第14話 前世の縁


縁、という言葉がある。


読みは「えん」であったり「えにし」であったり「ゆかり」であったりと様々だ。

仏教用語としての「えん」は、広い意味での因果関係を示す。「えにし」は運命的な繋がりや、出会う事が運命つけられているという意味を。

そして「ゆかり」は……過去に関係があった場合を示している。


なら、私と―――クラッド様の場合は、この三つの内どれに当てはまるのだろうか。


「えん」も「ゆかり」も無いと思っていた異世界。

けれどそこには、思いがけない強い繋がりが、隠されていたのかもしれない―――



***



恐い、と心が叫ぶ。

必死に泣き叫んで助けを乞うのに、伸ばした手の先にいる人は私に振り返ってはくれなかった。

閉じられるドア。外の光が帯状になり、そして線状になり、やがて消える。

声にならない声が喉を引き攣らせた時、ふわりと、優しい温もりが私を包んでくれたような―――気がした。


「っ……かあ、さ……っ!?」


息苦しさと、掻いた汗の寝苦しさ、自分の声で目が覚めた。

かっと開いた視界の中、暗がりに、天へと伸ばした自分の手が見える。夢を見ていたらしい。

それも悪夢。

助けてと言ったところで届くはずもないのに、私の手は無意識に伸びていた。

ぱたり、と敷布の上に腕が落ちる。脱力した身体のまま、はっはっと短い息を切らしながら呆然と天井を見上げた。

二度目の夢も、まるであの場所に帰ったようにリアルだった。

ここは異世界。私がいた元の世界ではないというのに。

こんなに立て続けに見るのは何か意味があるのだろうか。正直、考えたくもないけれど。


「よか……った……」


ほっとすると同時に、目尻に涙の痕があることに気付く。

そっと指先で触れてみると、こめかみに向かって流れたそれはまだほんの少し濡れていた。

つい先ほどまで泣いていたのだろう。そう、他人事のように思う。

あまりの恐怖で心が麻痺している気がする。

思い出したくないのに浮かぶ映像には、夕暮れで血色に染まった玄関と、手にした夥しい数のローンの支払い明細書。

そして、誰かが家のドアを叩く音。

玄関に立ち尽くしたまま室内へ振り返って母を見ると、不気味な愛想笑いを浮かべていて。

やがて蹴破られて開いたドアの向こうから、真っ黒で大きな手が伸びてきて―――『真っ黒な人』の口が、厭らしく笑ったのが見えて。いやに生々しい歯茎の肉の色と、黄ばんで隙間の空いた歯だけが目立っていた。

そして畳の部屋に引きずり込まれながら、私は見てしまった。

玄関を出て行く『母』であった人が、壊れた笑みを浮かべていたのを。

あの時私は気付いたのだ。

優しかった頃の記憶という鎖に繋がれたまま、引き摺り生き繋いでも、行き着く先には崩壊しかなかったのだと。

私はあの世界でいつも逃げていた。父がもう戻ってこない事に目を逸らし、母が壊れている事実に無視を決め込んだ。父に捨てられ、今度は自分が母親を捨てる娘という悪者になりたくなくて、被害者を気取っていたのだ。

