第6話 忙しい1日〜ビッグケットの場合〜





 しばし時を巻き戻そう。




 それは“彼”にとって喜ばしい出来事。











「なんかムカつくな!でもよろしく!」

 そう言い捨てて骨董品店を駆け出して行ったサイモン。それを見送ったのはエルフのジルベール、そしてケットシーの混血ビッグケット。金貨10枚渡されて、買い出しに行ってほしいと懇願された。さて…どこからどう攻めよう。

 その前に。

『さて、ビッグケットちゃん。出かける前に僕は着替えをしたい。ちょっと待っててくれるかな』

『?お前、もう服着てるぞ?』

『まさか、せっかくレディと二人で出かけるんだ。普段着なんてもったいないよ。すぐ終わるから待ってて』

 そう、これは滅多にない異性とのデートのチャンスだ。エルフの彼にそんな場面はそう巡ってこない。なぜならエルフはシャイだから。そして…

 エルフは同族以外とのあらゆる交際を忌み嫌うから。

 人間ノーマンの街に出たジルベールにとって、そして人間ノーマンより遥かに長く生きた彼にとって、それは滅多に巡ってこない心躍る出来事の一つだった。本国なら禁止事項の獣人との会話。買い物。屋外での食べ歩き。彼自身、特別女好きの自覚はなかったが、予想外に気分が高揚しているのを感じて口元を緩めた。

(さぁて勝負服は、と…)

 すぐ終わると告げたからには素早く終わらせなければならない。本来ならじっくり吟味したいところだが…一度全ての服を脱ぎ、普段手に取る物より少しいい服を掴む。手早く袖を通し、脚を入れ、少しアクセサリーも足して…最後に髪。普段は雑にまとめているだけだが、今日は少し凝ろう。櫛を咥えて髪を高く持ち上げる。今日はそうだな…

『こんなんでどうかな』

『おっ、お団子だ。かっこいい』

 宣言通り5分とかからずビッグケットの元に戻ると、彼女は手持ち無沙汰な様子で店内の商品を眺めていた。めかし込んだジルベールを見て目を丸くする。

『エルフって髪長いんだよな。ただ伸ばして手入れしてるだけでも尊敬するのに、凝った髪型まで出来るとは』

『いやぁ、エルフは規則が多くてね。ショートヘアはご法度なんだ』

『髪型の自由がないのか?』

『そうだね。それ以外にもたくさん決まりがあるよ。僕はそれが嫌で国を出たんだ』

『へぇ〜』

 会話しながらかけていた眼鏡を取る。それを脇に置いて、先程もらった金貨10枚を鞄に詰めた。ビッグケットが小さく猫の耳を震わせる。

『眼鏡なくても見えるのか?』

『これは近くの物を細かく見る用だよ。外を歩くなら必要ない』

 そう言って振り返った彼の目は透き通った空色をしている。眼鏡をしていた時より目元の存在感が増し、はっきりした顔立ち。それは顔の美醜に拘らないビッグケットの目にも、充分美しい物として映った。

『エルフってなんでこんなにキレイなんだろう…』

 ふと疑問を漏らす。それを聞いたジルベールはふふ、と破顔した。

『僕を褒めてるのかな?ありがとう。エルフは元々こだわり屋なのさ。特に美しいかどうかには命かけてる。そんなことしてるから…』

 そこで一瞬言いよどみ、ビッグケットがこちらを見る。いや、そんな話は今はいい。

『…なんでもない。さ、行こう。3時までに買い物を済ませなきゃ。サイモン君にどやされちゃうよ』

『……。そうだな』

 言いかけたその先が気になるようだ。だがビッグケットは特にその先を聞いてこなかった。まぁそんなのは追々…食事でも取りながらゆっくり話していこう。もし彼女が興味があれば、だけど。ジルベールが上着を取り、ふわりと袖を通す。さて…

『まずはアクセサリー屋だね』
















 扉を潜って店を出て、ヒト気のない一角をぬけ、メインストリートに出る。ジルベールはこれでもサイモンより遥かに昔から…50年以上前からこの街に住んでいる。どこに何の店があるかなど、ほとんど把握済みだった。そういう意味でビッグケットの買い物の伴に彼をつけたのは英断と言えるだろう。

 軽やかに長衣の裾を翻し、ジルベールが人波の隙間を縫って歩いていく。それを機敏に追いかけるビッグケットを振り返り、彼はすっと手を伸ばした。

『レディ、手繋ぐ?』

『まさか。そんな子供じゃない』

『でもはぐれたら大変だ』

『………』

 大真面目にはぐれるかもしれない。と言うと、ビッグケットは大きな耳を左右に伏せた。…嫌がられている?

『ごめん、嫌ならいいんだけど』

『違う。…よくわからないけど』

 人が行き交う往来の中、少しだけ立ち止まる。何かを言いあぐねている彼女の様子を見て、ジルベールが薄く笑う。…おやこれは。

『照れてるの?意外だ』

 するとばっさり返答がくる。

『違う。…………わからない、けど、

 お前はなんとなく信用出来ない…』

『わぁ〜、胡散臭いって言われちゃった!』

 思わず満面の笑みを浮かべてしまう。ビッグケットという少女。ケットシーの混血。混血を自称し、祖母と二人暮らしだったという。どの程度どの文化を基盤としているか知らないし、エルフのジルベールからすると、100歳を越えるような長命種以外の老若などわからなかったが…ビッグケットのことは、勝手に幼くて直情的な。いや、素直な性格なのだと思っていた。意外だ。人を疑う感性と理性を持ち合わせていたのか。

『サイモン君のことはあっさり信用したのに。僕は駄目なんだ?』

 思わず試すような質問をしてしまう。引き合いに出したサイモン…彼女の現相棒は一言で言うなら下流の貧民で、さらに悪く言うならガラがいい外見とは決して言えない。「どちらの方が善人に見えるか」と誰かに問うたら、恐らくジルベールの方が上品で善人に見えそうなものだが。すると、ビッグケットは真っ直ぐ澄んだ瞳でこう返してきた。

