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——ちょっと休憩入れましょう。

「そんなに気を遣わなくてもいいですよ」

——いえ、私の方も、少し。

「それは失礼しました。どうぞ、くつろいでください」

 ——お気を遣わせて、申し訳ありません。インタビュアーの方が先に音を上げるなんて、あってはいけないんですが。

「お互い様です」

 ——実は今日、蜂蜜も持ってきているんです。

「用意がいいですね」

 ——ちょと疲れたので、失礼して、紅茶に入れようかと思うのですが、召し上がりますか?

「ありがとう。せっかくだけど、遠慮しておきます」

 ——よろしいのですか?

「あまり、蜂蜜入りの紅茶は、思い出して嬉しい話ではないので」

 ——失礼しました。

「いいえ、お気になさらず。まだおかわりはありますか?」

 ——はい。たっぷり作ってきましたので。どうぞ。ストレートで。

「ありがとうございます。うん、まだ温かくていい香りです」

 ——なによりです。


たきびさんがいなくなったことは、その時は、すんなり受け入れられたそうです。

むしろ、優しくされればされるほど、自分から別れを切り出しにくかったといいます。

もちろん、長い付き合いではありましたし、プロポーズもして、一生一緒にいたいと思っていた相手ではありましたが、もう無理だったそうです。

人生のすべてを賭けて、声優という職業になるために、必死で努力をして、必要のないものを切り捨てて、彼女も含め、養成所時代には友人と呼べた仲間たちも蹴落として、なんとしてでも掴んでやると思っていた夢。

ようやく、その端緒に手が届き、夢を実現することができたと思っていました。

ですが、なったらなったで大変な思いも、辛いこともたくさんあり、思い描いていた順風満帆なものではなかった日々。実際に声優として活躍している人たちも、人知れず、ひっそり引退していることも多いようです。椿山さんの代役に収まった後輩の声優さんも、いつの間にか、消える様にいなくなっていました。

そんなことが、話題にもならないくらいの世界。

それでも、夢も希望も捨てなければ、何とかなると信じていました。

思い込んでいました。

声を売ってしまうまでは。

駆け出しの頃は、とにかく貧乏でした。だから、お金が欲しかった。お金さえあれば、何とかなると思っていました。そして念願通り、お金は手に入りました。だけど、本当に欲しかったのはお金じゃなかったんです。夢も希望も、大切な人も失ってまで、欲しかったのは、お金じゃなかったんです。

ありきたりな言い方になりますが、と前置きして、彼は言います。

「失ってみて初めて気づくというのは、本当です。でもそれよりも、手に入るはずだった物が、自分の手のひらからこぼれ落ちたときの後悔は、長く長く後を引きます。失うだけなら、どれだけ深い絶望でも、一瞬で済みます。失った物は返らないと、自分に言い聞かせることができます。ですが、手に入りそうで手に入らなかった場合は、もしかしてまた手に入るかも知れないという可能性が、一縷の希望としてそこに残されているせいで、たとえ傷が浅くても、その傷の痛みは一生涯続くんです」

夢も希望も打ち砕かれた彼に、彼女の心のケアまでする余裕はありませんでした。

人に優しくできるのは、余裕がある人だけです。彼には、余裕はなかった。人生のすべてを賭けたことが、一夜にして、しかも、自分自身の自業自得でなくなってしまったのですから。

でも、声を売る? そもそも、売れると思う?

今でも自問自答するそうです。あの時に、契約しない選択肢があったかどうか。

ほんの少しでも、おかしいと思ったり、セールスマンが言うことを本気で信じていれば、と思うのは、契約をした後だから言えることで、時間を遡ることでもできない限り、考えるだけ無駄。無駄だと分かっているのに、その考えが頭に発生すると、いつまでも考えてしまう。昼と夜とにかかわらず、いつでも。

銀行の残高を確認すると、最初に指輪を買ってから、生活費以外で、ほとんど減っていませんでした。


彼は、手元にあった名刺を見つめたそうです。そして、そこに書いてあった名前を、改めて自分の心に刻みつけました。


【 声のセールスマン 豊年万作 】



豊年万作。彼は、人間の声そのものを、売買するセールスマン。

椿山さんは、声を失いました。その失った声を、豊年満作が、どこかの誰かに売りつけているのです。

女の子にモテたいだけの勘違い野郎が、自分の声で、女の子を口説いている……そう思うと、やりきれない思いにとらわれて、憤りが止まらなかったといいます。

声を売るとは、自分の声を他人に譲渡することだったんです。そんなことができるのかといわれても、現実にそうなってしまっているなら、できると考えるしかない。

声を失ってから、三ヶ月、半年、一年が過ぎました。椿山さんは、その一年間、豊年万作を探していました。

見つけてどうするのか、決めていました。

声を返して欲しかったのです。

でも、彼の名刺に記載されていた住所も電話も、全てでたらめでした。何がどうにもこちらを安心させる、輝かんばかりのものすごい笑顔だ、と、自嘲気味に笑います。

しかし、笑い声すら、かすれてしまって出せない状態でしたが。

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