第16話 旦那様の秘密 ~クラッドside~

 どれだけ後悔しても。


 時間を巻き戻したいと思っても。


 どうにもならないのだと。


 失って初めて気付くこともあるのだと。

 俺はあの時、心底―――思い知らされた。


***



 大学に入学して初日。


 淡い水色の空に白い綿飴雲が乗り、風が桜の花弁を舞い上げる頃。

 大きなソメイヨシノの咲くバス停で、『彼女』と出会った。


 灰色のリクルートスーツに身を包み、黒い髪を後ろで束ねて薄化粧をしていた姿は当時の俺からはとても『大人』に見えたものだ。


 彼女はバス停に立ったまま、髪に桜の花びらをつけぼんやりと遠くを眺めていた。

 細い肩に掛けたビジネスバックは少しずり落ちスーツのジャケットに皺を作っていた。


 彼女から人間一人分の間を開けて立つ俺は、そんな彼女の横顔になぜか強く目を惹かれた。


 見えているのに見ていない。


 彼女の視線の先には何も無いような気がして、今にも儚く消えてしまいそうな様子に思わず細い腕を取ってしまいそうだった。


 時折吹く風で彼女の頬に髪が落ちる。

 途端感じた色香にどきりとしながら、文庫本を読む振りをしてそっと盗み見を続けた。


 当時の俺は黒縁で分厚い眼鏡を掛けていたけれど、なぜか彼女のことだけは鮮明に見えた。


 自分のすぐ傍に居る大学生がそんなことをしているのにも気付かず、彼女はぼうっと、疲れた瞳でただ見えない景色を見つめ続けていた。


 やがてバスが来て、まるで正気に返るように目に焦点を取り戻すと、彼女は重たい足取りで俺と同じバスに乗った。運転手側の前から三番目に座る彼女を見ながら、俺は反対側の後方席に腰を下ろした。


 バス停が同じということは近くに住んでいる人なんだろうと思った。

 けれど、まさかそれが引っ越したばかりのアパートの隣に住んでいるとはこの時はまだ思っていなかった。


 その日の夜、引っ越しの挨拶に行った時の事を俺は未だにはっきりと覚えている。

 きっと、彼女は忘れてしまっているだろうけど。



「はーい今開けま……あの、どちら様でしょうか……?」


 声の後、開いた扉の隙間のチェーン越しに見えたのは少しの警戒感を含んだ表情だった。


「えと、隣に越してきた九条です」


「え? ああ……昨日引っ越してきたっていう……どうも」


 自己紹介すると同時に警戒が解かれ、チェーンの外れた扉が開いた。

 出てきた彼女がぺこりと頭を下げる。綺麗なつむじが見えた。


 彼女の背は俺よりも大分低かった。恐らく百六十に届くかどうかというところだ。

 小柄で華奢な彼女はスーツを着ている時よりもずっと小さく見えた。


 春先で夜はまだ冷えるからか白いTシャツの上に淡いグレーのパーカーを羽織っていて、丸い襟から覗く首筋が色っぽい。


 ただ、きめ細かい肌が仄かに青白いのが気になった。


「大学生です。よろしくお願いします。あと、これ」


「あ、ご丁寧にどうも……ありがとうございます」


 口早に続きを告げて、押しつけるように引っ越し挨拶の洗剤を渡した。


 こういった礼儀は亡くなった祖母に教わった。両親はとうの昔に飲酒運転の車に轢かれこの世を去り、俺は祖母に育てられたのだ。おかげで、同年代のやつよりやたら古くさいとよく言われていた。


 大学入学の費用と引っ越し費用は祖母の遺産で賄った。育った家は老朽化により手放した為、このボロいアパートに移り住んだのだ。


 家賃が安いからという理由だけで。


 だから、まさか隣の部屋に年若い女性が住んでいるとは、しかもそれが朝バス停で見た彼女だとは思わなかったから、内心とても驚いていた。


「それじゃ……」


「あ、はい。あ、えと、そうだっ」


「?」


 隣に住んでいるのが彼女だという事が嬉しくて、だけどそれを出さないように平静を装って去ろうとした時、彼女が何かに気付いたような声を出した。


 振り返ると、俺を見上げる大きめの丸い瞳と目が合った。


 子犬みたいだ、とふと思う。


 小さくて、ふわふわの、柔らかそうな。

 ポメラニアンとかそんな感じだ。


「ここ、ゴミの収拾かなり早いので……八時半になってるけど、二十分には回収に来ますから、気をつけて下さい」


「……はい。ありがとう、ございます」


「いえ。これからよろしくお願いします」


 彼女はにこっと笑って、それからお辞儀をしてそっと扉を閉めた。

 いくら隣になったといっても、年下の大学生のガキ相手にしては照れてしまうほど丁寧なものだった。


 それから何度も、彼女をバス停で見た。


 アパートでも出入りをする時に挨拶を交わすこともあった。

 ほんの数回だったが。


 日増しに肌の青白さを深めていく彼女には、きっと俺の姿は目に入っていなかっただろうけど。


 大学生活も最初はそこそこ楽しめた。天涯孤独ではあっても、祖母の遺産のおかげでアルバイトする程度でなんとか生活はできたから。


 けれど俺とは反対に、隣の彼女はどんどん困窮していったようだった。


 住んでいたアパートは壁が薄かった。だから、時々彼女の声が壁越しに聞こえていた。

 母親と話す声だったり、独り言だったり、友達と話す声だったり。


 それはこの世で独りになった俺の気持ちを毎日僅かに慰めてくれていた。


 自分の他にも誰かがいるという感覚は、とても温かく、彼女の声がする時間が自然と生活に溶け込んでいた。それは彼女の声がしたら何をしていても手を止め、じっと耳を澄ませてしまうほどで。


