第9話 獣人の宴


『湯加減イカガデスカァ』

『とってもいいぞ!最高だ♥』

 きゃっきゃ!

 弾けるような水音、女性二人が朗らかに笑い合う声が聞こえる。サイモンは昨夜も来た白い石で出来た空間…天国の間と呼びたくなる空間に再び来ていた。女性陣とは異なり、今夜のサイモンは湯浴みをする予定がない。何せまだ出かける予定があるのに、カーネの服がない。こうなれば最終手段を取るしかない。

『ビッグケット、悪イケド賞品ノどれす、かーねニ貸シテアゲテクレナイカ。ソノ人服ナイダロ』

『えーと…カーネって?』

『ア、コレハ仮名ナノカ。チョット待テ』

{すいません、あの、きみのなまえってなに?まだきいてなかったよな}

 闘技場で散々聞いた「カーネ」という名前。これは恐らく、登録者が勝手に決めた出場ネームだ。すぐそこにいるコボルト女性の本名はまだ聞いてなかった。そこで改めて、コボルト語で扉越しに訪ねてみる。すると、ギリギリ聞こえるくらいのか細い声が返ってきた。

{私の名前は…エウカリスです}

{コボルトごで かわいい ね。いいなまえだ}

{ありがとうございます}

 カーネ改めエウカリス。とにかく、彼女に服を用意してやらねば、どこに行くことも出来ない。

『ビッグケット、ソノ人エウカリスッテイウンダッテ。デ、エウカリスニどれすヲ貸シテアゲテ欲シインダケド』

『ふーん。じゃあ私は何着て帰るんだ?』

『ウン、二人ガ湯浴ミシテル間ニジルベールノ店ニ取リニ行コウト思ッテ』

『あーなるほど』

 この闇闘技場、地下の大階段…実はシャングリラ最東部、住宅街の中にある。この街の亜人、獣人は大概がここに住んでる。その中にひっそりと。ということは、住宅街内、メインストリート寄りの場所に建っているジルベールの店は有り体に言って「近い」のだ。魔法の絨毯で行けばそこそこすぐだろう。

『わかった、じゃあ今日買った着替えを持ってきてくれ。組み合わせはなんでもいい。テキトーにしか買ってないから。あと下着を一着余分に持ってきて。それをエウカリスの分にしよう』

『ワカッタ。今行ッテクル』

『ありがとう、よろしく頼む』

 ビッグケットの返事を聞いて、サイモンはずっと小脇に抱えていた絨毯を床に広げた。

{エウカリス、ちょっときみにきせるしたぎをとりにいってくるから。ビッグケットが1セットくれるって}

{あ、ありがとうございます!すみません!}

 よし、必要なことは伝えた。あとは言語通じないなりに女同士で上手くやってくれ。絨毯に座り込む。必要なのは口頭指示。

「浮いて、真っ直ぐ進んで!」

 そういや貴族男含め、誰もこの絨毯にツッコまなかったな。まぁビッグケットが派手派手な見た目だったから、サイモンが何を持っていても気にならなかったのかもしれないが。

(…10万エルスの絨毯、自慢したかったな…)

 まぁそんなの、些細な心残りなんだけど。絨毯はふわりと浮かび上がり、サイモンの体を目的地まで運ばんと動き出した。

(ジルベール、家に居るよな?)

 本当は引っ越しを先に終わらせるべきなんだろうが。本人が真夜中でもいいと言ったんだ、お言葉に甘えてしまおう。とりあえず今は服だ。










「ジルベール、俺だ。いるか?」

「あれぇ、もう来たの?」

 それまで訪ねた時と比べ、早い返事。訪ねてくるのがわかっていたからだろう。声をかけると、比較的すぐ扉が開いた。寝間着だろうか家着だろうか、ローブのような衣類を身につけ、髪を向かって左肩から流した眼鏡なしのジルベールが顔を出す。

「あれ、ビッグケットちゃんは?」

「今は優勝報酬の湯浴みをしてるとこ。血でどろどろだから終わるまでこっち来れないよ」

「わぁー、また勝ったんだ!」

「当然。今日も圧勝だったよ」

 扉を軋ませて中に入ると、室内は真っ暗だ。ジルベールが何やら小さな紙を手に持ち、小声で何か呟いて燭台に火を灯す。火なんて暖炉から持ってくる物だと思っていたサイモンは、その初めて見る所作に驚いてしまった。

「なんだ?それ」

「ああこれ?これは術符。魔法陣や呪文が描いてあって、魔法を使えない人でも一言呪文を言うだけで疑似魔法を使える便利なマジックアイテムだよ。火を灯す程度の物ならめちゃくちゃ安く売ってるから、興味あるなら買ってみれば?」

「へぇ〜」

 口ではへぇ〜と感心してみせたが、内心小馬鹿にする気持ちが抑えきれない。この家は恐らくキッチンがないはずだから、暖炉はリビングにあるだろう(この時代と国の料理は、大体リビングにある暖炉でするのがお決まりだ)。リビングから燭台で火を拾ってくるのがそんなにおっくうなのか?例え安く売ってるにしても、一々これで火を起こすなんてもったいない…。

 サイモンがしげしげ燭台を眺めていると、ジルベールがそれに気づいて口元に笑みを浮かべる。サイモンの考えることなどお見通し。と言わんばかりだ。

「わざわざ術符で火を起こすなんてもったいないと思ってる?一度使い始めると、もう暖炉から種火拾ってくる生活には戻れないよ。だってリビングに寄るのが面倒になるんだもん。まっすぐ行きたいとこに行けるの、すごくいいよ。これさえあれば火を移す道具も要らないしね」

「ああ〜、道具一式揃えるのは確かに手間だよな」

 その説明にはさすがに納得してしまう。例えば寝室に居たとして、新たに他の部屋の燭台に火を付けるためには、灯りとしてのランプの他に、火をつけるための燭台と種火がそれぞれ必要になる。よってまず寝室のランプに火をつけて、火を移すための燭台を用意して、それにも火をつけて…やっと目的の部屋に行ける。

 だがこの術符とやらがあれば、寝室に何枚か置いておいて、2枚手に持って1枚は灯りに使い、その足で目的の部屋に行ける。うわっ、早い。便利。

「これがあれば火打ち石だって要らないし、冒険者にもウケてるって話だよ。安心安全に火を持ち歩けるのはすごくいいよね」

「はー、確かに。でも口頭詠唱で発火すんだったら、複数枚一気に火ついたりしないのか?」

 それはとても素朴な疑問だった。音声の呪文を札がどう認識してるかはわからないが、2枚持ち歩いて片方にだけ指示を出すことなんて可能なんだろうか?サイモンが眉根を寄せると、ジルベールはとても愉快そうに笑った。

「おっ、玄人な質問してくるね。それはある意味訓練した結果、って感じかなぁ。札を使う時は口頭詠唱以外に、『この札を使います』っていう念みたいなのが必要なんだ。だから純粋単純に音声解除で発火するわけじゃないんだよ」

「へぇ〜、まぁ多少練習して、慣れたら使えるって感じなのか?」

「そゆこと」

 そこまで聞くと、ジルベールは傍らの机にことりとランプを置いた。暗闇の中で小さな炎が揺らめく。

「で、ビッグケットちゃんが湯浴みしてる間に何を取りに来たの?」

「あ、そうだ。服だよ服。上下一式と下着2着。今日の試合で獣人の女の人を助けてさ。素っ裸で可哀想だから、下着をあげようと思って」

「えっ、下着だけ?」

「や、大会側が優勝者に商品としてドレスをくれるから、それを着せる。代わりにビッグケットには今日買った着替えを持っていくんだ」

「あーなるほど」

 するとジルベールは奥に歩いていき、大きな紙包みを抱えて戻ってきた。これが今日の戦利品なんだろうか。

「じゃあこれ、今日買ったビッグケットちゃんの服ね。この中から持っていって」

「悪いな。引っ越しはまた後でやるよ。とりあえず、助けた獣人さんを安心して暮らせる場所に引き渡さなきゃいけないから」

「アテがあるの?」

「獣人バーのボンドならどうにかしてくれるんじゃないかなって」

「あーーー、あそこかぁ!」

 獣人バー、ボンド。それはこないだ会話したモモが働く酒場だ。今日は元々、勝ったらそこに顔を出す予定だった。どのみち行くなら好都合だ。エウカリスの面倒を見てもらえないか頼んでみよう。

「ああ、そうだお前も行く?今日の礼もかねておごるけど」

 すっかり夜も更けてしまったが、そういえば。ここで酒でもおごれば貸し借りなしと思ったのだけど…

「いや、今日は遠慮しとくよ。正直今日の買い物、あんま上手くエスコート出来なかったから。ビッグケットちゃんにこれ以上かっこ悪い姿見せたくないというか…」

 ジルベールは荷物を抱えつつ、苦笑しながら首を振った。…おや。再会した時ビッグケットが楽しそうにしてたから、さぞや楽しい「デート」が出来たんだと思っていたけど…違うのか?

「なんか揉めた?」

「いや…そうじゃなくて…」

 軽い気持ちで聞いたつもりだった。だがサイモンの何気ない口調と裏腹に、ジルベールはやおら押し黙ってしまった。困ったような、何かを言いあぐねているようなジルベールの表情。…なんだ、この空気。

「…ジルベール?どうした?」

「サイモン君、きみ…」

 目の前のエルフの名前を呼ぶと、相手もこちらに呼びかけてくる。空色の瞳が真剣にこちらを見つめている。

「君、あのさ…。…………」

「……………。なんだよ………?」

「いや、やっぱいい。これは僕が軽率に聞くことじゃない」

「はぁ?めちゃくそ気になるんですけど」

 結局ジルベールはふいと視線を他所に向け、会話を断ち切ってしまった。意味深な言葉に、ぽかんと口を開けるサイモン。そこまで言われて結局何もわからないってもやもやするんだけど?

「いや、いいんだ。君もいつか聞くだろうから。それよかハイ。これ、荷物。持っていってあげて。ビッグケットちゃんと獣人さん、待ってるんでしょ」

「あ、ああ…サンキュ…」

 強引に包みを押し付けられ、背中を押された。気がついたら扉をくぐっている。ふわりと外気の匂いが鼻をくすぐり、夜の闇が視界いっぱいに広がる。頼りない灯りしか目にしていないとはいえ、突然闇の中に放り出されると落差で目がついていけない。ぱちぱちと瞬きをする。やがてぼんやりと外が見えるようになった頃合いで。

「サイモン君、ビッグケットちゃんを大事にしてあげてね。きっとそれは君にしか出来ないから」

「えっ?あ、うん、頑張るよ…」

「じゃあまた後で」

 バタン。扉が閉まり、ジルベールの顔が見えないまま、真意も掴めぬまま、サイモンは外に締め出されてしまった。片手に包み、片手に魔法の絨毯。放り出された彼は唖然とすることしか出来ない。

「…なんだってんだよ…??」


















 それでもビッグケットの元には戻らねばならない。先程やったように魔法の絨毯に座り、荷物を載せ、口頭指示で地下の闘技場まで舞い戻る。正直めちゃくちゃ速い。荷物の質量も重さも感じないし最高だ。

