5
「それにしても、声って、売れるんですね」
印鑑は持ち歩いていなかったので、言われるがままに拇印を押して、もらったティシューで指を拭きながら聞きました。
すでに、スマホアプリのネットバンクで、入金手続きも完了していました。信じられないくらいの大金が、今、自分の口座に入っています。どことなく、世界が変わって見えました。
どこか、余裕を感じられるほどに。
「いいお声ですと、もちろん!」
契約完了後のほっとしたムードで、2人は雑談をしていました。
紅茶はまあまあ普通だったそうです。ミルクティーにすればよかったと嘆いています。
「けっこうな値が付くんですよ。特に、お客様みたいなお声は、人気があります。いいお声の持ち主は、それだけで女性からモテモテですからね。椿山様も、そうでございましょう?」
既に契約後ですが、豊年満作は、セールストークが、本当にうまい印象です。
「一応、ひとつだけルールがありまして。声を売るのも買うのも、一回限り」
「そんなに、頻繁に売ったり買ったりするものでもないしね」
椿山さんも、けっこうその気になって、話を合わせていたそうです。
「いやあ。それにしても、だいたい相場ってこんなもんなんですか?」
こうなってくると、人というのは現金なもので、自分の声が、世間的にどういう評価になっているのか、知りたくなってくるものです。
「いえいえ、特に今回は、名指しであなたのお声が欲しい、ということでしたので、それなりに高い金額になります。なんと言いましても、プロの方のお声ですから」
豊年満作の口も、どんどん軽くなります。
「僕みたいな駆け出しの声優の声を気に入って下さるなんて、むしろ嬉しいです」
ちっちっちっち、とわざとらしく言ってから、
「今、男は顔じゃないです。声です。声がいい人は、それだけで癒やし効果を持ちます。一昔前は、顔が良い方がおモテになりましたが、昨今、そんなもの何の役にも立ちはしません。今時はもう、断然、声です。だからこそ、このビジネスが成立するわけでして」
決して、自分自身も悪い声ではなさそうな豊年満作は、そう説明しました。
「それは知らなかった。世間に疎い方ではないと思っていたけど、聞いたこともなかった」
——声優ブームと言われて久しいです。
「だから、なりたい人も多いし、でも、なれる人は少ないし、一握りどころか、ひとつまみ以下です。人気がある職業というのも、大変です」
——一説には、なりたい人は10万人、なれる人は数千人、稼げる人は数十人だとか。
「業界も日々だいぶ変わってきていますから、一概には言えませんが、厳しい世界であることは間違いないです」
——まるで宝くじですね。
「この業界で成功するより、東大に入ったり、宝くじで一等を当てる方が、簡単かも知れませんよ」
——椿山さんご自身は、ブームに乗れた方だと思いますが、どう思われますか?
「先程も言いましたが、僕が新人の頃に仕事をいただけたのは、ただの運です。ですから、ブームに乗ったと言うことでもないです。この業界は、デビューすることよりも、続けていくことの方が大変なんですから」
——一度売れても?
「そうですね。一度売れて、その後が約束されるという世界ではありませんから。金銭的にも、とても厳しいのは間違いないです」
——その中でも、椿山さんは、努力を怠らなかった。
「それはそうです。人一倍なんてもんじゃない。他人の100倍は努力しました。それだけの努力ができない中途半端な奴は、結局途中で辞めていくだけの、なんの覚悟もない連中です」
——覚悟。
「僕は、自分の人生の全部をかけたつもりです。レッスン以外の時間も必死に勉強して練習して、レッスンで僕に与えられた時間は、お芝居の本番をやるつもりで臨みました。命がけで。自分勝手に、僕のオンステージだと思って、同じクラスの人たちや講師をお客さんに見立てて」
——その辺りが、成功の秘訣のようですね。
「普通のインタビューで使えそうなパートを話しておきました(笑)」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます