第12話 VSサイクロプス!前編


『はーーーー、やっぱ飯にはシードルだな〜美味うまー!』

 シャングリラ東部、南側の出店エリア。少し前にも訪れたサンドイッチの店にて、コボルトのおっちゃんからまたサンドイッチを買った。丁度朝食時。辺りはたくさんの亜人獣人で賑わっていた。ベンチに腰掛け、並んで食べる。今日は肉が食べたいと言うビッグケットのリクエストに応え、贅沢にローストビーフのサンドイッチにした。これだけで銅貨3枚。以前ならサイモンの数日分の食事代だったものが、今や一回分として消費される。改めて認識すると、恐ろしいほどのグレードアップだ。

『ソリャ良カッタナ。…オイ、サンドイッチノ中身落チルゾ』

『あーホントだ。危ない危ない』

 勢いよく食べ進めるビッグケットの口の端から肉が落ちそうになっていたので、指摘してやる。黒猫は慌ててそれを押さえ、改めてひょいと口に放り込んだ。

『肉は貴重だ。誰かが死んでくれたんだ、大事に食べなきゃな』

 もしゃり、もしゃり。噛みしめるように咀嚼するビッグケットを見て、サイモンの背筋が少しだけ寒くなる。

(誰か、ってすごい言い回しだな…)

 人間ノーマンから見た肉は家畜の物。人間ノーマンとは別の存在という位置づけだが、仮にも獣人である彼女からすると、「家畜」ではなく一続きの「同じ生き物」なのか。言われてみれば彼女は猫だが、例えばミノタウロスは?牛肉を食べるんだろうか。オークは豚肉を食べるのか。ガルーダは鶏肉を食べるのか。考えたこともなかったな。実際、人間ノーマンが猿の肉を食べるかったら決して食用にはしないけど…家畜と人間を分ける人間ノーマンの方が不自然なのかもしれない。いい気づきを得たな。

(さて、あとはデザート…)

 ポテトサラダのサンドイッチを齧りながら考える。ビッグケットと二人、それぞれの味を買って半分交換した。これで肉とポテトサラダを食べたいという彼女の願いを叶えた。残りはデザートだけど、うーん…あっ。

『ビッグケット、食後ニキャロットケーキ食ベルカ?』

『え、キャロット?にんじんだっけ?』

『アア。丁度ソコデ売ッテルカラ』

 ふと視線を上げると、すぐそこでノームの少女が小さな台車を引いて売っている。見ない顔だ。最近ここで売り始めたんだろうか。サイモンがサンドイッチを咀嚼しながらなんとなしに見守っていると、道行く人に声をかけて売ろうとするが上手く行っていない。そうか、この国の人間にとってキャロットケーキは馴染み深い物だが、よそから来た亜人獣人には見慣れない食べ物なのか。声をかけては無視され、落胆する少女を見ていられず、思わず立ち上がって声をかける。

「よう、商売上手くいってないのかい」

「アッ!アノ、ケーキ!銅貨ドーカ1マイデス!イカガデスカ!」

 ふむ、本当にここに来たばかりのようだ。共通語の発音も微妙だし、語彙がないせいかアピール不足だ。これでは必死に話しかけても聞き流されてしまうだろう。

[アンタノームか?最近ここに来たのか?]

[えっ、はい!えと、ノーム語お上手ですね?!]

[ああ、ノームはわりと人間ノーマンの国に来るからな。これくらいなら余裕だ]

 共通語で込み入った会話をするのは難しそうなので、ノーム語で少女に話しかける。ノームと言えば元管理人のアメーリアを思い出すが、恐らくこの子はもっとずっと年若い。小さく丸い目をくりくりと瞬かせ、ふわふわのショートヘアを風に遊ばせている。ハーフリングの人形めいた造形とはまた違い、ぽっちゃりしているのが愛らしい。しかし、ここで売り子をしているということは、子供ではないんだろう。言語の壁程度で商売が上手くいかないとは、随分可哀想なことだ。

[これ、キャロットケーキか?2つ買わせてくれ]

[はい、そうです!ありがとうございます…!やっと一つ目が売れました!]

 なんと、奇しくも初めての客になってしまった。いくらなんでも売れなさすぎだろ。ちょっと心配になって、精算の済んだ一切れを口に入れる。…いや?普通に美味いぞ…。充分売れる味だ。

[ケーキ美味いな。売れないなんてもったいない]

[はい…。あの、人間ノーマンの国ではキャロットケーキが人気と聞いて練習したんですけど、なんで売れないんでしょう…]

 肩を落とし、小さくなるノームの少女。あまりに素直。というか、商売下手かよ。需要ニーズって言葉を知らないんだろうな。サイモンは思わず吹き出しそうになり、いやいや笑うな。と必死に耐えた。

[あのな、ここは人間ノーマンの国だけど、この街に住んでるのはほとんどがそれ以外だから。見てわかるだろ、みんなよそから来てるんだ。だから大体の人がキャロットケーキを知らないか、あまり馴染みがないんだよ]

 この国の人間ノーマンにとってキャロットケーキといえば、ここ100年ほどで生まれ、すっかりお馴染みの存在となった庶民派のお菓子だ。砂糖の貴重な今、たっぷり入れたにんじんで甘みを楽しむ。ついでにちょっと贅沢するならチーズクリームを乗せる。見ればノームの少女が売っているこれもクリームが乗せられており、売り物らしい華やか路線だ。人間ノーマンがこれを見たら「おっ、キャロットケーキじゃん美味しそう。」となるところだが、他の人種じゃそうはいかない。売れないのも当たり前だ。

[えっ!?そ、そうなんですか?!だからみんな興味を示さなかったのかー!]

[だからまずはこれがキャロットケーキだって知ってもらって、食べてもらうことから始めなきゃな]

[そんな…それじゃあまり売れなさそうですね…]

 そう、まず売れる売れないじゃなく、知ってもらうことから始めなくてはならない。あからさまにがっくり肩を落とすノームの少女を見て、サイモンはピンと閃いた。よし、乗りかかった船だ。ここまできたら最後まで面倒見てやろうじゃないか。

[よし、じゃあ俺がちょちょっとアピールの後押ししてやるよ。悪いけどちょっと待ってて]

[え???]