『オーイ、戻ッタゾー』

 白亜の空間、天国の間(勝手に命名)の大きな扉前。中の様子を窺いつつ声をかけると、ビッグケットの不機嫌そうな声が返ってくる。

『遅い!さすがに水遊びも飽きちゃったぞ』

 いや、幼児じゃあるまいし、湯浴みで水遊びて。荷物を抱え直しながら苦笑する。

『悪イ悪イ。サ、服取ッテキタカラ出シテクレ』

 サイモンが扉を薄く開け、包みを差し出す。すると声に応えるように、ビッグケットがぬっと頭を出す。待て待て、肩まで見えてるぞ。

『ありがとな。…どうした?』

『ハイ、早ク中ニ入ッテ下サイ。女ノ子ナンダカラ』

 秒。コンマ秒の反応でビッグケットの肩を押し戻す。黒猫は不服そうに頬を膨らませた。

『もー、一々細かいな〜』

『オ前バアチャンニ恥ズカシイ気持チッテ習ワナカッタノカ』

『サイモンが神経質なんだよ』

 ぶつぶつ言いながら引っ込み、扉が閉じられる。次に現れた時は、軽装ながらきちんと服を着た状態だった。

『まったく私は猫なんだぞ、裸がなんだっていうんだ』

『ソレ、全身猫型ノけっとしーダッタラソウダナッテ言エタンダケドナ…』

『ふん、中途半端な混血はめんどくさいな』

 ガリガリ頭をかきながら扉をくぐるビッグケット。そしてその後に続くカーネ改めエウカリスは、

「わぁ…!」

 明るい若草色の美しいワンピースを着ていた。今日の景品はこれか。頭というか全身がふさふさの犬だから不思議な気持ちになるけど、見事なバストとそれを強調するようにピタリとした上半身のラインが美しい。胸元から腹部に向かってたくさんボタンが並んだこのスタイルは、コタルディと言ったか。色合いは民衆の流行のさらに先をいく華やかなエルフ風。昨日のドレス然とした派手な印象の物と比べると、今日のデザインはお嬢様が品の良いお茶会に行きますといった印象だ。

{エウカリス、にあってる。ぴったりきられてよかったよ}

{ありがとうございます…猫さんの景品なのにすみません}

{あー、いいのいいのそれは。ほんにんにもりょうしょうとったし}

 サイモンが手を振り、ちらとビッグケットを振り返ると、彼女もエウカリスをしげしげ眺めていた。まぁこいつがこれを着る姿も見たかったといえば見たかったけど…服に無頓着なビッグケットが着るより、服一枚すらなくて困ってるエウカリスに着てもらった方がいいだろう。

『…ビッグケット、コノ服欲シイ?エウカリスニアゲタラ駄目カ?』

『あ?いいよ別に。なんなら下着ごとやっていい』

『ソッカ、アリガトウ』

 やはり猫に執着はない。もういっそ全身丸々一着プレゼントしてしまおう。

{あの、ビッグケットがそのふくしたぎごとプレゼントしていいって。よかったら、つぎふくてにいれるまできていて}

{本当ですか!?何から何まですみません!!}

 こちらの言葉にエウカリスがぺこぺこ頭を下げる。対象的に、サイモンとビッグケットはにまりと口角を上げた。こんなことでこんなに喜んでくれるなんて、あげた甲斐があった。…さて。魔法の絨毯を抱え直す。

『ンジャ行クカ。モモノ店。獣人バーノぼんどッテ言ウンダケド…酒、飲ンデイイ?』

『別に好きにしろ』

『オ前ハ強イ酒飲メル年?』

『一応ケットシー基準なら成人してるぞ』

 ふむ、ケットシー基準で成人ということは10歳より上か。まぁ身長もあるしそれより下にはまず見えないな。…いや、ケットシー基準なら、と注釈するってことは、他の基準なら引っかかるってことか?人間ノーマンは16で成人だから、ビッグケットの年はもしかして14、5歳なのか…?思わずしげしげ黒猫の顔を見てしまう。

『おい、どうした。行くんじゃないのか』

『アッゴメン、行コウ』

{じゃあわるいけど、このじゅうたんにすわってもらえる?これまほうのじゅうたんで、これでとんでしりあいのみせいくから}

{あっはい…!}

 絨毯を床に広げ、エウカリスに座るよう身振りで指示する。それを見たビッグケットもそれに倣う。最後にサイモンが一番前に座り、準備完了。3人座ってもまだ多少余裕がある。乗り物としては4人が限界だろうか。

『ジャア行クゾー』

「浮いて、真っ直ぐ飛んで!」
















 シャングリラ東部内南部。飲食店が並ぶエリアのやや奥、表の喧騒を避けるように建てられたその店は、一階が石造りの四角。二階が真っ白な漆喰と張り巡らされた木の梁で作られた三角屋根の混合建築様式で、一階が酒場、二階が店長マスターであるママの住居になっている。空は既に闇に染まり、歓楽街も稼ぎ時を迎えた。あちこちで飲み交わす人々の陽気な声が聞こえてくる。しかしここは獣人女性の従業員と会話を楽しみながら静かに過ごす…みたいな店なので、ひっそり静まりかえっていた。その前で。

『ハイ、ココガ獣人バーぼんど』

『へぇー、ここがお前の行きつけか』

『イヤマァ、知リ合イガ居ルカラ』

『モモってどんななんだ?』

『気ニナルナラ自分デ確カメロ』

 肩から下げた鞄の紐を握りしめたサイモン、初めての酒場にわくわくした様子のビッグケット、そして同じくこんな店初めてなのか、そわそわしているエウカリスが店を見上げた。「OPEN」の札がかかった扉が眼前に立ち塞がる。こんなに金持ってここに来るのは初めてだ…ちょっと緊張する。

 カランカラン。

 鐘を鳴らして扉をくぐると、

「「「「「いらっしゃいませぇ♥」」」」」

 明るい女のコたちの声が店に響いた。やや薄暗く設定された、しかしきらびやかな店内。その中に見慣れたモモの顔がある。

「あっ、サイモンさん!マトモにこっちから来るの久しぶりだね!何かお仕事見つかった??」

 のっけからこれだ。まぁ、みんな俺がツケで酒飲んでるの知ってるけどさ…。サイモンはふ、と静かに笑うとモモの元に歩み寄った。

「仕事、無事見つかったよ。だからこれ貰ってくれ」

「??」

 鞄の中から金貨5枚掴み出し、モモの手を握る。開かせた彼女の手の上にそれを乗せる。するとモモは最初何をされたかわからない様子だったが、煌めくそれを見て大仰に目を丸くする。

「ふぇっ、え、金貨…!!!金貨!!!!こんなに!!!!サイモンさんどうしたの!!???」

「あいつとボロ儲けで稼いできた。あ、猫の方ね」

「猫!ゔあっ、うわあああああ」

 モモが視線を上げる。サイモンが親指で後ろを指す先に、すらりと脚丸出しのビッグケット。モモはサイモンが獣人の女連れでここに来ると思ってなかったのか、素っ頓狂な悲鳴を上げた。

「猫ちゃん!あの、でも、どうしてこんなにっ!?金貨なんて他人にあげるもんじゃないよ!!!」

「だぁいじょーぶ。今の俺は他人に配ってまわるくらいたくさんあるから。じゃあ今日はみんなに順番にプレゼントします、ちょっと待っててな〜」

 顎が外れそうなモモの姿に、サイモンはにやにや笑いを隠せない。その横をすり抜け、近くにいる接客嬢から順に金貨を渡していく。

「はい、ステファノス」

 頭から爪先まで犬スタイルのコボルトに。

「はい、プリマヴェーラ」

 人間ノーマンやエルフと肩を並べるほどの大国を抱える、獅子の獣人セクメトに。

「はい、ウェイライ」

 上半身が女性、下半身が蛇のラミアーに。

「はい、ユウェル」

 人間とヤギを半分ずつ混ぜ合わせたような顔立ちのヤギの獣人、パーンに。

「そんで…今までのツケ全部と合わせて、これ。本当にお世話になりました、アステールママ」

 カウンターの奥に佇む、美しい黒髪ブルネットを持つ女性。この店の店長マスターに。おおよそこれまで飲んだ金額分及び、感謝の気持ちとして5枚上乗せした金貨の小山をカウンターへ乗せた。

{…あれ、このバーの店長さんは人間ノーマンなんですね?}

 そこでエウカリスが口を挟んでくる。確かに、ここのママの見た目に獣人の要素はない。すっとした鼻梁、赤い紅を引いた扇情的な唇、ウェーブがかった黒のロングヘア。下手したら成人した子供がいてもおかしくない年齢だろうに、すべすべと滑らかな肌。すると、

{あら、私はワーウルフなのよ}

 ママが真っ赤な唇を弧にしてコボルト語を口にした。正確には、コボルト語はワーウルフの言語でもある。しかしワーウルフは「完全に人間ノーマンの姿になれる」獣人である。基本 人間ノーマンに溶け込んで暮らしているし、言語も自然に共通語を操るので、あまり獣人だと認知されない。結果、犬科獣人の言語は「コボルト語」と呼ばれるようになった、というわけ。

{あっ、す、すいません…。ワーウルフってこんなに完璧に変身出来ちゃうんですね…}

{そうね、昔は耳を出したり半端に化けてた時期もあるんだけど。ここに来るお客さんは獣人に興味ある人ばかりだから、こんな獣人もいるんですよって知って欲しくて}

{へぇ…}

 ママとエウカリスが和やかに会話するのを、ただ一人意味がわかるステファノス(コボルト)だけがうんうん頷きながら聞いている。周りのみんなは内容がわからないから怪訝そうな表情だ。

「…あ、ごめんなさい、みんな何話してるかわからないわね。よし、じゃああれを出しましょう」

 それに気づいたママは、穏やかに微笑むとぽんと両手を合わせた。そして何やら戸棚から掴み出した…これは小さい何か…首飾り?

「これは共通語が話せない新人の獣人ちゃんが来た時使うマジックアイテムなんだけど、これを身に着けている者同士は何語で話しても意思疎通出来るの。便利でしょ。みんなつけてあげるから順番に来なさい」

 その言葉に、わーっとママの周りに集まる接客嬢たち。各々首から下げてもらい、嬉しそうな表情だ。

「さ、サイモン君と猫ちゃんワンちゃんも」

 優しく微笑み、留め具を外した首飾りを捧げ持つママ。サイモンは気恥ずかしい気分になりながらうなじを差し出した。

「…うん、似合ってる」

 かちり。留め具を止めると、ママがぽんとサイモンの頭を撫でた。すっかり子供扱いだが、不思議と嫌な気持ちにはならない。それはひとえにこの柔和な雰囲気のせいだろうか。…って、浸ってる場合じゃねぇや。

『ビッグケット、コノ店ノ店長が特別ナ首飾リヲツケテクレルッテ。コレヲツケルトドンナ言葉使ッテモ会話出来ルッテ』

『へぇ、すごいな!!』

 ビッグケットの耳が好奇心でぴょこんと立ち上がる。…かちり。首飾りをつけてもらい、にこにこしながらこちらに振り返る。

『サイモン、私の言ってることわかるか?!』

「…いや、元々俺ら会話出来るだろ…」

『おっ!?本当だ!多分違う言葉喋ってるのに、スムーズに意味がわかるぞ?!』

「おお、そうなんだ。すごいなこれ」

 確かに今、ふっと気が抜けて共通語でツッコんだ。しかしビッグケットには通じたようだ。やれやれ、これで難解な単語を簡単な単語に置き換える地味ストレスから開放される。

「…どうかしら?私の言ってることわかる?」

{あっ、わかります!すごい!この首飾りすごい!!}

 傍らでは、エウカリスも首飾りをしてもらったようだ。これで全員がストレスなく会話出来る。すごいな…これ高いんだろうなぁ。


(以下、カッコ表現を簡略化し、全て共通語(「」)と同じとします。)


「じゃあ、無事お話出来るということで、まずは自己紹介!…といきたいところだけど、ここ酒場なのよね。お客様、先にご注文をどうぞ」

 首飾りが全員に行き渡ったタイミングで、ママがカウンターから声をかけてくる。サイモン、ビッグケット、エウカリス、そしてたまたま他の客がいないので、本日ホールにいる接客嬢は全員客席についた。ふかふかのソファにずらりと男女…サイモン以外全員女…が並ぶ。

「はい、じゃあ俺ワイン頼みます」

「「「「「ワイン!!!!!」」」」」

 サイモンが手を上げる。瞬間、接客嬢は一人残らず動揺の声を上げた。

「サイモンさん、ワイン?!わかってる?ワインて、ワインよ!?」

 隣のモモが肩を掴み、ガクガク揺らしてくる。サイモンは余裕の笑みだ。

「やぁ、わかってるよ。ワイン一本金貨2枚。今の俺には余裕ですね」

「ひぁ…っ」

「じゃあ、今日はそれを5本頼んじゃおうかな。みんなで飲もう!」

「「「「「キャーーーーー!!!!かっこいい!!!!」」」」」

 5人の声が見事にハモった。以前のサイモンなら、逆立ちしたって出来ない注文だっただろう。しかし今の彼は金貨10枚だって痛くない。じゃぶじゃぶ払える範疇だ。

「じゃあ強気なサイモン君には、エテルネルフォレのシュクレ・ド・ヌーヴォーを出してあげましょう」

「きゃーーーっママ鬼畜〜〜!!」

「お、すごい!飲んでみたい!」

「ひゃーーー、返事も男前だー!!!」

 それは隣国、エルフの国で作られる高級ワイン。まぁ、多少値が上がっても平気平気。金貨はまだたくさんあるからな。

「…ビッグケットは何飲む?気になるのある?」

 ギャーギャー盛り上がる嬢達を尻目に、サイモンの隣、モモと反対側に座ったビッグケットを振り返る。黒猫は渡されたメニュー表に描かれた美しいカクテルたちを見て、眉間にシワを寄せている。…これはもしかして…わからない?

