第5話 旦那様の貞操を奪え
「リイナ……? それにエブリンも。こんな夜遅くに、二人とも一体何を」
調理場に現れたおよそ一ヶ月ぶりのクラッド様は、眼帯に隠れていないほうの目を僅かに開いて、驚いた表情で私達を見つめていた。じっとしていると物々しいとすら言える装いの彼が、そのせいか一気に幼く見える。
「く」
「く?」
思いがけない人の登場で固まっていた私の時間と口が、勝手に動いた。
「クラッド様っ……!! なんてタイミングの良……じゃない、ええと、クラッド様の方こそどうなさったのですか? こちらにお帰りになるなんて、何かあったのでしょうか?」
思わずエブリンにするように話しかけそうになって、慌てて取り繕った私は、ここ一ヶ月ほど姿を見ていなかった夫に正直な疑問をぶつけた。
だってそうなのだ。彼と私がまともに会話をしたのが今からちょうど三十日前、つまり一ヶ月前のこと。
その間、クラッド様は仕事場である商会で朝昼、夜も過ごされていて、私と会うことが無かったのである。
なので彼の来訪は、予想外すぎるほど予想外のものだった。
「え? ああ、それは」
捲し立てるように言う私に押されたのかクラッド様は目を白黒させていた。
彼は外見は精悍な男性だが、実のところ物腰穏やかな草食系青年である。たとえるならばウサギ並の静かさで、私が話し始めると基本は聞き手に回ってくれるのだ。
かといって返事をしてくれないわけではない。初夜自体は放置されたけれど、会話自体はきちんとしてくれるので私としては大変助かっている。
けれどどうして彼がここにいるのだろうか? 確かにここは彼の屋敷で住居なのだが、普段ほとんど帰らないし、エブリンからも今日はいつものごとく商会の事務所に泊まると聞いていたというのに。
そもそも一ヶ月前に会ったのだって、たんに私が一方的に彼の仕事場である商会へ差し入れと称して押しかけただけである。
まあ、媚薬クッキングをしている最中に乱入されなくて幸いだったといえばそうなのだが。
臭いは少し残っているけれど、調理具の片付けもすでに終わっている。
「クラッド様とは知らず、大変失礼をいたしました」
「いや。僕の方こそ突然すまなかった」
エブリンがクラッド様に頭を下げると、彼は気にしないでという風に片手を振った。
どうやら今夜の帰宅についてはエブリンですら知り得なかったことらしい。
『情報蜘蛛のエブリン』の異名を取る彼女にしては、珍しいミスである。
いつもなら、クラッド様が帰る時は絶対に前もって知らせてくれているからだ。
私が着飾る時間が必要だからと、かなり早くから情報を掴み準備に勤しんでくれる。少しでも、私がクラッド様の気を引けるようにと。
理由はそうでもしないとクラッド様がほとんど本宅へ帰ってこないからである。
きっと私に女性としての魅力を感じないからなのだろうけど、たぶん理由はそれだけではない……気がする。今はまだわからないけれど。
そんな私の胸中を知ってか、クラッド様が凛々しい黒眉をしょんぼりと下げた。
「その……中々こちらに帰って来られなくてすまないリイナ。今日実は、部屋に資料を取りに来たんだ。てっきり君は眠っていると思っていたんだけど……部屋にいなかったから……」
「そうでしたか」
クラッド様は私を見ながら申し訳なさそうな顔でもごもごと、なぜか目線を逸らして説明してくれた。
声が尻すぼみで少々聞き取りずらかったものの、言葉の意味は理解できた。
クラッド様は商人という仕事柄、多くの資料や商品見本などに目を通している。それはもう膨大な量であり、各地方の街や商会から送られてくるそれらは事務所だけでは収まりきらず、現在は自宅の書斎にも塔のごとく積み上げられている有様なのだ。そういった状況のため、彼は時々必要なものをこうして取りに来ているのだ。
毎回思うのは、誰か遣いを寄越せば良いのになぜ自分で行き来しているのだろう、ということだ。
回数はそれほど多くはないけれど、移動が面倒ではないのかなと思う時がある。
