第21話 お姉さん、お覚悟を!
満月がやってきた。
月の魔力が満ちる満月は、魔女の力も大きく満ち溢れる。
ネリーはエニシダの杖を使って皇都の夜空を風に乗って飛び、皇城の屋根へと降り立った。
ジーニアスから、エルネストたちの話は聞いている。
満月の夜に魔女の力が一番高まることを知らないらしいエルネストたちが、今日、ドロテ断罪のために決起するのだと、ネリーは聞いた。
詳しいことは分からなかったけれど、もし本当に今日彼らが動くのならば、一番やめたほうがいい日には違いなくて。
かといって、ネリーがそう言っても組織で動いている彼らに伝えるにはもう遅いし、案外頑固だったエルネストを今更説得できるわけもないから。
ネリーはドレスの裾を夜風になびかせて、城の一番高い屋根の上からシャナルティン皇国を一望した。
とっても広い。
それに、たくさんの家が見える。
ぽつぽつと見える明かりの下には、きっとたくさんの営みがあって。
ネリーは不思議な気持ちだった。
魔女の里の空を飛んでも、森と砂漠しか見えなかった。
それが今や、狭かったネリーの世界が広がって、たくさんの人々の生活に触れて。
キャラバンの商人。
市場でネリーの反物を買ってくれたお姉さん。
宿屋で美味しいご飯を作ってくれる主人。
お城を守る騎士団の人。
ネリーに手を貸してくれた機織り工房の女性職人。
エルネストが言っていた「国を守る」という言葉は、彼らの生活を守ることにつながるのだと、ネリーは思っている。
だって、ネリーが今まで読んできた、正義が悪を倒すような物語は、そうだったから。
ネリーの世界は狭いけど、でもキャラバンの人たちが持ってきてくれる本で、世界というものが末広に広がっているものだと知っている。
そして、物語でいうような悪役に、自分の姉弟子が据えられているという現実も、気づいている。
エルネストが主人公なら、放っておいてもきっと、万事解決していくかもしれない。
でも彼は、ネリーに助けを求めてきた。
他の誰でもない、ネリーを呼んだ。ネリーと繋がってくれた。
【言ったでしょう? わたし、途中で投げ出すのって嫌いなの!】
皇国の夜空に、ネリーの雲の文字がたなびく。
ネリーはエニシダの杖に引っかけていたとんがり帽子を手に取ると、杖を帽子にしまう代わりに、ラァラの変身薬を取り出した。
ひとすくい指に垂らして、望む姿を思い描く。
ネリーの輪郭がとけて、小さく、小さくなる。
やがてネリーは、小さなとんがり帽子を抱えた、頭のない火ツツキ蜂の姿になった。
パタパタと蜂の四枚羽を羽ばたかせると、しっかりと飛ぶことができて。
これでよし。
ネリーは夜空へともう一度羽ばたくと、くるりと一回転する。
火ツツキ蜂といえば、当然。
ネリーは煙突から、皇城に侵入をはたした。
ネリーはドロテの部屋を知らないけれど、がんばって集中すれば、ドロテの呪詛の気配を追いかけることはできた。
ネリーが選んだ煙突も、そうやって見つけた、ドロテの気配が強く感じられる場所に、一番近い煙突だ。窓からの侵入も考えたけれど、さっき空を飛んでいたとき、窓が開いているような部屋はなかったから断念。
【煤だらけかと思ったけれど、綺麗にお掃除されているのね。お城ってすごいわ】
火ツツキ蜂の頭から、新聞のように小さな雲の文字でネリーの言葉が綴られる。煙突の中は冬のシーズンが終わったあと、きっちりと磨き上げられたようで、蜘蛛の巣は張っていても、煤汚れはあんまりない。ネリーは火ツツキ蜂の姿で、あっという間に灰のない暖炉にまでたどり着いた。
暖炉の内側から、こっそりと部屋の中をのぞく。
誰もいない。部屋も暗い。
【間違えちゃったのかしら? ここはお姉さんの部屋じゃないのかも】
でも、ドロテの呪詛の気配がぷんぷんする。
ネリーはもうちょっとだけ頑張って、ドロテの気配を探ってみる。
【近いわ……やっぱり近いのだけれど……あら?】
火ツツキ蜂の姿で、こっそりと暖炉から出ていく。
暖炉の向かいに扉があって、その扉が少し開いていた。
ネリーは興味をそそがれてしまったものだから、そちらに行って、そろりと扉の向こうを覗いてみる。
暖炉の部屋にはテーブルやソファー、本棚が置かれていて、居間のようなお部屋だったけれど、こちらは寝台とサイドボードが一つずつだけの、寝室のよう。
そのサイドボードの上。
ウォールフックがあって、そこに見覚えのあるものが。
【お姉さんのとんがり帽子だわ!】
もっちりしたパン生地のようにまぁるい帽子は、暗くて色はしっかり見えないけれど、でもきっと濃紺の色をしているに違いない。
間違いなく、ドロテの帽子だと思ったネリーは喜んでその帽子へと近づこうとした。
ドロテの首は、きっとこの中にあるはず――
「首なしネリー? それで隠れてるつもりなの? 首がない火ツツキ蜂なんて、おぞましいわ」
ひゅんっ、と。
何かを叩きつけられるような風に煽られて、慌ててネリーは天井の方へと羽ばたいた。
振り返れば、ネグリジェ姿のドロテが本を持って立っている。
その上、その反対の手では低級の解呪魔法を練り上げていたようで。
それを投げつけられたネリーは、天井の近くで元の姿に戻ってしまい、べしゃっとみっともなく床に落とされてしまった。怪我がないことだけは幸いだったけれど。
【ひどいわ、ひどいわ! 潰そうとするなんて!】