『サイモンは一番最初に、私の素性もよく知らないのになりふり構わず助けてくれた。あいつを疑ったらむしろ失礼だ』

 その言葉に、一昨日初めて二人が店に来た時の言葉を思い出す。

『そういや金銭トラブルを解決してくれたんだっけ?』

『あいつ小銭数枚しか持ってないのに、私の飯代を払おうとしてくれたんだ。あいつの態度を見るに、すごい高額だったのに』

 大真面目なビッグケットの表情。それを見たジルベールは、耐えきれなくて吹き出してしまった。

『小銭数枚!きっと銅貨だね!銅貨で他人の外食代を肩代わりしようとしたのか…なんて勇敢なんだ!』

 そしてげらげら笑う。ビッグケットが目を丸くしているが、突き上げるような愉快な気持ちはそう簡単に消えてくれなかった。

『で?銅貨でそのご飯代は払えたの?』

『いや。最後は多分、手持ちを全部渡して頭下げて許してもらってた。言葉がわからないけど多分』

『そっか〜!』

 その光景はジルベールの脳裏にありありと浮かんだ。サイモンという男は、根本からお人好しなのだ。自分が誰より生活に困ってるくせに、虚勢を張って困っている他人を助けずにいられない。結果全く解決出来なくて、でも引き下がれなくて、最後は力技でなんとかしたのか。なんとも彼らしい。

『だから、信用してるんだね』

『このご時世、誰かのために全力で頑張れる人間は貴重だ』

『確かに!』

 このご時世。シャングリラは比較的下層の人間で固まっているからかそうでもないが、世は戦乱と貧富の格差、愛憎が渦巻く世相。都でも田舎でも誰かが誰かを蹴落とそうとしている時代。自分さえ助かるなら友でも敵に差し出す時代。そんな今、サイモンのように他人のために何か出来る人間は確かに珍しい。

『ここ数日あいつと一緒にいて想像が確信に変わったけど…あいつには充分な知識と瞬間的な閃く力、行動力がある。私は誰より強い自信があるけど、世間のことはよく知らない。だから私にはあいつが必要だと思った。ずっと一緒に居たいと思ったんだ』

『…そっか』

 知識、閃き、行動力。知識だけなら年の功でジルベールの方が上かもしれない。しかし、例えば火事で燃え盛る家にだって救助のために飛び込んでいくだろう勇気と行動力は、慎重派のエルフであるジルベールにはなかった。それは人間ノーマンしか持てない蛮勇。短命だからこそなし得る命の使い道だった。

『…ふふ。サイモン君て、最悪他人のために死にそうな子だよね』

『めっちゃわかる。私が死にかけたら絶対すぐ死ぬのに守ろうとしてきそう』

『わかる〜!でもそういうとこもカワイイっていうか』

『なんか守ってやりたくなるんだよな…』

 そう会話を交わし、思わず二人で微笑む。サイモン本人は気づいていない。しかし彼の周囲が確かに感じるこの感情の名前は、恐らく“母性”。危うさと人徳がからみ合い、なんだかんだ助けたくなってしまうのだ。

『…ま、じゃあ、僕のことは信用しなくていいや。でもサイモン君が君を僕に預けたんだから、そこは信頼して欲しいかな』

『わかった。じゃあ手繋ぐか?』

『えっいいの??』

 しばし立ち止まった雑踏の中。すっと差し出された少女の手に、今度はジルベールが驚かされた。いくらか会話しただけのこちらに対し「なんとなく信用出来ない」と距離を取ろうとしていたのに、サイモンを引き合いに出すとあっさり手を繋いでもいいと言う。この子は本当に彼を信頼しているんだな。…いや、愚問か。あんなに貧しいのに自分ごとのように彼女の面倒を見ようとしていたんだ。感銘を受けても不思議はない。

『ありがとう。じゃあ、一応ね』

『わかった。一応。』

 血色の良い、白桃のような色合いの手。滑らかで若いそれを握れば、瑞々しく柔らかだった。ケットシーの寿命は本来なら40歳程度。この子は何歳いくつなんだろう。いや、女性に年を聞くのはご法度だ。やめよう。それより買い物だ。アーモンド型の瞳が何処へ行くのかとこちらを見ている。

『よし、まずはアクセサリー屋に行こう。時計を買うよ。その後は服だね。それから日用品かな』

『ありがとう。よろしく頼む』

 了承の意味が込められているだろう返答を聞いて、やや長身の少女の手を引いて歩き出す。誰かに触れたのなんていつぶりだろう。目当ての店に着くまでまだかかる。それまで自分の理性が…ある意味持つだろうか。

(……下手したら子供の頃以来かもしれない……)

 実はジルベール、異性と交際した経験のない男だった。対するビッグケットは自分たちを大人と子供とでも思っているのだろうか、平然とした顔で着いてきている。…悔しい。この鋼の心臓が自分にも欲しい。

(こんなのサイモン君に知られたら死ぬほどからかわれそう…)

 ジルベール322歳。地味に本日初デートである。














『この時計可愛い〜』

『余計な装飾は要らない。それより時間がはっきりわかるのがいい』

 アクセサリー屋の一角。二人は肩を寄せあい時計を吟味していた。陳列棚には大きさ、テイスト共に様々な時計が置いてある。どれも金貨一枚は下らない価値のある物たちだ。ビッグケットが尻尾を揺らしながら覗き込み、目をまん丸にしている。興味津々な様子だ。

『しっかし、世間にはこんなに小さな時計があるんだな。ばあちゃんと暮らした家には大きな振り子時計があって、高級品だって聞いてたんだけど…』

『えっ、振り子時計があったの!?それ超最新式だよ。高かったんじゃない??』

『そうなのか。ばあちゃん、財産はそこそこ持ってたみたいだからなぁ』

『へぇえ…。失礼かもだけど、お家の物片っ端から売ったらすごい額になるんじゃない?』

『あーそうかもな…』

 出会って以降、何度か話に登場しているビッグケットの祖母。どうあっても孫娘より早く死ぬとはいえ、短い生涯の間にこちらの換算で金貨25枚程の財産をぽんと残し、一般人では誰も手の届かない高級品を家に置いている。…一体何者なんだ…。さり気なく。商品の時計を吟味しながら、ジルベールは隣のビッグケットに問いかける。

