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——幸せの絶頂でしたね。
「あれほど喜んだことは、ないかなあ」
——お金も手に入って、結婚の約束もした。
「そう。人生って、願えば叶う。必死で努力すれば、何でも手に入ると、信じることができた瞬間でした」
——人生における幸せが、これでもかと押し寄せてくるような感覚。
「そういう感じでした。なんでもかんでも手に入れて、なんだったら、どこかアラブ辺りの王様にでもなった気分」
——そういうお話の映画で、吹き替えされてましたね。
「僕は王様になる人じゃなくて、王様を育て上げる師匠の役でしたけどね」
——あの映画、楽しかったです。元の映画も素晴らしいのですが、椿山さんの吹き替えの演技が楽しくて楽しくて。
「ありがとうございます。ただ、物語と現実は、違うところがあって」
——と言いますと?
「映画は、幸せの絶頂になったら、そこでハッピーエンドでいいと思うんですが、現実は、そうはいかない。幸せが絶頂に到達したら、その後、堕ちていくしかないんです」
異変は、翌日、クリスマスの朝に起こりました。
椿山さんが、声を出そうとしても、かすれ声になってしまい、声が出ません。何度も咳払いをしますが、空咳で、喉をどんどん傷めていっているのが分かります。
「ねえ、どうしたの?」
朝食の用意をしていた彼女が、異変を感じて話しかけてきます。
(なんか、声が、でないんだ)
椿山さんは、必死に声を出そうとしますが、かすれていて、よく聞かないと聞き取れないレベルでした。
「もしかして、声が出ないの?」
(あー、あー、うん、ダメだ)
「喉が痛いの? 風邪? 扁桃腺が腫れたりしてる?」
体調はそこまで悪いとは感じませんでしたが、病気の可能性はあります。寝ている間に喉が乾燥して、風邪を引いたのかもしれません。
(わかんない)
——その時の感覚はどうだったんですか?
「喉に痛みはなかったし、身体的には、至って正常だったよ。僕は素人じゃない。毎日の喉のケアは充分にやっていました」
——それでも、声が出ない。
「そう。他に異常はないのに、ただ声だけが出ない。年末で混み合う病院に行って無理矢理医者に診てもらいましたが、原因不明だと言われました。精神科にも連れて行かれました。何らかの精神的な疾患で、一時的に声が出なくなっている可能性もあったから」
——ですが、何の異常もなかった。
「そうです。もちろん、理由ははっきりしていたんです。僕は、声を売った。売ってしまったものは、なくなる。ただそれだけの、単純な話だったんです」
幸いなことに、年末は仕事納めをしていたので、特に問題はありませんでした。もしかすると、一週間ほどで元に戻るかも知れない。きっとよくなる。そう自分に言い聞かせていました。
ですが、年が明けて、仕事が始まる時期に至っても尚、症状に改善は見られませんでした。
(こんなことしてる場合じゃない。仕事に行かないと)
気持ちは焦っていましたが、もちろん、仕事になりません。現場に行く前に、事務所に寄って事態を報告しましたが、当然、大問題になりました。事務所の社長まで出てきて、プロ意識の欠如をなじられました。当然、声を売ったなんて説明できないので、あくまでも、原因不明の病気、ということではあっても、です。
声が仕事なのに、声がない。
声優としての仕事は、全てダメになったそうです。予定されていた、週に2本あったレギュラーも、単発の仕事も、イベント系も、全て。いくつかの仕事は、急病ということで急遽、養成所の後輩が代役におさまりました。
椿山さんは、病気療養ということで、ひっそりとアニメ雑誌などで告知がなさることになりました。幸か不幸か、椿山さんの役は、あまり大きな役ではなかったので、代役による混乱や問い合わせも、ごく少数を除いて、ほとんどありませんでした。
後輩に変更されてすぐの放送を見て、彼は驚きました。声質こそ若干違うものの、割と声が似ているし、なにより、彼よりも格段にうまい。最初は、「早く良くなって復帰して下さい」というありがたい手紙も、ちらほら事務所宛に届いていましたが、一、二ヶ月もすると、「代役の方がむしろ本役を食ってる」という評判が立ち始め、しかも、椿山さんの症状がまったく回復する見込みがないとわかって、正式に代役が本役になり、ひっそりと告知もなしに降板することになりました。
声が出ず、仕事もしない椿山さんは、次第に、共演者、アニメスタッフ、事務所のマネージャーたちからも敬遠され始めました。彼の声はどこかに行き、彼は声優としての、存在がなくなったのです。
声を売ってから、三ヶ月以上が経ちました。
彼は荒れました。荒れましたが、依然、声は出ません。
泣き叫ぶことすら満足にできませんでした。
(ちくしょう! ちくしょう!)
出てくるのは、かすれは音だけです。必死に努力して身につけた声は、力なく乾いた音だけをヒューヒューと隙間風のように垂れ流すだけです。
「ねえ、どうにかなるよ。諦めないで。ね?」
たきびさんは、毎日毎日、必死に慰めてくれていました。
来る日も来る日も、うなだれて文句ばかりで、周りの物全てに当たり散らしてばかりの椿山さんの面倒を、それでも見ていてくれました。
「紅茶、淹れたんだ。あなたの好きな、ダージリン。あと、国産の蜂蜜も。純度が高いから、香りもいいし、きっと美味しいよ」
たきびさんは、少しでも喉にいい物をと、毎日いろんな工夫をしてくれていました。ねぎ、しょうが、大根、ゆず、蜂蜜、などなど。食卓には、さまざまな料理が並びました。
ストレートで淹れた紅茶をカップに注ぎ、スプーンでたっぷりすくい上げた蜂蜜を、2杯分入れて、軽く混ぜてくれました。
「はい、どうぞー。よく混ぜてね」
重くならないようにという配慮から、軽く言ったその言葉が、彼にとっては、とてもしゃくに障ったのだそうです。
(うるさい! 放っておいてくれ!)
差し出されたカップを、ソーサーごと、椿山さんは手で払いのけました。
「熱い!」
中身が飛び散り、たきびさんにかかり、カップが部屋の壁にぶつかって割れました。同棲を始めた初日に、紅茶が好きなたきびさんと一緒に、二人で選んで買った、二人にとっては記念のカップでした。
紅茶は、たきびさんに容赦なくその熱を放射しました。入れ立ての、まだ熱い紅茶が肌にかかり、火傷を負いました。服は、蜂蜜のおかげでベトベトします。
椿山さんも、一瞬だけ後悔して、謝ろう、拭いてあげようとしましたが、その手を思いっきりはねのけられました。
(ご、ごめ……)
そんな椿山さんの言葉は、聞き入れてもらえませんでした。声が出ないので。
声にならない声は、誰にも届かないのです。
「侘助……ごめん。ごめんね」
たきびさんは、謝った言葉とは裏腹に、洗面台で水を顔と体中にかけ続けながら、大きな声を出しました。
「うあああああああああああくそがああああああああああああああああああああああ!」
次いで、脱いだ服を叩きつける様に洗濯機に入れ、洗剤などを投入しようとしているがうまくいかないのか、くそっ、くそっ! あーもう! なんだよ! 跡が残る! という言葉が漏れ聞こえてきたそうです。
それでも、椿山さんは、耳を塞ぎ、部屋の隅から動こうとしませんでした。
数日後、たきびさんは、部屋からいなくなったそうです。
正確に何日後かは、わからないとのことですが。もしかすると、一週間、3日、いえ、紅茶をぶちまけた当日だったかも知れないそうです。
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