「お前、人の部屋に忍び込んでおいて、潰されないと思ってるの?」
ネリーの首から文句がもっくもくと立ち上る。怒っているのだと言うように、ちょっと文字が刺々しい形をしているけれど、ドロテはそれを鼻で笑った。
悲しいことに、ネリーは根が素直だった。うっかりドロテの言い分に、確かに自分がそもそも悪いことをしているのだわ、と思ってしまった。
でもそれも一瞬。ここに来た目的を思い出したネリーは、さっと立ち上がると、ドレスの裾を整えて、改めてドロテと対峙する。
【お姉さん、もういいでしょう。集落に帰りましょうよ。ラァラもスティラも、みんな待っているわ】
ドロテの居場所はここではないと。
帰る場所があるのだと、ネリーはドロテに伝える。
……でも、やっぱりネリーはちゃんと、ドロテを理解しきれていなかった。
ドロテの、闇の中でも明るく輝く満月の瞳が細められる。
「帰る? 馬鹿らしい。あたしはここで過ごすの。ここでならあたしはお姫様扱い。美味しいものも、綺麗な服も、宝石だって手に入る。あんな不自由な場所に帰る意味なんてないじゃないか」
【あるわ! お師匠様のお墓をどうするの? お姉さんのお母様でしょう!】
「黙れ! あんたがあたしから家族を奪ったくせに!」
ドロテの逆鱗を、ネリーはことごとく踏んでしまう。
ドロテが手のひらで練り上げた火の玉のような呪詛を、ネリー目がけて投げた。
それをネリーは堂々と真正面から受けて。
白いフィッシュテールのドレスの上に重ねられた漆黒のレース刺繍が、呪詛を打ち消した魔圧でそよいだ。
ネリーの、新しい
裁縫の魔女の本領を発揮して仕立て上げ、沢山の人の手も借りておまじないをかけた
本当なら隠すようにドレスの裏側に縫い付けるような刺繍のおまじないを、隠そうともしない
「その服、厄介! いい加減にしろ!」
【だってこの服は特別製だもの! お姉さんのために繕ったのよ!】
ドロテがいくら呪詛を飛ばそうと打ち消してしまう
業を煮やしたドロテが、手に持っていた本をぶん投げて来たので、ネリーはそれを慌てて避けた。
【ちょっと! 本を投げるなんてひどいわ!】
「うっさい! なんで死んでないんだよハイエナ女……!」
ドロテのひどい暴言に、ネリーは落ち込みそうになるけれど、いいえ、いいえ、と雲の文字をくゆらせる。
ドロテに恨まれるほどのことを、自分が無意識にしてきたんだとネリーは噛みしめる。それを否定しない。だって否定してしまったら、ドロテの気持ちはどこに行けばいいの?
呪詛だけじゃなくて、手当たり次第の物も投げようとするドロテに、狭い寝室でネリーは逃げ回る。
せめて広いところに逃げたかったけれど、ネリーはまだこの部屋を出られない理由がある。
さっきから目的のものを目の前にしながらも、ドロテの攻撃のせいで遠ざけられていく一方だ。なかなか縮まらないその距離に、ネリーがなんとか隙をつこうと呼吸を測っていると。
「悪女ドロテ、断罪の時間だ。そなたの横暴は、全て暴かれた!」
バンッ! と大きな音がした。
大きく、扉が開かれる音。
ネリーとドロテのいる寝室じゃなくて、もう一個向こうの、ネリーが通り抜けてきた居間の方からで。
最初に見えたのは、昼間のように明るいランプ。
それを持つのは、翡翠の髪を一つに結ぶ、知的な男性。
シャナルティン皇国の皇太子・ケイネス。
そのケイネスを守護するように、鎧を着込んだ騎士たちが、がしゃがしゃと派手な音を鳴らしながら部屋の中に入ってきて。
ドロテはそれに、心底驚いているようだった。
「皇太子!? なんであんたがあたしを裏切るのさ!? あたしの傀儡だったじゃないか!」
「傀儡だと? なかなか面白いな。
皮肉げに笑ってみせたケイネス。彼はランプを掲げると、ドロテを鋭い視線で射抜く。
「傀儡だった私は、優秀な部下のお陰で目が覚めたのでな。これ以上、波紋が広がぬうちにお前を断罪しに来た」
「……呆れた。そんなこと、できると思ってるの?」
「できるさ。これまでお前がやってきたこと、全て私の優秀な部下たちが記録してある」
ケイネスがランプを持っていない手で手を挙げると、騎士団長を筆頭として、また数人、部屋の中へと入ってくる。
彼らはドロテによって呪詛をかけられ、仕事を追われた文官武官や侍女たちだ。その最後尾には見慣れた傷だらけの鎧の騎士様もいて、ネリーはバレちゃった! っとうっかり雲の文字が流れてしまった。
ネリーが別のことに気を取られている間、ドロテがはぁ、と大きくため息をつき。
「……ばっかみたい」
そうぼやくと、ドロテはいつかのように、火の玉のような呪詛を生み出す。
「人間の法で魔女を縛れると思ってんの!?」
ケイネスたちの方へと投げつけられる呪詛。ネリーは両手を広げ、ドロテの前に立ちはだかる。
皇太子や騎士を呪詛から守るため、文字通り身体を張って、遮ろうとしたけれど。
「なめるな!」
ガシャン、と大きな音。
両手を広げたネリーの横をすり抜け、ネリーよりも更に前へと出る、大きな影。
【エルネストさん!?】
「二度と、ネリーさんを傷つけさせてたまるものか……!」
それは騎士の矜持。
エルネストが、その銀の鎧をもって、ネリーの盾になる。
ネリーは慌てた。
普通の人では、ドロテの呪詛には敵わない。
なのに、エルネストは。
腰の剣を引き抜くと、その、呪詛を。
――パンッ!