まあおかげで私は彼に時々、本当に時々ではあれ会うことが叶っているのだが。
クラッド様に会えたことで、思わず口元が緩んでしまう私は我ながら単純だと思う。
嬉しいのは、彼が私の顔を見たくないほど嫌っているわけではない、ということだろうか。
抱きたいとは思っていなくとも、少なくともある程度は大切に思ってくれているようにも感じる。
こうして会話をしてくれるうえ、会えはせずとも手紙を送ってくれることもある。
彼の私への振る舞いは紳士で、言葉遣いも丁寧だ。だからこそ希望を持ってしまうのだろう。
この人のことを、もっと知りたい、できるならば心を通じ合わせたいと。
あんな物を作ってしまうほどには。
と、クラッド様について考えたところでふと気がつく。
彼は今私が寝ているとわかっていて見に行ったと言ったことを。
会って話したいと思ってくれたのだろうか。なのに不在にしてしまったことが悔やまれる。
「資料でしたら、ご連絡いただければ遅くともお届けしましたのに。それに、部屋にもいらしてくださったなんて。不在で申し訳ありませんでした」
「い、いや、気にしないでくれ……ところで、君達はこんな時間に調理場で何をしていたんだい?」
僅かに首を傾げたクラッド様は、私と―――隣でずっと成り行きを見守っていたエブリンとを交互に見た。
それに咄嗟にエブリンへと視線を向けた。すると見慣れた糸目とばちりと目が合う。
私とエブリンは今世で子供の頃からの付き合いである。
互いに互いの考えることなど、たとえ言葉にせずともよく分かっていた。
よって、私達は視線だけで思いを通じ合わせた。言い方は少しおかしいが。
ともあれ和訳するとこうである。
『エブリン、この際だからもういっちゃっていいかしら?』
『もちろんですわお嬢様。これこそ飛んで火に入るなんとやらでございます』
『私が教えたそれ覚えててくれたのね』
『当たり前です。さあお嬢様、お早く』
『わかったわ』
以上、長年の付き合いさえあれば、一瞬でしかも視線のみでこの会話をする事が可能なのである。
つうと言えば、かあななのである。わからない良い子は辞書で調べてみると少しだけ賢くなれます。
というわけで私は早速『旦那様の貞操を奪え』計画を始動させることにした。
もう名前が変わっている気がするけれど置いておく。
「こほん、実はですねクラッド様、私とエブリンはその……日頃お忙しいクラッド様に少しでも楽になっていただきたくて、疲労回復の栄養剤を作ってみたのです。これを飲めば色んなところがたちどころに元気になるそうですから、ぜひ飲んでいただきたいと……!」
「え、栄養剤……?」
エブリンが、そっと青汁色したヘドロ状液体の入ったワイングラスを渡してくれる。
グラスはひんやりとして、中身もちょうどよく冷えていた。おかげで先程よりは臭いが軽減されている。まさに良い塩梅、といった具合だ。
クラッド様が来てくれたおかげで持っていく手間が省けたのはきっと私の日頃の行いのおかげだろう。
恐らく昨年の秋に罠にかかったカーバンクルを助けたのが勝因だ。
私は内心でそっとカーバンクルに礼を告げた。
そうして、やや怪訝な顔をしているクラッド様にワイングラスを片手にずい、と迫ったところーーーなぜか一瞬びくっとされたうえ、怯えるように一歩後ろに下がられてしまった。
あら。
どうして逃げるのでしょうか。
「クラッド様……?」
名を呼び彼の様子を窺うが、なにぶん身長差があるのと調理場の明りを少なくしているせいで表情がよく見えない。
微妙に目元が赤い気もするけれど、着ているローブに縫い留められた宝石が反射しているだけのようにも見える。
「あ、ええと、リイナ。栄養剤を作ってくれたんだね、どうもありがとう。その、色んなところっていう説明は少し気になるけど……気遣いはとても嬉しいよ。ただこれ……すごい色してるけど、だ、大丈夫かい?」
私が首をほぼ真上に向けているのを気にしてか、クラッド様は少し屈んで目線を低くしてくれた。おかげで彼の顔がよく見える。ただ、一歩離れた距離はそのままだ。これはやはり警戒されているのだろうか。