『…あのさ。ビッグケットちゃんのおばあちゃんって何者だったの?たった二人で街から離れて、混血の君と暮らしてたんでしょ。何かワケアリだったのかな』

 するとビッグケットはちらりとこちらを見た後、すっと視線を反らした。全く表情のない顔。…やはり聞いてはいけなかったのか?そう思わせる間だったが…

『…ジルベール。お前、誰にも言うなよ』

 返答が返ってきた。これは話してくれる流れだ。

『あ、ああ。もちろんだよ。…えーと…』

 逸る気持ちを抑え、好奇心を出しすぎない表情で先を促す。するとビッグケットは俯き、ぽつりと漏らした。

『ばあちゃんは、ケットシー皇国の皇女だったんだ』

『…皇女…!』

『だから当然というか、ケットシーの純血だったんだけど。周りの取り巻きの意向で、他の種族から血を分けてもらおう、あえて混血の子孫を作ろうって外にツガイを探しに出たんだ』

『…それで…?』

『無事目当ての種族から子種を貰えた。けど、いざ妊娠出産したら国から追い出されてしまった』

『………なんで……?』

 予想外に重たい話。いや、覚悟はしていた。「何かワケアリなのはわかってた」んだ。しかし皇国のお家騒動に巻き込まれた皇女とその孫だったとは予想外だ。例えば流転の末苦労した…とかだったら予想の範疇だったのに。…いや、希少なケットシーのさらに希少な混血という時点で察するべきだったか。

 何も言えないまま、押し黙って返答を待っていると、ビッグケットは眉間に眉を寄せている…。これはそろそろ詮索を止めたほうがいい頃合いか。

『…ご、ごめん、言いにくいならもう聞かないよ……』

 慌ててストップをかける。すると、重大な告白をする決意が固まったのか、ビッグケットが勢いよくこちらを見据える。

 もしかしたら。彼女はこれを早く誰かに打ち明けたかったのかもしれない。そんな熱を帯びた視線だった。意を決したように唇が開かれる。

『いや、聞いてくれ。ばあちゃんは、おおよそ普通なら伴侶に選ばない種族との子供を作ってしまったんだ。だからケットシーの国に帰っても、無事産んでも、誰も手に負えなかった。そういう化け物が…この世に生まれてしまった』

『ばけもの…?』

 ケットシーの祖母が産んだという“化け物”。しかし目の前のビッグケットは、その孫娘は、ケットシー基準で身長がとても高いこと以外とても普通の混血獣人に見えた。

『でも…ビッグケットちゃんは普通にいい子だし化け物の片鱗もないよ…?』

『いや。………私は………この世のあらゆるニンゲンより強い。たった一種、オーガを除いて』

『オーガ以外なら負けない、って意味?』

『そうだ。それが普通のケットシーの混血か?』

『…………普通では、ないと思う…………』

 それ以上言葉が出なかった。そうだ、サイモンが言っていた。闇闘技場の掛け金でえらく儲かったと。それはつまり、ビッグケットが出場してこの細身で他の出場者を軒並み殺したということだ。闇闘技場は武器持ち込み禁止、素手の勝負だという。到底女性が勝てる設定にはなっていない。鋭い爪や牙がある分、ただの人間ノーマンよりは有利かもしれないが…それだけで他の出場者を全員ノックアウトするほど差が出るとは思えない。それはやっぱり…

(異常、だ……。)

 その言葉が脳裏をかすめた瞬間、ぞくりと心臓が冷える。視線を上げれば、しなやかで美しい少女だと思っていたビッグケットの、虹彩の細い瞳が。獰猛な瞳が爛々と光っている。そうか、この子がその気になれば。あらゆる人間が簡単に肉塊になるのか。

『…私が怖いか…?』 

 流すように伸ばされた前髪に隠されていない、向かって右側の瞳がこちらを見据えている。ジルベールは思わず生唾を飲んだが、辛うじて平静を装った声を出せた。

『…怖くはない、よ。びっくりしたけどね』

『そうか……』

 小さく返ってくる返答。それは少し悲しそうで、彼女の背負った運命の重さを感じさせた。ジルベール自身エルフに生まれ、この異端でカオスな街に暮らしていたため忘れていたが…エルフは全人類のうち、二番目に人口の多い種族だ。それもひとえに寿命が長すぎてなかなか死なない、減らないから。ましてや魔法が得意で戦闘力も比較的高い。結果的に彼らは他の人類に対して強い立場につけた。そんなエルフのジルベールに、少数派にして冷遇されがちな獣人の少女にかけられる言葉などなかった。何を言っても憐れみにしかならないから。

 彼女は今後きっと、たくさんの差別や偏見と戦うことになるだろう。あるいはそれに疲れて人里から離れるかもしれない。…人間の社会とはそういう所だった。

(なんて、言ったら)

 浮き彫りになってしまった両者の立場の違いに、ジルベールは内心震えた。だがその空気を払ったのはビッグケット本人だった。硬い表情を浮かべるジルベールの背中をパンと叩く。もちろん力は加減したつもりだ。それでもジルベールは軽くよろめいたが…

『ごめん。この話はこれでおしまいだ。さっき話した通り、私の父親…ばあちゃんの息子はこの世で化け物と呼ばれるべき生き物だと思う。でも、ばあちゃんはその娘である私をとても可愛がってくれた。生きていくのに困らないよう、たくさんの技術と知識を授けてくれた。私はばあちゃんの努力に恥じない人生を送りたい。楽しく、明るく。命が尽きるまで』

『……そっか』

 先程の凄みのある表情とは違う。いや、それはジルベールが勝手に見た幻覚だろうか。改めて見たビッグケットの表情は明るく溌剌としていた。本人に気取られないよう、こっそり息を吐く。これが彼女の秘密。きっと誰かに聞いてほしかった彼女の心のしこりだ。しかし…

