第6話 乙女の恋は岩をも砕く


ま、また逃げられた……?


ぽかんと。

開けた口の中が寒かった。ついでに言えば、闇に伸ばした手が夜風によって冷えていく。


開け放たれた扉から出ていったのは我が愛しの(になる予定の)旦那様だ。

クラッド様はワイングラスを牛乳よろしく飲み干すなり、そのまま脱兎のごとく私の前から姿を消してしまった、ということである。


少し冷静になって考えてみよう。私は彼に、栄養剤と称した精力剤(つまり媚薬)を飲ませたはずだ。

本来ならばここで色々と元気になったクラッド様が、妻である私に手を伸ばし、そのまま果たせなかった初夜へと勤しむ展開だったはずである。

けれど、そうはならなかった。彼は私に手を伸ばすどころか、後退してそのまま去って行ってしまったのだ。


やはり薬の効果が薄かったのだろうか。

さすがに意識の混濁が起きるようでは明らかに犯罪になってしまうので、少しそういった気分になる程度の効力に調整しておいたのだけど。無論、エブリンには渋い顔をされてしまったが、私とて一応女性なので、ちゃんとお相手から求められたいという気持ちがあった。

だというのに、クラッド様はそういう気分になるお薬を飲んだ後でも私に手を伸ばすことは無かった……というわけである。

一体、私はどこで分岐を間違ったのだろう? 元の世界のゲーム攻略辞典である○技林ならばその真相がわかるのだろうか。

脱線してしまったが、私はクラッド様にそこまで女性として意識してはもらえない、ということなのだろうか。

いやだろうかも何も、これは決定打な気がする。間違いようがなく。


「お嬢様。思考のドツボに嵌まるのは構いませんが念のため、クラッド様のご様子を見に行かれたほうがよろしいかと存じますが」


ぐるぐると考えながら結論を出していると、いつの間にか横にいたエブリンから淡々とそう進言された。


「……エブリンごめんなさい。今貴女の存在を忘れていたわ」


「いつもの事なので気にしておりません。これは私の予想ですが、恐らく本当にクラッド様は現在入浴されていらっしゃるかと思います。きっと出た頃にはお身体が冷え切っているかと思いますので、よろしければ暖かいスープなどお持ちになればよろしいかと」


「冷え切ってる? どうして?」


私に説明しつつ、先ほど使った鍋をもう一度火に掛けているエブリンは言葉通り既にスープの準備に入っているようだった。冷蔵室から出したのは日本では生姜にあたる根菜類。彼女は他にも身体を温める作用のある赤い調味料なども用意し始めている。確かにクラッド様は「お風呂に行ってくる」とは言っていたけれど、あれはたんに私から逃げる口実だったのではないだろうか。そう思うのに、エブリンはやれやれ、といったように首を横に振った。


「きっと、クラッド様は今頃冷水を頭からかぶっていらっしゃいます。この気温では風邪を引きかねません」


「ええ? でもまだエルフの月(日本では三月)に入ったばっかりよ? あのクラッド様がそんなことするわけないわ」


調理場の戸棚からおろし器を出しながらエブリンは続けた。どういった根拠があるのか、彼女は間違いないと断言している。けれど季節的に冷水をかぶるなどありえない時期なのだ。だから私は驚いてまさか、と反論した。


「そういう時も必要なのです。殿方には」


「そうかしら……? でも、あんな物を飲ませておいて何だけれど、クラッド様は私に触れようともしなかったわ。それなのに私が顔を見せたりして、気分を悪くしないかしら」


「ありえません。むしろ安心されるかと」


とりあえず手伝いを、と作業台にある生姜をおろし器で削っていると、エブリンは至極平坦な口調で葱(見た目は)を高速切断しながらそう答えてくれた。

いまいち意味がわからないが、情報蜘蛛のエブリンのことだ。彼女にだけわかる事情というのがあるのだろう。何しろ前世二十歳で過労死した私は男性についてはほとんど経験が無いもので。


「だけどクラッド様は、あの薬を飲んだ途端に様子がおかしくなったわよね。あれはちゃんと効いていたのかしら。もしかして失敗したとか?」


「それはありません。お嬢様にしては珍しく用法用量を守っておいででしたし、何よりこのエブリンが確認しておりますので間違いは絶対に御座いません」


「それは確かに」


エブリンの言い方が多少引っかかったものの、彼女の言う通りなので私は反論せずに頷いた。

とすると、あのクラッド様の七変化のごとき様子のおかしさは一体何だったのだろうか。


普段はウサギ並みの草食男子に見えたのに、薬を飲まそうとしたら野良の黒猫のように警戒され、かと思えば飲んだ途端に獰猛な獣みたいな目を向けられてしまった。

いつもなら穏やかな墨色の瞳がああも鋭く輝くところなど、彼と出会ってから初めて目にしたくらいだ。

だというのに、最後にはまさに場を脱するウサギみたいに逃げられて。あれは本当に薬の効果なのだろうか。

そうだとしても効力の度合いからいえば、あれもクラッド様の一面なのかもしれない。

男性ってわからない。それが私の正直な感想だった。


ただ一つだけ間違いないのは、彼が私には一切触れようとしなかった、という事実だ。

もしかして『生理的に無理』とかそういう部類なのだろうか。だとしたらとても悲しい。立ち直るのが難しいくらいには辛いかもしれない。


「やっぱり好きな相手じゃないと駄目ってことかしら……」


「確かに『気持ちが伴っていない相手』であれば、中々難しいかもしれませんね」


「そうなのね……」


私の言葉に片眉をくんと上げたエブリンが答える。

何かを含んでいるように聞こえたけれど、思い当たる節はないので再びクラッド様について考えることにした。


気持ち。

気持ちが私に無いからこそ、クラッド様は私に手を出さなかった、ということなのだろう。

ということは、今の私では彼に女性として意識してもらえない、というわけだ。

つまり、クラッド様に好きになってもらわなければ、私は本当の意味で彼の妻にはなれない、ということになる。


だけど、と思う。

どう考えても、大富豪クラスの商人であるクラッド様に私は到底釣り合わないのだ。

持っているのは爵位だけ。いくら妻がいるといっても彼ならば引く手数多だろう。それこそ未婚のお嬢さんから、世間的にはよろしくないが既婚の奥様まで選び放題だ。

そんな中で彼に選ばれたいとなれば、余程綺麗だとか可愛いとか、愛嬌があったりしないと無理だろう。

と、そこまで考えたところでふと気付いた。

だったら、磨けば良いのではないかと。


思い返してみれば、私はこの世界で一応淑女としての生活を送ってはいるものの、自分磨きなどを積極的に行ってきたわけではない。身だしなみには気をつけているけれど、いわばそれだけだ。あとは平凡な容姿に平凡な体型といった、ごくごく平凡な全体像なのである。

ならば当たって砕けろではないけれど、やらないよりはマシな気がするので自分磨きなどをするべきではないだろうか。


あのクラッド様に、振り向いてもらいたいと思うのならば。


「―――よし。決めたわエブリン。私明日から『良い女』になるための自分磨きをするわ」


「はあ。またお嬢様は極端な考え方を……いいでしょう。どういったものか、聞かせていただけますか」


エブリンが湧いたお鍋の中に私がおろした生姜の削り汁を入れながら、溜息交じりに言った。

なぜそんな微妙に嫌そうな顔をしているのだろうか彼女は。これでもちゃんと考えて出した結論だというのに。それほど眉を顰めなくとも。と少しだけ不満に思いつつ、私はエブリンに次の計画を話して聞かせた。


「つまりはね。気持ちが伴ってないのに力押ししようとするから駄目なのだと思うの。なら自分の魅力を上げて、プラス手助けとして薬を導入すればいいと思うのよ」


「結局薬には頼るんですねお嬢様」


「だって……私単独じゃクラッド様に手を出してもらえる自信が無いんだもの」


正論で返された私は肩を落としてエブリンに言い訳をした。

どれだけ女磨きをしたところで、私の場合土台が土台である。やったところでペンペン草がかろうじてたんぽぽぽになれるかどうか、といった程度だろう。そうするとやはり、他のものに頼らざるを得ない。

願うなら、今よりも顔が美しく、体型も華奢かつ色気を増してくれたらと思うが、そこまで難しいと自分でわかっている。それにあのクラッド様が、外見だけの女性に惹かれるとは到底思えない。


女性として、人として、私は私を磨く必要があるのだろう。

そんな何もかも足りていない私に、エブリンはどうしてか「はあ〜っ」と長過ぎるため息を吐き出して、それからふ、とどこか悪戯っぽい微笑を浮かべた。


「お嬢様。正直なのは結構ですが、挑む前から負け越しでは勝てる戦も負けてしまいます。とりあえず、栄養剤と称した催淫剤は暫くお預けです。良くてもフェロモン香水程度ですね。お嬢様の自分磨きについては……まあ賛成しても良いでしょう。あの方の焦った顔というのも一度拝見したいですし」


「焦った顔……? 意味がわからないけど、エブリンが了承してくれるなら私にも二言は無いわ。明日から『旦那様の貞操を奪え』計画……じゃなくて、ホトトギス計画の第二弾開始よ!」


ふん! と私が拳を固く握り締め決意表明をした時にはちょうど、白い湯気がたつスープが出来上がっていた。エブリンはそれを手早くスープ皿に入れると、銀のお盆にのせて私に渡してくれる。