 そこで一旦台車から離れる。サイモンがビッグケットのところに戻ると、黒猫は丁度買い込んだ食料全てを胃に納めたところだった。

『遅い。シードルも全部飲んじゃったじゃないか、何話してたんだ』

『悪イ。アノのーむノ売リ子、最近ココデ商売始メタンダッテ。コノけーきスゴク美味イノニ、共通語ガ下手デ上手クあぴーる出来テナクテ。チョット助ケテヤロウト思ッテナ』

『ええーー??…ホントにお人好しだなお前…』

『マァマァ。コレ食ベナガラシバラク待ッテテクレ』

 サイモンはビッグケットに買ったキャロットケーキを手渡し、急いで駆け出した。何、簡単なことだ。少しの道具があればあっという間に効率よく宣伝出来るようになる。使うべきは頭だ。












[はい、じゃあ絵の具と筆と板を用意します!]

[えっ、これ…買ってきたんですか…私のために??]

 しばし後。サイモンは荷物を抱えて出店エリアに戻ってきた。ざっくりだが、絵の具を4色買ってきた。あと筆を太い細いで2本。そして板。何を隠そう、サイモンは多種多様な言語を操れるだけでなく、絵もまぁまぁ得意だ。そこで何をするか。そう、看板を作るのだ。

[ごめん、ちょっと待ってて。すぐ出来るからな]

[え、は、はい…]

 突然地面に板を置き、這いつくばるサイモンを見てノームの少女が目を丸くする。道行く人たちも何事かと足を止めた。丁度いい。このままショー代わりにしてしまえ。

「アヴァロン名物キャロットケーキ、いかがですか〜。にんじんの素朴な甘みにチーズクリームの爽やかさ。デザートに、小腹満たしに、財布も傷まない銅貨一枚!ぜひどうぞー!」

 サイモンが板に字を書きながら声を張り上げると、ああ、これにんじんのケーキだったのか。ギャラリーからさやさやと声が聞こえた。ほら、やっぱりわかってなかった。

 CARROT CAKE

 赤と黄色の絵の具で橙を作り、大きく共通語で書き込む。さらに下に、自分が書ける全ての言語で同じく“にんじんケーキ”と書き足していく。実際、会話は出来るが読み書きは怪しい言語も多数ある(正直ケットシー語すら書けと言われたらほとんど書けない)。だからこの街に住む全ての人種にアピール出来るわけじゃないけど…片言の共通語だけよりはマシだろう。

「甘い甘いにんじんケーキ、いかがですか〜?朝食にも丁度いいですよー」

 手を動かしながらそれとなく宣伝していると、遠巻きに彼らを見ていた通行人が一人二人、ノームの少女の元にやってきた。「それが何か」わかるのはやはり安心だ。試しに食べてやるか、とキャロットケーキを買っていく。

「ア、アリガトウデス…!アリガトウデス!!」

 ちりんちりんと支払われる銅貨。少女はそれを感激した様子で嬉しそうに握りしめた。そうこうしているうちに看板が完成した。文字と簡単なケーキの絵だけだ。そうかかるもんじゃない。

[どやっ。可愛く出来たんじゃね?]

[うわーーーっ!絵お上手ですね!!]

 サイモンが板を持ち立ち上がると、見守っていたギャラリーからも拍手が送られた。橙、白、赤ピンク黄色黒。暖色で明るくまとめた看板は、ちょこんとケーキの絵が添えられて愛らしい仕上がりだった。


 ☆キャロットケーキ☆

 人間ノーマンの国、アヴァロンで人気の伝統スイーツ!貴方はもう食べた?知らないなら今日食べて自慢しよう!銅貨1枚。


 宣伝文句を見たギャラリーがくすくす笑う。やがてその看板を見た他の通行人も、ちらほら足を止めてノームの少女の元へケーキを買いに行った。サイモンの看板製作ショーが功を奏し、次々銅貨が支払われる。ノームの少女は顔を真っ赤にして目を潤ませた。

[はわ…あ、ありがとうございます…っこんなに、こんなに売れるなんて!]

[ま、ここに来て日が浅いんじゃ大変だろうな。とりあえずただ呼び込みするだけより、この看板立てといた方が上手くアピール出来ると思うから。使って。あと、その辺の人に声かけるなら]「キャロットケーキいかがですかー」[って言えばいいよ。“ケーキ”だけより伝わると思う]

[は、はい!えーと…]「きゃ、きゃ…」

「キャロットケーキ、いかがですか」

「キャオットケーキ、イカガデスカ…」

「うーん惜しい。キャロットケーキな」

 きゃ、きゃろっと、きゃろっと…と何度も共通語を練習するノームの少女を尻目に、じゃ、俺はこれで。とサイモンが踵を返す。少女は慌てて顔を上げ、声を張り上げた。

[あっ!?あの、すみません!ありがとうございました!私まだここでケーキ屋頑張ってみます!あのっ、お礼は何をすれば…!]

 お礼と言われたものの、サイモンの視線の先には、散々待たされて不機嫌顔の猫が座り込んでいる。ぱちんぱちんとベンチに尻尾を叩きつけているので、もう待たせられそうにない。どうにか彼女の機嫌をとりつつ少女の気持ちを汲むためには…

[じゃ、キャロットケーキあと2切れくれる?]

[はい!じゃあ、これタダで差し上げます!本当にありがとうございました!!]

 満面の笑みを浮かべたノームの少女。その小さな手からキャロットケーキを2切れ受け取り、ビッグケットの元へ戻る。軽く振り返れば、何人もの客が彼女を取り囲み銅貨を渡している。この様子なら、しばらくは大丈夫だろう。…さて。

『…お人好し。格好かっこつけ。お前しょっちゅうこんなことしてんのか』

『ハハハ…マーナ。ココ数日ダケデモ何人カ助ケテルシ』

 サイモンはご機嫌取りとして、とりあえず黒猫にキャロットケーキを差し出した。さっき渡した分は当然なくなっている。美味しく完食したと考えるべきだろう。ビッグケットは唇を曲げて不満!という素振りを崩さなかったが、しかし出されたキャロットケーキを乱暴に受け取った。その場で大口を開けて放り込む。

