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 彼には、奇跡だとしか思えないことだったそうです。

 夜が明けて、クリスマス当日の朝。街角の路上で、酔っ払って倒れていた椿山さんは、ある人に起こされました。

「……もう朝ですよ」

 クリスマスムードにまったく流されない、ブラックの中折れ帽に、シャツは白だが、ネクタイは黒、ピシッと仕立てたブラックのスーツを着た男。どうにも人を安心させる、輝かんばかりのものすごい笑顔の男。

(あなたは……)

 路上にへたり込む自分をのぞき込むその男は、豊年満作その人でした。

「お久しぶりです、椿山様。その節は、お世話になりました」

 相変わらずの、似合い過ぎるほどの営業スマイルで、深々とお辞儀をしてきたそうです。

「まさか、このようなところで再びお目にかかれるとは。お元気でしたか?」

 まるで何事もなかったかの様な、この一年がノープロブレムだったと言わんばかりの、普通のあいさつ。

 だけど、椿山さんは、この一年、ずっと探していたんです。この男を。人生最大の恨みを持って。

 呪い、と言ってもいいかもしれません。

 彼は、男にしがみつきました。もう逃がさない。

(返せ! 僕の声を! 返せ!)

 何を言っているのか、ほとんど聞き取れない声で、でも、しっかりと一音一音、相手にたたきつける様に、言葉を伝えたそうです。

 しかし、必死に伝えた割には、相手の反応は薄かったと言います。

 セールスマンは、常に笑顔を絶やしません。

「返せ、とおっしゃいますか? いやしかし、きちんとした契約書を取り交わし、ちゃんとあなたのご要望通りの金銭もお支払いしましたのに、それを今さら」

(あんな契約は無効だ!)

「そう申しましても、もう一年経ってしまいましたし、もちろん、クーリングオフだって利きません」

 契約として、豊年満作が言うことは、至極最もでした。

 ですが、だからといって、諦めるわけにいきません。

なにより、この一年間、探しに探した相手であり、椿山さんにとっては、まさに奇跡としか言いようのない再会だったのです。この機を逃すことだけは、なんとしてもできません。

(僕は、全てを失ったんだ! 何とかしてくれよ!)

「ええ、もちろん。おかわいそうだとは思うのですが……」

(金は返す! 返すから! 使った分も、全部まとめて返すから!)

 それでも、豊年満作の心は、折れてくれません。

 契約は、間違いなく成立してしまっているのです。

 悪魔との血の契約でなくとも、自ら拇印は押してしまった。

(なんとか、なんとかしてくれよ……)

 椿山さんは、しゃくり上げる様にして泣きました。

ボロボロと、大粒の涙をこぼしながら。

泣き声もか細く、ほとんど聞き取れません。

 そんな彼に、セールスマンは、こう言ったそうです。

「残念ですが」

 営業スマイルで。


 ——契約を破棄させることは、できなかったんですね?

「忌々しいくらいに、しっかりと成立していたからね」

 ——このとき泣いていたのは、本気の涙ですか? それとも、泣き落としのための涙?

「なるほど。僕が役者だから?」

 ——そうですね。ただの演技、ということもあるかと思いまして。

「それは、演技を誤解している。演技は、別に嘘の気持ちでやることじゃない。むしろ逆で、心からの気持ちがなかったら、演技は成立しないんです。だから、このときの僕は、本気で泣いていた。という演技をしていた、ということになる」

 ——なるほど。でも、それが通じなかった、と。

「だから、訴える方向を変えてみた」

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