第7話 リイナと理衣奈
―――夢を、見ていた気がする。
それはとても、とても―――幸せな―――
「
「……え?」
聞き覚えのある声に目覚めると、ぼんやり薄暗い中に広がる見慣れた古ぼけた天井があった。
雨染みで薄汚れたベニヤ板の光景には、黒く見える人間の頭の影もある。
一瞬夢かと思って目を瞬かせるも、開けた視界に変化は無くて。
一枚一枚がまるでアニメフィルムのように、私の目に順番に映る景色には最初に母の顔が見えた。
その次は母越しに黄色く光る豆電球の明かりだ。
おかげで部屋は薄暗く、今が夜であることがわかる。鈴虫の鳴き声が聞こえるあたり、季節は秋なのだろうか。
笠を被った電球の淡い光りに、私の思考が段々と鮮明さを取り戻していく。
「母さん……何、どうしたの」
「ええとね、それがね……」
むくりと布団から起き上がる私に、母が申し訳なさげに眉尻を下げた。
私は同じく見慣れたその顔から視線を逸らし、後ろにある安っぽい編み目の壁紙に目を向けた。町営住宅でお世辞にも綺麗とは言い難い部屋の壁紙は経年劣化で所々浮き上がり、誰がつけたかも知らない落書きや染みもついている。
申し訳程度の換気扇しかないせいか、台所からは仄かに生ゴミの臭いが漂っていた。
その、懐かしくも吐き気を招く光景に私は、私は自分の心が死んでいくのを感じた。
冷静で冷徹な第三者目線の『私』が冷たい声で告げる。
―――当たり前でしょう? あんなの、夢に決まってるわ。
貴族の令嬢として生きた私の声は、心を凍りつかせるのに十分な威力を発揮した。
ふ、と私の唇に自嘲の笑みが浮かぶ。
そう……そうよね。
そう。
あんなの。夢よね。そりゃ。
まだ薄く靄のかかる頭で、やはりそうだったのかと結論を出す。
あまりにリアルなものだったから、てっきり本当に自分が転生して生まれ変わったのかと思ってしまったけれど、どうやらそれは単なる夢だったらしい。
そりゃそうだ。
日本人の、貧乏なOLである
たとえ母親が今と同じく金銭感覚大崩壊の人であっても、この状況を助けてくれる人が都合良く現れるなんて、ありえないのだ。
ああだけど。すごく……すごくいい夢だった。
母親のロクシアナは母さんとそっくりだったけど、でも今より愛嬌があったし私のことを愛してくれてた。
侍女のエブリンは厳しいけど信頼できる女性で、頼りになって。
そして。
そして私の夫となってくれたクラッド様は―――優しい墨色の瞳を思い出しかけたその時、母さんの声が聞こえた。
「起こしてごめんなさいね理衣奈。あのね……」
「何?」
夢の世界で見た綺麗な人を思い出していたら、暗くじっとりした声に阻まれる。
私は少しだけ眉を顰めながら、内心溜息をつき問い返した。
この人が語尾を濁す時、言われる事は大抵決まっているのだ。
「あのね、今月もね、足りないのよ。生活費。……悪いけど、なんとかならない?」
申し訳無さそうに、控えめに見えてけれど否と言わせないという雰囲気に、嫌な懐かしさを感じる。
ここ最近は金銭の心配が無かったから、余計にそう思ってしまうのだろう。
といっても、それは夢の世界での私のことだけれど。
私はさながら首振り人形のように、機械的に縦に首を動かした。
「わかった。幾ら?」
「五万円……ひとまずあれば」
「そう。じゃあ明日下ろしてくる」
私が了解すると、母は途端に笑顔を浮かべて「起こしてごめんね」と言って部屋を出て行った。
部屋といっても隣にはリビングがあり、母はそこで寝起きをしている。
間を隔てるのは襖一枚。もちろんプライベートなどあるわけが無い。
ただ長距離トラックの運転手である父は一週間に一度しか帰宅しないので、そのおかげで少しは自分の時間が持てている。でなければ、とっくに色々壊れていただろう。今も無事とは言い難いけれど。