『…ふん、その助けられたうちの1人の私が文句言うのもなんだから黙っておくけどさ。遅い、遅い!待ちくたびれた!』

『ハイハイ悪カッタヨ。ジャ、今日ハ何シヨウカナ…ト思ッタケド』

『思ったけど?』

『オ前モソロソロシヨウ。共通語ノ勉強。』

『えーーーーっ』

 そう、さっきの少女を見て改めて思い出した。いい加減引っ越しも必要最低限の買い物も一段落したし、そろそろビッグケットに言葉を教えてやらなくては。どうせどこかに出かけるといっても、この街には大した娯楽も観光出来る場所もない。本来軍事都市だし。ビッグケットの場合、散歩だなんだと勝手に街のことくらい覚えるだろうしな。となると、今やるべきは辞書と文房具を買って共通語のお勉強だ。何、さっき絵の具を買うついでにインクとペンと紙を買った。あとは辞書があれば完璧だ。

『コノ街の規模ダト、サスガニケットシー語対応ノ辞書ハナイ。後デ冒険者ギルドニ買イ物ヲ頼モウ』

『…ってことは、今日はまだ勉強出来ないよなっ?』

 あくまで黒猫は遊びたい様子だ。引きつった笑顔で念を押してくる。しかし残念。「他の辞書ならバッチリある」。

『イヤ。オ前セクメト語ノ読ミ書キ出来ルンダロ。ケットシー語ノ辞書ガ届クマデ、ソレ買ッテ勉強シヨウ』

『なんでだよ!!2冊も辞書買うなよもったいないだろ!!』

 うずくまった。ベンチに座ったままビッグケットが絶叫した。サイモンはその背中を優しく叩く。遊びたい盛りの彼女にとっては死神の報せだろうが…

『何言ッテンダ、イツマデモ俺ニ通訳サセルナ。勉強始メルナラ早イ方ガイイ。何セ覚エル事ハ山ホドアルカラナ!』

『わーーーっ、鬼ーーー!!!』

『人ヲ軽々ブチ抜ク奴ガ何言ッテンダ』

 ビッグケットは幼い子供のように嫌々と頭を振っていたが、サイモンに腕を掴まれて渋々立ち上がる。目指すは書店。そしてしばらく引きこもるための食料を買う所。あとちらっと冒険者ギルドに立ち寄って…

『オーイ、先ニ昼飯買ウゾ。今日ハ闘技場ニ行クマデ家デ過ゴスカラ…何食イタイ?』

『んんんん、肉!魚でもいい、メチャクチャたくさん!』

『ハイハイ、ジャアオヤツト飲ミ物モ買オウナ』













 セクメト語→共通語の辞書、ペリー(西洋梨酒)、袋いっぱいのチップス(フライドポテト)、そして昼飯用のミートパイをどさっと買い込んだ。ついで冒険者ギルドに行き、金を払って買い物の依頼オーダーを出してきた。帰宅。ビッグケットの両耳が早くも嫌そうに伏せられているが、いずれ必ず通る道だ。少しずつでもいいから言葉を覚えて、早く共通語に慣れてもらわねば。サイモンはビッグケットに続いて玄関をくぐり、ダイニングテーブルに荷物を置いた。

『ホラホラヤルゾー。マズハ楽シイ事カラダ』

『…楽しいことってなんだ?』

『共通語デ覚エタイ言葉ハアルカ?』

『え…』

 椅子を引き、キッチンを背に腰を下ろすサイモンを見たビッグケットは、うーん。としばし思案する。

『…えーと…腹減った。とか…?』

「お腹が空きました」『ダナ』

『ぶっ殺されてぇのかテメー!とか?』

「命が惜しくないようですね」『カナ』

『…あっ、売られた喧嘩は買うぞ!とか!』

「売られた喧嘩は買いますよ」『ッテ オ前、物騒ナ言葉バカリジャナイカ!』

 ビッグケットが挙げる会話例を片っ端から訳していくと、黒猫がからから笑う。こいつ、わざとだな。エロい単語を人に言わせるガキかよ。

『面白!じゃあ、とりあえず共通語で喧嘩出来るよう色々教えてもらおうかな!』

『モーー、違ウダロ!?チャント会話シテとらぶるヲ回避スルタメニ共通語覚エルンダヨ、シッカリシロ!』

『えーーっ、なんだつまんない!』

『マッタク…』

 しまいにはつまらない!なんて匙を投げる。ビッグケットは共通語を覚えることにあまり興味がないようだ。仕方ない、地道にいくか。

『ジャア、マズハコレガ』「パン」

 ビッグケットが見るか見ないかなど気にしない。サイモンは買ってきたメモ帳に食べ物のイラストとセクメト語、共通語の二種で名前を書き込んだ。なお、セクメト語は彼の中でも読み書き会話完璧に制覇した数少ない言語のうちの1つだ。

「肉」「魚」「牛乳」「木苺」「ステーキ」…

 テキトーに、ビッグケットの好きそうな物を書き込んでいく。そのうち、何をしているのかと黒猫が覗き込んでくる。…よし、かかった。

『わー、絵上手いな!』

『簡単ナ絵ナラスグ描ケルゾ。イイカ?コレガ』「パン、肉、魚、牛乳、木苺、ステーキ…」

 一つずつ指さしながら説明すると、ビッグケットの尻尾が嬉しそうに揺れた。やっぱ食べ物への興味はすごいな。

『うんうん、でもいっぺんに言われたらわかんないよ』

『ソウダロウナ。ジャアモウ一回言ウカラ、自分デ読ミ方ヲ書キ込メ』

『わかった』

 よーし釣れた。ビッグケットは真剣な面持ちで椅子を引き、机を挟んでサイモンの正面に腰を下ろした。せっかくだ、ここらでジョークもかましてやろう。

『ところでこれが』「ネコ」

 ビッグケットがやる気を出したところで、サイモン渾身の「可愛いネコ」を描いてやる。ついでにセクメト語で「にゃーん」と書くと、ビッグケットは耐えられず吹き出した。

『なんだこれ、上手いwww可愛いwww』

『コレガ』「犬」

 次は犬。犬のイラストと「わんわん」と書くと、これまた黒猫がけらけら笑った。うん、こんな感じなら少しずつ覚えていけるかな。そこでサイモンはこほんと咳払いし、ペンを握り直す。

『ジャア、食ベ物ノ名前ニ戻ルゾ』「パン」

「ぱん」

「肉」

「ニク」

「魚」

「シャカナ」

「牛乳」

「ギューニュー」

「木苺」

「キーチゴ!」

「ステーキ」

「すてえき!!」

 ビッグケットが渡されたペンを握りしめ、嬉しそうに読み仮名を書き込んでいく。一部微妙に違うけど、まぁ大事なのは興味を持つことだ。細かいディテールはまたあとでってことで。