「えーとこれが果実酒のミルク割で、これがライムを絞った辛めの酒で、これが麦のエールで…」

「ほうほう」

 一通り説明すると、うんうん頷くビッグケット。なんとか通じたかな?

「なんか気になるのあった?」

「…これはなんだっけ?」

「バカルディ。ラム酒とライムジュース、ざくろのシロップ…だったかな」

「じゃあこれにする」

「そっか、それ爽やかで美味いぞ。すいません、」

「待て」

 サイモンが手を上げ注文しかけたところで、ビッグケットが口を挟んでくる。

「気を使ってもらったとこ悪いけど、今の私は自分で注文出来る」

「あ…そっか。ごめん」

 力なく上げた手を下ろす。代わりにビッグケットが大きく手を上げ、笑顔で高らかに注文した。

「はい、私バカルディって奴下さい!」

「はーい、ちょっと待ってね〜」

 すると奥でママが返事する。…ちゃんと通じている。いつかサイモンが共通語を教えたら、全部習得したら、こういう感じになるのか。ここ数日、ずっとせかせか通訳してきた思い出を噛み締め、なんだか感慨深くなってしまう。

「…?どうした?」

「いやぁ、ビッグケットがストレートに他人とコミュニケーションとれるの、いいなぁって思って」

「あーうん、そうだな。まぁ便利だなぁ」

 本人はあまりピンときてなさそうだけど。闘技場のゴタゴタが片付いたら、出来るだけ早く言葉を教えてあげよう。そう噛み締めつつ。

「エウカリスは何飲む?なんでもいいよ」

 ビッグケットの隣のコボルトに話しかける。上品に脚を揃えて座っていたエウカリスは、メニューを握りしめたまま、はにかんだように笑った。

「あ、じゃあ…私はアルコール得意じゃないので、ジュースを頼んでいいでしょうか」

「ありゃ。じゃあつまんないかな?ごめんな」

「いえ、こうしてたくさんの獣人さんと知り合えるのは嬉しいです」

 見回せば、確かに多種多様な獣人たち。もふもふから混ざりあったのからケモ耳スタイル、爬虫類まで形態は様々だ。

「だから早くお話したくて…。あの、私はグレープフルーツのジュースをもらえますかっ」

「はぁい、承りました〜」

 これもママに届いた。ママはカウンターに酒瓶…シュクレ・ド・ヌーヴォーを五本並べ、順に開けていく。そしてビッグケット注文のカクテル、エウカリス注文のジュースを手際よくグラスに注ぎ、大きなプレート、たくさんのグラスと共にこちらへやってきた。

「サイモン君、今日は私も飲んでいいかしら?」

「ああどうぞ、みんなで飲みましょ」

「ありがとう♥」

 わぁ、とまた嬢たちが歓声を上げる。全員が卓についた。準備は万全だ。

「じゃ、まずは乾杯!乾杯しましょう!」

 ママが瓶を持ち、グラスにワインを注いでいく。サイモンの分。5人の嬢の分。そして自分の分。ビッグケットとエウカリスにはそれぞれのグラスを渡して。

「じゃあ〜、サイモン君の就職と成功を祝って〜!カンパーイ!!」

 カンパーイ!!!

 カチン!!!

 サイモンを除いた全員がビッグケットとエウカリスに対して初対面だが、全員笑顔でグラスを交わした。一口グラスを煽る。…美味い!

「うわぁ〜、ワイン美味ーい!味が濃い!!」

 思わずグラスを見つめてしまう。傍らのモモは呆れ気味な表情だ。

「サイモンさん、ワインて飲みやすいわりにアルコール度数高いからね。途中マメに水飲んでお腹の中を薄めながら楽しむのよ。じゃないとすぐ潰れちゃうからね?」

「へぇー、そうなんだ。モモはワイン飲んだことあるんだな?」

「ここまでいいのは滅多にないけど、そこそこのなら金持ち人間ノーマン様が注文するからね。酒場の嬢ですもの、飲み方くらいは心得てます」

「ふわ〜、そりゃ心強いわ」

「…ちょっと、もう酔ってない?」

「気のせい気のせい!」

 笑顔で片手を振るが、モモには信用されていない。もう、と頬を膨らませているのが見える。一方、良い酒初体験のビッグケットは。

「わぁ〜これ美味〜い!!スッキリして飲みやすーい!」

 計らずもサイモンとほとんど同じリアクションをしていた。花のように柔らかく赤い色をした、美しく美味しいカクテル。恐らく成人して間もない、人里の文化を知らない彼女はこの酒の虜になったようだった。

「これなんでこんなにちょっとしかないんだ?もっと下さい!」

 三角形、もっと正確に言うなら円錐を逆さにして脚をつけたカクテルグラス。本来ここに注がれた酒は、少なくとも一気飲みするためにあるわけじゃないんだけど。ビッグケットは喉の乾きを潤すエールか何かのように、一気にガッと飲んでしまった。

「キャーっ!猫ちゃん、そんなに一気に飲んじゃ駄目だよ!!」

 それに悲鳴を上げたのは、目の前で惨劇()を見せられたモモだ。まさか乾杯コール直後、カクテルを一気飲みする奴なんて見たことなかっただろう。

「お酒、今までそんな飲んだことないんでしょ?突然アルコールをいっぱい取ったら中毒になって死んじゃうよ!!」

 しかし、当のビッグケットは。

「え?人間ノーマンはこんなんで酔うのか?私は全然平気だぞ。多分まだ強くても大丈夫だ」

 本当に素面な様子で、けろっと舌舐めずりしていた。肩透かしを食らったモモは驚いて目をパチパチさせる。

「えーと、猫ちゃん…種族何…?バステトとか?」

 バステトはケットシーより多少大柄で、やや野性味が強いというか…比較的おつむ弱め戦闘力高めの猫獣人だ。いや、それでも100センチくらいしかないから、弱いっちゃ弱いが。

「いや?私はケットシーの混血だ。ばあちゃんが純血のケットシーだったんだ」

「えっ、ケットシーでこれ!?強くない??」

「ケットシーって酒に弱いのか」

「いや、そもそも体小さいじゃない。ガブガブ飲める体格じゃないと思うんだけど…違うの?」

「さぁ〜、私ばあちゃんと酒飲んだことなんてなかったからなぁ」

 あっけらかんとした返答。モモは呆れて物も言えない。頭の上の白いウサミミが力なくへたれて…

「よし、ママ自己紹介しよう。これラチあかないよ」

 諦めた。サクッと話題をママに振り、ママも微笑んだ。

「よし、じゃあ自己紹介しましょ〜!まずは言い出しっぺのモモから!」

 その言葉に、他の接客嬢たちから静かな笑いが起きる。モモはぐ、と一瞬言葉を飲み込んだが、観念して自己紹介を始めた。

「はい、じゃあトップバッターやります!アルミラージのモモ!親もよくわからない捨て子の混血ですが、よろしくお願いしますピョン♥」

 頭の横で何度か畳まれる指先。本物のウサミミがあってなお「ウサギを示すジェスチャー」で媚を売ってくる。極めつけは可愛さ満点のウインク。モモはこの店において「可愛い」担当だ。全員からパチパチと拍手が起こる。

「じゃあ次は猫ちゃん。名前と簡単な経歴をどうぞ〜」

 続いて、ママがいい感じにビッグケットに矛先を向ける。さすが会話しなれているというか。人を輪に巻き込むのが上手だ。

「えーと、名前と簡単な経歴…。ケットシーの混血、ビッグケットです。今までここの北でばあちゃんと二人暮らしだったけど、最近ばあちゃんが寿命で死んじゃったからこの街に降りてきました。よろしく」

 突然自己紹介を、と無茶振りされたビッグケットだったが、すっといい感じに話をまとめてきた。最近ばあちゃんが死んじゃったから…の下りでママ他、一同みんな悲しそうな顔をする。…いや?一人、獅子人セクメトのプリマヴェーラだけ一瞬苦い顔をしたような…。気のせいだろうか。

「じゃあ次ワンちゃん〜」

「えと、コボルトのエウカリスです。一応純血です。最近成人したんですけど、狭い自分の集落じゃなく人間ノーマンの国で仕事をしてみたくて。単身やって来たんですけど、悪い人間ノーマンに捕まって…なんか格闘技場?に連れてかれて…サイモンさん、と、ビッグケットさんに助けてもらいました」

「格闘技場…!」

 この話には一同一斉にざわついた。そう、恐らく彼女たちにとっても闇闘技場は幻想の存在だから。

「えっ、サイモンさんこのと闇闘技場に出てたの!?」

「ああ、出たよ。こいつ強かったから圧勝だよ」

「圧勝!?ケットシーなのに!??」

 そのへんはさすがのモモでもわかる。ケットシーは戦闘向きの民族じゃない。何度も言うが、小柄で非力で知識労働とか手仕事の方が得意な種族。…のはずなんだ。

「みんなそう思うんだろうな。ケットシーつーか猫の獣人で、女で、弱いって。だからまず出てもらって、ビッグケットに賭けて、それがたった二人しか居なくて。試合自体はこいつの一人勝ちで、結果返還額13億の半分山分けで6億5千万ゲットってわけ」

「うわあああああ!!!!」

 モモがまた大声を上げた。もちろん周りのみんなも。絶句してる子もいる。そうだ、一晩で6億稼ぐミラクルなんて、今後二度と起きないだろう。そのミラクルでハッピーな経験をこの男はしてしまった。

「そんなに、強いんだ…」

「ああうん、こいつどんな相手だろうと手足も首も人形みたいに引きちぎる怪力だから。すっごいよ」

「わぁ…」

 サイモンの言葉に怯えているのか引いたのか、彼の肩口に縋り付くモモ。すると。

「おかしいじゃない、ケットシーのくせにそんなに強いなんて。どういうマジック?そんなことが出来るなら、こんなとこ居ないで国に帰りなさいよ。きっと喜んで受け入れてもらえるわよ」

 口を挟んできた者がいる。獅子人セクメトのプリマヴェーラ。さっきビッグケットの経歴に微妙な反応をした

「あ、せっかくだから自己紹介しちゃうね。私はセクメトのプリマヴェーラ。人間ノーマンとの戦争で家族ごと捕まって捕虜になって、なんとかここまで逃げてきたの。国に帰るに帰れないから、ここでひっそり働いてる。だから…ケットシーがこんなとこでぷらぷらしてるなんてちょっと納得いかないな〜」

 プリマヴェーラは褐色の肌に白いドレスが艶やかな、漆黒の髪の女性だ。金のアクセサリーが映える、ウェーブがかったショートヘア。大きな目鼻立ち。それらが快活な印象で、何も知らない人が見たら南国から来た人間ノーマンと勘違いするかもしれない。だがその特徴は耳にあって、尖ったエルフ耳とも大きく丸いハーフリングの耳とも、そして普通の人間ノーマンの耳とも違う…長丸に近い形で、やや高い位置についている。体毛はない。その点でも限りなく人間ノーマンに近いが、あとは…鼻が大きいのも特徴だろうか。鼻梁が太くて独特の形をしている。人間として見るとあれ?と思うが、元ライオンの鼻だと言われるとなんとなく納得するような。

