第19話 効果は抜群だ
「お帰りなさいませ」
両手でドレスを持ち上げ、腰を落とし淑女の礼をとる。
私の背後ではエブリンが同様の仕草をしていた。
しかし、彼女はいつもより『少し』遠くに立っている。
「起きていたんだ。出迎えてくれてありがとう。夜中に悪かったね」
首元から膝下までを覆う濃紫のローブを揺らめかせ、屋敷の主であるクラッド様は左目をふっと優しく細めた。
少し長めの黒髪が、彼の涼しげな目元に影を落とす。
それを見ながら私は、右目の眼帯は恐ろしげに見えるけれど、クラッド様の表情にはどこか憂いがあるなと思った。
彼の場合、微笑んでいても不思議と悲しげに見えるのだ。
本人は恐らく無意識なのだろう。
クラッド様自身のことについて、ほとんど本人から聞いたことはないけれど、誰しも過去というものは持っている。きっと彼にも何か抱えるものがあるのだろう。私も然りで。
そもそも彼は片目だろう前髪が長かろうが顔が良いのだ。
顔が良いは正義である。断固としてそれは言いたい。
「お気になさらないでください。妻として当然のことですから」
普段は別居状態に近いのだし、労働基準法などフル無視した深夜帰宅であろうが会えただけでも上々、と思いつつにっこり微笑むと、クラッド様は「そ、そう」とやや詰まり気味に返事をしてくれた。
顔が明後日を向いているのが少し残念だ。
目元が少し赤い気がするけれど……気のせいだろう。
クラッド様は会話は普通にしてくれるものの、時々こうして私から視線を逸らすことがある。
人と目を合わせるのが苦手なのかと最初は思っていたけれど、エブリンや商会でキリングなどと会話しているのを見る限りそうでもなさそうなので、どうやらこれは私限定のようだ。
彼は時々私に対して、まるで野生動物みたいに警戒というか、怯えているようにすら時には見える。
なのに時々見られているというか、こちらが気にしていない時に限ってじっと見ていたりもするから不思議だ。
不思議すぎて、もしかして嫌われてはいないのでは? だったらもしかしてもしかするのでは?
なんて希望を持ってしまうのだ。我ながら現金だとは思うけれど。
なので、少々姑息ではあるが、少しでも興味を持ってくれるといいなと思いつつ、私はクラッド様に数歩近づいた。
「……リイナ?」
普段よりは近い距離にまで間を詰めれば、彼が「え?」と少し戸惑った表情を浮かべる。
はいはい気のせいですよ気にしないでくださいね。
下心なんてこれっぽっちもありますから!
「クラッド様、お疲れでしょう。何か夜食などお部屋にご用意いたしましょうか?」
にっこり、いつもより近い距離感を無視してすぐ目の前に立ち問い掛ければ、珍しくじっと私を見下ろしたクラッド様がごくりと息を呑んだ気配がした。
きっと私の態度を訝しんでいるのだろう。
素知らぬふりして、こてりと首を傾げ、お返事は? と促してみる。
「書斎と寝室、どちらがよろしいでしょう?」
「え……あ、ああ、そうだね。まだ仕事が残っているから、書斎、に」
ややしどろもどろなクラッド様の返事を聞いた私は笑顔のまま頷いた。
うんうん。しっかり呼吸してくださいねクラッド様。
そしてちゃんと香ってくださいなメイド・イン・私、なフェロモン香水さん!