 彼女の父親。化け物と称された皇女の子供はどこへ行ったのだろう。化け物は化け物らしく、野にでも消えたのだろうか。ケットシーは非常に知能の高い種族だ。その祖母譲りの理性と知性を受け継いだらしきビッグケットは、こんなに「一見普通の獣人」なのに。…長らく祖母と二人暮らし。母と娘を捨てる正当な理由なんてあるんだろうか…。

 いや、もう余計な詮索はやめよう。これ以上下手に聞いたら彼女を傷つける結果になりかねない。ジルベールは努めて柔らかな笑みを浮かべた。

『こちらこそごめんね、答えにくい嫌な質問だったろうに…ちゃんと答えてくれて。ありがとう。もう君のバックボーンは詮索しないよ』

『いや、こっちもだ。あんまり面白くない話だったのに聞いてくれてありがとう。さて、買い物を進めるか』

 そう答えたビッグケットは、それまでの会話がさもなんでもないことだったかのように懐中時計を手に取った。ちゃりり、と鎖が音を立てる。彼女が手にしたのは、金と銀が混在する比較的シンプルな意匠の物だった。蓋にさり気なく竜の紋章が刻まれている。

『お、やっぱこういうかっこいい系が好き?』

『そうだな、花とかリボンとかフリルよりこういうのの方が好きかな』

 それを気に入ったのだろうか、宙に掲げて様々な角度から眺めている。ジルベールはつい思ったことを素直に口にしてしまった。

『ビッグケットちゃん、可愛いんだからもっとオシャレすればいいのに』

『そればあちゃんにも散々言われたんだけどさ。ドレスとかリボンは性に合わないよ』

『ええーー、そう言わずにぃ』

 とりあえずそれ買お。まずは第一関門をクリアしなきゃ。無駄に悩んでも時間の無駄なので、ビッグケットの背を押して会計に向かう。

「ありがとうございました。」

 時計ゲット。蓋付きの高見えアイテムだ。早速懐中時計の身につけ方を教えると、嬉しそうに腰にクリップで止めた。ビッグケットがくるりとその場で回る。

『うん、いいな』

『似合うじゃ〜ん。じゃ、次の店行こ』

『わかった』

 ジルベールが手を差し出すと、ビッグケットは極々自然にその手をとった。さっきよりも強く握りしめる。…父が消え、祖母が死に、母もそばにいない孤独な少女。この子を支え、救えるのは一体誰なんだろう。

(サイモン君…出来るのかな…)

 人間ノーマンと獣人。それはエルフと獣人よりはハードルが低いとはいえ、一生共に暮らすには難しい関係と言わざるを得ない。…しかし願わずに居られない。

(どうか、彼がこの子の希望になりますように)

『じゃ、次は服だよ。可愛いのいっぱい買お!』

『えーーー!』














 シャングリラ東部内北部。ここは亜人、獣人向けの店の中でも、やや高級なラインナップが並ぶエリアだ。ジルベールとビッグケットは、仲睦まじく手を繋いだままここにやって来た。途中感嘆のため息があちこちから漏れる。それもそのはず、平均的に美しい顔面を持つ種族であるエルフのジルベールと、混血獣人としては最高のバランスを保ち、なおかつ見目の整ったビッグケットが並んでいるのである。それはひとえに男女問わず羨望の眼差しが向けられた結果だった。

 最も、規律にうるさいガチガチのエルフが見たら汚らわしい!とでも叫ぶのかもしれないが…そんな野暮なことを言う人間エルフはこの街にいなかった。二人は連れ立ち、女性用の服屋を眺める。

『ほら、ドレス。今の君ならあんなの買いたい放題だよ〜。どう、着てみない?』

『嫌だね。それより私は普段使いの着替えを探してるんだ。獣人用の服屋に連れてってくれ』

『ああ〜、獣人用。合点承知。』

 そうか、いかに美しい仕立てでも身体に合わなくては意味がない。ジルベールは気を取り直し、獣人女性向けの店に向かう。やがて二人の視界に、ほんの気持ちカジュアル寄りの店が見えてくる。店頭には犬人コボルトを模したマネキン。露出の多い服を着こなしたそれは、ジルベールの目に新鮮に映った。

『すごーい、店のマネキンがコボルトだ!』

『コボルトは獣人の中では中肉中背だからな。モデルに丁度いいんじゃないか』

『へーっ』

 そのまま店内に入れば、一面に広がる女性用の服。服。そして露出。相手はマネキンとはいえ、そして手脚丸出しの生きた獣人が隣に居るくせに、ジルベールは頬が熱くなるのを感じた。

『獣人の服って過激だよね……』

『ん、お前もそういうタイプか?獣人的には長い裾の服とかナンセンスだぞ。邪魔くさい走れない跳べない』

『うん、他の人種はそんなことしないからさ…』

『いいんだよ、大人しく椅子に座らなきゃいけない場面とか獣人にはないし』

『そうだね、悲しいかな無いね…』

『だからいいんだ』

 気持ち両肩を縮こませるジルベールを尻目に、ビッグケットはひょいひょい服をカゴに入れていく。服を軒並み新調してしまうつもりだろうか。値段見てないけど…まぁ見てもわからないだろうけど…金貨9枚もあれば足りるだろうけど…豪快だ。

 そこでふと思い出す。あっ…

『…ねぇ、服。着替えや下着の他に普通のワンピースとフード付きマントも買ってって書いてあったよ』

 ふいに話しかけると、ビッグケットが耳を震わせる。

『なんで?指定があったのか?』

『まぁ、人間の街で生きていくなら必須アイテムかな。この街では差別や偏見なんてクソ喰らえだけど、他所よそじゃそうはいかない。普通のノーマンかエルフの女性に見える格好は必要だと思う』