母が隣の部屋で動く音がする。
片付けでもしているのか、隠れて買った何かを眺めているのか。それはわからない。
だけど母がまた使い込んだことだけは、わかりたくないけれどわかった。
いい加減にしてよ……。
もう一度布団に横になりながら、深い深い溜息を吐く。
母からお金を出してほしいと言われたのは、これで何度目になるだろうか。きっと数えきれない。
高校時代はまだ良かった。
自分の授業料のこともあったから、子供であるからこそ仕方ないと思えた。
就職しOLとなった今も生活費くらいは入れるべきだと思っているから、月に十万円を家に入れている。
だけど、母に五万円欲しいと言われたのは今月これで二回目だ。
つまりは二十万円。
私の月収を大きく超えている。だからこそ、私は職場に隠れて日雇いのアルバイトをするようになった。
夜の仕事ではないけれど、現金手渡しのグレーゾーンな仕事だからもし役所にバレればここを追い出されることになるだろう。そんなすれすれのところにいるというのに、母は少しもわかってくれない。
普通に考えれば女二人の団地暮らしなら生活費なんてたかが知れている。車を持っているわけでもなし、私はほとんど外に出ており家で過ごしていないので、実質ここに住んでいるのは母一人のようなものだ。
町営住宅の家賃は私のお給料が基準になっているから約四万円ほどだ。食費は一人なら二万もあれば田舎なら事足りるし、水道などの光熱費を合わせたとしても合計十万もかからない。
だというのに、母は毎月足りない足りないと呪文のように唱えている。
お嬢様育ちである母には金銭感覚というものがまるで無いのだ。
いくら教えても、何度家計簿をつけて一週間の生活費を分けて考えてと諭しても、必ず必要なものもそうで無いものも買い込んで、月の途中でお金が無いと私のところにやってくる。
最初は私も何度も言って聞かせたが、言う度狂ったように泣かれては、こちらもほとほと疲れてしまい、今やもう諦めてしまった。父だって私と同じく諦めている。
父は元々仕事で週に一度しか帰ってこないが、それも本当に仕事なのか、それとも他の人のところにいっているのかどうかはわからない。
そのせいか近頃は余計に母の金遣いが荒くなった。
仕事をしても続かず、パートやアルバイトですら三日と経たずに辞めてくる。
お金を取り上げれば娘に虐待されていると隣近所に言いふらし、一度は警察が家にやってきたくらいだった。その時はただの親子喧嘩だと誤魔化すことが出来たけれど、私はもう、お手上げだった。
一度精神科を勧めたら、母に異常者扱いするつもりかとフライパンを投げつけられた。もちろん鉄で出来ているものだ。
私の母は、自分で自分のコントロールができない人なのだ。
そうしてあの人は、私が稼いできたお金を申し訳無さそうに振る舞い、暗に脅しながら奪っていく。
搾取子という言葉があるけれど、自分はまさにそれなのでは、と時々思う。
しかも救いなのか嘆くべきなのか、母には本当に悪気がない。
彼女が散在する理由の全てが家族の為というのが、余計に質が悪かった。
勝手に車のローンを組んできたこともあった。
高級スーツや旅行の費用を予定も無いのに払ってきたこともあった。テレビの通信販売を見ればすぐに電話をしてしまう。定期契約の解除をしたことなんて何度あっただろう。
きっと買い物をしていないと正気でいられない病気なのだと思う。
あの人はいつも、いつも私に「あなたのためにしたことよ?」と言うのだ。私を追い詰めておいて、逃げる余裕すら奪っておいて。
就職した時、私は母を捨てるべきかどうか、本当に迷った。
だけどそうは出来なかった。
子供の頃から今まで、悪い時ばかりでは無かったから、捨てられなかった。
