第9話 美女の道はヒールから


「……ぁあっ!!」


がくん、と膝から崩れ落ちると同時に、私の頬を脂汗が伝い落ちる。

顎先からぽたり、ぽたりと流れた雫が、真っ赤な絨毯に濃い染みを作った。

震える膝は壊れた人形が笑うようにカタカタと小刻みに揺れ、足首の靱帯からふくらはぎ、ももの付け根にいたるまで、下半身すべてが激痛に襲われている。

せっかくのドレスなど、全身の汗でびっしょり張り付き、重みも増して、さながら全身ギブスのような感覚だ。


「おほほほほほっ! その程度で根を上げるとは! やはり小娘には土台無理な話だったのよっっ!!」


「ま……負けてたまるものですかっ!」


「はっ! 悪あがきも大概にする事ねっ! にわか仕込みの戦法で、この最終兵器に勝てるとお思いっ!?」


「くっ……!」


バランスを……っ! 体幹を使えばなんとか……!


昔のスポ根漫画のように、気合いと根性だけで立ち上がろうとするが身体がそれを許さない。

汗を吸ったドレスが鎖帷子の如く重い。幼い頃、何かの漫画で全身に鉄のバネをつけて筋肉増強をはかる話を見たが、今のこれだって負けていない気がする。

正直ちょっと死にそうだ。足が折れるのも時間の問題に思える。

けれど、まだ音を上げるわけにはいかないのだ。私には、決して諦めてはいけない目標があるのだから。


「っつう……!」


「はい! もっと身体に力を入れて! 体幹を緩めない!!」


容赦ないマダムの声がサロンに鳴り響く。

私はぎりぎり歯を噛み締めながら、悔しさに溢れそうな涙を堪えた。


敵わない。今はまだ。

私の本能が、それを悟っていた。


「マ……マダム……!」


「あぁら、何かしら? リイナお嬢ちゃん?」


淑女会の帝王、ならぬ女帝マダム・アマゾアナの紫シャドーアイを見つめ、私は悔し紛れに言葉をついだ。

それは―――自らの敗北宣言に他ならなかった。

「お願い、します……休憩、させてください……」


***


「っ嘘!? 何なんですかこれ……っ十五センチヒールとか、絶対無理に決まってるじゃないですか! 私は子鹿ですか!? 生まれたての子鹿のほうがまだ安定してますよ!」


「もおおおっう♪ ナニはこっちの台詞よリイナちゃぁ~ん? この程度のルルベ、出来なきゃ完璧な淑女なんてほど遠いわよぉう~♪」


私の怒り混じりの悲鳴にマダムは長い人差し指をちっちっちと動かしながら、ふふん、と居丈高に笑って見せた。その「甘いわねェ」と言わんばかりの態度に、私のこめかみに青筋が立つ。

エブリンの師匠なので信じてはいるけれど、彼女の言う完璧な淑女とは、本当にこんな曲芸みたいなヒールを履いた女性なのだろうか。

だとしたら、私には一生無理かもしれない。


「ルルベって……それバレエ用語でしょうっ。つま先立ちではなく、あれはほとんど踵を使っていませんよね! 私は靴を履くなら、せめてもう少し踵に仕事をさせたいです……!」


マダムに敗北宣言をしてからすぐさまとてつもない子鹿ヒールを脱ぎ捨てた私は、その場に座り込みながらぜえぜえと荒い呼吸の隙間にマダムに不満をぶつけた。というより、切れた。


このヒールは最早靴ではない。私は認めない。ほぼつま先立ちになる靴なんてただのオブジェだ。

一体どこの職人がこんな奇想天外なものを作ったのだろう。確かに、元の世界にもこういったヒールは存在したのだろうけど、お洒落と奇天烈の意味を取り違えていやしないだろうか。百科事典をよくよくきちんと読んでほしい。そのくらい、私にとって高センチヒールは無理な代物だった。


ただし、彼女のサロンにはそんなヒールや美と怪が降り混じったような品がざらにあるので更に恐ろしいといえる。


マダム・アマゾアナのサロンである「ラ・ミュリエット」には、淑女教育を受ける女性用の服飾品が大量に用意されているのだ。


彼女の教えを受けるレディ自身の年齢幅が広い(それこそ一桁から五十過ぎまで)ため、彼女らの年代に合わせた、かつ流行に則ったドレスや靴、アクセサリーなどがパターンごとに一揃い揃えられているのである。


そして現在私が受講しているサロンで最も難易度の高いコース『どんな紳士も落とせる最上級女性コース』では、必ず恐ろしいほど高いヒールを着用し、歩けるようにならねばいけない、ということらしい。

