06 補遺として

 ……以上がアリエノール・ダキテーヌさまの遺した手記の抜粋である。

 臣、ペンブルック伯が、国王ヘンリー三世陛下の御意を得て、陛下の父たる、亡きジョン王陛下へと捧ぐため、まとめた。



 以下、補遺として。


 アリエノールさまは、ヨーロッパの大貴族アキテーヌ公の令嬢として生まれた。アキテーヌ公家は名門であり、かつ、芸術にも先進的で、アリエノールさまの祖父ギヨーム九世は、最初の吟遊詩人トルバドゥールとして知られる。

 さて、アリエノールさまは、月の港Port de la Luneボルドーにて、フランス国王ルイ七世と挙式。その後、紆余曲折あって、ノルマンディー公アンリ、すなわちヘンリー二世と婚姻。多くの子に恵まれたが、イングランド王位という点では、若ヘンリー王、リチャード一世、ジョン王である。


 そのジョン王であるが、アリエノールさまの手記にあるとおり、フランス国王フィリップ二世(尊厳王オーギュスト)に抗し、教皇へのイングランド奉呈及び下賜という政略、神聖ローマ帝国等の諸国との挟撃という戦略を採った。

 つけ加えて言うならば、あとはリヴァプールの港、自由都市の開設、栄えある英国海軍の創設(実際にフランス海軍を撃破した)など、見るべきものもあった。

 しかし、その神聖ローマ帝国皇帝オットー四世が、ブーヴィーヌにてフィリップ二世に敗北し、全ては水泡に帰した。

 その後、大憲章マグナ・カルタをめぐる戦い、あるいはルイ獅子王リオン(フィリップ尊厳王の子)のイングランド王戴冠たいかんをめぐる戦いで、ロチェスター攻城戦など目覚ましい活躍を見せるが、ついに病に倒れた。

 結果として、失地王ラックランドなる不名誉な二つ名を得るが、ジョン王自身はサン・テール土地なしと呼ばれることを、それほど気にしていなかった。


「父上と母上、そして兄上もそう呼んでくれた愛称だ」


 そう言ってはばからなかった。

 アリエノールさまは、幼いジョン王がそう呼ぶと返事をしてくれるので、「サン・テール」と呼んでいたらしい(晩年は「ジャン」と呼ぶようにしていたが)。

 それが嬉しかったのではないかと臣は拝察するが、真相は定かではない。


 ……ジョン王についての記述が多いが、臣としても思い入れがあり、国王陛下も父の子として知りたいと思われるので、こうなってしまった。

 ご容赦されたい。



 軍務伯Earl Marshal ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル



【了】

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叫んで五月雨、金の雨。 〜或る王妃の生涯〜 四谷軒 @gyro

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