 獣人のはずなのに、なぜここまで人間ノーマンに近い見た目なのか。詳しくはわからないが…彼らは獣人たちの中で頭一つ以上飛び抜けた国力を持ち、最近では西洋に飛び出し新大陸での活躍も目覚ましい。実質 人間ノーマンの強力なライバル、いや敵国と言える存在だ。つい最近も大きな海戦が起きた。結果はこちらの勝利だが、まだまだこことの争いは尽きないだろう。

 そのセクメト、が、ケットシーに文句がある、だって?剣呑な感情を含んだ笑顔のプリマヴェーラ、そしてそれを見たビッグケットは、

「お前…セクメトなのか…!」

 やはり何か、怒気を含んだ声を上げた。みるみる眉が吊り上がる。あれっ、ケットシーとセクメトって敵対関係にあるのか?テーブルを挟んで睨み合う両者を見て、サイモンはおろおろしてしまう。

「お前らが、お前らがもっとケットシーの扱いをよくしてくれたら…私とばあちゃんはこんなに苦労しなくて済んだのに!」

「あ〜ら、属国でおんぶに抱っこの分際で、随分なことを言うのね。私達あんたらの分の軍事費を払うため、無駄に税金取られてたのよ。その現実がわかってたらもっと私達に感謝してると思うんだけどなぁ?」

「何が無駄な税金だよ、こっちは極貧生活を強いられて全然自由がなかった、ばあちゃんはっ…独立運動の犠牲になったんだ!お前らがちゃんとケットシーの国を守ってくれたらこんなことには…!」

「????」

 えーと、ケットシーはセクメトの属国?正確に言うと、ケットシー皇国はヴルメリアソウ帝国の属国だって?サイモンの認識としては、確かに両者は宗主国と属国の関係だが、持ちつ持たれつ友好的な間柄だと思っていた。軍事面だけで語るなら、自衛力を持たないケットシー側が依存してる状態だったろうが、セクメトが武力でケットシーを守り、ケットシーは金融や外交、貿易でセクメトに貢献してたはずだ。しかしそれは外野の人間ノーマンが無責任な評価を下してただけなのか?

 立て続けに濃い情報が公開されて、サイモンの頭は混乱してしまった。お前らのせいでばあちゃんが。独立運動の犠牲になったんだ。ビッグケットのばあちゃんは何か目的があって人間ノーマンの国まで出たってことか?それは一体…

「何よ、ちゃんと守ってあげてたでしょ。ここ何十年もケットシーが戦争に巻き込まれてないのは誰のおかげ?人間ノーマンとの戦争、全部こっちが肩代わりしてあげてるじゃない!戦費も兵士も出すのは全部こっちよ、それにタダ乗りしといて言うことがそれなんて、聞いて呆れるわ!」

「はぁ?!その戦争は人間ノーマンの土地や物資が欲しいお前らが勝手にやってることだろ、こっちを巻き込むな!」

 バン!!

 ビッグケットが両手で机を叩き、立ち上がる。

「大体な、守ってる守ってるってそれを盾にこっちに注文多すぎるんだよ!公用語はセクメト語、金もセクメトの通貨、私達の文化を踏みつけてなかったことにして、何が『守ってあげてる』だ!

 私のばあちゃんは、皇国の皇女だった!締め付けが強いお前らから逃げ出したくて、ケットシーだけで強くなるためにっ、化け物に身を売ったんだ!なのに国に捨てられて、こんな人間ノーマンの国でひっそり死んで、私だけ残されて…全部お前らのせいだ!!」

「………!」

 しん、と静寂が起きた。矢継ぎ早に叫んだビッグケットの荒い呼吸音だけが微かに聞こえる。…そう、だったのか。ぽつんとシャングリラの北で二人だけで暮らしていた理由。ばあちゃんとこの子はどこから来て何をしていたのか。…国のために化け物に身を売って、なのに捨てられたのか。

 ビッグケットは謎の多い少女だったが、これでかなり合点がいった。ケットシーの皇家は自衛力を求めて他種族との政略結婚(あるいは子作り)を画策した。ビッグケットがこれだけ破格の腕力を持つことを考えれば、相手は恐らくトロル以上の戦闘力…良くて悪魔、魔獣…悪ければオーガか…どちらにせよ体格的に現実的ではないが、とにかくそれを実行した。そして、これも推測だが生まれた子供が手に負えなくなり、母親の皇女ごと国外に追放した。皇女であるばあちゃんは四苦八苦の末子供を育てきったのか。やがて孫であるビッグケットが生まれる…。

 流れ流れて人間ノーマンの国で暮らし、命果てたビッグケットの祖母。その無念はいかほどか。…胸が詰まる。息苦しいほどに。サイモンが唇を噛みしめる。もしかして、さっきジルベールが言ってたのはこのことだろうか。「あまり上手くエスコート出来なかった」と言っていた。似たような事を言わせて、ギスギスした時間を過ごしたのだろうか。

 ケットシーの国に捨てられ、親とも何らかの形で疎遠である、孤独な彼女の行く末を案じていたのだろうか。

「…もうやめましょう」

 静かに、だがハッキリと二人の口論を遮ったのはアステールママだった。ハッと二人が顔を上げる。ママはグレイの瞳を怒りに染め、プリマヴェーラを睨みつけた。

「プリマ、この店では政治と細かい育ちの話はご法度と言っていたはずです。止めなかった私にも非があるけど、まず喧嘩を吹っかけたのは貴女。お客様に謝りなさい」

「…ッ、でも…」

 言い淀むプリマヴェーラに、ママが口を開く。その唇の端で光るのは真っ白な牙。

「言い訳は聞きません。貴女はせっかく楽しいお酒を飲んでほしいと友人を連れてきて下さった常連様の顔に泥を塗ったのです。これ以上下らない申し開きをすると言うなら、私が今すぐ噛み砕いてあげます」

 …彼女は今、狼に变化している。見る間に白い牙が伸びる。同時に瞳孔が縮み、顔立ちこそヒトだが、その印象は精悍な狼そのものだ。プリマヴェーラが小さく息を呑む音が聞こえた。

「………申し訳ございません、お客様。接客業に従事する者でありながら自覚が足りず、不快な思いをさせました。どうか…お許し下さい…」

 さっきまでの威勢はどこへいったのか。卓の向こうでプリマヴェーラが三つ指を付き、深々と頭を下げた。その手が微かに震えている。彼女の胸中は怒りか怯えか。…とにかく、隣のビッグケットはまだ怒りの表情を浮かべていたが、それ以上言葉を発することはなかった。すとんと腰を下ろす。かける言葉がなくて、サイモンには何も出来ない。…大人になるまで何不自由なく生きてきた彼が言う慰めなんて、何も届かないだろう。悔しい。

「…ビッグケット様、重ねて私からも申し上げます」

 そこにママが声をかける。狼化は解除された。静かな灰色の瞳がビッグケットを見ている。

「従業員の教育が至らず申し訳ございません。お詫びにもなりませんが、そのカクテルのお代はいただきません。また、この者を即時帰宅及び、一週間の謹慎処分といたします」

「えっ!?」

 その言葉にプリマヴェーラが驚いたような声を上げる。ママは本気だ。

「当然でしょ。お客様の生まれに悪態ついて、辛いことまで言わせてしまったのだもの。貴女がいては美味しいお酒が飲めないわ。帰りなさい。今日の給料はなし。一週間店に出ないで、その分もよ。深く反省しなさい」

「…ッ……」

「ほら、帰りなさい。雇い主の言うことが聞けないの?違反したのは貴女でしょう」

「……わかりました………」

 プリマヴェーラが唇を噛み、すっと立ち上がる。残された4人の同僚は唖然とした表情を隠さない。謹慎処分を言いつけたママだけが涼しい顔をしていた。

 バタン。

 扉の閉まる音が響き、サイモンは無意識に詰まった息を吐いた。息を、止めていたのか。自分で思う以上にさっきの話がショックだったんだな。

「サイモン様もすみません。せっかくのお祝いの場でしたのに…」

「いえ、あの、いいんです…あ、いや俺が言えたことじゃないんだけど…」

 ビッグケットが皇女の孫。悲運の元生まれた合成獣キメラのごとき存在。傍らの彼女を見てそんな単語がよぎり、しかしその事実にもこの状況にも誰より苛立ちを感じているのは彼女だろうと思い、言葉を飲み込む。

「あの、えと、とりあえずワイン、飲みましょう…せっかく開けたんだし…」

 …む。ふと思いついた。よし、これしかないぞ。

「サイモン・オルコット一発芸します!!!」

「!!?」

 高らかに宣言すると、その場の全員が驚いた顔で彼に注目した。その勢いのまま、グラスをガッと掴む。

「一気!!!!」

 掛け声と共にグラスを煽る。『水で薄めながら飲むのよ…』先程モモに言われたばかりだが、ごくり。ごくり。喉を鳴らして流し込む。

「…プハーッ!」

「っ、ふふ、」

 アハハハハハ!!!!勢いも相まって、盛大に全員からウケた。次の瞬間、モモが血相を変える。

「って、さっき駄目って言ったばかりじゃない?!ほら水、水飲んで!!」

「あんがと…」

「ほらほらかなり酔ってるよ!?ママー、おつまみ持ってきて!」

「はいはいっ」

 ママが笑顔で立ち上がり、慌てた顔のモモがサイモンの背中を支える。少しクラクラしながら渡された水を飲んだ。確かに、今までこれほどの酒をこれだけ一気に飲んだことはない。なぜならそれを注文する金がなかったからだ。いつもなら安酒一杯頼んでちびちびやっていたのだが…。縦長でそれなりの容量があるワイングラス。けっこう効くなぁ…。

「チーズの盛り合わせでいいかしら?」

「いい、いい!ほらサイモンさん食べて!」

「ありがと…」

 ママが戻ってきた。口に突っ込まれるチーズを咀嚼する。…美味うま。チーズの塩気とワインの甘みが合う。

「サイモン君、ソーセージの盛り合わせとかもあるけど食べる?」

「ソーセージの盛り合わせ!食べたい!!」

 さらにママが話しかけてきたのを、ビッグケットが返事する。なんかもう好きにしてくれ。

「ビッグケット、メニュー見て食べたい物あったら頼んでいいぞ…エウカリスも…。金ならあるから、最悪俺が潰れたらお前らが払ってくれ…」

「そ、そんな…?!もう潰れちゃうんですか!?しっかりして下さい!!」

 おろおろするエウカリスの姿に、嬢たちがげらげら笑った。うんうん、盛り上がったんなら良かった…体張ったかいがあったぜ。

「ごめんなさいね、サイモン君…。本当なら私が場を収めるべきだったし、盛り上げるべきだったんだけど」

 手早くソーセージが運ばれ、みんなが楽しそうにそれを摘む中。目の前に長い黒髪が落ちる。ママがこちらを覗き込んでいた。サイモンはソファに身を沈めたまま手を振った。

「いや、あの…本当にいいんス…。こんな機会がなかったら、ビッグケットの深い過去なんて聞けなかったと思うし…」

「じゃあ改めて謝るべきはビッグケットちゃんかしら?本当ならもっと然るべきタイミングがあったはずよね」

 すると、ママとサイモンの間でソーセージを頬張っていたビッグケットが体を起こした。

「あー、それもまぁいいよ。こっちもこんな形じゃなきゃなかなか言えなかったし。でもいつかサイモンに言おうと思ってたし。だから予定よりちょっと早まったところで…」

 しばしソーセージを咀嚼して。

「まぁ、サイモンがあれ聞いて引いたり距離おかないなら結果オーライだな」

「や、別に!ちょっとびっくりしたけど!ちょっとだけだから!!」

 サイモンが両手を上げる。勢い良くそれを振りながら、頭の中には色々つらつら流れてくる。皇女の孫ってやっぱ血はロイヤルなのかな?それとも追い出された皇女の血筋だから、帰ってもいい顔されないのかな?いやいやでも、馬鹿強くて理性もしっかり伴ってる彼女は皇家の望んだケットシーの姿なのでは?ぜひ行って見せるべきでは??つーか、本人死んでてもばあちゃんへの謝罪をさせるべきでは???様々な疑問が頭を駆け巡り、上手く言葉に出来なかったけど。