マダム曰く、淑女は常に「白鳥のバタ足」であるべきなのだとか。

優雅にすいすい泳いでいても、その見えない水の中では努力と根性でバタ足をすべき、というのが彼女の持論らしい。わかるような、わからないような。


けれど確かに、美しい女性は一日にしてならずというのはなんとなく理解できる。できるけれどそれとこれとは話は別だ。

私は十五センチヒールで紳士を追い詰めたいのではなく、少しでも今より綺麗になって夫であるクラッド様に振り向いていただきたいのだ。

そのために、この「しんどい・辛い・とにかく大変」で有名なマダムのサロンに押しかけたのだから。


元々十四歳の時に、私の教育が少しだけ面倒くさくなったエブリン(にそそのかされたお母様)の手で三日ほどこのサロンに強制連行されたことがあったけれど、淑女教育の総仕上げとして行われたのはさながらスポーツ漫画の集中合宿を激しくしたような内容で、帰る頃にはげっそりやつれていた記憶がある。

その際に、二度とここには戻って来たくないと思っていたのに、まさか舞い戻ることになるとは思わなかった。


だけど仕方がない。クラッド様に私へ目を向けてもらうにはこれしかないのだから。

彼の気を引くためなら何でも試してみたいと思う。少しくらいいじらしいと思ってはくれないだろうか。

無駄な努力かもしれない。けれど、何もしないより良いと思いたかった。


「んもぉ~う♪ しょうがないんだからリイナちゃんってばてば♪ でもワタシ、アナタのそういうドライなところ結構好きよぉ~ん♪ だから今日は特別に、このマダム・アマゾアナの秘技「魅力増強♪ 色気倍増♪ 殿方陥落地獄メイク♪」を手ほどきしてあげるわん♪」


「何でしょうかその仏語みたいな名前は……。若干どころか、かなり恐いんですが……私はまだ現世にいたいです」


ドライというより不満をぶつけただけなのだが、十五センチヒールを否定する私に呆れたのか面倒くさくなったのか、マダムが新たな提案を口にしていた。

が、エブリンではないがネーミングセンスが悪すぎる。身の危険しか感じないのはどういうことだろうか。

まるで変なドーピング剤の宣伝文句みたいだ。

地獄を見せてどうする、とか色々な感想を抱く。もちろん口にはしない。


下手をすれば『恐ろしい子……!』的なメイクをされかねない。実際マダムもそういった感じになっている。これはこれで綺麗だとは思うけれど、私の顔が転生して多少マシになったとはいえ合わない気がした。

だというのに。


「―――まあ。それは良いアイデアですわマダム」


私の不満を余所に、突如サロン内に凜とした声が響く。

絨毯の上に座り込んだままぱっと声の方向に目をやれば、ニシャアッと猫のゴジラ版みたいに笑う糸目の侍女がいた。

彼女が動けば海すら割りかねない。そんなエブリンがマダムの提案に賛成したのだ。

私は嫌な予感がした。


「エ、エブリン……?」


「お嬢様は元は悪くないのですから、技術次第でどうとでもなりますわ。基礎を磨くのも大切ですが、まずは形から。ご自分がお化粧だけでどこまで変わるのか、お嬢様ご自身にご理解いただく事も、長い目で見れば重要です」


「そぉよねぇ~♪ さすがエブリンったらわかってるわぁ~♪ リイナは自己評価が低いから、まずはそれをわからせてあげないとねぇ~♪」


「仰る通りです」


「いえ、あの、全く意味がわかりませ……」


まるでソーラーパワーでかくかく首を振る人形みたいに頷き合う二人を前に、私の声が空しく響く。

僅かに上げた反論は、どうやら流されてしまったらしい。

何をさらりと主人を裏切っているのだろうか私の侍女は。それも彼女の糸目が薄っすら開いているあたりかなり楽しんでいるようだ。あんな風になったエブリンを見るのは久々な気がする。


「そうと決まれば。善は急げですわマダム。今日のところはフルメイクとセットをお願いします。その足でアルシュタッド商会の旦那様の元に参りますので、どうか念入りに。いつものお力より120%増し増しでお願いいたします」


「おほほほっ♪ 毎度ありぃ~♪ 主人のお金なのに糸目を付けない貴女の裁量、いつも惚れ惚れするわぁエブリン♪」


エブリンの注文にマダムは親指をぐっと立てて答えると、それから彼女に魔女のような睫毛のついた目でばちん、とウインクを送っていた。どうしてこうまで通じ合っているのだろうか。この二人は。

やはり師弟関係というのは、なにか不思議な絆があるものなのだろうか。

この場合、私にはちっとも美しいとは思えないが。


「糸目なのは元からですので。旦那様からは、リイナ様に関する支払いについてご指示をいただいております。このくらい屁でもありませんわ」


「うふふふふふっ♪ 了解よ! ならワタシも精一杯応えさせてもらうわっ♪ さあリイナ! いらっしゃあ~い♪」


「え、ちょ、まっ……!」


怪しい雲行きに慌てて逃げだそうとした私のドレスをむんずっと鷲掴みにしたマダムは、女帝の微笑みそのままに、サロンの奥にあるいわゆるVIPルームへと、私を連行……もとい引きずっていく。

というより、ほとんど私の身体は浮いていた。マダムの腕力の凄まじさに、これは逃げても無駄だ、とがっくり脱力する。


「いってらっしゃいませお嬢様」


そう言って私を見送るエブリンの顔が、至極楽しそうだったのは……きっと気のせいでは無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る