「アト食ベタイ料理トカアル?」

『うーん、じゃあシチュー…』

「シチュー」

『アロスアラクバーナ』

「アロ…」『エッ、何ソレ?』

『え、こっちにはないのか?ほかほかライスの上にトマトソースと目玉焼きが乗ってるんだ』

『ヘーッ、美味ソウダナ。ジャア』「米、トマト、卵…目玉焼き…」

「コメ、トマト、アー…タマゴ?め、」『最後なんだっけ?』

「目玉焼き」

「メダマヤキ…」

 サイモンが食べ物のイラストと名前を書き込み、ビッグケットがその読み仮名を振っていく。黙々と二人で顔を突き合わせていたが、朝散々揉めた不埒な感情は特になく、また退屈でもなかった。そのうち話題はビッグケットの故郷の料理の話に移っていく。

『ケットシーはパンが好きなんだって。だからばあちゃんもよくパン料理を出してくれた。固くなったパンを砕いてスープに入れたミガスがホントに美味しかったんだよ』

『ヘェ』

『ミガスは地方によって色んな具があって、でもうちではよく儀式的に食べてたんだよな。動物を殺して食べる時のお供だった』

『ソウナンダ…』

『死んでくれる動物に感謝しながら、血を固めたものとか内臓のシチューと一緒に食べた』

『ワァ、わいるどダナァ』

『だからそのうちサイモンも…』

『アッイヤ、内臓だいれくとめにゅーハチョット。都市部ノ人間ノーマンハ食ベナイカラ』

『そうか?』

 残念だな…と呟く黒猫を前にして、サイモンはだんだん背筋が寒くなってきた。これ、そのうち目玉くり抜いて直に食べるのが最高に美味くて!とか言われそうだ。しょせん人間ノーマンと獣人。相容れない部分もあるんだな…。しかし、目に見えて落胆してしまったビッグケットにそんなことは言えない。慌ててフォローを入れる。

『ア、デモ!みがすッテ奴ハ普通ニ美味ソウダナ?すーぷノ具ハ何入レテタンダ?』

『うーん、にんにく、オリーブ油、唐辛子、玉ねぎにんじんベーコン…かな?』

『ナンダ、ソレナラ俺デモ食ベラレルヨ。今度作リ方教エテクレ』

『お、いいなそれ!楽しそう!』

 二人でこれからの話なんかをしながら。サイモンが目の前のメモ紙に食材のイラストを書き込んでいく。

「にんにく、油、唐辛子、玉ねぎ、にんじん、ベーコン…」

『って、私は楽しいけど食べ物の話ばっかでいいのか?これじゃ周りの人間と全然話せないぞ』

 何度か聞き返しつつ、読み仮名を書き込むビッグケット。サイモンは黒猫を見つめながらにっこり笑った。

『大丈夫。大事ナノハ面白ソウッテ思ウコトダ。コレデ買イ物スル時、オレト店員ノ会話ガ気ニナッタリスルダロ。ソウイウトコカラ少シズツ覚エレバイイカラ』

『なるほどね』

 気がつけば、メモ帳の数ページに渡って食べ物のイラストがいっぱいになった。それを眺めるビッグケットは嬉しそうに口元を緩めている。

『あーっこれ見てたら腹減ってきた!おやつちょーだい』

『アア、ジャアちっぷすデモ食ベロ。デモナ、1ツイイコトヲ教エル』

『何?』

『ソンナニ食ベ物ガ気ニナルナラ辞書デモ読ンデロ。ツマンナクテ食欲消エルゾ』

 サイモンはそう言って辞書を掲げ、にこーっと口角を上げた。途端にビッグケットの両耳がぱたりと倒れる。

『鬼。悪魔。辞書なんか読んでられっか』

『ソウカ?会話ノ例ガ載ッテルカラエート、知識ガ増エルゾ』

『チッ…』

 両耳を倒したまま辞書を受け取ったビッグケットは、渋々といった顔で辞書のページをめくり始めた。ぱらり、ぱらり。それをサイモンが黙って眺める。

『…ビッグケット、ヤッパセクメト語デ会話スルノハ気ガ進マナイカ?』

『…なんだ急に』

『正直俺、セクメト語ノ方ガ発音自信アルンダケド…ケットシー語、聞キ取ルノ大変ジャナイ?』

『…まぁ、けっこうボロボロだよな』

『「人間ノーマンにとってセクメトはほぼ敵なんだけどサ、その分身近だし話す機会もたくさんあるんダヨ。俺の生まれた街にもまぁまぁいたナ」』

『!』

 ケットシーがセクメトと微妙な関係と知って以降、今まで意図的に避けていた。しかし意を決してセクメト語で話しかけると、ビッグケットは驚いたように顔を上げた。

『「どう?語彙も発音も正直こっちのが上ダ。もし嫌じゃなきゃこっちの方が俺は…ありがたいケド…」』

 今ビッグケットはセクメト語の辞書を読んでいる。てことはどうしても関わりたくない、というわけでもないんだろう。彼女の民族意識を尊重するなら、もちろん不格好でもケットシー語を使った方が喜ばれるんだろうけど…正直そのへんはどうなんだろう。黒猫の返答を待つ。

『…………。私は、もしサイモンがどうしても嫌なんじゃなければケットシー語で話して欲しいかな』

『…ヤッパリ…?』

『うん……………まぁ、ケットシー皇国に行けば嫌でも関わるんだろうけど。私は、私自身は、糞ライオン共に媚びる気ないから』

『…ソッカ。ゴメン、変ナコト聞イテ』

『ううん。気を使ってくれてありがとう。じゃあ、何かどうしてもケットシー語で伝えられない言葉が出てきたらセクメト語使ってくれ』

『ワカッタ』

 何気ない提案だった。しかし、彼女は予想通り断った。サイモンは白人の人間ノーマンだ。この地方では非常に平均的な外見だし、その上で上か下かと問われたら上の立場だ。だから正直、民族感情とか問題には疎いと言える。しかし獣人である彼女にとってそれは身近で、様々な感情がそこにあって、逃れられない存在だ。便利とか、楽とか、そういう要素では測れないことがたくさんあるんだろうな。聞いて損したかもしれない。気分を害してなきゃいいけれど。

 また無言の空間に戻る。なんとなく、さっきの会話が頭の中を流れていって…

(ケットシーの国、か。やっぱいつか一緒に行くべきなんだろうか)

 ふとサイモンの頭にそんなことがよぎった。知らない食事。知らない文化。猫の国。きっと彼女自身、祖母から聞いた事が全てで本物を見たことはないのだろう。一生の相棒を名乗るなら、祖母の件含め二人で精算するべきじゃないのか?