「大丈夫!まだ一生の相棒、続ける気満々だから!」

「…そうか!それは良かった!!」

 黒猫は心底嬉しそうに笑顔を浮かべた。そこに、モモがにゅっと割り込んでくる。

「ていうかサイモンさんさぁ、いつこの子と知り会ったの?ついこないだ仕事ないー?って言ってたばかりじゃん」

「え?ちょうどあの日のあのあとだよ。グリルパルツァー亭の裏で、こいつが店員と食い逃げしたとか違うとか揉めてて…。あっ、ビッグケット、明日はグリルパルツァー亭行こう。そろそろ金払わなきゃ」

「お、肉食べる!?肉!ステーキ!!」

「じゃあ3枚までで」

「少な!!!」

「そのあと三つ葉食堂に行けばいいだろ」

「は?何それ」

「お前が大食いメニュー食べたとこだよ」

「あーあれ!なら許す!」

 立て板に水のごとく、途切れなく続いていく会話。それを眺めていたモモはへの字に口を曲げ、

「ふーん、随分仲良さそうだね。もう私は必要ないんだ」

 ふい、と顔を反らした。おや、おやおや。

「妬いてるんだぁ、モモ」

「はぁ?????そんなわけないし??サイモンさんがやっとまともな生活出来るようになったみたいで、感謝してるくらいだし???」

 そう言う彼女の眉間にはシワが寄っている。おやわかりやすい。アルコールを摂取して少々気が大きくなったサイモンは、ここぞとばかりにモモの頭を抱き寄せた。

「いいんだぞ、寂しいなら寂しいって言って!あっそうだ、今日 中央セントラル北部に家買ったんだ、遊びに来たいなら来てもいいぞ!」

「ええーっ、中央セントラル北部?!もしかして二人で住むの?!」

「そうですけど何か??」

「やだーーーっ、これだから人間ノーマンの男は!!ビッグケットちゃん、最悪避妊はするのよ!こんな男に孕まされたら大変よ!!」

「ごめん何の話!????」

 一瞬で酔いが飛んだ。ビッグケットにダイレクト下ネタがアタックしたのは多分初めてだ。思わず恐る恐るビッグケットに視線を向ける。ビッグケットは、殊の外きょとんとしていた。

「避妊?なにでするんだ?」

「うわーーーっやめろ!!!!」

 そんな汚れなき純粋な瞳で尋ねるのをやめろ!!!

「そうねぇ、オススメは豚の腸かなぁ。そういう店に行けばたくさんあるから買いやすいよね」

「へーっ」

「ついでに専用のオイルを塗って滑りを良くするとい。」

 いよ…と言いかけたモモの口を塞ぐ。もう無理。体が熱い。これは酒のせいか、煽られて興奮したせいか。

「俺を!挟んで!!ダイレクトにセックスの話をするな!!生々しいんだよ!!!」

 思わず頭を抱えると、左右から鈴を鳴らすような声が重なる。

「いやだって、貴方達のことだよ?大事な話でしょ?」

「私もせっかくだから今後のために聞いておきたい」

「じゃあ俺を挟んで話すのをやめてくれ!!心臓つーか心に悪い!」

 動揺するサイモンと対象的に、ビッグケットは予想以上に冷静に話に加わっている。え、こいつ処女だよな?避妊具のことも知らないくらいだもんな??どうなってんの?感情が追いつかない。

「はぁ〜?今更ドーテーでもないくせに、何カワイコぶってんのよ。しかも成人してんでしょ」

 一方モモは、心底意地の悪そうな笑顔を浮かべている。あーーっ、これだから!酒場の嬢は!タチが悪いんだ!!

「うるせーよ、俺はビッグケットにそういうことしないって決めてんの!だからやめて!!」

「はぁ〜ん、リアルな想像をすると決意が揺らいでしまいそうなんですかぁ〜?随分温い決意ですねええ」

「ママ!助けてママ!!この人が俺に精神攻撃してくる!!」

「あらあら」

 悲痛な叫びに、斜め前に座り、エウカリスや他の接客嬢たちと話していた様子のママが振り返る。涼やかな氷が落ちる音を響かせグラスを机に置くと、真っ直ぐにモモを見据えた。

「モモ?これ以上サイモン君を困らせたら駄目よ。もうこの店来てくれなくなっちゃうかもしれないわよ」

「ふーんだ、サイモンさんはもうこのがいるしお金もたんまり手に入れたし、私を頼ることはなくなるんだなーって!思っただけだし!!多分今日が見納めだし!!」

「もう、プロなんだからそんなことで音を上げないの。それでもお店に来てもらうのが私達の仕事でしょ」

「くっ…」

 グラスを握りしめるモモ。その目に微かに涙が滲んでいて、どうにも仕事と私情の兼ね合いを上手くつけられない様子だった。本来こういう店で働く接客嬢なんて、甘く華やかな嘘の世界に生きるもんだ。相手がどんな立場でどんな生活をしていようと、酒と接客の手練手管で籠絡し、金づるとして金銭を巻き上げ続ける。悪く言えばそれが仕事だ。しかし、サイモン自身わかっている。モモと彼は今更巧みな嘘をつくには仲良くなりすぎた。これ以上踏み込もうとすれば、どんな形であれ何らかの破滅を迎えるだろう。二人は有り体に言って、本当に仲の良い友人なのだから。

「…大丈夫。酒ならまた飲みに来るから」

「このと一緒に、でしょ」

「別に一人でもいいぞ?」

「それじゃなんだか悪いじゃない」

 …はぁ。唇を尖らせるモモを前に、何と言えばこの場がまとまるかよくわからない。恐らくビッグケットは聞くまでもなく、酒が飲みたければ勝手に行けと言うだろう。しかしそれではモモが納得しないという。けど店に来ないのも嫌だと。どうしろっていうんだ。

「…モモはサイモン君が本当に好きなのねぇ」

 だんまりが続くサイモンたちを見て、ぽつりとママが漏らす。するとモモは弾かれたように机を叩いた。

「違いますけど!これはマジです!つーか、ガチ本音で言うなら駄目なお兄ちゃんって感じに思ってた!そのお兄ちゃんが突然立派になってお嫁さん連れてきて妹悲しい!的な!!」

「あー、そっち?」

「そっち!なの!!妹は悲しいです!もー、お兄ちゃんは私がいないと駄目ねぇ♥って思ってたのに、突然卒業しちゃうなんて!辛い!!!」

 モモはそこまで叫ぶと、ワインをどばっとグラスに注ぎ、一気に煽った。おい、お前は大丈夫なのか…サイモンが思わず身じろぎすると、モモがキッと睨んでくる。

「何よ何よ、今まで私にべったりだったくせに!いーよそっちでヨロシクヤりなさいよ、私を過去の女にすればいいじゃない!!」

「大丈夫?支離滅裂だけど?お前妹なんじゃなかったのか??」

 わーーーーうるせぇーーー!!と机に伏せるモモの背中をさする。泣いてるかどうかはわからない。だけど、酒の力が彼女のテンションを爆上げしてるのはよくわかった。…駄目な兄、しっかり者の妹…か。確かに出会ってしばらく経ってからはそういう感じだったかもな。全然仕事なくて食うにも困っていたサイモンと、順調にここで働き始めてしっかり自立した彼女と。最初の最初に彼女を支えてあげようとお金を渡したのはサイモンの方なのに、随分立場が変わってしまった。

 そして今、散々彼女に世話になったのが嘘みたいに、サイモンは大金を抱えている。

(…それってやっぱ寂しい、のかな…。あるいは悔しいとかもあるのかな)

 改めて酒瓶からワインを注ぎ、口をつける。甘くて深い高級な味。いつかこれも安酒と呼ぶ日が来るんだろうか。

「…ビッグケット、なんか悪いな。ゴチャゴチャ揉めちゃって」

 モモが黙ったのでビッグケットに話しかける。と、猫はふふ、と瞳を弧にした。

「いや、なかなか面白かったぞ。…というか、お前本当に好かれているんだな。こうなったのも偶然の縁とはいえ、なんだか申し訳ない気持ちだ」

「いや、お前が責任感じることでもないだろ。これもまた運命さ」

「運命ね…」

 ぱきり。長いソーセージを噛みちぎる音がする。ビッグケットが咀嚼し、飲み込むのを見ながらまたワインを飲む。…ふと会話が途切れて気づいた。自己紹介リレーはどうなったんだろう。途切れた勢いのまま終了なんだろうか。

「…ママ、みんなの自己紹介ってあれで終わりなの?」

 斜め前のママに尋ねると、すっかり馴染んでいる様子のエウカリスが代わりに声を上げた。

「あ、さっきこっちで続きやってましたよ」

「マジか」

「あーでもあれ、ビッグケットさん聞いてないんですよね」

「うんそれな」

 サイモンが頷くのを見たママ、じゃあ!と手を叩いた。

「よしっ貴女たちもっかいビッグケットちゃんに自己紹介しましょう!これから常連さんになってくれるかもしれないんだから!」

 すると、奥の3人がはーい!と明るい声を上げた。おお、酒瓶が空いている。随分飲んでるな。その中で一番に立ち上がったのはステファノスだ。

「はい、私はコボルトのステファノスです!気がついたら人間ノーマンのペットとして生まれてました!その後すぐ親と引き離されてあちこち転々としたし、まぁ苦労もしたけど、今この店で働いて毎日楽しくお酒飲めるならいいかなって思ってます☆よろしく!」

 ステファノスは垂れ耳のエウカリスに対し、ピンと立った三角耳のコボルトだ。こうして同種の二人を並べると、同じコボルトでもかなり違うのがわかる。エウカリスは金髪のように明るいブラウンの長毛、ステファノスは黒に近い焦げ茶の短毛。そして赤いドレスを着ている。胸は…控えめかな…。頭は犬なのに体は人間ノーマンに近い形なのがやはり面白い。そして指だってちゃんと五本ある。獣人、奥深い。

「じゃあ次私ね。ラミアーのウェイライです。下半身が蛇って大変じゃない?ってよく言われて、まぁ早く走れないのは欠点かもだけど、代わりに3本目の腕がある感じで物とか取れるから便利です♥経歴…人間ノーマンに魔物だと思われて捕まったのがアヴァロンに来た最初だったかなぁ。まぁなんだかんだあったけど今穏やかに暮らせて満足です、終わり!」

 ウェイライは上半身が女性、下半身が蛇。となると服はどうなるんだと思われそうだけど、いつも胸〜ウエストを覆った衣類を身に着けていて、確かビスチェって言うんだっけ。これ下着だっけ?とにかく、下半身の装飾はバッサリない。ぎりぎりくびれのすぐ下までは人間型。おかげで人魚の尻尾が魚じゃない、みたいにも見える。赤銅色の燃えるような赤毛、エメラルドの瞳が宝石みたいに綺麗なだ。

「最後私ね。ヤギの獣人、パーンのユウェルです。私は気づいたらサーカスの珍獣枠として生活してたんだけど、嫌になったから逃げてきちゃった。この辺はモモとおな、あっいやなんでもない」

 えっ?モモってサーカス出身なの?ユウェルの自己紹介に突然モモの名前が出てきたのでびっくりした。一瞬ちらとモモを見たが、特に聞いてる様子もツッコミもない。ユウェルは気にしないで!と仕切り直し、続きを話し始めた。

「えーごほんごほん!失礼!まぁとにかく、それ以降一旦セクメトの国とかにも行ったんだけど、それはそれで馴染めなくてこっちに来ちゃった。今は優しいママと楽しい仲間に囲まれて幸せです♥おしまい!」

 ユウェルは尖った二本の角を持つ、人面ヤギみたいな印象の女のコだ。真っ白な毛に覆われていて、顔立ちはヤギというには人間だけど、それにしては目と目が離れてるから草食動物っぽい。瞳孔も横長だ。視界は変わらないのかな…?気になってるけど怖くて聞けない。この3人の中だと一番背が低く、しかし体型はグラマラスだ。青いドレスがトレードマークで、今日はタイトスカートか。いや可愛いよ、可愛いけど、手は五本指なのに足は蹄ってすごいむずむずする。人間ノーマンのエゴなので口には出さないけど。