母は料理上手な人で、食パンやアイスクリームを手作りしてくれて、小学生の頃はよく友達に羨ましがられたりもした。記憶もおぼろげな昔は、良い母だったように思う。
けれど母の実家は裕福で、なかば駆け落ち同然で父と結婚したが、母は自分の生活レベルを落とす事が出来なかった。
今は無い毛皮のコートや、大ぶりのサファイアの指輪を父にねだって買ってもらったり、ワニ皮の鞄を重なったローンのせいで買えないと「どうしてよ!」と叫んで泣き喚いたりした。不在がちの父が生活費にと彼女に渡したお金は毎度全部使い切ってしまったし、渡さなければこっそり財布から抜いていくこともあった。
母の極度の無駄遣いのせいで、私は幼少の頃に餓死しかけたこともあったらしい。
その時は父が帰宅してくれたお陰で難を逃れたが、そんなことが起こってすら父は母を見捨てず、今になって捨てるのかと思えば今度は私が同じように母を見捨てられないでいる。
最悪な悪循環だった。
お金が無いと言えば母に泣かれ、詰られ、かといって捨てる事も出来ず、ただひたすら働き続けて。
近頃は立っているだけで視界が揺れて、そろそろ駄目かも知れないなと思っている。
だってもう、疲れてしまった。
もう、いいかと思ってきている。すべてに疲れ果ててしまったのだ。
母さんにお金を渡すのも。泣かれるのも。帰ってこない父さんを待つのも。
家を捨てられない自分の馬鹿さに、呆れるのも。全部。
私は何のために生きているのだろう。誰のために?
どうして生きなければいけないのだろう。こんな生に、意味はあるのだろうか。
無い、と私は思った。生きることに意味なんてない。
ほとんどの人は、生きたいから生きている。だけどもう、私にはそう思えない。
「明日……銀行、いかなきゃ」
メインの仕事のお給料が昨日振り込まれているはずだから、今月はまだ母に渡すお金がある。
だけどこれ以上寄越せと言われたら、私は一体、どうしたらいいのだろう……。
そこまで考えて、ふと墨色の優しい瞳を思い浮かべた。
己が身一代で財を成したというあの人なら……こんな時、どうしただろうか、と。
あの右目を眼帯で覆った、けれど穏やかな左目を持つ夢の世界の私の夫なら。
もしも彼に相談できたなら、何かアドバイスを貰うことができただろうか。
「どうせ夢が覚めるなら、あの人と、本当の夫婦になりたかった……」
呟いた言葉が、古びた部屋に溶けていく。
黄色い電球の明かりが、何を馬鹿なことを、と私を嘲笑っているように思えた。
けれど夢を見たかった。
今のこの塚本理衣奈という疲れ切った女ではなく、異世界の令嬢リイナ=フォンターナであったなら、たとえ母親の問題があったとしても、一抹の希望があったかもしれないのに。
彼を愛し、愛される関係が築けたなら、どれほど幸せだっただろう。
「……なんて。夢はやっぱり、夢よね……」
彼の墨色の髪と瞳を脳裏に浮かべ、じっと見つめる。
もしも本当の夫婦になれていたら、あの眼帯に隠された本当の彼を、見ることもできたのだろうか。
夢の中の私は彼が眼帯を外したところを見たことがない。
きっと優しい顔をしているはずだ。たとえ、どんな傷を負っていたとしても。
彼なら傷などに存在を脅かされたりなんてしない。そんなもの、ただの形で彼自身の価値を何ら落とすものではないのだと。
見せてほしかった。彼自身を。触れたかった。彼自身に。
今の私がとても、とても強く思うのは。
「あの人のこと……もっと知りたかった……」
そう静かな絶望の海に沈むように、私は戻れない夢の世界に思いを馳せながら、布団の中で目を閉じた。
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