なんだか中々懐かない野良の黒猫を手なずけようとしているような気分である。
僅かに開けられた距離についそう思った。
まあしかし、クラッド様が戸惑うのも無理はない。なんといっても、見た目のインパクトが凄いのだ。冷えたおかげで臭いもマシになっているとはいえ、まともな神経を持った人間なら絶対に口にしたくない代物だろう。だがしかし、日本には良薬口に苦しという言葉がある。
それでごまかせば何とかならないだろうか。ではなく、きちんと『説明』すれば彼も納得してくれるだろう。そうであってほしい。
そう思って、私はエブリンと二人で用意しておいた文言を彼に伝えることにした。
「クラッド様、私が貴方に悪いものをお出しするわけがございません。良く効くお薬ほど口には苦く感じると申します。それに、こちらの効能は滋養強壮をはじめ、新陳代謝の促進、精力増強など良いものばかりなのですよ。材料の新鮮さについても、エブリンのお墨付きでございます」
かなり長い文章ではあったけれど、私はここまで息継ぎすることなく一気に言い切った。心は無心で、なおかつ薬局でお薬を貰う時に見た薬剤師さんの口調を真似てみたのだけど、クラッド様はいまいち信じきれないのか私の顔とワイングラスをちらちらと見比べてばかりいる。
戸惑っているのが手に取るようにわかるけれど、草食系な彼ならあと少し押せば何とかなりそうだ。
「せい……? いや、その、やっぱり見た目が……」
「クラッド様。見た目で人を判断してはいけません」
「いや、人っていうかこれ一応お薬だよねリイナ……」
押し問答を繰り返すも、中々クラッド様は首を縦に振ってくださらない。思っていたより強情……というより慎重な彼の性格は私にとっては好ましいけれど、今この場では正直よろしくない。むしろ飲んでくれなければどうすればわからない。この人と、もう少し近づくために私にはこれが必要なのだ。
だから、最終手段に出ることにした。
「クラッド様も商人ならばおわかりの筈です。珍妙な見た目の物ほど、秘めたる価値を持っているのだと。それとも……やはり私が作ったお薬など、口にするのはお嫌ですか……?」
今度は私の言葉が尻すぼみになっていく。
まあ正直、クラッド様が嫌がるのも無理はないのだ。
たとえ身体に良かろうが何であろうが、滅多に会おうとすら思わない妻に勧められたところで、こんな見た目にも絶対に不味そうな代物を飲みたいと思うわけがない。つまり彼の反応は正常だ。
おかしいのはきっと私。こんな愚かなことまでして、彼と少しでも関わりを持ちたいと願ってしまう私なのだ。だって彼は、私を助けてくれた人だから。
卑怯だとわかっていて、押して駄目なら引いてみろ、の体で言ってみた言葉だったのに、自分でダメージを受けてしまう私は大馬鹿だ。自らの行いを棚に上げている自覚はあるけれど、たとえどんな理由であれ疑われたり拒否されるのは辛い。
だけど、本当に嬉しかったのだ。
前世のみならず転生してまで親のおかげで借財だらけになり、首も回らなくなった私に手を差し伸べてくれた彼の行動が。
彼自身と実際に会うまでは、てっきり爵位目当ての打算まみれな男だろうと思っていたのに。
顔を合わせてみれば紳士で丁寧で、私に対しても決して蔑むようなことはせず、面倒な実家の母まで援助してくれて、何不自由無い生活をさせてくれている。時々でも会話を交わし、様子を聞いて気にかけてさえくれる。
そんな人が夫になってくれて、どうして何も思わずにいられるだろう。
好意を持つのは私にとって自然な成り行きだった。これが恋だとか愛だとかいう感情なのかはわからない。
けれどせっかく夫婦という間柄になったのだから、この縁を、大切にしたいと思ったのだ。
たとえ真実愛してもらえずとも、彼にとって良い妻に、良い結婚になるようにと。