「かしこまりましたお嬢様。では、今日はひとまずこれを旦那様にお持ちになって下さい。明日からは心機一転頑張りましょう。……恋する乙女は岩をも砕くと申しますものね」


それから、満面の笑顔で私に言った。


「なっ!? えええエブリン貴女ななな何のことっ!?」


不意打ちされて思わず慌ててとぼけたら、まるでチェシャ猫のようなにんまり笑顔が侍女の顔に浮かんだ。

正直言ってかなり怖い。ただでさえ調理場の証明は落としているのだ。あまりの怖さに私はお盆のスープを落としてしまいそうになった。


「隠しても無駄も大無駄ですよリイナお嬢様。バレバレどころか駄々漏れです。むしろ振りまいておりますわ。ファージが磨いたワイングラスよりもクリアですお嬢様。……旦那様、クラッド様に惹かれておいでなのでしょう?」


「うっ……」


それ以上は言わないで、と私が視線で訴えるのも無視して、エブリンは夜の調理場で歌うように暴露してしまった。今の私の気持ちそのままを。彼女の指摘に図星を突かれた私は、恥ずかしさのあまり顔が沸騰しそうになってしまう。まるで今持っているスープのように。

そんな私を見て、エブリンはおかしくてたまらない、といった風にほくそ笑んだ。


「あらあらまあまあ。何慌てていらっしゃるんですかお嬢様。スープが零れてしまうじゃありませんか。もし床を汚したらアーノルドに叱られますのでご自分で後始末なさってくださいましね」


赤面しながら慌てる私に、エブリンが留めの言葉を投げてくる。なんて無慈悲な侍女だろうか。

ちなみにファージというのは調理場担当の若い青年である。食器磨きはアーノルドの教えによって職人の域に達しているという調理師より食器師になりつつある青年だ。アーノルドが彼に一体どういうスパルタ教育をしているのかは、恐いのであまり知りたくない。


「エブリン……! わ、私はせっかく良い人に嫁げたんだから出来ればこの結婚を良いものにできればクラッド様も私も幸せかなって思っただけで……!」


「まあお嬢様ったら誤魔化すのが下手過ぎますわ。それこそ臍で茶を沸かすほどには失笑ものですわ」


私の苦し紛れの言い訳を聞いたエブリンは鼻ではっ、と笑い飛ばしてから片手でぱんっと自分のお腹を豪快に叩いた。見た目はエキゾチック美女なのに、時々仕草が飲み屋のおじさんのようである。


「エヴリン貴女って時々どぎついわよね……」


「何か仰いましたかお嬢様」


ああ言えばこう言われる。前世の記憶が蘇る以前から彼女に口で勝てた試しは無いが、今日ほどコテンパンにやられた日も無かったように思う。それにそろそろ私の心が持たないので、仕方なく白旗を上げることにした。


「私の負けよエブリン……。そりゃクラッド様の事は好ましいと思ってるわ。だって家を助けてくれたし、あのお母様でも許してくれてるもの。あまり会えない割には、私のことだって気に掛けてくれてる。もしチャンスがあるのなら、あの人とちゃんとした夫婦になりたいって思うわ」


「こちらとしてはお嬢様がそう思うようになった一番のきっかけを教えていただきたいところですが」


「それはまだ許して頂戴っ!」


白旗を上げて完全降参したというのに、まだ特攻してこようとする有能な侍女に、流石の私も待ったをかける。このまま言い合っていてはせっかくのスープが冷めてしまう。なのでこの辺りで切り上げましょうという意思表示だ。決して逃げているわけではない。決して。


「……仕方がないですね。ではそろそろ旦那様も禊がお済みになった頃でしょうし、そちらお持ちになって下さい。その後は寝室へお戻りを。残りの後片付けを済ませたらわたしも休ませていただきます」


こちらの意図を組んでくれたエブリンが苦笑しながら肩を竦めて許してくれた。私はほっとしながら彼女に笑顔を返す。


「ええ。今夜はありがとうエブリン。おやすみなさい」


「おやすみなさいお嬢様。良い夢を」


強制恋バナを諦めてくれたエブリンは、顔を普段のものに戻し(あの笑顔すごく恐かった)通常モードでてきぱきと後片付けを始めた。私は彼女に軽く膝を折ってから、逃げたウサギ……ではなくクラッド様の部屋へ行くため調理場を後にした。


「……これでは旦那様も前途多難ですわね……」


私が居なくなった調理場でエブリンがそう呟いていた事など、もちろん私が知る由も無く。


結局、出来上がったスープをクラッド様のところに持っていった時には、彼はもういつも通りに戻っていて、私が持ってきたスープに少し驚いた顔を見せた後、嬉しそうに全部飲み干して、それから再び商会の事務所に戻っていってしまったのでした。


……一体どっちが家なのかしら。

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