『ふぅん…仕方ないな…じゃあお前がテキトーに見繕ってくれ』

『承知!』

 ビッグケットに片手をひらひら振られ、ジルベールは満面の笑みを浮かべた。お前のセンスに任せる。と言われて張り切らないエルフはいない。まぁ女性と付き合ったこともない彼のこと、最新の流行も女性の好みも解りはしないが…少なくとも古物商をやった上での審美眼はあるつもりだ。絵画も多数見たことあるし。

(よし、そういうのを探すならこっちだ)

 獣人用の服屋の中で、他の種族へ擬態するためのコーナーを探す。…やはりある。そこからめぼしいワンピースを探していく。少女の若々しさと大人への憧れを少し混ぜて。色は最近の絵画を見るに暗い色が流行りなのかな。そういやサイモンも暗い色の衣を着てたっけ。…じゃあ隣に並ぶビッグケットはもっと映える色がいいかな?白…赤…は派手か…黒は似合うが論外…うーん…。黄色は下賤の色だし…青?青がこの場合無難か??でも色被るかな?やっぱり赤かな?赤と黒の組み合わせで派手さを押さえれば…。

 コンセプトが決まったので、あとはイメージに合う商品を探すだけ。黒の比率が多いと怪しい印象になってしまう。だが赤が多いと今度は派手だ。人目につかないための服なのだから、あまり記憶に残らない物がいい。これも違う…あれも違う…。

 そうして膨大な服の中から、これは。と言える物を選び出す。うん、これなら!

『ビッグケットちゃーん、これ着てみて〜』

 声を張り上げ、手招きをして選び抜いた一品を試着してもらう。…一人で着れるよな…?試着室を眺めて少々心配になったが…

『ジルベール、前が閉まらない。ちょっと来てくれ』

 呼ばれたのは仕上げだけだった。皇女の祖母、さすがにこの辺の仕込みは抜かりなかったか。一言声をかけ、カーテンを引くと中には。

『…着方はこれでいいのか?』

 パフスリーブで女性らしさを強調した肩。すらりとした上半身。両脇から始まり胸の上を通り、スカートの裾まで縦に連なる切り替えでウエストラインを作るこのスタイルは、プリンセスラインドレスと呼ばれる物だ。ワインレッドをメインに、黒を差し色にした一着。それを身に纏ったビッグケットは…

『待ってごめん、おっぱい見えそう!!』

 先程までとは一転、清楚で伸びやかな街のお嬢さん風…と言いたくなる風貌だったが、ジルベールに解説を続ける余裕はもうなかった。

 正直「女性の谷間、デコルテ」は見慣れている。ドレススタイルなら大概あけっぴろげになっている箇所だから。しかしビッグケットの現状はそんな生易しいものではない。なぜなら下着を身に着けていない!直接ワンピースを着てしまっているので、前開きのそこから谷間どころか!もう少しで大事な所が見えてしまう!!

『…ああこれ?最初は下着を着てたんだけど、不格好に出てしまったから』

『はいわかった〜〜、シュミーズ(キャミソール✕ワンピース型の下着)買おうね〜〜〜今はそれと一緒に試着しようね〜〜〜、じゃないと僕の何かがどうにかなっちゃうよーーー!!!!』

 彼の数百年の一生で一番の大声を出したかもしれない。勢い余って床に這いつくばる。もう見れない。見なきゃいけないしこの惨状を救わなきゃいけないのはわかっていたが、あまりの光景に顔が上げられなかった。連れが目の前で崩折れたビッグケットはただ驚き、目を瞬かせる。

『…なんかごめん、エルフでも人間ノーマンみたいにそういう感情があるんだな。サイモンもよく怒ってた』

『あーーーすみません、突然劣情をカミングアウトして破廉恥ですみません!!!でも破廉恥ついでに余計な説明をしますとね!エルフはね!相手に知性を感じると劣情を催すんですよーーー!!!!』

『へぇ〜そうなんだぁ〜〜』

 頭を抱えてのたうつジルベール。それを眺めるビッグケットは、とても愉快な玩具を見るように彼を見つめていた。

 そもそもエルフとは。性欲旺盛な人間ノーマンと比べ、性欲が緩やかだと言われている。まず女性の月経が3ヶ月に一回ペース。男性もそれに合わせてガツガツしていない。また、異性の半裸を見たぐらいではオーケーのサインとみなさない。それくらい基本おっとりしているのだが…増え続ける同族の未来を案じてか、生殖のスイッチは「相手がとても理性的かつ頭脳が優れているのを感じた」時に入るようになっている。そう、特に「相手の知性を感じた」時に。

 今のジルベールの例で言うと、常にボディライン丸出しで粗野な獣人だと思っていたビッグケットが、見事にワンピースを着こなして知的かつ上流の雰囲気に羽化したあげく、半裸だった。ので、思わずグラリときたというわけだ。

『私に知性…ねぇ…』

『その判定は人それぞれです!とりあえずカーテン閉めて!今シュミーズ持ってくるから、それ脱いで、シュミーズ着てからもっかい着てね!よろしく!!』

 シャン!!!!どうにか腕を上げ、力いっぱいカーテンを閉めて、ジルベールはよろめきながら立ち上がった。はー危ない危ない。ただでさえ短命種に懸想したらロリコン扱いされるのに、こんなつまらない事で心を乱したなんて知られたらいよいよ仲間に笑われる。

(……まぁ、)

 もう帰る家なんてないんだけど。

「…はい、仕切り直し!」

 ビッグケットは今頃きっと試着室で服を脱いでいるだろう。早く下着を届けてやらなくては。急いで探しに行く。









『…どうだ?』

『うん、さっきより見れる。けど、うーん…』

 一度覚えた感情は意外と拭えないのだな、とジルベールは悟った。改めてシュミーズを届けてリトライした試着。なぜだろう、むしろさっきより今の方がドキドキしてしまった。…いや、原因はわかっている。きちんと必要な物を身に着け、さらに着こなし度が上がっているからだ。