けれどやはり無理なのかもしれない。この一年、私からでなければまともに顔すら合わせてもらえなかったのだ。彼の方からは、今夜のように仕事に関した何事かがあるついでだけ。所詮、その程度の間柄でしかないのかもしれない。貴族という肩書だけを持った、ただの置物のように。
「ち、違う! 嫌だなどとは……思っていないよ! そ、その、ありがとうリイナ。せっかくだからいただくよ」
「……え!?」
私ががっくりと肩を落とした瞬間、クラッド様はなぜか慌てた素振りで口早にそう言うと、私の手にあったワイングラスをまるでひったくるみたいに奪い取っていた。あまりの早さについ呆気にとられてしまった私は、ぽかんとした顔でクラッド様とワイングラスを交互に見てしまう。
「ほ、本当によろしいんですかっ?」
「ああ。……じゃあ、いただきます」
半ば諦めた声でクラッド様が言って、そしてそのまま、牛乳をがぶ飲みするみたいに、青汁色したヘドロ液をぐいっとあおり、飲み干した。さ、流石に一気飲みとは思わなかったので私も、ずっと気配を殺して成り行きを見ていたエブリンもつい「え」と声を零してしまう。
クラッド様の度胸に脱帽である。ただ正直いえば少し心配だった。
何しろあの色と臭いだ。下手をすれば戻してしまうかもしれない。
そう思って、彼の顔を覗き込んだところ―――
「っ」
「……クラッド様?」
からん、と。
ワイングラスが調理場の床に転がった。そしてそのまま、からからと音を立てながら、石畳の床を転がっていく。精霊結晶の粉末でコーティングされているグラスだからか、割れてはいない。
けれど。
「えっ!?」
「~~~~~っ!」
驚く私達の前で、クラッド様の身体がふらりと揺らいだ。私は咄嗟に彼を抱き留めようと両手を伸ばし、その身体を受け止めようとしてーーー
「リイナっ!!」
「はいっ!?」
突然大きな声で名を呼ばれ、条件反射で返事をした。もちろん両手は差し出したまま固まっている。
クラッド様はよろめいたものの、なんとか自分の足で踏ん張って倒れるのを阻止していた。
しかしその表情は苦しげで、眉を顰め瞳は潤み、頬はやや赤く上気してすらいる。
彼は右手で胸元を掻きむしるように掴み、僅かに肩を震わせながらじっと私を見据えていた。
少し呼吸が荒い気がするが大丈夫なのだろうか。そう心配になり彼の目を見ると、墨色の瞳の奥に見たことのないどろりとした熱が覗いた気がして、私の胸がどくりと波打つ。
「く、クラッド様……?」
強い視線に身が焼かれてしまうような気がした。どきどき騒ぐ心臓が煩い。
クラッド様の顔はさきほどとは打って変わって妙な色気を放ち、私に向いている左目は、爛々と輝きまるで肉を食らわんとする獣のようだ。その迫力とでも言おうか、空気が少し恐ろしくて私は一歩、後ろに引いた。
クラッド様のこの様子は一体どうしたことなのだろう。それを考え始めたところで、彼が吐息を零すように話し始めた。
「リイナ、この、薬……」
そこまで言われて、まずい、と私の頭が警鐘を鳴らした。クラッド様の身体は今明らかに異変を起こしている。そしてその原因となったのは、どう考えても私が飲ませたワイングラスの液体だ。
もしかして、ばれてしまったのだろうか。
クラッド様の強い眼差しに緊張感が走る。私は背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
そんな私の前から、クラッド様はなぜか、二歩、三歩と後退って行く。
そうして、彼がぎゅっと一度目を瞑ったと思った瞬間。
「ごめんリイナ!! ちょっとお風呂行ってくる!!!!」
と。
まるで叫ぶみたいにそう言って、クラッド様はいつかの初夜のようにくるりと綺麗に背を向けて、まるで脱兎の如く、私の前から姿を消した。
「く、クラッド様!」
「あらあら……」
調理場には、またまた取り残された私と、その後ろで呆れ声を出す、エブリンだけが取り残されたのであった。
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