第17話 敗北の魔女。
暗いわ。
暗い。
何も見えないわ。
息もできない。
声も、聞こえないの。
暗い、暗い、闇。
息苦しくて、温度もなくて。
こわい。
こわいわ。
さむい。
さむいの。
どうして。
どうしてお姉さんはわたしに死んでほしいの?
わたしはいらない子?
だから捨てられた?
捨てられたわたしがいたから、わたしのせいで、お姉さんの幸せは、なくなってしまったの?
ねぇ。
ねぇ、誰か。
教えて頂戴。
わたしに、教えて?
わたしは、生まれてきてはいけなかったの――?
❖ ❖ ❖
カメオの破片が大理石の床へと落ちると同時、ネリーの身体も傾いだ。
「ネリーさん!」
床にくずおれるまえに、エルネストがネリーの身体を支える。
ボロボロの
焦るエルネストを横目に、ドロテは勝利を確信したかのように声高らかに笑った。
「これでそれはただの木偶の坊ね。精々したわ!」
「ドロテ……! お前は……!」
エルネストが腹の底から響くような低い唸り声をあげる。
感情の沸点を突破してしまって、エルネストの身体が怒りに震えた。
そんなエルネストを、ドロテはきゃらきゃらと嗤う。
「何を怒っているのさ? それは化け物よ。首がなくて生きてるなんて、気味が悪いじゃない」
「そうしたのは貴様だろう!」
「うるさいなぁ……あたし、今、気分がとってもいいの。口先しかないような雑魚騎士程度、見逃してやろうと思ったのに……死にたいの?」
呪詛を手のひらで転がすドロテ。
エルネストがそれを睨みつけていると、バイザーで狭いはずの視界の端に、ふと赤いものが映り込む。
なんだ、とその赤色を追いかければ、ネリーの首から立ち上る煙が段々と赤く染まりはじめていて。
ドロテがますます喜んだ。
「その煙が血に変わるのも時間の問題ね。汚れるから侍女を呼びつけなくちゃ。這いつくばってハイエナ女の血を洗わせるの。うふ、なんて愉快なのかしら!」
ドロテはコッ、コッ、コッとヒールを鳴らしてエルネストの横を颯爽と通り過ぎる。
エルネストは兜の奥で、唇を噛み締めた。
エルネストは何もできなかった。
ドロテの猛攻に、自分より幼い少女を前に立たせ、その後ろで守られていた自分が情けない。
このままでは皇太子はおろか、傾いていく国を立て直すことなんて。
ガツン、と大理石の床を殴る。
鋼鉄の手甲を通して、エルネストの指にその痺れるような衝撃が伝わった。それでも大理石の床は傷つかない。
ヒールで大理石を打ち砕いたドロテの膂力を改めて思い出す。ネリーを散々化け物と言っていたけれど、エルネストからしてみれば、ドロテのほうがよっぽど化け物にふさわしい性根を持っている。
ガツン、ガツン、と、自分の愚かさを戒めるように床を殴っていたエルネストの前に、ふと誰かの影が差し込んだ。
「エルネスト」
かけられた声に、バイザーの奥で目を瞠りながら、エルネストは顔を上げた。
「殿下……?」
「しくじったな。あの魔女を断罪するよい機会だったものを。……すまなかった」
秀眉をひそめた皇太子が、玉座から降りてきて、こと切れたようにぐったりとした首なしの魔女を抱く甲冑の騎士の前で膝をつく。
ネリーになにかされてしまうのではと、彼女を更に抱きしめつつ、反射的に身構えていたエルネストに、ケイネスは小さく謝罪をした。
ある時を境に、無感動になっていたケイネスの瞳に正気が宿ったのを見てとり、エルネスト不敬ながらも声を上げてしまった。
「殿下、ドロテに操られていたのでは……!」
「あの布、魔除けのまじないか何かが施されているな? 触れた瞬間、それまで霞がかっていた思考が晴れるようにお前たちが見えた。クソ、これ以上手のひらで転がされて、共倒れなんて冗談ではないぞ」
顔に似合わず口が悪いケイネスに、ああ、ようやく自分の知っている主君に戻られたのだとエルネストは理解した。こんな状況でありながら、ついつい以前のように主君を咎めるような言葉が出てしまう。
「殿下、お言葉が悪いです」
「うるさい。利用するつもりが逆に利用されるとはな……魔女というものは腹立たしい」
鬱陶しそうに肩にかかる翡翠の髪を背中へと払い、ケイネスは床へと膝をつく。
先程まで不遜にも玉座へと腰かけていた人物とは思えないほど、その口調には元のケイネス自身の個というものがあふれている。理不尽を体現するかのような言葉はなく、どこか柔らかい、人間味のある感情がケイネスの言葉に乗っている。
ケイネスの言う通り、ネリーの献上した贈り物には、ネリーお手製の刺繍が施されていた。魔女のおまじないよと言って、彼女が道中、エルネストのためにこそこそと誂えていた衣装だった。
呪詛を使うドロテに対抗できるよう、魔除けのおまじないをめいっぱいに施していたのだとか。
それを皇太子に献上しようと言い出したのは、人が変わったようにドロテの味方をする皇太子の話をネリーが聞いたから。
ネリー曰く、心を操ることは魔女の魔法じゃできなくて、できるとしたら、魔女の暗示のひとつなのだという。
言霊茶と同じなのだと言われれば、それを目の前で見たことのあるエルネストはすごく納得してしまった。
ネリーの言う通り、ドロテが権力者に暗示をかけて味方を作っているのであれば、その暗示を解かなくてはいけない。
その暗示を解くためのおまじないも、ネリーはこのジャケットに施してくれていた。