「うん、ちゃんと自己紹介出来たわね。ビッグケットちゃん、今日はとても失礼なことになっちゃったけど、良かったらまた遊びに来てね。一人でも大歓迎だから!」

 そしてシメはワーウルフのママ。チーズの切れ端を食べてたビッグケットは驚いたようにママを見て、チーズを飲み込んだ。

「私一人で来ていいのか?」

「もちろん。この街に暮らす獣人同士ですもの、必要なら何でも手助けするわ。獣人と人間ノーマンが仲良くなれるように、あと獣人同士も助け合えるように、そう願って店の名前を『ボンド』にしたんですもの。良かったらまた私達に会いに来てね」

 もちろん貴女が来たらプリマヴェーラとは関わらないで済むように配慮するわ。付け加えられた言葉に、小さく微笑むビッグケット。じゃあ、と声を上げた。

「また今度、お酒飲みに来るよ。また美味しいカクテル作って欲しい」

「ええ、喜んで!あ、今日の分はどうする?まだまだ飲むんでしょう?」

 話を振られて、ビッグケットがちらっとサイモンを見る。金を出すのは彼だ。多少気を使ってるのかもしれないが、そんな心配ご無用だ。

「大丈夫、好きなだけ飲め。ただし体は壊すなよ」

「わかった!じゃあさっきのもっかい作ってくれ!」

「はいはい、バカルディね」

 よっ、と立ち上がりカウンターに向かうママ。背中に流れるブルネットの髪が揺れる。それを見ながらさっきの言葉を反芻する。…獣人同士が助け合えるようにこの店の名前を『絆』にした、か…。そうだ、エウカリスのこれから。今後の生活の保証が必要だった。せっかくなのでここで話を振る。

「あの、そうだママ。エウカリスは帰る場所がないんだって。ママがこの街の獣人の助けになりたいって言うなら、どこか働ける場所知らないかな。こことか、ここが駄目でも他所よそに」

 自分のことを話していると気づいたエウカリス、慌てて頭を下げる。ママは優雅に振り返るとふふ。と笑った。

「エウカリスちゃん、この店の仕事に興味あるかしら?それで良ければここで雇うし、嫌なら他の仕事を紹介するけど」

「…!!」

 さっき出会ったばかりなのに即採用。突然転がり込んだ良い話に、しかしエウカリスはえっと…と少し迷う様子を見せた。気持ちはありがたいがやりきれるかどうか自信がない。そんな風に見えた。ママもそれを感じたのか、言葉を重ねる。

「もちろん、貴女がこの仕事に向いてるか長く続けられるかなんて私にもわからないわ。ちょっとやってみて駄目なら他をあたるって手もあるのよ」

「そ、それでいいなら…ぜひ…!」

 エウカリスがあからさまにほっとした顔をする(犬の顔だから雰囲気だけど)。やはりそこがネックだったのか。それを聞いたママはにっこり笑い、磨いたグラスを掲げた。

「よし、じゃあ採用。明日の夜からここに通ってちょうだい。寝泊まりするとこがないならしばらくここの二階を使って。家が見つかるまで好きに使っていいから」

 わ、と歓喜の声を上げる一同。笑うエウカリス。その一方でサイモンがハッと顔をあげる。ならばこれを渡さなくては。

「エウカリス、今お金なんにもないだろ。良かったらこれ生活費の足しにして。必要な物買いなよ」

 言いながら鞄から金貨袋、そして金貨2枚を取り出す。煌めくそれをエウカリスの肉球のついた手に乗せると、彼女は感激した様子でぎゅっと握りしめた。

「ありがとうございます…サイモンさん…。本当に何から何まで、その…なんてお礼を言ったらいいのか…っ」

 声を震わせ、金貨を抱きしめるようにうつむくエウカリス。サイモンは明るく破顔し、ひらひらと手を振った。

「いいんだいいんだ。俺も昔初めてシャングリラに来た時、この街の住人にたくさん助けてもらった。つい最近までだって、色んな亜人獣人の厚意に支えられてた。だから俺はそれを他の人に返してるだけだよ。俺もここの住人なら、そうすべきだと思って」

「…そうですか…ありがとうございますっ。いつか私もそういう人になれるよう仕事頑張りますね!」

 サイモンの言葉にエウカリスがまた微笑み、その場の全員が拍手で彼女の門出を祝った。そこにママがビッグケットの新しい酒を持ってやって来る。

「うんよし、じゃあまた乾杯しましょう!ほらみんなお酒をいで!エウカリスちゃんの就職、出発、新しい仲間の誕生を祝してかんぱーい!!」

 カンパーイ!!!

 勢いでコールしたから空のグラスの者もいたけれど。それも含めてみんなでげらげら笑った。今日は本当にいい日だ。ここに来て良かった…思わずサイモンの頬も緩んで。





















「…結局こうなるのよね〜」

 脱力した様子のモモが独りごちる。あたりには酒瓶、グラス、おつまみを食べた跡、そして死屍累々といった形容詞がぴったりなほど酔い潰れた一同。店は途中で気を利かせたママが「CLOSE」の看板を掲げ、貸し切りにしてしまった。おかげで他の客にこの惨状を見られることはなかったが…実はママもそこまで酒に強いわけじゃない。「もう飲めにゃい、うふふ…」と呟きながらすぐそこに転がっている。

「大体さぁ、なんなのこれ?私動けないじゃない。どうすんのよ」

 呆れ返った様子の彼女の膝の上には、サイモンがでんと頭を乗せている。ついでにぎゅっと腰を抱きしめているので、モモは完全にホールドされている。これを外すのはなかなか骨が折れそうだ。ため息が出る。

「サイモン、取れないのか?私が引き剥がそうか?」

 その声にモモが顔を上げると、ほとんどただ一人と言っていい、希少な意識のハッキリした様子のビッグケットが彼女を見ていた。モモはあら、と目を丸くした。

「あれ、ビッグケットちゃんマジで酒強いんだ?ワインも飲んだよね?ピンピンしてんじゃん」

「よくわからないけど、ここまで泥酔する感じじゃなかったぞ。とりあえず美味しかったってだけで」

「はは、こりゃ大物だわ」

 肩をすくめるモモを見て、彼女の膝に乗ったサイモンを見て、ビッグケットが眉を寄せる。こいつをどけるのは別にかまわないんだ、が。

「はぁ…どうしよう。これからまだ引っ越しがあるのに…サイモン、完全に寝ちゃったのか?叩いたら起きるか?」

「いや、あなた人間引きちぎるくらい怪力なんでしょ?そんなことしたらサイモンさん死なない?」

「その気になれば即死ぬ」

「ひぇ…」

 血の気が引くモモ。なんでこの子こんなことを平然と言えるんだろう。

「いや、私が起こそう。とりあえず。頑張ってみるから最終手段はやめよう」

 この子に任せてたらサイモンの命がいくらあっても足りなさそうだ。モモは慌てて、とりあえずサイモンの頬を叩いた。最初は軽く、ぺちぺち。反応がないので、多少力を込める。パンパン!しかしやはり起きない。モモは深くため息をついた。

「…駄目だこりゃ。しょうがない、また運ぶか…。あ、家。どこなんだっけ?引っ越したんだよね??」

「住所は私もわからない。けど、たしか店にもらったチラシが鞄に入ってるはず…」

 サイモンの肩からずり落ち、今は床についている鞄。その中を漁ると、…あった。パンフレットや書類のあれこれの中に住所の記載が。

「モモ、これどこかわかるか?」

 ビッグケットがチラシを引っ張りだし、その一文を指さすとモモが覗き込む。

「あーこれは…中央セントラル北部でしょ…えーと…あ、あの辺か。けっこう遠いなぁ…」

「ふむ…やっぱこいつを起こさないと駄目か」

「待って待って。もうちょっと私が頑張るから待って」

 無言で平手を振りかぶるビッグケットに、モモが両手を上げる。もう少し穏便に…上手く起こす方法はないか。えーと今まではどうしてたんだっけ。細身のサイモンと言えど、縦は立派な成人男性なので、小柄なモモ一人では運べない。いつも肩を貸してなんとか歩いてもらっていた。

「えーとえーと…あっそうだ、たしかママが奥の戸棚から気付け薬を出して飲ませてたような…はっ」

 だが動けない。妙案を思い出したところで、モモは動けない。仕方ない、傍らのビッグケットに声をかける。

「あのね、確か戸棚のあの辺の中に…やたら角ばって真っ青な液体が入った瓶があるはずなのよ。探してきてくれないかな」

「わかった」

 言われてビッグケットが素直に戸棚に向かう。扉を開けて、閉めて、あちこち探って。…あった。

「これか?」

「あーそれそれ」

 ビッグケットが戸棚の中から出して掲げた小瓶は、確かにモモに見覚えのある物だった。駆け寄ってきた黒猫からそれを受け取り、キャップ兼カップである蓋に中の液体を注ぐ。これを飲ませれば、いや口に含ませるだけでいい。それだけでサイモンはこの薬の効能でシャキッと目を覚ますだろう。小さなカップにたゆたう美しい真っ青な液体を見つめ、しかしモモはことりとそれを机に置いた。

「…どうした?飲ませないのか?」

「…ううん、その前に。サイモンさんが目を覚ます前に。ちょっとだけお話させて。隣に座ってよ」

「……?ああ」

 モモがソファの隣を叩くので、ビッグケットは訝しがりながらそこに腰を落とした。モモは少しうつむき、しばし沈黙が続いた後…静かに口を開いた。

「あのね、こんなこと貴女にしか言わないけど。私ね、昔サイモンさんのこと少しいいなって思ってた時期があって」

「うん」

「それは恋と呼ぶには淡すぎる気持ちで、多分この街に来て初めて優しくしてくれた人が…いや。私が今まで生まれて生きてきた中で初めて優しくしてくれた人間ノーマンが、この人だったから。多分嬉しいとか信頼とか友情とかたくさんのあったかい気持ちがゴチャ混ぜになって、憧れになってたと思うのね」

「…うん」

 ビッグケットは静かに相槌を打っている。だが、モモは無意識に彼女を見た。もっともっと聞いてほしかったから。ビッグケットの目に美しい兎の少女の顔が映る。ツヤツヤの桃色の髪。大きく真っ赤な彼女の瞳。宝石のようなその造形に、気圧されて瞬きして。モモは真剣な様子で続きを話した。

「…ごめん、ちょっとエグい話するけどいいかな」

「どうぞ」

「あんまり聞いてて気持ちいい話じゃないと思うし、色々ショックな部分もあるだろうけど、ごめんね。最初で最後の他人のワガママだと思って」

 そこで話を一度区切ったモモを見て、それは了承のアクションを待っているのだと思ったビッグケットは、もう一度小さく頷いた。それを確認したモモがまた話し出す。

「…あのね、私、さっき聞いたの覚えてるかわかんないけど、サーカスの見世物小屋で生まれたの。いや、生まれてから売られたか捨てられて拾われたかが正しいのかな。気がついたらそこにいた。兎人間って呼ばれて、干し草しか与えられなくて、いつもお腹減らしてガリガリに痩せてた。私干し草じゃご飯にならないのに。だからいつも残飯漁ってたよ。団員のオジサンが飲み残したスープとか舐めてなんとか空腹をしのいでた。

 周りに居たのは人間ノーマンか猛獣で、客もみんな人間ノーマンだった。だから兎の耳としっぽが生えた私が珍しかったんだろうね。狭い檻に閉じ込められて、ドロとか石とか投げられて、指さされて笑われる毎日だった」

「………」

「いつかここを逃げ出してやるって思ってた。でも常に鎖と重りに繋がれてたからどうしていいかわからなくて。そしたらある日、団長の部屋に呼ばれたの。鎖と重りを解かれて、『お前もそろそろいい年だからこれを外してやろう』って言われて。そうか、私はまだ子供だったから待遇が悪かったんだ。大きくなったらせめて、芸を仕込んでもらってそれで稼いで、いいご飯が食べれるんだってちょっと期待したの。そしたら、……」

「…なんとなく想像ついたぞ」

「うん、わかる?そう、私はめちゃくちゃ太ったオジサンに襲われて、処女じゃなくなったの。9歳か10歳の頃だったと思う。今思うとよく大人のちんぽが入ったなって感じだけど、とにかく突っ込まれたの。そんでぐちゃぐちゃかき回されてすごく痛くて、でも思ったよね。あっこれチャンスじゃね?今なら重りも鎖もないんだ、今が逃げる時なんだって」