『…ビッグケット。イツカ一緒ニケットシー皇国、行ク?バアチャンノ事、チャント国ニ文句言ッタ方ガ良クナイ?』

 ビッグケットが大人しく辞書を読んでいるので、サイモンはよく使いそうな日常会話をひたすらセクメト語と共通語で書き出す作業をしていた。最悪これを持っていけば外の人間と交流出来るように。すると、同じく黙っていたビッグケットがこちらに答えを返してきた。

『…じゃあ、私もまぁ…ある程度共通語覚えたらでいいんだけど。行きたい所があるんだ。付き合ってくれる?』

『アアイイゾ。ドコダ?』

 カリカリ、カリカリ。静かにペンを走らせるサイモンに。ビッグケットが小さな声をかける。

『…親父のところ』

『エッ』

 驚いた。親父って…父親だよな。ビッグケットの父親の所、だって?居場所を知っているのか。

『オ前ノ父サン、ドコニ住ンデルカ知ッテルノカ』

『ああ、多分…だけどな。その気になればあいつの家に行ける』

『…ソウカ…デモ…』

 それってもしかして、もしかして。

『ソレ、バアチャンガ国ヲ出サレル原因ニナッタ…ヒトダヨナ』

『…そうだよ。だから、もしお前が良ければ。だけど』

 ビッグケットはただ黙って辞書を読んでいる。提案した当初嫌がったわりには、熱中して読み進めているようだ。気質的にお勉強が苦手でも、能力的には得意なのかもしれない。まぁ、頭いいケットシーの血が流れてるんだもんな。

 …いや、そんなことより。なんでもあけすけな物言いをするビッグケットにしては歯切れが悪い。お前が良ければ、だって?言葉に出さなくてもそれは、ビッグケットが鬼のように強くなった原因の種族、の血をダイレクトに引いたハーフなんだよな。それに会いに行けってことだよな。

『…………………何シニイクンダ?結婚ノ挨拶ジャナイヨナ?』

『ふふ。だったら楽しかったけどな』

 ビッグケットが口元だけ笑みを浮かべている。それは伏せた冷めた視線と相まって、酷く大人びた表情だ。

『…………まぁ、なんだ。ケットシーの国に行く前に、あいつに一言文句言えたらなって。なんでばあちゃんと私を捨てたのか。死んだばあちゃんのために、せめてそれだけでも聞けたらって思って』

『…………ソウカ』

 行って即殴り殺すという話ではないようだ。思わずサイモンはほっと胸を撫で下ろした。それなら例え、相手が何かしらの獰猛な種族だろうと生き延びる望みはあるだろう。…ん?そのへんの詳しい話をしないまま約束だけ取り付けようとしてるってことは…………いや。あまり深く考えないでおこう。俺はこいつと一生相棒でいるって決めたんだ。今朝のことといい、こいつは俺を試している。

 俺が一生の相棒として相応しいか。

『「ふふん。見くびってもらっちゃ困るナ。お前、俺を試してるんだろウ。いーいだろウ、お前が望むならどこでもついていってやるサ!!任せろ相棒!!」』

 より気持ちが伝わるように。あえてセクメト語で言葉を贈ると、ビッグケットはパッと顔を上げた。満面の笑みを浮かべている。

『ホントか!?言質取ったぞ!!』

 …言質って。やっぱり、ロクでもないことに巻き込もうとしてるな。しかしサイモンも負けじと笑みを浮かべた。これだって乗りかかった船だ。結末を見届けるまで降りてやる気はない。

『ジャアトリアエズ、今日ノ闘技場4回戦勝タナキャナ。ドウセ圧勝ダロウケド、気ヲ抜クナヨ』

『ああ、ああ!俄然やる気出てきたぞ!!』

 うおー!!と両手を上げるビッグケット。その突然元気いっぱいな姿に、一抹の不安がないと言えば嘘になるけど。とにかく今日4回戦。これを抜ければ明日が最後だ。金貨50枚+αの報酬が目前に迫っている。待ってろ金貨、そして殿堂入りの名誉!!二人は気持ちも新たに、また紙に視線を落とした。時間はまだまだある。まだしばらく勉強しなくては。















 かち、かち、かち。

 壁にかけられた時計の秒針が時を刻んでいる。視線を上げれば午後4時。そろそろ外に出るか。

『ビッグケット、ソロソロ飯食ウカ』

『あーーーーーッ食べる!!!疲れた腹減った!!』

 結局、ビッグケットはずっと辞書を読み込んでいた。時折紙とペンで何か書いて練習していたし、態度のわりには真面目に勉強している。感心感心。

『ナンカ共通語覚エタカ?』

『んーーっ…』

 あんだけ読んでれば何かは覚えたんじゃないか?そう思ってサイモンが話題を振ると、

「ワタシノ、ナマエハ、びっぐけっとデス」

「おおーー」

「スキナコトハ、タベルコトト、ネルコトト、んんん、コロスコト、デス!」

『「物騒!!!!」』

 結局酷かった。ただでさえ荒っぽい奴なのに、色々削ぎ落とすとこうなってしまうのか…。いや、今日辞書を読んでただけなのによくここまで言えるようになった。ぶっちゃけ、ここ西方大陸の言語は大体文法が一緒だし発音の基本も似ている。とにかく単語と細かい発音さえクリアすれば、あとは一気にいけるともいえる。

『スゴイジャン、チャント聞キ取レルゾ』

『へへへ。この調子ならあっという間に話せるようになったりして?』

『ウン、オ前ナラ出来ルヨ』『「ネイティブ話者の俺が付いてるからナ」』

 サイモンがパン!と背中を叩いてやると、ピンと伸ばされたビッグケットの尻尾が揺れた。

『よしっ、とっとと覚えて親父に会いに行くぞー!』

『アッウン…頑張ロウナ…』

 それはちょっと遠慮した…いや、なんでもない。行くと言ったら行く。男に二言はない!