あんな目にあったのも、現状を打開し未来を、自らの将来を切り開こうとしなかった『代償』だったのかもしれない。


「っ……」


ぶるり、と震える身体を宥めるように、自分で自分の身体を抱き締める。

昔とは違う、薄くない肩、ほどよく肉のある身体。

身も心もぼろぼろになって、過労死する寸前の餓鬼のような身体ではない普通の女としての健康体。今の自分。

あの頃に比べたら、今はどれだけ恵まれていることか。


暫く寝台の上でじっと息を潜めて過ごしていた。だけどふと横に視線をやると、分厚いカーテンの隙間から月光が差しているのが見えて、むくりと起き上がる。

そっと床に足を下ろし、窓際へと歩いて行く。毛足の長いふかふかの絨毯が足裏に心地良い。


「目覚めが悪いったらないわね……」


わざと軽く言って、気持ちを切り替える。


天井まである高い窓に近づき肉厚のカーテンを開けた。

今夜は満月が美しく、普段よりも大きく見えている。そのおかげか室内が月光で一気に明るくなる。


光を体中に浴びながら、過去を振り払うように微笑んでみせる。

相手は窓越しの月しかいないけれど、だからこそ素の自分でいられた。


元の世界の自分を思い出すと、正直やるせないし、視界から焦点が消えてしまいそうになる。

それでも何とか笑顔が作れるのは、あの時寸でのところで助かったからだろう。

最後まで『されなかった』から、私は壊れずに済んだ。

元の世界で住んでいたのは築ウン十年というボロいアパートだった。おかげで壁は薄いし、冷房も暖房も無かったから夏は暑く冬は凍えるほど寒かった。

だけどあの日はその壁の薄さが幸いしたのだ。

隣に住んでいた大学生が運良く在宅しており、私の悲鳴に気付いて通報してくれた。そのおかげで事なきを得た。


前世の母は、電信柱に書かれていた怪しげな賃貸業者にまで手を出してしまっていた。

いわゆる闇金というやつである。


もちろんいくつものローンを抱えている状況の中、そんな十一で利息が増えるような暴利の借金が払えるはずもなく、あの日は取り立てに来た男が返済を迫るついでに娘の身体を味見しようとした、というのが事の詳細だ。職場に何度か変な電話がかかってきていたのは、この男のせいだったと後でわかった。


結局、違法賃貸業者は取り締まり対象のため支払いは免除となり、警察の方からのアドバイスによって私達は自己破産手続きを取ることになった。


まあ、その手続き中に私は過労で亡くなったわけだが。

私が死んだ後、いつの間にか壊れてしまっていた母がどうなったのかはわからない。

恐らく生きていたら施設かどこかに入っているとは思うけど、あの人の壊れぶりに気付かなかったあたり、私も相当精神がやられていたんだろう。何しろ働き詰めだったもので。


「……そういえば、あのお隣さんにお礼も言わずに死んじゃったな」


ふと、隣に住んでいた大学生を思い出す。

私は朝から晩まで働いていたため、顔を合わせたことはほとんどなかった。男の子だということと、長めの黒髪に黒縁眼鏡をかけているくらいの印象しかなかった。そんなだから彼が何年生だったのかも知らない。

挨拶も会釈のみで言葉も交わしたことがなかったけれど、ここぞという時に助けてくれたのは、きちんと感謝を伝えたかったと思う。

当時は警察と仕事と掛け持ちバイト先、そのうえ自己破産手続きで走り回っていたので、結局言い忘れてしまった。

しかも通報してくれたのにも関わらず隣の家の娘が過労死していたとか、後味もかなりよくない。


「悪いことしちゃったなぁ」


うーんと伸びをしつつ、固まっていた身体をほぐす。後悔は届かないけれど、願わくば、あの青年が幸せになってくれていたらいいなと思う。逆恨みされる可能性もあったのに、私を助けてくれたのだから。

あまり故郷を悪く言いたくないが、日本という国は平和でありながら陰では酷く重たいものを抱えていたと思う。国としては治安も良く『安全な国』の内に入るのだろうが、良い意味でも悪い意味でも事なかれ主義で、他人と関わろうとしない部分がある。


直ぐ横で子供が死にかけていても、通報を躊躇うような国でもある。危険を考えれば人としては当たり前だし、私も人のことを言えるような人間ではない。我が身が可愛いのは誰しも同じだ。

だからこそ、彼のような人は貴重だったろう。


もしかすると夢の終わりに感じた温もりは、彼が私に差し伸べてくれた救いの手だったのかもしれない。


「そういえば、少しクラッド様に似ているような……? 顔は眼鏡でわからなかったけれど、雰囲気とか立ち姿とか……」


片手で数える程度にしか見たことがないお隣さんを思い浮かべると、思いのほか夫となった人に似ている気がした。

どちらかというとこのミルヴァナ国は東欧系の顔立ちの人が多いためそのせいかもしれない。

けれど、それとは違い、何と言えばいいのか形容しがたいが纏う空気やふとした面影が似ているように思えた。


クラッド様の綺麗な顔立ちはどちらかといえば中東よりだ。ならば少し位は似ていても不思議はないのかもしれない。確か近年の研究では日本人のDNAの中に中東の遺伝子が含まれていたとか何とか。


「転生があるくらいだもの。異世界に似た人がいても不思議じゃないわよね」


丸い金色の月を見上げながら、自らの身に起った不思議な出来事と、世界の可能性を考える。

私かこうしてリイナ=フォンターナとして転生したのだ。あの世界とこの世界に、類似点があってもおかしくはない。

もしかしたら、あの彼に感謝を伝えたかった私の無念が、クラッド様を引き寄せたのかもしれないだろう。


私がクラッド様を好きになった理由は、まだエブリンにすら話していない。もちろん本人に話すなんてもっての他だ。


だけどもし、伝えられる日がくるのなら―――元の世界で私を助けてくれた、彼の話をいつか、話してみたいと思う。

前世で唯一、救いの手を差し伸べてくれた人の話を、この世界で、救いをくれた人に。


「……よしっ。そのためにも、何とか振り向いてもらうんだからっ!」


私は夕日ではなく月を見上げながら、高く拳を掲げたのであった。

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