 最初に頼まれた通り、前開きのワンピースのかけ紐を丁寧に通し、強さを調整しながら締め上げていく。ビッグケットの決して豊かではないが、確かな膨らみが露わになる。さっきまで彼女の体躯は何度も見ているのに…恥ずかしい。何のプレイだ。ジルベールは無意識だが、一国の姫の着付けを行う下男の気分になっていた。

(いや…あながち間違いでもないんだよな…この子の話が確かなら、この子は希少なケットシーの皇女の孫…皇国に行けば皇族の子孫として歓待されるだろうから…)

 自分は今、ケットシーの姫にドレスを着せている…?…なんだこれなんだこれなんだこれ。やばい、視界がぐらぐらしてきた。

『…ジルベール?手が、震えてる』

 気がつくと、ビッグケットが心配そうな目でこちらを見ていた。もう駄目ギブアップ。

『あは…ごめん、格好悪くて。やっぱお年頃の女の子の着替えなんて手伝うもんじゃないね。これ、最後は蝶結びにするだけだから…自分でやってもらえる?』

『うん、こっちこそごめん。気が利かなくて』

 彼自身にもわかるくらい、ブルブル震える手をなんとか放す。ビッグケットは残りの最後、胸の上部まで引き上げられた紐の端を滑らかな手付きで蝶結びにした。お、終わった…。

『なぁ、疲れ切ってるとこ悪いんだけど。これ、人間ノーマンっぽいワンピースっていうか…見た目なのか?』

 鏡を見ながらワンピースの裾を翻し、くるくる回っているビッグケット。ジルベールはまたしても床に手をついて項垂れ、その姿を見ることも出来なかった。

『ええはい、僕の知的センサーが振り切れるくらい素敵です。もー全然獣人になんて見えない』

『そうなんだ〜、わぁー…。じゃあこれ買うな』

『うん、そうだねそれはいい!だから脱いで元の服に戻ってくれるかな!!』

『はーい』

 そしてしばらく後、カーテンを開けて出てきたビッグケットは先程の格好…手脚出しっぱなしの軽装に戻った。ジルベールはようやく上半身を上げ、勢いよく胸に溜め込んだ息を吐く。

『やっと…やっと見れる…』

『よくわかんないけど、心が乱れるポイントが露出度じゃないことはよくわかった』

 サイモンは脱ぐとキレたからな!とからから笑うビッグケットを横目に、今後の買い物がきちんと遂行出来るかちょっと心配になるジルベール。…そうかー、お年頃のお嬢さんかー。多分10とかそこらの年なんだろうな…(エルフの感想です)。この見た目なら成人するかしないかくらいかなー?ああ、あんまりだ…手なんか出せるわけない…300オーバーと10ちょっとじゃ年の差エグすぎる…。

 諦めろ、こんなの恋でもなんでもない。ちょっと好みにかすったくらいでガタガタ言うな、長命種だろ。…よし。

 一人うん、うん。と頷いたジルベールは、パチンと手を合わせて次の予定を口にした。

『はい、じゃああとはフードつきのマントと、着替えの残り。マント買うならやっぱ黒が好きかな?』

『ああ、選べるなら黒がいいな』

『じゃあこっちかな…』

 もう手は握れない。指を指して猫の少女を先導する。二人で連れ立って歩き…衣類の買い物が終わるまであと少し。















『買った!たくさん買った!』

『買ったね〜、まだ買う物たくさんあるけど!』

 衣類の買い物終了後、休憩がてら立ち寄った出店エリア。スタンドでフルーツジュースを買い、二人でベンチに並んで座って飲んだ。ビッグケットは無邪気にコップを見つめ、中身を揺らしている。オレンジの味が物珍しいのだろうか。確かに森のど真ん中で採れる果物ではない。もしかしたら初めて飲む味なのかもしれないな…。その子供のような姿を見ていると、ジルベールはさっきまで心と身体を支配していた邪念が晴れていく心地がした。

『さて、次は食器類かな』

『食器なんてなんでもいいんだけど』

『えー、でもサイモン君の分まで買うんだよ。ここはセンスいいのどかんと揃えようよ』

『あーそっか…』

 そこまで話して、ようやくジルベールにとっての依頼主の顔を思い出した。…あいつ…これからこの子と二人で暮らすんだな…なんてえっちなんだ…なんか許せない…。知らず、小さな苛立ちを覚える。いや、必要なら仲介だってする、公私共に良い関係になれと言ったのは彼自身だ。その邪魔をしようなんてとんでもない。ここは古物商の自分のセンスを存分に発揮するしかない。

『…よーし、ここはめちゃくちゃいいのを買ってやろう!食器!カトラリー!調理器具!鍋!ランプ!全部僕に任せて!予算に合わせて限界まで高いの買うから!』

『えっ…なんで…?別に高くなくていいよ?』

 いやぁだって!

 むかつくじゃん?あいつばっかりいい想いして????

 なんて気持ちはおくびにも出さない。よし、生活雑貨を買いに行こう!ジュースのカップを捨て、次の店に向かう。ビッグケットは訝しんだままだが気にしない!

 正直目の前の少女と他の男がいちゃいちゃ愛の巣で使う諸々を買うなんて、正気の沙汰ではないと思ったのだが。そこはジルベール、大人の男である。

『わぁ〜、このラグすごーい!』

『姫様、お目が高いですけどそれは総シルクの上一面に刺繍が入った超高級品です。貴女の家には必要ないかと』

『わーーー、この細長いコップなんだ?綺麗!』

『それは花瓶でございます。花を飾る習慣がお二人にあるとは思えませんが』

『あっあそこに絵があるぞ。上手だな〜』

『嘘、あれ“微笑みの聖女”じゃん!!?なんでこんな街の雑貨屋に置いてるの!?えっ本物!?まさか!!』

 …一部脱線しつつ。小一時間経つと、様々な生活雑貨の箱と袋が積み上がった。ジルベールなりに使い勝手と高級感、二人に合うかどうかを吟味して買ったつもりだ。

 さて、荷物が持ちきれなくなってきた。一度全部整理しよう。どうせ好きに使えと渡された金だ、小型ドラゴンをレンタルして店まで運んでもらうことにした。店の鍵を渡し、中に運んでもらうよう指示を出す。素人の目にはあれらは全部ガラクタにしか見えないだろう、盗まれる心配はそこまで必要なかった。あとは…ドラゴンが戻ってくるまで昼ご飯でも食べているかな。