『サテ、今日ハ…昨日ノメイド服着テクカ?』

『うーん、どうしよう。今日も裸かな』

『アッウン…着イタラ脱グノモ嫌ダナ…持ッテイクカ』

『そうだな』

 昨日観客に披露しそこねた衣装は、また無駄になるかもしれないので持っていくことにした。買い物でもらった袋を手渡し、鞄の代わりにする。あとは今日の飯。

『飯…ドウスルカナ…』

『今日は私が作ろうか?』

『エッ?!嬉シイケド、ドウシテ…?』

『ばあちゃんの話してたら、昔作ってくれた料理が食べたくなって。フィデウワならちゃちゃっと作れるからそこそこすぐ食べれるぞ』

『ナンダソレ?』

『短く折ったパスタで作るパエリア。シーフード、トマト、野菜のスープで麺を煮る』

『ワー、美味ソウ!オ願イシマス!』

『おっけー!』

 料理が得意な人間が一人いると、食事が豊かになる。思い返せば、サイモンはこの街に来てからずっと一人暮らしだったため、まともに食事を楽しもうという気がなかった気がする。一人で作って一人で食べるのは虚しかったからだ。しかし今は二人。誰かのために作り、二人で食べることが出来る。なんて幸せなんだろう。ビッグケットは自信たっぷりの様子で腕を回し、キッチンの奥に立った。

『オオ、コレガ冷タクスル箱カ』

『説明書に過信しすぎずそこそこ早めに食べろって書いてあった』

『アー…食ベタラマタ買ワナキャナ。次ハオレト買イ物行コウ』

『うん!』

 入口とキッチンを仕切るように置かれた大きな箱。収納戸棚だと思っていたが、これが“冷蔵庫”らしい。ビッグケットが扉を開けると、中はひんやりと冷たい。魚介や野菜、卵が入っていて未知の光景だ。

『卵ッテ取ッテオケルノカ?』

『朝採りの奴なら一週間くらい保存できるって』

『ヘーーーッ、スゴイ!』

 これは端的に革命だ。卵って買ったら即消費する食材の代表格なのに。サイモンがしげしげ眺めていると、

『邪魔。どけ』

 ビッグケットに扉を閉められた。

『そこに突っ立っていられると邪魔だからあっちで待ってろ。レシピが知りたいならまた今度な』

『アア。ジャア今日ハオ世話ニナリマス』

『はいよ』

 仕方ない、退散しよう。サイモンがソファに座りリビングで待っている間、静かな音が部屋を満たし、徐々に料理が出来ていく。玉ねぎ、人参、トマト、エビ、大きな二枚貝。にんにくとオリーブオイル。刻む、処理する、火を通す。見事な手際だ。

『急いでるからパスタはテキトーに折るからな』

『エッ?』

 ビッグケットが一言言ったと思ったら、パスタの束をバリバリと素手で砕いた。折るではなく砕く。…痛くないのか…?この最強の黒猫には愚問か…?まぁ、男の首すら素手で折るような女だから大丈夫か…。

『あとは煮込むだけ。もう少しで完成だ』

『ワー楽シミ!』

 言われてみれば、散々ケットシーの食文化を聞かされて気になっていたところだ。人間ノーマンの見様見真似と言うわりに、こっちとかなり違うように思う。どんな味なんだろう。昨日食べた白身魚パン粉焼きの美味さを思い出し、口内に唾液が満ちてくる。トマトと魚介のいい匂いが、否が応でもサイモンの期待を膨らませた。

『さ、そろそろいいかな〜』

『食ベル!!』

 しばし経った後。ビッグケットが蓋を取った鍋を、二人で覗き込む。中の具材はとろとろに火が通って実に美味そうだ。

『はい、じゃあこれを皿に盛って』

『サンキュー!』

 戸棚から皿を出し、レードル(おたま)ですくう。二人それぞれ自分の分を確保し、食卓に座って向かい合えば、それはなんとも幸せな光景。

『いただきまーす』

「ゼウスの恵みと女王陛下に感謝。いただきます!」

 ふーふー、ずずっ。…、美味い!

『とまとトエビト貝…美味イ!』

『あー懐かしー。昔よく食べたよ』

 唐辛子が入っているんだろうか、少しスパイシーな味。旨味の詰まった濃厚なスープ。煮込まれた小さなパスタが優しい舌触りだ。大きなエビ!濃厚な貝!野菜も沢山入ってるし、栄養豊富ですこぶる美味いなんてすごい料理だ!興奮した様子で食べ進めるサイモンに対し、ビッグケットはこれまたよく知った味なのでのんびり食べている。…いや、眉間にシワを寄せている?

『…サイモン、どこかに白い本って売ってるかな』

『ウン?ソレハ中ガ?のーとノコトカ?』

『なんでもいいけど。保存出来て、後から読みやすいもの。…ばあちゃんが教えてくれたレシピ、ちゃんと残したいから』

『…ジャア、本ダナ。明日買ウカ』

『ありがとう』

 改めて料理を食べ進める彼女をもう一度見ると、少し泣きそうな表情にも見えた。…そうだよな。たった一人の肉親を喪った悲しみ、そう簡単に癒えるもんじゃないよな。そりゃあ血迷って目の前の人間から離れたくない!と身体も差し出すってもんだ。

(……極端すぎるけどな……)

 ちらりと朝の出来事が頭をよぎり、サイモンは気づかれないよう苦笑いした。いや、笑いごとじゃない。人一人の人生を抱えるっていうのは生半可な覚悟じゃ出来ないことだ。

(…大丈夫、大丈夫。ずっと一緒だから)

 あえて口には出さない。きっと今言ったらビッグケットは泣いてしまう。これから闘技場に行くんだ、気持ちよく全力を出せるようメンタルのサポートをしてやらなきゃ。

『バアチャンノれしぴぶっく、オレモ楽シミ。美味イ料理ガタクサンアルンダロウナ!』

 サイモンは黒猫の気分を変えるため、あえて食べ物の話題を選んだ。すると萎れていたビッグケットの耳がすっくと立ち、本人も笑顔で顔を上げた。

『そうか、サイモンも食べてみたいか!じゃあ今度血のソーセージ作ろう!な!!』

『イヤ、ソレハイラナイカナ』

『なんでだよ!!??』

 まぁ、文化の溝は追々埋めるとして。



 

 










 

『マタ来タゼ!今日モヨロシクナ!!』

『今日も勝つぞー!』

 17時過ぎ、大階段の底。この数日何度も来ている地下闘技場に、今日も辿り着いた。足掛け5度目の来訪。いい加減来慣れてしまい、気負いも何もない。強いて言えばまたビッグケットの裸を見なければならないのか…?という懸念があるくらいか。もし今日またそうなら、今度こそサイモンの精神力が試される。


『いいんだぞ、お前なら抱かれても』

『どうせ初めてならお前がいい…』


 囁かれた甘い言葉が頭の片隅をかすめ、慌てて首を振る。いやいや、神に誓ったんだ。もうそんな下世話な感情には振り回されないぞ。…とはいえ、こんな状態でもう一回あの子の裸を見てしまったら…いやいやいや、勘弁してくれ!