「…そうか」

 モモは淡々と言葉を紡いでいる。悲しいとも苦しいとも感じられない。むしろその軽妙な語り口は、何か面白い小噺を披露してるかのようだった。だがその奥に深い悲しみがあることは間違いない。ビッグケットは真っ直ぐ前を見据えるモモの横顔を見つめた。

「で、必死にオッサンのちんこに噛み付いて、払いのけられた隙をついて外に飛び出したの。捕まったらきっと死ぬより辛い罰が待ってる、だから死んでも捕まらないぞって思いながらめちゃくちゃ走った。私、あの時ほど自分が兎の獣人なんだって自覚したことなかった…すごい速さで森に出て、山を抜けて、街に出たけど怖くてまだ走った。次の街くらいじゃすぐ追いつかれちゃう、もっともっと逃げなきゃって。心臓が張り裂けそうになる限界まで走った」

「…うん」

「そこからは、あちこちふらふらしてた。最初は子供でも何か仕事探そうとしたけど全然なくて、獣人だからって蹴り飛ばされて、仕方ないから頭下げて物乞いして、なんとかお金とかゴミとかもらってた。たまに優しい人がいて、お菓子くれたのがすごく嬉しかったな」

「…うん」

「12歳くらいの時から娼婦を始めた。一回しちゃったから、もう稼げるならなんでもいいやって。そしたら私可愛いから、儲かるのよ。見る間に生活が安定して、毎日ご飯も食べられたし着飾れるようになった。でも人間ノーマンはいつも私を蔑んで雑に扱った。お金出して買ってくれるのも人間ノーマンだけど、私を殴って蹴って酷い扱いするのも人間ノーマン。生活は安定したけど、だんだん心が辛くなってきちゃって、気がついたらここシャングリラに辿り着いた。噂では聞いてた…獣人にも人権がもらえる場所だって。でも半信半疑だった…しょせん人間ノーマンの国でしょ、迷信なんじゃないのって」

「うん」

「そこで、初めて会ったのがサイモンさんだったの。びっくりするよね。獣人と亜人の街って聞いてたのにフッツーに人間ノーマンが居てさ。で、思わず『こんにちは』なんて話しかけちゃって。そこから軽く身の上話なんてして。あちこちふらふらしてたらここに辿り着いたの、ってほとんど伏せて。そしたらサイモンさん、すごく言いにくそうな顔しながら『じゃあ、俺から一つ仕事頼んでいいかな』って言ったのよ」

「…そうか、そうやってお前達は会ったのか」

「うんそう」

「それで、仕事って…」

「…ごめんね。すごく私のエゴなんだけど、言わなくちゃって思ってるの。ごめんね、言わせてね。サイモンさんは、私に娼婦の仕事をくれた。そんで一晩一緒に過ごして、銀貨を1枚くれた。私、こんな経験初めてだった…『ごめんな』って言いながら私を優しく抱いてくれたのは、人間ノーマンではあの人が初めてだった。初めて、人間ノーマンに人として優しく扱ってもらえたの」

「………………」

「そこそこ手慣れた様子だったから、一応私が初めての女じゃないんだろうなってのは付け加えておくけど。まぁ、そういう関係なのね私達。だから…正直、ね、あとから来た貴女に見事にかっさらわれた形になるの、正直面白くない。めちゃくちゃ面白くない。このままだとサイモンさんはずっと貴女と仕事して、家でも一緒で、下手したら恋仲になって付き合うかもしれないんでしょ。悔しい。悔しいよ…」

「………」

 ごめん、と一瞬言いかけたがビッグケットは口をつぐんだ。何も知らなかったとはいえ、自分はこの子から大切な人を「奪う」んだ。かけられる言葉などあるわけもない。

「でもさ、ここからが一応大事な話で。そこまで感動して傾いておいて、なんで恋人の座にならず妹ポジション気取ってたかっていうと、私が半端な獣人だからなんだよね。例えば仮に奥さんになったところで、子供はどんな姿になるのかなとか。サイモンさん、エウカリスにもそうだけど獣人にすごく優しいけど、結局伴侶に獣人はNGですって拒絶するかもとか。きっとご両親がいい顔しないだろうなとか。獣人と一緒になったらこの街以外ではまともに暮らしていけないかもとか。色々考えちゃって」

「…うん、それ、なんとなくわかるぞ」

 唐突に返ってきた意外なリアクション。モモはぱっとビッグケットを見た。片側だけ晒された瞳。月のように静かなそれがモモを見つめる。

「私も半端な獣人だから、人間ノーマンとツガイになった先の子供ってすごく不安だ。都合いい、問題ない部分だけ受け継げばいいかもしんないけど、正直ブサイクに生まれるかもしれないし、知能や理性もちゃんと伴ってるかわかんないし、そういう不安要素が相手を困らせるかもしれないと思うと、安易に子孫を残せないなって思う」

「わかる。それな」

「めっちゃわかる」

 思わず二人で顔を見あわせて、うんうん頷いてしまう。

「そうだよねぇ、混血獣人ってみんなそうなんだね」

「みんな幸せになりたいから、この人こそと思って選び抜くけど、だからこそ拒絶されたらと思うと怖いよな」

「それ。それな。それな!…もしかして、ビッグケットちゃんもうサイモンさんのこと…」

 片手で口を抑えるモモを見て、ビッグケットは慌てて手を振る。

「いや、まだそういう感情はないけど。あの人がもし私の過去も今も未来も受け止めてくれたら、それも悪くないかなと思うことはある。…いや、今はまだ全然仮定の空想の範囲だけど!」

「いやいや、わかるよ。女のコなら少しは夢見ることもあるよね。うんうん」

 それまで何に対しても動じないように見えたビッグケットが、初めて動揺したような気がする。モモは思わずにまにまと相好を崩してしまう。

「てか、あの人つーか今ここにいるんだけどね!キャハハ!意識がない間に勝手に同じ人を巡って好きとか惚れたとか子供作るとか話してるなんて、思わないだろーな!!」

「いや、あの、私は惚れたとは言ってないからな?」

「知ってるよぉ!でも充分候補なことは伝わった!これからが楽しみだね!」

 に!とイタズラっぽく口角を上げるモモ。そして、直後に優しげに目を細めた。

「私は悩んで悩んで諦めちゃったけど、もし…これからビッグケットちゃんがサイモンさんのこと好きになって、決断する時が来たらぜひ教えてね。誰よりお祝いするから!」

「…そうだな。もしもその日が来たら、な…」

「えーー、何よ〜、ぼかすじゃーん!?もうこの勢いで付き合えばいいじゃん!!もしビッグケットちゃんが迷ってるなら、サイモンさんに私から聞いてあげようか!?」

「いや、多分こいつそういうつもりで私と一緒にいないと思うぞ…!」

 なんで?なんでも!!きゃーきゃーはしゃぎあってると、むくりと動き出す人影がある。ママだ。死屍累々の中から一番に復活したのが、ここのマスターである彼女だったのはさすがというべきか。

「あれ、……みんなどうしちゃったんだっけ…」

 上半身を起こし、かぶりを振るママ。それを見たモモは慌てて机の上のキャップを手に取る。

「やば、もうお喋りはおしまい!サイモンさんを起こさないと!」

 自分の腰に絡みついている腕をはがし、膝の方を向いている顔の中から、おおよその感覚で青い液体を口元に垂らす。瞬間、

「ゔぁっ!!げほ!ごほ!!苦い!!!!」

「わ〜、効くんだなーー」

「でしょお」

 ガバッとサイモンが身を起こした。泥酔してる人間の意識を呼び起こすだけでなく、こんなに瞬発力を伴って動けるようにするとはお見事だ。きゃらきゃら女子二人が笑う。

「…、……、あれ?!俺、潰れてたのか…!?う、うぇっ気分悪い…」

「えー、サイモンさんいつもこんな感じじゃない!何回家まで送ったと思ってんのよ」

「え…そうだっけ…」

 丁寧に編まれた金髪が乱れている。眠いような苦しいような表情かおでソファに座り直す彼を見て、モモは「あ、」と声を上げた。

「そういえば。サイモンさん髪切ったのね。めちゃくちゃカッコよくなったじゃん。服も買った?すっかり変わっちゃったねぇ」

「あーうん…?どうも…」

 気のない返事。モモとビッグケットは顔を見合わせて小さく笑う。せっかく女性が心を込めて褒めてるのにこれだ。つまらない奴め。

「…今までは、私が家まで連れてってたけど。これからはビッグケットちゃんにお願いするからね。迷惑かけないでよ」

「…ぐ、わかってるよ…。まぁ、既にお世話になることが確定してる今言うのもなんだけど…」

「そうね。カッコ悪ぅい」

「うるせーわ」

 あけすけで直接的なディス。顔をしかめるサイモンを見て、モモは。

「じゃあ、これからこの人をよろしく。何かあったらいつでも私に会いに来てね」

「ああ」

 笑顔でビッグケットに語りかけた。ビッグケットも晴れやかな表情を浮かべている。一人事情が飲み込めないサイモンだけが頭に「?」を浮かべている。

「あれ…ビッグケット、また女同士で何かわかりあってるのか…?」

「ああうん、そりゃもうこってりと!!」

 わはは、と盛り上がる二人の、空白期間の会話内容はわかるわけもなく。サイモンはただ首を捻ることしか出来なかった。

「さて、サイモンも起きたしそろそろ行くか!ママ、お会計してくれ」

「はぁい……えーと、ワインとジュースとチーズとソーセージと…」

 サイモンの意識は会話こそ出来るようになったが、未だふわふわしてハッキリしない。それを見て取ったビッグケットが代わりに会計を済ませる。ママから提示された金額分金貨袋から出し、釣りを貰い。その足で力なくソファにもたれかかるサイモンの元へ向かって、彼の身体を

「えっ!?」

 鞄ごとひょいと両腕で抱えた。所謂“お姫様抱っこ”の形だ。

「ま、まって…これめっちゃダサいよ…おろして…」

 サイモンがまごまごと身じろぎするが、ビッグケットは動じない。そのまますたすた出入り口まで歩いていく。

「…あ、そうだ首飾り」

 これ、置いてかなきゃ駄目だよな。後ろのモモとママを振り返ると、そりゃね。と二人。

「じゃあ私が取るよ」

 両腕が塞がってるビッグケットに代わり、モモが足早に近づいて黒猫の首元に手をかける。ちゃり。小さく金属音がして魔法の首飾りが外れた。その途端、

『ありがとな、モモ。世話になったな』

 ビッグケットの言葉は酒場の二人には解読不能になってしまった。あれだけたくさん話したのに、心を通わせたのに。モモは切なくなって眉根を寄せる。

「…もう、わからない。あなたが何言ってるかわからない。ごめんね」

『おっ?すごい、本当にまたわからなくなった。その首飾りマジですごいなぁ』

 無邪気な笑みを浮かべるビッグケットの姿に、何を言ってるのかなんとなくは想像出来たが、それはあくまで想像でしかない。モモは苛立ちを覚えつつ、目の前のサイモンの頬をつねる。

「ねぇサイモンさん、ビッグケットちゃんはなんて言ってるの?通訳してよ」

「うぇ…?えーと、ホントにまた何言ってるかわからなくなった、すごいなーだって」

「…そ。あ、貴方も首飾り置いてってよね。それ超高いって話だから」

「…げっ、そうだよな…。悪いけど外してくれる…」

 わかった。頷いて、アルコールで赤みがさした彼の首元に手をかける。かつて一度だけ、誰より間近に感じた彼の肌に。こんな風に触れる日が来るなんて思わなかった。少しの悲しみと、切なさと、そして諸々を飲み込んで置いてきた愛しさと。これからはそれら全てと決別する。