「なっ!?」
【まぁっ!】
ドロテが、驚愕の声を上げる。
ネリーもびっくりして、首からけぶっていた雲が千切れた。
「お前、何者だ! あたしの呪詛を叩き切るなんて……!」
ドロテの悔しそうな言葉に、エルネストは振り下ろした剣を一振りすると、もう一度、剣を構えて。
「何者だ……と言われても、お前に呪われた騎士の一人としか答えられないですね。これは俺の力じゃない。――ネリーさん、すみません。ネリーさんが献上した服は、殿下には少し大きかったようです。この服、鎧を着てもなかなか動きやすくて、いいですね」
本当はエルネストのためにネリーが繕ったジャケット。
正しく渡るべき人に渡ったその服が、本領を発揮してくれたようで。
【すごいわ! エルネストさんったら、すごいわ! これで百人力ね!】
歓びを綴るネリーとは正反対に、ドロテの形相が恐ろしいものになる。
わたしってあんなに怖い顔ができるのね、とネリーが雲の文字を綴ると、ドロテが再び呪詛を練り上げて。
「ふざけるな……!」
両手を広げた。
ドロテの両手と、胸の前に、三種の呪詛が練り上げられていく。
ネリーはその意図に気がつくと、雲の文字をくゆらせるのももどかしいくらい、大きくしっかりと首から文字をけぶらせて。
【全員部屋から出て頂戴! 遠くへ逃げて! 呪詛の規模が大きすぎるわ! お姉さんったら、呪詛の制約を無視するつもりよ!】
ネリーには呪詛の魔女であるネルテから教わった知識があったから、分かってしまった。
ドロテが今練っている呪詛は、無差別に呪詛を振りまくものだと。
対象はいない。ただ、呪詛を成就させるまで、人を呪い続ける呪詛。
呪詛は一度に一つ、一人まで。
人を呪わば穴二つ。
等価交換によってくだされる精霊の天罰が、呪詛と呼ばれるもの。
それを一度に三つというのは、精霊との制約に反する。
ほんの数日前にドロテがネリーに向けてたくさんの呪詛を投げつけてきたのとはわけが違う。あれは一つずつ、高速で呪詛を練り上げてから、ネリーへと打ちこんでいた。
精霊の誓約を無視すれば、いくら魔女でも、対価の支払いが追いつかなくなる。何が起きるのかわからない。
どうして。
どうしてドロテはそこまでするのか。
【お姉さん! やめましょうよ! そんなことをしても意味はないでしょう!】
「うっさい! 誰のせいだと思ってんだ! あんたがいなければ、あたしはこんなに苦しくなかった! 三百年前、この国がなければ母さんは不幸にならなかった! 魔女の業を知らずに、あたしらを犠牲にして幸せそうにしているやつら、全員不幸になればいい……!」
ドロテの激情が、呪詛を助長させる。
急激に呪詛を練り上げたことによる魔圧が、ドロテのネグリジェを舞い上げ、ネリーのドレスの裾を翻す。
ネリーは圧倒されそうになるのを、がんばって踏みとどまった。
ドロテが嗤う。
三つの呪詛を放ってくる。
それをエルネストが剣を奮い、斬り捨てる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
けれどドロテはその三つだけじゃ留まらず、無数の呪詛を、同時に練り上げて。
徐々にエルネストが押され始めていく。
「防ぎきれなっ……!」
ひとつ、エルネストの剣をすり抜けた。
それはネリーへと、向かって。
【大丈夫。きっと大丈夫! 安心して頂戴、エルネストさん!】
呪詛を含む重たい風に煽られて、ネリーの雲の文字は飛ぶように消えていく。
ネリーはおもむろに、両手を掲げて。
【こんな事もあろうかと、とっておきのおまじないを紡いできたのよ!】
指揮者のように指をふる。
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