(昨日素っ裸にしても動じなかったんだ、どうせハンデつけなきゃいけないなら別の要素にしてくれ…!)

 受付に頭を下げ、長い洞窟然とした通路を進む。最悪の場合裸+さらなる妨害、なんてことになりえるけど…あーもーっ!

『ビッグケット、大丈夫カ。最悪今日モ何カサレルケド…』

『ふん、主催側が何をしてこようと私は勝つ。並の人間が私に傷をつけられるもんか』

『オッ、強気〜カッコイイ!』

 少々心配だったビッグケットのメンタルは大丈夫そうだ。むしろ鬱憤を気持ちよくぶつけてやると言わんばかりに瞳を輝かせている。気合い充分!こうなりゃ妨害でもなんでもかかってきやがれってんだ!

 やがて細い道の終わり、控室の入り口に辿り着く。さ、貴族のオッサンは今日こそ来るの諦めたかな?

「って…」

『なんだこりゃ?』

 いつもだったらわいわい20人ほどの人間がすし詰めになり、くだらない会話に花を咲かせている闘技場控室。今日は、どうしたことだろう。

『…誰モイナイ…』

 そこはがらんとして無音が広がっていた。右も。左も。人の気配という奴がない。

『いや、サイモン。見ろ』

 ビッグケットに声をかけられる。黒猫が指さした方向を見ると、い、た。居た。居たが、これはどういうことだ。洞窟のごとく岩をくり抜いて作られた空間。その隅っこの隅っこに、小さな人がいた。これは、うさ耳にふわふわの手足。小柄なアルミラージの女性だ。うずくまるように小さく三角座りをし、身体を震わせている。

『…へぇえ、今日は女同士でタイマン張れってか。趣味悪すぎだろ…!』

『ウワ、コレハ予想外。ドウ切リ抜ケルカナ…』

 ビッグケットが拳を突き合わせ、サイモンが腕を組む。しかし二人の心配は次の瞬間、あっさり否定された。

「今日の対戦相手はそこの女性じゃないですよ」

 静かに現れ、慇懃な態度で声をかけてくる男がいる。案内係だ。昨日ロクでもない特別ルールを突きつけてきた。この口調、恐らく今日もそうなんだろう。無意識にサイモンが男を睨みつけると、案内係は慇懃に…いや、慇懃無礼な様子で口角を上げた。

「結論から言います。ビッグケット選手には今日も特別ルールを科します。相手はそこの女性ではありません。

 サイクロプスです」

「はぁっ!!??」

 反射的に大声が出た。サイクロプス。人型の、しかしヒトではない。紛れもなく怪物。モンスターのくくりだ。目玉が一つで一本角を持ち、数メートル級の体躯を誇る。当然ビッグケットより数段怪力。まともに戦えば四肢がバラバラになるのはビッグケットの方だ。運営サイド、黒服の男たちはあくまで下品な趣味の主人に「仕えているだけの奴ら」。そう思っていたが、狼狽えるサイモンの様子を見てせせら笑っているその姿。こいつも相当イカレ野郎だ。

「もちろん辞退も可能です。しかしその場合、そこの女性が対戦相手にスライドします」

「えっ…!」

「お客様はもう会場入りしています。私達が提供しているのはショー、エンターテインメントです。お客様の信頼と期待を裏切るわけにはいきません」

 淡々と、いけしゃあしゃあと。気色悪い薄笑いを浮かべながら紡がれるその言葉、信じられない。サイモンは血の気が引くのを感じた。昨日なら穏便に辞退することが出来た。しかし今日はサシの勝負を用意したため、ビッグケットが出ないと対戦相手に穴ができる。その穴を、ここにいる女性が埋める…だと…!

「…汚い、汚いぞ!ビッグケットとこの人、どっちかに死ねって言うのか!?」

「おや、可笑しな事をおっしゃる。『ここ』に来た時点で死ぬ覚悟は出来ておられるはず。それを今更反故にしようなどと…子供の戯言でしょうか?」

「…ッてめぇ…八つ裂きにしてやろうか!」

「なんとでも。しかし私を殺してもルールは覆りませんよ。さぁ、どうします?その顔を見る限り、サイクロプスが何者かわかっているんですよね。さぁ、お嬢さんに通訳を。ぜひ本人に選ばせて下さい」

「ッ……糞が…!!」

 共通語で案内係を罵るサイモン、あくまで冷静な様子の案内係。両者を見たビッグケットは、二人が何かとてつもなく不穏な会話をしているのだと察した。小声でサイモンに話しかける。

『どうしたサイモン。こいつ殺せばいいか?』

『…イヤ、ソレハ無意味ダ。…イヤ…』

 いっそビッグケットの瞬発力にかけて、この女性と自分を抱えさせてダッシュで逃げ出すべきか?いや…仮にこの黒服を殺して走り出したとしても、帰りは長い一本道だ。走りきった所で入り口で一網打尽になるだろう。それにいかに怪力ビッグケットでも、この道の狭さじゃ女性とサイモン二人を抱えることは出来ない。…くそ、この入口なんでこんなに通路長いんだと思ったら、よく考えられてるじゃないか。逃げるのは正攻法じゃ無理だ。

(なら正攻法じゃなければ?上?下?とにかくこいつらに捕まらなきゃいい。時間さえ稼げれば、こっちにも打つ手が…)

 この間コンマ数秒。サイモンがどうすべきか思案を巡らせていると、黒服の案内係はにたりと唇を歪めた。

「おや、逃げ出す手立てでも考えているのでしょうか。残念ですね、対戦相手の候補はもう一人いますよ。こんなこともあろうかと、ステージの向こう側に控えさせています。この女性を助け出してももう一人が犠牲になるだけです」