『ビッグケットちゃん、そろそろお昼食べる?』

『食べる!腹減った!』

『よし、じゃあ今流行りのお店に行こうね。気に入ってくれると嬉しいけど…』

『なんの店だ?』

 また二人で連れ立ち、出店のエリアに戻る。いや、正確には更に先。東部内南部にある飲食店街を目指す。今日最初に口にした通り、ジルベールにはビッグケットにぜひ食べて欲しい話題の料理があった。ただし彼自身も食べたことはない。それは彼が一度行ってみたかった場所。

『ジャガイモのパスタ、ニョッキの店だよ〜!』

『にょっき?じゃがいも??』

『ジャガイモっていうのはね〜、西の海の向こうの新大陸から最近入ってきた新しい野菜で。それでニョッキ、パスタを作るのがブームなんだって。美味しそうじゃない?僕ずっと食べてみたくて』

『ジャガイモのパスタ!食べる!』

『よしじゃあ行こう!』

 向かうは最近出来たばかりの店だ。三角屋根の特徴的な外観。カラフルな壁がまず目を引くが、木板に原色で店名の書かれた看板がこれまた派手で目立つ。この見た目がわかりやすいし、ずっとチェックしていたので、殊の外スムーズに辿り着けた。なんでもこの料理を生み出したのはノームらしい。彼らは元々地下に住む文化だが、その一方で農耕もするし食品加工も得意だ。その結果、新種の野菜の美味しい食べ方を素早く導き出した。そうして辺境と呼べるこの北限の街にも、ついに話題の料理がやってきたというわけだ。

『…いい匂いがする…』

『そうだね、楽しみだね』

 こじんまりした店内。最近話題の店とあって、昼より少し前に来たつもりだったが既に満席になっていた。向かい合って座るビッグケット、そしてジルベールはそわそわと注文の品が届くのを待った。

『美味かったらサイモンにも教えてやろう』

『そうだね、寂しいけど…次来る時は彼と一緒かもね』

『寂しい?』

 手持ち無沙汰すぎて水を飲んでいたビッグケットにとって、それは予想外の言葉だったようだ。両耳が不思議だ。と言いたげに反り返っている。ジルベールはその様子にふふ、と小さく笑う。

『…いやね。今日ずっと一緒に買い物してて、この街でビッグケットちゃんに一番に会うのが僕だったらどうなってたのかな〜なんて考えちゃって』

 それは脳内ですら言葉にしなかったけど。折に触れて頭をかすめた空想。君の隣にいるのがもしも自分だったら?

『ふぅん?』

『僕が君に先に会っていたら、闇闘技場なんて危ないとこには行かせない。当然莫大なお金は手に入らないけど、代わりにこんな感じで…穏やかな毎日くらい、プレゼント出来ただろうになって』

『…穏やかな、毎日ねぇ』

 ずず。と水をすする彼女の横顔を見て、直感的に。ああ、この子はそういうのには興味がないんだな。と悟った。この溌剌とした猫の少女に必要なのは、恐らく安寧より刺激。穏やかな毎日より慌ただしく楽しい日々なんだ。…これが若さか。少しだけ見た夢を打ち砕かれて、切ない気持ちになるが…これも年の差のせいか。諦めよう。

 何気なくくだらない質問のつもりだった。別に本気でそれを実現したいわけでも、紛うことなく人生のパートナーを得た彼女たちの仲を引き裂きたいわけでもない。他愛もない妄想だ。しかし、次に口を開いたビッグケットは少し意外な事を告げた。

『…ジルベール、お前私と心中したいなんて願望はあるか?』

『えっ…心中…?』

『私と、痛みを伴って死ぬ覚悟はあるか?エルフは長生きなんだろう?きっと今の時点で私よりたくさん年上なんだよな。その生を、終わらせる覚悟はあるか』

 それまで興味ない。と言わんばかりに逸らされていた視線が、いつの間にかジルベールをまっすぐ見据えている。明るい太陽の光できらきら揺れる金の瞳。しかしそこに込められた感情の色は、存外に重く暗い。

 …心中、とは?

『どういう意味かな』

『もしお前がこの問いに、ぜひやらせてくれ!と言うなら今すぐサイモンとの関係を破談にする。その時は私と生きてほしい。そういう、意味だ』

『…心中する、覚悟があったら?それを望んだら?』

『そうだ』

 淡々と言葉を紡ぐビッグケットの目はただ静かで、それは本気の意志のようだった。突然の提案にジルベールは面食らってしまう。彼女は何を望んでいるのだろう。何を望んだら痛みを伴う死が訪れるのだろう。

 …まさか。

『君は、危ないことをしようとしているの?僕にも、サイモン君にもまだ話していない何かを』

『これは私の悲願だ』

『それを叶えたら死んでしまう、と?』

『まぁその可能性は高いな』

 あっけらかんと語られるその言葉。…どうして?