――あなたは強い人、とっても素敵な人。誰かの言いなりになんかならない、あなただけの真実を追いかけて。
刺繍糸で紡がれたおまじないには、ネリーの想いが籠もっている。
その想いは、きちんと実を結び、皇太子が目を覚ました。
だけど。
エルネストはぐっと喉の奥にこみ上げたものを飲み下す。
まだだ。
まだ目的は達成されていない。
それに何より、ネリーが犠牲になるのは、許されない。
ケイネスが、微動だにしないエルネストから、彼に抱かれているネリーへと視線を移した。
ネリーの首から、絶えず流れ出る雲のような煙。
赤色が混じりだしている白い煙はか細くなびいて、謁見室の高すぎる天井へと立ち昇って霧散していく。
「この娘も魔女か。首を斬られたのか?」
「……ドロテの呪詛によるものです。ドロテの首についてる顔がもともと、彼女のものなのです」
「……彼女は死んでいるのか? いわゆる
違う。ネリーは死んでなんかいない。
首がなくても生きていた。くるくるとエルネストを取り巻く雲の文字は、いつだって楽しそうに揺れていて、乙女の秘園のようなネリーの心境をうっかり綴っては、エルネストの心をくすぐった。
ネリーは化け物なんかじゃない。
不要だと、死んでしまえなんて言われるような、そんな扱いを理不尽に受けていい少女じゃない。
エルネストはケイネスからかけられた言葉を力いっぱい否定する。
「いいえ! いいえ! ネリーさんは死んではいません! まだ死んでいない! 死んでは――俺が、死なせはしない……!」
自分に言い聞かせるようにエルネストが声を上げたとき、不意に思い出した。
この旅の始まり。
ネリーが楽観的すぎて呆れていた赤毛の魔女から託された、大切なものの存在を。
エルネストはもどかしそうに篭手を外し、鎧を外した。
エルネストの、鎧の内側の胸の上で揺れている、微笑む女性の顔が掘られたカメオ。
革紐を通して、肌身離さず首から下げていたエルネストは、これを持たせてくれたラァラに感謝した。
『ネリーのカメオはあいつの命だ。あいつは魔女だが、魔女の血統じゃない。不老長寿でもなければ、首がなけりゃ死んじまう。カメオがネリーの頭を担っているんだ。ネリーから絶対にカメオを外すんじゃないぞ』
魔女の集落を旅立つ直前のラァラが、エルネストの頭の奥で囁いている。
ラァラはこのカメオを使えと言っていた。
どうすればいいのかはわからないけれど、でもこれが、ネリーを救う鍵なのは間違いなくて。
「ネリーさん、目を覚ましてください、ネリーさん……!」
エルネストはその革紐を引きちぎって、カメオを外す。
ネリーのライラックのチョーカーは破れてしまっていたから、エルネストは長く取っていた革紐を三重に巻くようにして、ネリーの首へとカメオを添えた。
一連の動作を見守るケイネス。
エルネストが祈るような思いで、ネリーの首からこぼれていくものを見ていれば。
赤いものが混じっていたネリーの雲が、いつものような穏やかな白色へと戻る。
か細い呼吸のように、細く、細くたなびく雲の煙に、エルネストは奇跡のような安堵を覚えた。
「良かった……! あぁ、良かった……!」
安堵のあまりにもう一度、素手で床を殴るエルネスト。拳に響く大理石の滑らかさが、エルネストに現実味を与えてくれる。
「エルネスト、助かったのか?」
「赤いものがなくなりましたので、おそらくは……ですが、意識を取り戻しているわけでもないようです」
ちっとも動かないネリーの身体。いつだって踊っている雲の文字も潰えたように、ただただ狼煙のようにけぶっているだけ。普通の人間で言えば、気絶しているのかもしれない。
エルネストの言葉にケイネスは頷くと、視線を謁見室の入り口の方へと向けた。
「その娘を連れて、私の離宮へ行け。ドロテがさきほど、掃除のための侍女を連れてくると言っていただろう。戻ってくる前に、早く移動した方がいい」
「殿下はどうなさるつもりですか? 暗示が解けたことを知られては……」
「上手く凌ぐさ。なに、この献上品があればあの魔女の言いなりにはならない。二度と同じ轍を踏んでたまるものか」
ケイネスはそう言って、今着ていたジャケットを脱ぎ、ネリーから贈られたジャケットを羽織ると、すっと立ち上がる。元はエルネスト用に作っていたせいか、細身のケイネスにはサイズがだいぶ大きいようだ。
「信頼できるものは?」
「……ガヴェイン騎士団長が選別しています」
「ガヴェインか……あれにも失望されてるだろうな。彼女にも、申し訳ないことをした」
ケイネスの脳裏に浮かんでいるのはきっと、エルネストの妹だろう。自分の妹のように、国を守護する剣のような強い女性こそ、ケイネスの隣に相応しい人物だとエルネストは思っている。
だからこそ。
「殿下。私を滅し、国益に適う女性を娶りたいというお気持ちは立派です。ですが、貴方は見誤った」
「そうだな……これは私の傲慢が招いた結果だ。私自身でけじめをつけなくてはな」
ケイネスの心からの反省を感じたエルネストは、意識のないネリーを抱き上げた。
出会ったばかりの頃、お姫様抱っこをしてもらえるかも! とはしゃいでいたネリー。
彼女の願いがこんな形で叶ってしまったこと、エルネストはこの先ずっと後悔する。
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