第20話 誰かに願う
「っ……リイ、ナ、君もしかして、なにか、つけて……?」
口元に手の甲を押し当てたクラッド様が、ふらついたように後ずさった。
彼の顔は目に見えて赤く、眼帯のついていない左目は少々潤んでいるように見える。
そんな夫の姿に、私は心配よりも計画成功だとほくそ笑んでいた。
「はい。エブリンが教えてくれた手作り香水なんですが、作ってつけてみたんです」
フェロモン香水ですけど。とは言わず、私はこてりと首を傾げて微笑んで見せた。
ついでにクラッド様の表情を確認することも忘れずに。
「そ、そう……」
クラッド様は私から視線を外すように明後日の方向を向いて返事をしていた。
ふっふっふ。どうですかクラッド様、フェロモン香水の威力は。
ちょっと罪悪感がわかないでもないですが、こうでもしなけりゃ貴方私に手なんて一生出してくれないでしょう……!
嫌ですよ私。未貫通ボディで生涯を終えるだなんて。
せめて今世でくらい愛し愛されしてみたいってもんです。
だけどそれには、貴方がいい。
貴方が良いんですよ、クラッド様。
「あの、お嫌いでしたか……?」
「い、いや、そんなことはないよ、ない、けどっ……」
「ないけど……?」
「あの、悪いけど、少し、離れて……」
お顔を真っ赤にしたクラッド様が、しれっとじりじり詰めていた距離を離そうとまた二歩ほど後ろに下がる。
逃してたまるか、と私はそれを再びずいと詰める。
もちろん、心配を装って。
「どこか具合が悪いのですか? 顔色が、赤いようですが」
「これはっ……、リイナ、近寄るのは駄目、だ……っ」
「ですが苦しそうなお顔をしてらっしゃいます」
まあさせたのは私ですが。
「そ、それは、……っく……!」
「クラッド様、気分が悪いのでしたら私に寄りかかってくださいませ」
でそのまま本能にまかせて口付けのひとつでもこう、如何でしょうか!
なんて心配するふりをしながら彼の顔を覗き込んだ。
そして、思わずごくりと息を呑む。熱っぽく潤んだ左目に見つめられ、心臓がばくんと大きく跳ねた気がした。上気した頬や何か衝動を堪えているようなクラッド様の表情が、あまりにも艶めかしくて。
ナニこの人。色気やば。
「リイ、ナ」
「は、はい」
熱に浮かされたような顔をしたクラッド様が、そっと私の頬に手を伸ばした。
手袋を履いた彼の手が私の頬に優しく触れる。こんな風に彼が触れてくれるのは初めてのことだ。
あ、あれ……?
でもこの感じ、どこかで……?
確か、そうだと思う。そうであるはずだ。だけど私は、この手の温もりをなぜか知っている気がした。
「リイナ」
「はい」
「リイナ、リイナ」
「はい。クラッド様」
クラッド様が何度も私の名を呼ぶ。
こうなったからこそ、私の名を何度も呼んでくれている。
卑怯なことをしていのはわかっている。
だけどそれでも、この人に名を呼んでもらえることが、私はこの上なく嬉しかった。
「俺の、俺の妻。っリイナ……!」
「はい」
普段は「僕」を使うクラッド様が「俺」と表現するのを聞くのはこれで二度目だ。
きっと彼の本当の一人称はそちらなのだろう。女の勘とでも言おうか、商会を訪問したあの日になんとなくだが気づいてしまった。
教えて欲しい。
私の夫になってくれた貴方はどんな人なのか。
一体何を抱えているのか。
どうして、私を見ると悲しげな瞳をするのか。
どうして、遠くの光を見るように眩しそうに、手の届かないものを見るように寂しげな表情をするのか。
その理由を。
「クラッド様。わたし、私は」
いつかどこかで、私達は会ったことがあるのではないか。
そんなありもしない質問がつい口を突いて出そうになる。
けれどそれより早く、クラッド様が私の顎をその長い指先で掬った。
「理依奈、俺は、俺は君を―――」
―――え?
先程とは違う『発音』に、私は自分の耳を疑った。
今、彼は。私の名を、違う音で呼ばなかったか、と。
この世界に生まれ変わった女性、「リイナ」ではない。
かつて日本という国で生き、死んだ女性である「理依奈」と。
いいえ。そんなはずはない。違う。今のは私の幻聴だ。
だってクラッド様が知っているはずがない。
昔の私を、彼が知るはずがないのだ。
なのにどうして、貴方はそんなに苦しそうな顔で私を見るの。
どうして、そんな泣きそうな瞳をしているの。
「俺は、君に触れる資格が無い。君に愛される資格なんて、俺にはまったく、無いんだ……」
「クラッド様、っあ……」
呼びかけの途中でぐっと引き寄せられ抱きしめられる。
私の顔は彼の胸に埋まり、表情が全く見えなくなってしまった。
まるで押し付けるように、それ以上話さないでくれと乞うように、クラッド様は私を強く深く胸に抱き込んでいる。
「リイナ、俺のためにしてくれてる全て、嬉しいと思ってる。だけどそれは俺には過ぎたものだ。君はただ平穏に過ごしてくれればいい。意に沿わぬ男に気に入られる努力なんて、しなくて良いんだ」
「そんなこと―――」
していない。意に沿わぬ相手になんて、私はそんな努力をしていない。
そう告げる前に、クラッド様が不思議な言葉を呟いた。
「……フォールカ。彼女の記憶を消せ。そして俺を元に戻せ」
「イイノカ? オマエニハネガッテモナイコトダロウニ」
「さっさとやれ」
「シカタガナイ。ケイヤクダカラナ」
知らない誰かの声がクラッド様に応えているのが聞こえた。声変わりする前の少年のように高い声は慇懃無礼にそう言って、ため息を一つ零したかと思えば、シャラン、と鈴がなるような音がした。
その音がすると同時に、私の意識が遠ざかっていく。
同じくして、強過ぎる抱擁が解かれ私を覗き込むクラッド様の優しげな、けれど悲しげな目が見えた。
「リイナ、ごめん。理依奈、ごめん。そしてありがとう。だけど君は俺に愛される必要なんて無いんだ。そんな無駄なことに君の時間を使っては駄目なんだ。今度こそ、君は幸せにならなきゃいけない。……俺が必ず、そうしてみせるから。だからもう少し待っていてくれ。すべてが終われば……俺はきっと、君を解放するから」
彼が何を言っているのか、わかるようでわからない。
だから待ってと言いたいのに、沈む意識は私の身体から意思を奪い去ってしまった。
声が出せない私はなんとか目で訴えようとしたけれど、返されたのは苦悶に歪む夫である彼の表情で。
頭に白い霞がかかっていく。たった今まであったはずの確かな温もりの記憶さえ、初めて抱きしめられた感覚さえ、すべてが遠い景色のように私の手元から消えていく。
それがどうしようもなく悲しくて。
お願いだから残して、と。
そう白い霞を振りまく知らない小さな『誰か』に願っていた。
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