 しかし日を追う毎に彼女の顔からは生気が無くなり、色は蒼白になり、元々華奢に見えた身体は目に見えて細くなっていった。


 壁越しに聞こえた彼女の話から、彼女の母親が莫大な借金を作っている事を知った。彼女がそれを肩代わりしていることも。


 母親は彼女に比べると健康そうに見えたが、アパートの通路ですれ違った時もどこか存在の薄い弱々しい印象の人だった。いつも薄ら微笑んでいて、まるで夢の世界に生きているように。


 俺がアパートに移り住んで暫くしてから、彼女をバス停であまり見かけなくなった。

 朝は俺よりも早く出て、帰りはバイトしている俺よりも遅く帰っているようだった。


 恐らく掛け持ちで仕事をしていたのだろうと思う。


 疲れた顔のまま仕事に出る彼女を、何度呼び止めようとしたか知らない。


 だけど俺はガキだった。身よりもなければ金も無い、ただの学生だった。


 彼女に何か差し入れをと考えたこともあった。けれどもし気持ち悪がられたら、彼女に嫌がられたらと思うと恐くて出来なかった。情けないほど臆病だったのだ。


 ある日、ふらついてアパートの階段で手すりに掴まる彼女を見かけた時は、気がつけば走り出していた。だけど部屋から出てきた彼女の母親の顔を見て立ち止まった。


 今彼女に手を差し伸べたところで自分に何が出来るのかと思ったからだ。


 祖母の残り少ない遺産を彼女に渡したところでたかが知れていた。だけどどう言えばいいのか。隣に住んでいる学生に金に困っているかなんて言われて、頷く人がいるだろうかと。


 そうこうしている内に隣から悲鳴が聞こえた。彼女の声だった。

 その頃やたら人相の悪い男が周辺をぶらついているのを思い出した。俺は咄嗟に通報しながら隣に向かった。

 通路に出れば玄関から彼女の母親が姿を見せた所だった。


 母親は、いつもと同じように『薄ら微笑んで』いた。


 部屋に飛び込むと、彼女の上に男がのしかかっていた。俺は泣き叫ぶ彼女に乗る男の襟首を無我夢中で掴み引き剥がし、放り投げた。男はズボンのチャックが空いたまま壁に激突した。

 男から一瞬、彼女に目をやると全身を震わせながら泣いていた。髪も、服も乱れたまま目から焦点を消し、薄く開いた唇から「おかあさん」とか細い声を漏らしていた。

 その姿に、俺の胸が強く痛んだ。そして察した。


 彼女はきっと、薄く微笑みながら出て行く母親の姿を目にしたのだろう、と。


 彼女に着ていたシャツを被せたのと同時に起き上がった男が襲いかかってきて、怒りの形相で俺に「殺してやる」と吠えた。ズボンのポケットからナイフを取り出し切り掛かり、自分はどこの組の人間で、彼女の家にはどれだけの借金があるかなどを声を張り上げ喚いていた。


 部屋の中でなんとかナイフを避け、彼女から男を遠ざけようと考えを巡らせていた時、外からサイレンの音が響いた。

 男は動きを止め、血走った目で心底憎らしげに俺を睨みながら「この落とし前、つけてもらうぞ」と硬い声で言った。

 その声を、俺は遠くに聞いていた。

 目の前で身体を縮め震わせながら泣く彼女を前に呆然としていたからだ。


 そうして、男は現行犯で逮捕され、彼女は警察に保護された。


 後に受けた事情聴取や警察からの説明で、彼女が俺のことを覚えていないことを知った。


 彼女は男に襲われた恐怖のあまり、数分間の記憶を自ら消してしまったようだった。

 良かったと思った。


 忘れられるなら、まだ。自分があの時、間に合ったことも含めて。


 俺は警察に彼女に真実は告げないよう頼んだ。


 心的外傷を負った彼女をこれ以上追い詰めたくなかったからだ。


 警察は彼女に自己破産手続きを勧めたらしく、同時に母親の精神科への通院も助言してくれたらしかった。


 数日後、隣の部屋から彼女が警察の紹介で闇金業者専門の弁護士を紹介してもらったという話が聞こえて、俺は心底安堵した。彼女の声は少しだけ明るくなっていた。


 あの時見た彼女の細くなりすぎた身体も、これでやっと安らげる―――そう、思ったのに。

 

 彼女の声が聞こえた二日後。


 彼女は、塚本理衣奈は……亡くなった。


 過労死だった。

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