7


声を売った夜、彼は、アパートに帰りました。

築40年以上経つ、おんぼろアパートだったそうです。都心から、また更に最寄り駅からも離れていることもあり、3Kで和室のみですが、畳は色褪せ、バス・トイレ別で、月5万円。そうは言っても、破格でした。まだ売れない新人声優が、彼女と同棲するには、安さは絶対条件です。

彼女の名前は、山茶花たきび(仮名)さん。

声優養成所時代に出逢って以来の付き合いだったそうです。ただし彼女の方は、養成所で上に上がれず、声優という夢も、とっくに諦めていたそうです。

ふたりきりのクリスマスを過ごし、食後にケーキと紅茶を楽しみながら、その日の出来事を、語ったそうです。

「声を売った? どういうこと?」

「わかんない。僕の声を録音でもして、どこかで使うってことじゃないか?」

「どこか体調、おかしくなったりしてない?」

 たきびさんが、気遣ってくれます。声優という職業が、身体が資本だと知っているからです。

「別に何も。だいたい、声なんか売れるわけないじゃないか。あのセールスマン、悪い人には見えなかったけど、たぶん、誰かに騙されてるんだよ」

「本当にそうかなあ」

 もしかして詐欺にでも遭ったんじゃないかと、心配そうでした。

「おかげで、けっこうな額のお金も手に入った」

 詐欺だとすると、お金が入ることはおかしいのですが、逆に、それによって誰かを貶めている可能性もないわけではないのです。ただし、椿山さんは、大金が入ったことで、すでに細かいことは気にしていませんでした。

 むしろ、人生の大事な決断を胸に秘めていました。

「どうしたの? やっぱり心配?」

「いや、違う。そうじゃなくて」

「何?」

 椿山さんは、意を決して伝えました。

「あの、さ。結婚したいって言ったら、どうする?」

 その言葉に、たきびさんは、虚を突かれました。

「なにそれ」

 変なセールスのせいで、変な雰囲気になりそうだったところでする話ではなかったかも知れない。一瞬、そんな後悔も心をよぎったそうですが、一度口に出してしまったからには、後戻りはできなかったそうです。

 椿山さんは、急遽購入してきたリングを、手元に用意しました。

 そして、しどろもどろになりながら、気持ちを伝えようと努力します。

「いやあの、ごめん。まだ仕事もちゃんとしてないのに、言うことじゃないのはわかってるんだけど、その、本腰入れて声優、やれると思うから。だから——」

 たきびさんの反応は、意外なものでした。

「そうじゃなくて」

「え?」

「どこかの誰かが買いたいといったあなたの声、その声を一番大事に思ってるのは私。だから、もっといい声で、プロポーズするならして」

 たきびさんは、真剣に真顔で言ってきました。椿山さんも、真剣にならざるを得ません。

 椿山さんは、手に持っていた紅茶のカップを、ケーキを食べ終わった後の皿が乗っているテーブルに置き、立ち上がりました。

「たきび。俺はおまえが欲しい」

 と、リングのケースを差し出しながら言いました。

 自分としては最大限の、イケボで言ったつもりだったそうです。

 ですが、たきびさんには大笑いされたそうです。

「なにそれ! もうちょっと、かっこいいセリフ言いなよ!」

 笑いすぎて、半分涙目になっています。

 椿山さんも、自分で自分に照れたようでした。

「そんなこと言ったって! 突然じゃ何にも思いつかないよ!」

 せっかく意を決してプロポーズしたのに笑われて、ぶすっとむくれる椿山さんに、はいはい、と応じながら、

「じゃあ、もっといい声で、はい、テイク2」

 と振ってきました。

 そこで今度は、もっといい声を意識して、こう言ったそうです。

「俺はおまえを守る。たとえ目が見えなくても、声が聞こえなくても、俺はおまえに届くように、一生叫びつつける。おまえが、好きだ」

 改めて、リングのケースを、たきびさんに差し出しました。

 言い終わってから、しばらく、彼は彼女を見つめ続けました。

 たきびさんは、目をつむり、無言で、言われた言葉を噛み締める様にしていたそうです。

 沈黙に堪えきれなかったのは、椿山さんの方でした。

「ダメ? ダメだった? 初めて主役をやった、『マリオネットミラージュ』の、最終回の決め台詞なんだけど……あの、えっと」

 しどろもどろになりながら、言い訳じみて言葉を出します。

 すると。

「あー、わかってる」

 たきびさんが、椿山さんの言葉を遮りました。

「ぜんっぜん視聴率がとれなくて、打ち切りになった伝説のアニメだよね。そんな厨二病的なセリフ持ってきたかー」

 なるほどなるほど、うんうん、と、腕組みをして、独り言を言っていました。

 初主演作に対して、えらい言われようですが、事実なので反論のしようもありません。

「……ダメかな?」

 半分すねながら、彼は彼女に、確認をします。自信はどこにもなくなってしまったようでした。

 ところが、引っ込めようとしたリングのケースを、たきびさんが止めます。

「うん。いいよ」

 返ってきたのは、快活な返事でした。

だから一瞬、彼には、意味が分かりませんでした。

「いいって?」

「結婚……してあげても、いいよって意味」

 彼女は、ちゃんと笑顔を向けてくれていました。

「やったー!」

彼は、すっかり、彼女の手玉に取られていたようです。

そして椿山さんは、リングをケースから取り出し、たきびさんの左手の薬指にはめました。ちょっと緩いかな? 大丈夫かな? と、確認しながら。

「これからもよろしくね」

 たきびさんが、芸能人の婚約会見のように、リングのはまった左手を、かざして見せてくれたそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る