11
彼には、奇跡だとしか思えないことだったそうです。
夜が明けて、クリスマス当日の朝。街角の路上で、酔っ払って倒れていた椿山さんは、ある人に起こされました。
「……もう朝ですよ」
クリスマスムードにまったく流されない、ブラックの中折れ帽に、シャツは白だが、ネクタイは黒、ピシッと仕立てたブラックのスーツを着た男。どうにも人を安心させる、輝かんばかりのものすごい笑顔の男。
(あなたは……)
路上にへたり込む自分をのぞき込むその男は、豊年満作その人でした。
「お久しぶりです、椿山様。その節は、お世話になりました」
相変わらずの、似合い過ぎるほどの営業スマイルで、深々とお辞儀をしてきたそうです。
「まさか、このようなところで再びお目にかかれるとは。お元気でしたか?」
まるで何事もなかったかの様な、この一年がノープロブレムだったと言わんばかりの、普通のあいさつ。
だけど、椿山さんは、この一年、ずっと探していたんです。この男を。人生最大の恨みを持って。
呪い、と言ってもいいかもしれません。
彼は、男にしがみつきました。もう逃がさない。
(返せ! 僕の声を! 返せ!)
何を言っているのか、ほとんど聞き取れない声で、でも、しっかりと一音一音、相手にたたきつける様に、言葉を伝えたそうです。
しかし、必死に伝えた割には、相手の反応は薄かったと言います。
セールスマンは、常に笑顔を絶やしません。
「返せ、とおっしゃいますか? いやしかし、きちんとした契約書を取り交わし、ちゃんとあなたのご要望通りの金銭もお支払いしましたのに、それを今さら」
(あんな契約は無効だ!)
「そう申しましても、もう一年経ってしまいましたし、もちろん、クーリングオフだって利きません」
契約として、豊年満作が言うことは、至極最もでした。
ですが、だからといって、諦めるわけにいきません。
なにより、この一年間、探しに探した相手であり、椿山さんにとっては、まさに奇跡としか言いようのない再会だったのです。この機を逃すことだけは、なんとしてもできません。
(僕は、全てを失ったんだ! 何とかしてくれよ!)
「ええ、もちろん。おかわいそうだとは思うのですが……」
(金は返す! 返すから! 使った分も、全部まとめて返すから!)
それでも、豊年満作の心は、折れてくれません。
契約は、間違いなく成立してしまっているのです。
悪魔との血の契約でなくとも、自ら拇印は押してしまった。
(なんとか、なんとかしてくれよ……)
椿山さんは、しゃくり上げる様にして泣きました。
ボロボロと、大粒の涙をこぼしながら。
泣き声もか細く、ほとんど聞き取れません。
そんな彼に、セールスマンは、こう言ったそうです。
「残念ですが」
営業スマイルで。
——契約を破棄させることは、できなかったんですね?
「忌々しいくらいに、しっかりと成立していたからね」
——このとき泣いていたのは、本気の涙ですか? それとも、泣き落としのための涙?
「なるほど。僕が役者だから?」
——そうですね。ただの演技、ということもあるかと思いまして。
「それは、演技を誤解している。演技は、別に嘘の気持ちでやることじゃない。むしろ逆で、心からの気持ちがなかったら、演技は成立しないんです。だから、このときの僕は、本気で泣いていた。という演技をしていた、ということになる」
——なるほど。でも、それが通じなかった、と。
「だから、訴える方向を変えてみた」
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