「げっ、外道…!!そこまでするか普通!?」

「いいえ。私達は楽しいショーを用意しているだけです。何せ客は万単位。その皆様から入場料を頂いているのです。不興を買うわけには参りません」

「あっそ!!わーったよ、腹くくってやる!」

 サイモンは勢いよく啖呵を切ったが、打つ手なし!なんてことはない。ここで逃げるのを諦めるだけだ。むしろ相手は良い情報をくれた。中にもう一人。なら、中に入ってそこからその人も一緒に逃げ出すだけだ。

(俺に力仕事は出来ない。けど、幸いアルミラージはメチャクチャ小柄だ。ヒョロガリの俺にも抱えられるだろう。こうなりゃ中の人をビッグケットに担いでもらって、そこからなんとかしよう。となればやることは一つ…)

 まずはビッグケットに状況説明。そして作戦会議だ。

『悪ィ、説明遅クナッタ。今日ハさいくろぷすト戦ウ。辞退出来ル。ケド、オ前ガ辞退シタラソコノアルミラージガ犠牲ニナル。コノ人ヲ連レテ逃ゲタトシテモ、代ワリノ対戦相手ハ中ニモウ一人用意サレテル。ダカラ…』

 いざ二人の人間をどう助けるか。その話を続けようとして、サイモンはぎょっとした顔でビッグケットを見た。熱い。彼女の肌から微かに熱気が昇っている。ビッグケットは、怒りの表情を浮かべている。

『サイクロプス。私が出て、勝てばいいんだな』

『チョ、待テ!今マデノ相手トハ違ウ、トロルヤリザードマンミタイニ千切ッテ投ゲラレル相手ジャナイゾ!一ツ目デ、角ガアッテ、』

 ビッグケットより遥かに怪力で。しかしビッグケットはずいと前に出た。190近くありそうな長身の案内係を睨みつける。ビッグケットは本気だ。

『おい、お前。その糞みたいなルール、乗ってやるよ。私が出る。誰も代わりに傷つけさせない』

 さらに意気揚々と自分を親指で指し示すもんだから、ケットシー語がわからない案内係でも秒でビッグケットの意図を汲み取ってしまった。あっ、あー!!待ってー!!

「わかりました。出場、ですね。ではこちらへどうぞ。もう検査も要りません。貴女の誠実さはわかっております」

『待テッ、』

『何、もう行っていいのか?そーだな、他に誰もいないもんな。そんじゃ今日は本気でやらせてもらおうか!』

『待テ、ビッグケット待テ!!話ヲ聞ケ!!』

 案内係が差し出した手を見て、話が終わったことを理解したビッグケットは、サイモンを無視してすたすた歩き出してしまった。案内係がそれに続く。サイモンは思わずビッグケットの腕を掴んで引っ張った。

『オイ、マトモニ戦ッテ勝テル相手ダト思ッテンノカ?!相手ハ3めーとる超エノ化ケ物ダゾ!イクラオ前デモ無理ダッテ!上手ク逃ゲル方法ヲ考エタカッタノニ…アノアルミラージモ連レテイキタカッタノニっ…』

 何も対策せず、ただ試合中逃げ出したら代わりの対戦相手のどちらか、もしくは両方が犠牲になる。そうならないよう、なんとか口八丁でアルミラージの身柄を確保しておきたかったのに。ビッグケットが威勢よく出場する!と話を進めてしまったばかりに、交渉の時間を失った。ここから案内係を引き止めてその話をしても不自然なだけだ。なんてことをしてくれたんだ!!

『は?勝てるよ。さすがに「マトモにやったら」勝てない。けど、やり方はある。手足の1、2本は逝くかもしんないけど命は守れる、そんな方法が』

『ハァ!?手足ガ…ッテ…ソンナ、馬鹿ナ!ドウヤッテ勝ツンダアンナ化ケ物!?』

 腕をブンと振り、拘束をほどいて歩き出す黒猫。それを追いかけたサイモンが詰め寄ると、ビッグケットは冷めた視線を彼に寄越した。

『バーカ、これだから喧嘩シロートは。例えどんだけ強くても、サイクロプスとやるならお誂え向きの作戦があるじゃんか。私にしか出来ない、唯一無二のオリジナルだぞ』

『…ハァ?』

『信じろよ相棒、さすがに今日は無傷は無理だけど、絶対生き残ってみせる』

『ナッ…』

 えらい自信だ。ここまで言うなら勝てる…のか…?少なくとも彼女の中では勝算があるらしい。信じたい。けど、あまりに怖い。

(作戦、サイクロプスとやる、お誂え向きの?ビッグケットにしか出来ない唯一無二…??)

 彼なりに一生懸命考えてみたが、勝ち筋は見えてこない。何せサイモンは冗談じゃなく、誰かを殴ったことが一度もない。強いて言えば、今朝ビッグケットに平手を張ったのが本当に初めてかもしれないほどに。そんな彼に、喧嘩や殴り合いで格上に勝つ作戦の案など思いつくわけがなかった。

『任せろ、今日も観客をあっと言わせてやる』

 ビッグケットの目はぎらぎらと自信たっぷりに光っている。…仕方ない、信じよう。出来ると言ったんなら多分出来るんだ。

『…ワカッタ。信ジルゾ。デモ…無理スンナヨ』

『わーったわーった』

 最後に念押しで声をかければ、黒猫がひらひらと片手を振る。会話が一段落したところで、先を行く案内係が口を挟んできた。

「じゃ、オルコットさん。今日はこの子に賭ける?どうする?その辺は今受付けるぞ」

「…今そんな気分じゃない。賭けとかどーでもいいよ」

「そうだろうな!」

 ははは、と高笑いする案内係。ふざけやがって…むかっ腹が立つ。こいつ、心底クズかよ。

 やがて二股の道が見えてくる。ここで別れたらもうサイモンには手出し出来ない。…信じる、信じろ。手足は逝っても命は残ると言ったんだ。大丈夫。サイモンは立ち止まり、ビッグケットを見た。拳を上げる。

『ビッグケット、任セタゾ。マタ後デナ』

『ああ。またな』

 暗い通路にぴかぴかの黒猫の笑顔が弾け、こつんと拳がぶつけられた。闇闘技場、4回戦が始まる!

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