第21話 好ましい人
貴族に嫁いだ妻ならば本来、女主人として使用人の雇用など屋敷の管理が役割となる。
けれど、ここアルシュタッド邸ではその必要がない。
屋敷も子爵邸に匹敵する規模を誇るものの、人員管理はクラッド様がなさっているし、ほとんどが商会に連なる人間だったりするのだ。
また貴族では無い彼は領地を所有していないため、領地管理する必要もない。代わりに巨大とすら言える商会管理が必要だが、それについてはクラッド様しかできないため、私の出番というのが全くもって無いのである。
正直、暇だ。贅沢すぎて頭がおかしくなりそうな程度には暇なのである。
「ひ、暇過ぎる……」
「刺繍でもなさっては如何ですか」
「私がセンス皆無なの知ってるでしょ」
隣に立つ糸目のメイドにジト目を向けると、褐色の肌を持つエキゾチック美女エブリンは薄っすら細く目を開けて(いや普段も開いてはいるんだろうけど)ふっ、と鼻で笑って見せた。
「さようでございますね。お嬢様は超ド級の不器用でございますから。おまけに、昨今は記憶の欠乏まで見られます。一度お医者にかかられた方が良いのでは?」
「……そこまで言うかな」
「言いますとも。せっかくのフェロモン香水の効果を、眠気で忘れたなどと……嘆かわしい」
言ってエブリンはわざとらしく白いハンカチ片手に「よよよ」と泣き真似をして見せた。なんという三文芝居か。
けれどそう、そうなのだ。
私にはなぜか不思議と、昨夜の記憶が無いのである。
クラッド様と会ったところまでは覚えている。覚えているのだが……。
その後の記憶が、どうにも綺麗さっぱり存在しないのだ。まるで脳のメモリーが削除されでもしたかのように。
ただ……ひとつだけ。
誰かに抱きしめられたような気がする。温かい腕を持つ、優しい人に。
それがクラッド様だったのかどうかは定かではないけれど。私の夢という可能性のほうが大きい。
けれど……私にはどうしても、彼がその時泣いていたように思えて仕方がなくて、思い出すとどうにも胸が苦しくなってしまうのだった。
そんなクラッド様と会ってから数日。
私はマダム・アマゾアナのサロンに通い女磨きをしつつ、中々帰ってこないクラッド様を目を擦りながら待って媚薬兼栄養剤を盛ってみたりフェロモン香水風呂に浸かってみたりとしたものの、正直全く成果は上がっていない。
ただまあ、一つだけ変化したとすれば、結婚してから一年ほとんど家に帰ってこなかったクラッド様が、最近は遅くとも帰宅してくれるようになったことくらいだろうか。
それでも私が寝るより遅く帰って、起きるより早く出てしまわれるのだけど。妖精ですか、と突っ込みたくなるのも仕方がない。
事務所に泊まり込みだと聞いていたあの毎日よりかは断然ましと言えばましなのだが……
「お嬢様、私ちょっと倉庫を見て参ります」
「いってらっしゃい」
すり鉢と擂り粉木を手にエブリンを見送りつつ、私は調理場にある小窓から月を見上げて溜息を吐いた。
群青の空にある金色の三日月は、空気が澄んでいるせいか目にも鮮やかで美しい。が、そんな美しさとは裏腹に私の心は曇っている。
「これだけやって無反応となると……流石に堪えるわー……」
嘆きが細長い息となって漏れていく。滲んでいるのは焦燥やら諦めやら、自分でもわからない位ごちゃごちゃだ。
今のままでも十分幸せな筈なのに、それ以上を求めてしまうのはやはり……貪欲なのだろうか。
けれど出会ってしまったのだ。
初めて、好ましいと思える人に。
彼と初めて顔を合わせた日のことを思い出す。
あれはそう、十九歳の誕生日を迎えた私が、もう万策尽きたとすべてを諦めかけていた時だった。
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