「かしこまりました。エブリン」
「はい。すぐに」
私が呼ぶと同時にエブリンはすぐさま厨房の方へと下がっていった。
この館の主人が帰宅する時は大抵深夜であるため、普段から軽食等の用意はいつでもできるようになっている。
きっと数分もすればエブリンがサンドイッチか何かと寝酒のワインをワゴンで運んでくることだろう。
できればその前にフェロモン香水には遺憾無く効果を発揮していただきたい。
食欲ではない違う欲を彼の中から呼び覚まして欲しいのだ。
下品とは言わないでほしい。これは戦略なのだから。
円満な夫婦生活を続けていくための。
いわば生きる手法とすら言えよう。
……今世くらい、幸せな生活がしたいのだ。私は。今度こそ。
前世の両親のような不幸な夫婦にはなりたくない。
さておき、肝心要のフェロモン香水ではあるけれど、これで効果が無ければ私の魅力の無さはまさしく絶望的となるだろう。雌雄を持つ生物なら必ずあるはずのフェロモンが無いとなれば、それは最早枯れ女どころかただの枯れ木でしかないかもしれない。それは流石に嫌です。
そう思って、私は普段はやらない【ボディタッチ】という強行策に打って出た。
「外套をお預かりします」
「あ……」
従順な執事のように、私はクラッド様の長い
普段デスクワークばかりなはずなのに、実はしっかりと筋肉の質が感じ取れるから驚きだ。
大きな商会を束ねる人だから、ある程度は自ら鍛えているのかもしれない。
私は計画通りに彼の外套を木製のコートハンガーにかけると、そのまま振り返り用意していた文言を口にした。
「お部屋にどうぞ。私もご一緒してよろしいですか? 少々お話したいことがありますので」
「え? わ、わかった。構わないよ」
有無を言わさぬ笑顔で「着いていきます」と断言すれば、戸惑いながらも了承を貰えた。
断らせるつもりはなかったけれど、やはりクラッド様は押しに弱いタイプではなかろうかと内心苦笑する。
これでは、肉食女子のターゲットになんてされた日には秒で陥落してしまうだろう。
それではまずい。この人を誰にも取られるわけにはいかないのだ。
そんな下心を抱えながら、私は少し困ったような表情のクラッド様の後について歩いた。
彼の歩調はいつもよりもゆっくりで、私に合わせてくれているのだろう優しい心遣いが感じられた。
……こういうところが、とてつもなく好ましいのだ。この人は。
中々顔を見せてくれないのに、会った時には殊更優しい。
遠慮がちで、何かを抱えていて、私と目が合うと悲しげな、どこか苦しげでさえある表情を見せる人。
それが、私の夫であるクラッド様だ。
「―――どうぞ、リイナ。それで、話というのは?」
「あ、ええ、その、ですね……」
クラッド様は書斎の扉を開け私を先に通すと、そのまま部屋の右側にある来客椅子へと私を促した。
私は勧められた椅子にちらりと目をやりながら、さてどうするかと考えを巡らせる。
書斎に入った瞬間から、空気に仄かなインクの香りが漂っている。
これはおそらく壁をぐるりと囲む備え付けの本棚からきているものだろう。
私がつけている香水の効果が弱まるとは思えないけれど、念のため彼に近づくべきだろうか、と私は一歩足を踏み出しクラッド様に詰め寄った。
「リ、リイナ?」
詰めた距離にクラッド様が戸惑いの表情を浮かべる。
が、そんなことはおかまいなしに私は追加で三歩彼との距離を縮めた。
そしてちょうど彼の真正面に立つと、驚いて固まっているらしいクラッド様の顔を見上げた。
なぜ? という言葉がそのまま顔に書いてあるようだ。墨色の瞳がゆらゆらと困惑したように、けれど何かを期待しているかのように、煌めきながら揺れている。
そんな彼の瞳を綺麗だなと思いながら、私はにっこりと今できる精一杯の笑顔を見せた。
「クラッド様、今日の私に何か気づくことはございませんか?」
「え……」
「髪のここ辺り、とか」
人はふっきれると案外大胆になれるものらしい。
メイクで全く反応を貰えなかったからヤケになっているといえばそうかもしれない。
だからこそ、私は自分の耳の下あたりを指差しながら、クラッド様に「ほら、ここです」なんて普段なら絶対にやらないような誘惑めいた仕草をすることができたのだろう。
「顔を近づけて、よく見ていただけませんか」
「わかっ……た」
大して関わりもなかった妻に急に積極的にされているせいなのか、放心状態なクラッド様は素直に私の言葉に従ってくれた。
ぼうっと夢心地のような表情でクラッド様が私の髪に顔を近づける。
「っ……!?」
けれどその瞬間、彼の左目がかっと見開き、弾かれたように一歩後ずさった。
どうやら、私の自作香水は効果を発揮してくれたらしい。
それも―――結構抜群に。
頬を赤く染めたクラッド様を見ながら、私はよし、と内心拳を握りしめていた。
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