタローン……!?
つい元世界のハリウッドスターの名を内心で叫んでしまった。
だって目の前にいるのは簡単に言えば筋骨隆々の、まさしくボディビル選手のごときマッチョなのだ。
髪は茶色で短く刈り上げられていて、顎には無精髭を生やし、お世辞にも清潔的とは言い難い。が、こめかみにある傷と鋭い目がどこか北の国に住むという野生の黒い大熊を彷彿とさせた。
しかも、一番気になったのは彼の筋肉でも流れの傭兵のような人相の悪さでもなく、その服装だった。
彼は、上半身が裸だったのである。
視界の広い面積を陣取る肌色に、私は目を白黒させた。
「ヴェルナー様! せめて上着を羽織って下さいっ!」
「うっせーぞキリング。……ああ、そうだ。オレの名はヴェルナー・ストーンだ。よろしくな。お嬢さん方」
ヴェルナーと呼ばれた男性は、にかっと笑って言って、私達にこなれたウインクをした。
広い肩、厚い胸板と―――乳首を晒したままで。
ボロボロで所々破れた黒いズボンにブーツだけの姿で。
つまり、ヴェルナーは……半裸であった。
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