「ねぇ、ビッグケットちゃんの事うんとうんと幸せにしてね。獣人てのは愛情深いし嫉妬深いんだからね、泣かせたらタダじゃおかないから」

「…え?いやだから、別に俺達結婚するわけでもなんでもないんだけど…」

「はぁ?これから毎日しっぽり一緒に暮らす野郎がよく言うわ」

「言い方。」

 鋭い言葉が投げられたが気にしない。パチン。金具が外れて首飾りがだらりと落ちる。

「じゃあね。ご来店ありがとうございました」

「…うん、またな」

 恐らく別れの挨拶を済ませたんだろう。言葉がわからないながら、そう判断したビッグケットが声を上げる。

『サイモン、このまま玄関を出るからモモに魔法の絨毯を外に敷いてくれるよう頼んでくれ』

『ワカッタ』「…モモ、悪ぃんだけどそこの絨毯を外に敷いてくれ。俺たちそれで帰るから。…あ、それ魔法の絨毯なんだ。浮いて移動できる奴買ったんだよ」

「うわすご。金持ちムーブやばい。…うんわかった」

「あと、ビッグケットの荷物。黒いストールもな」

「はぁい」

 サイモンが指差す先に大きな紙袋、黒いストール、そして丸められた絨毯がある。モモはママと手分けしてそれらを運び、外に出した。外はすっかり深夜の空気だ。石畳の上に絨毯を広げると、ビッグケットが手慣れた様子でサイモンを下ろし、荷物を乗せる。これで、動く?二人は興味津々だ。

『ほらサイモン、指示出して』

 細心の注意を払いながらビッグケットがサイモンの頬を叩く。起き上がるのも辛いサイモンだが、そうも言ってられない。なんとか上体だけ起こして返事を返す。

『大丈夫、チョット待ッテ』「…それじゃ、お世話になりました…。エウカリスにもよろしく、またここに会いに来るからって伝えて」

「はいはい。サイモン君、また楽しいお酒飲みに来てね。みんなで待ってるから」

「来ないと呪ってやるからまた来てね」

「なんだそりゃ。絶対また来るから安心しろよ。…それじゃ、ママ、モモ、ありがとう。またな。

 浮いて、真っ直ぐ飛んで。ゆっくりな」

 その言葉を最後に、獣人バーボンドが遠くなる。今何時だろう。時計を見ると深夜2時だ。随分ボンドで過ごしてしまった。

『ヤバ…ジルベール寝テルダロウナァ』

『いいんじゃないか?いつでもいいって言ったのはあいつなんだろ』

『アーウン…ソウダトイイケド…』

 話しながら吐き気がこみ上げる。うう、今は身体がセンシティブな状態だ。もっと速度落とさないとキツイぞこれ。

「魔法の絨毯、もうちょいゆっくり…」

『はぁ?!どんだけとろとろ進むんだよぉ、勘弁してくれ!』

 そう言われましても、人間には限界てものがありまして。急ぎたいのは俺も山々なんですけどね????

















『…やっと着いたぞ!』

『ヤット…着イタナ……』

 それは酒場を後にしてからだいぶ経ったあとのこと。真夜中にジルベールの店を尋ねると、寝ぼけ眼ながらちゃんと荷物を引き渡してくれた。ビッグケットたちが買った物はもちろん、地味にサイモンの荷物も借金返済の途中でジルベールの店に置いてきた。それらまとめて引き取り、いざ新居へ。荷物はなんとか魔法の絨毯に全て載せられた。そして急ぎたいビッグケットと極力急ぎたくないサイモンで一悶着あったものの、ようやく。サイモン曰く住所通りの物件に辿り着いた。

 全体の印象を述べるなら、小振りな城のような外観。あるいは貴族の大屋敷。とにかくでかいそれは圧巻の存在感で、それまで全く金持ちと言えない暮らしをしてきた二人を圧倒するのに充分な威圧感だった。

『…これの最上階だって?入れるんだよな?』

『ソウイヤココ、最新ノ防犯しすてむガドウノッテ言ッテタナ。コンナ時間ニ入レナカッタラマジデウケルゾ』

『勘弁してくれよマジで』

 玄関は両開きの立派な扉。開いてくれさえすれば、魔法の絨毯でそのまま入れるのだが…これ、どうするんだ?渡された鍵が入りそうな何かもない。とりあえず今の二人には見つけられない。まさか…詰んだ???二人が内心真っ青になっていると、中から微かに音がした。…人の気配がする。耳を済ましていると、唐突に扉が開いた。

「サイモン・オルコット様ですか。私たちはここの警備員です。お待ちしていました」

『…開いた…』

「すいません、めちゃくちゃ待たせちゃいましたよね…本当にすみません…」

 重い音を伴い、開かれる扉。その中に居たのは屈強なワーウルフの男性、そして傍らにローブを纏った小柄な人間ノーマンの女性。これはつまり、肉体労働担当と魔法担当ってことか?唖然とする二人を見て、軍服地味た服を着たワーウルフが口角を上げる。

「いえ、私達は元々交代しながら24時間外の様子を見ているので。お二人のためだけにわざわざ待っていたわけじゃありませんよ。お気になさらず」

「あ、そうなんだ…良かった…」

「では、早速ですがお二人の情報をスキャンさせていただきますね。少々お時間いただきますが、この建物に情報を登録します。今しばらくお待ち下さい」

「へぇーーー、すご…」

 先程のサイモンの予想はほぼ当たりのようだ。女性が両手をサイモンにかざすと、ぼわ。と空中に魔法陣が現れ、彼の頭から爪先までを通り抜ける。何の感覚もない。酔いで立ち上がれない故サイモンは座ったままだが、特に注意されることもない。これでスキャンとやらが終わるらしい。体格とか、なんらかの身体の情報を取り込んでいるのだろうか。それでここの住人とそれ以外を分けようという事か。すごい。

「こちらの方も失礼します」

 続いてビッグケット。同じように頭から爪先まで魔法陣を通過させる。最初何事か理解出来ていなかったビッグケットは一瞬だけ怯えたが、魔法陣が触れた瞬間、特に害のない物だと判断したようで大人しくなった。

「…はい、ありがとうございました。これでお二人の情報が登録されました。以降は手でパネルをタッチしていただきますと各所の仕掛けが作動しますので、ご利用ください。なお、居室の鍵もこれで開きます。不動産屋から渡された鍵は不慮の事態が起きた時のためのスペアとなりますので、大事に保管なさって下さい」

「…タッチパネル。すごっ」

「では、私どもはこれで。失礼いたします」

 さっき「少々お時間いただきます」と言われたが、本当にほんのちょっとの時間だった。これで終わり。警備員二人は会釈をしてすぐに帰ってしまった。会話の内容がわからないビッグケットだけが事態を飲み込めず、訝しげにしている。

『…あの二人、もう帰るのか?なんだって?』

『アノ女ノ人ガ多分魔法使イデ、サッキ魔法陣ヲ使ッテ俺達二人ノ情報ヲコノ建物ニ登録シタ。コレカラハナンカ板ミタイノヲ触ルト色々動クカラ使ッテクレッテ』

『ほえええ、すごーーー!!!』

 ビッグケットの耳がぴょこんと立つ。警備員たちが去ってしまったので、すっかり閉まってしまった眼前の扉。その隣の壁に、気づけば小さな四角い板が付いている。

『これか、この板か!』

 言うなり黒猫がパン!と板を叩けば、重そうな扉が自動で開く。両開きのそれが勝手に動く様はなかなか圧巻だった。中はこれも魔法の力だろうか、やや薄明かりがついて明るい。ビッグケットはロビーの奥に走っていき、壁に取り付けられた小さな板を指差す。

『これか、これもか!!』

 その隣にはこれまた大きな扉。形状から察するに、これは引き戸だ。恐らくこれが噂に聞いたエレベーターという機構なんだろう。

『多分。触ッテミテ』

『ぽちっとな!!』

 ビッグケットが再び景気良く板を叩くと(壊すなよ!!)、どこからともなく重い音がする。内部で何かが作動している。やがてチン!と軽快なベルの音が響き、扉が開いた。

『すごい!すごいぞこれ!!』

『イヤマジデスゴイ』

 音もなく扉が開いた向こうに、人が数人乗れるだろう空間が現れる。ビッグケットは即座に、そしてサイモンは荷物ごと絨毯で移動し、内部に乗り込んだ。内側を見ると傍らの柱で1から5の数字が光っているので、試しに5を触る。しばらく後扉が閉まり、エレベーターが動き出す。これはやはり上部に向かっているんだろう。やがてまたベルの音が鳴り、扉が開いた。

『すごい!すごい!!』

『夜中ダゾ、ハシャグナヨ。エート、俺タチガ住ムノハ504…』

 恐らく最上階に着いた。その足で借りた部屋を探す。…あった。504は幸い、入り口から近い場所にあった。これでようやく、ようやく。新しい家に辿り着いた。

『ハイ、コレガコレカラノ俺タチノ家デス』

『わぁーーー、すごーーーい!』 

 “タッチパネル”を触り、中に入る。さて明かりをつけなくては…と思ったところで、入ってすぐの場所にもパネルがあることに気づいた。試しに触ると、明かりがついた…!!なんて神のような空間なんだ。すごすぎる。だけど。

『ジャ、俺ハ、モウ寝マス。悪イケド荷物中ニ入レトイテ…モウ限界』

『おっけー任せろ。とりあえず綺麗なベッドにゲロ吐くなよ!』

『マジデソレナ』

 もう魔法の絨毯では移動できない。サイモンが玄関で這いつくばり、なんとかずるずる移動していると、見かねたビッグケットが再び抱きかかえた。正直頼むに頼めなかったことなので、勝手にやってくれてありがたい…。

『わかったわかった、ベッドまで運んでやる』

『ゴメン…アリガトウ…スゴイ助カリマス』

 事前に決めた通り、寝室は二部屋ある。だがまだ来たばかりなのでどちらがどちらとは決めていない。よって、ビッグケットはテキトーに片側の部屋を開け放ち、ベッドの上にサイモンを乗せた。ついで彼の靴を脱がし、布団を剥ぎ取り、上から被せる。

『お疲れ、おやすみ!あとは私がやっとくから』

『ウン…ゴメンナ…オ前モ遊ンデナイデ早ク寝ロヨ』

『わーってるよ』

 サイモンが最後に見たのは、黒猫の屈託ない笑顔。そのままぷつんと意識が途切れて。











『わーーーっ、すげーーー!あっちが飲み屋街かな?あ、あれ多分亜人獣人用の大通りだ、光がぴかぴかしてる!』

 微かな灯りだけをつけた、薄暗い室内。ビッグケットはリビング正面の大窓を開け放ち、外を眺めていた。ここは出窓型になっており、窓際の空間も椅子にするのに都合がいい。地上5階というのはこういう眺めなのか。方向は丁度街を向いている。本当の都会ほどではないが、人々の営みを伺わせる優しい夜景に口元がほころんでしまう。柔らかなそよ風が彼女の黒髪を揺らし、ビッグケットは満足げに深い息を吐いた。

 ここが私の新しい家。ばあちゃんは死んだけど、今後の生活において心強いパートナーを見つけることが出来た。生活費も有り余るほど稼いだ。サイモンが握りしめていた小切手を後ろから見た。価値こそ詳しくわからないが、数字がたくさん並んでいた。彼の喜びようを考えても、当面の生活は安泰だろう。

『………』

 今日、モモから彼女の過去に関する話を聞いた。ばあちゃんが何度も口うるさく言っていたように、獣人というのはそれだけで冷遇されるようだ。モモは過酷な環境に生まれ、しかし歯を食いしばって一人で生き抜いてきた。私は…?何もない森にぽつんと二人だけとは言え、15になるまで温かく祖母に育ててもらった。親の顔は知らない。どういう生まれか、人柄だったかだけ聞いている。私は、育ててもらえなかったにせよ、親のことを知っている。私は、恵まれている。不自由も憤りもたくさんあったけど、それでも。

『…………大丈夫。私にはたくさんの宝物がある』

 出窓に片脚を抱えて座る。全部全部これからだ。私は、ケットシーの混血の女として生きていくんだ。例え蔑まれても。冷遇されても。…もしも、サイモンに見放されても。

(明日は何食べようかなぁ…あ、グリルパルツァー亭に行くのか。ステーキ楽しみだな)

 つらつら思考を巡らせていると、夜風で室内が冷えてきた。そろそろ閉めよう。明日のご飯を楽しみに、もう寝よう。

 おやすみなさい。


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