『どうして、死のうとするの。頑張って普通に生きてもケットシーなら40年くらいで死ぬかもしれないのに』

 せっかく今これから、幸せを掴もうとする最中なのに。彼女はそれをあっさり捨てようとしている。なぜ?するとビッグケットの顔が。眉間が。くしゃくしゃと歪む。皺が刻まれる。それは苦悩…あるいは悔しさに似た表情に見えた。

『そうだな、普通のケットシーなら40年も生きたら死んでしまうな。…でも私はもっと早く死ぬかもしれない。所詮この身体は先祖返りで手に入れた物だ。不安定で…いつ壊れるかわからない。混血だから…私はどう老いて死ぬかわからない。いつ死ぬかもわからない。だからその前に、叶えたい夢を叶えたいんだ』

 振り絞るような声。言葉を紡ぎながら、ビッグケットは段々と顔を伏せていった。肩が震えている。…泣いているのか…?黙り込んでしまったその姿からは、細かい心情までは読み取れない。

 今日半日一緒に過ごして見たたくさんの彼女の表情。笑ったり、呆れたり、好奇心に目を輝かせたり。そして今、なぜだろう。こんなに苦しそうに、悲しそうにさせていることがジルベールには耐えられなかった。思わず、握りしめた彼女の拳を包むように両手で握る。そしてその言葉は自然と口から出た。…出てしまった。

『嫌だ、君を死なせるなんて。嫌だよ。絶対止めて見せる。そんな苦しい夢、叶えなくていいんだよ』

 途端にビッグケットが顔を上げる。そしてその表情を見て、ジルベールがしまった。と思うのに時間はかからなかった。


 ビッグケットは、泣いていた。怒りに似た表情で、一筋涙を流した。


『お前は私の悲願より自分の願いを優先させるんだな。わかった。交渉決裂だ』

『…!』

 そうだった。「お前が心中を望むなら共に生きよう」と、そう言っていたんだ。二の句が告げられない。彼女を想う気持ちが彼女を不快にさせた。ジルベールにはそう見えた。ビッグケットはぐいと涙を拭い、傍らのコップを引っ掴むと、一気に水を飲み干した。ごりごり、バリバリ。ついでに氷を噛み砕いて、それも飲み込んでしまった。まるで自分の苦しみもなかったことにするように。

『…ビッグケットちゃん、いつかはその問いをサイモン君にもするの?』

 かろうじて口に出せたのはそんな内容だった。ビッグケットがちらとジルベールの方に視線を上げる。そこに悲壮感はもうない。ただ、真剣に見つめ返してくる。

『…そうだな、いつか。サイモンはお人好しだから、私の提案を受け入れてくれるんじゃないか…。今はそう思ってるよ』

『サイモン君は、誰かのために死ぬような子だから…?』

『お前、そう言っただろう?私もそう思うよ』

 そしてにっと歯を見せて笑う。…苦しい。もしそうだとして、自分は二人のやることを応援出来るだろうか。わざわざ死ににいくような真似。せっかくそれなりに仲良くなれたというのに。

『…どうしてそんなに、蛮勇を振り回したがるのかね。短命種は』

『短命種だから、じゃないか?こちとら時間が限られてるからな』

 そこまで話したところで、

「おまたせしました!」

明るい店員の声が響く。やや待たされた部類だろう。注文の品がようやく届いたようだ。バジルとエビのニョッキ。ビッグケットは牛肉とトマトとチーズのニョッキ。良い香りが鼻をくすぐって、とても食欲をそそるが…今はあまり食べる気分になれない。友人が死ぬのを止めて怒られる道理がわからない。これだから短命種は…いつもこちらを置いていく。ただでさえ寿命が短いくせに、何度も何度も。

『…食べないのか?美味いぞ』

 気がつくと、ビッグケットはこちらの苦悩をよそにガツガツ食べ進めていた。…せっかく注文したんだ、食べるか…。気持ちは重いがそんなの料理には関係ない。食べるなら温かいうちに。

「いただきます」

 初めてのニョッキはすこぶる美味しかった。しかし、なぜだろう。少し苦い味がしたような気がするのは。















『はーーー、食べた食べた♥量は少なかったけど美味しかった!』

『それは良かった。連れてったかいがあったよ』

 食後。両手を天に突き上げ、無防備に伸びをするビッグケット。その表情に先程までの空気は微塵もない。うん!と腕を振り回し、スッキリした笑顔を浮かべている。

『さて、あとは?なんかあったっけ』

『いや、目ぼしい物は大体買ったよ。あとは案内がてらこの街を少し巡ってみようか。…あっ』

『何?』

 ふとした思いつき。だが、これは世紀の大発見とも言うべき天才的な思いつきに思えた。ジルベールがくるりと振り返る。

『あのさ、せっかくだから、今夜闘技場に着ていく服を買おうか。今の服のままで行ったら血まみれになってしまうんでしょう?』

『ああそうだ。帰りは新しい服がもらえるとはいえ、わざわざ普段着を持ってって汚すことないよな。賛成』

 そう、彼女は今夜闘技場で暴れてくる。それがサイモンとの約束だからだ。しかし服をわざわざ汚すことはないだろう。どうせ今時間があるなら、「勝負服」を選んでしまえ。二人は顔を見合わせてニンマリ笑った。そうと決まれば行くのは服屋だ。そしてせっかくだ、ドドンとドレッシーな物を買ってしまおう。

『ねぇ、派手なドレスとかどう?』

『動きやすければなんでもいいぞ』

『ふぅん、動きやすければ?何でもいい?言ったね??』

『…なんだよ…』

『では行こう!高級路線のドレスブティックに!!』

 ぐっとビッグケットの手を握る。そして半ば引きずるように歩き、向かう先は…ブランドドレス屋!扉を開け放てば、あるわあるわ、露出の激しいドレスたちが!

『これ、本当は男性を引っ掛けるためのドレスなんだけど…これくらい露出してたらむしろ君は動きやすいんじゃない?』

『ああ、確かにいいな…あっ、これとか』

 ふいにビッグケットが手に取った一着に目をやる。それは、

『わーーーっマーメイドライン!最高じゃん!!』

 全身真っ黒で、両肩の出た、胸元が深くVの字になっている上半身のデザイン。胴体部分はしなやかに曲線を描き、そして膝から先が華やかなウェーブを描いた裾になっている。しかも破廉恥なことに、スリットは深く深く太モモまで。ジルベールは思わず短く口笛を吹いた。

『わ〜えっち!脚丸見えだよこれ〜!』

『ジルベールって、本当にサイモンと真逆なことに嬉しそうにするよな。あいつだったら多分めちゃくちゃびっくりすると思う』

 キャッキャとはしゃぐジルベール。それを見るビッグケットの視線はやや冷ややかだ。しかし、サイモンを驚かしてやりたい。その願いははからずも、双方言葉を交わさずとも同じものだった。

『これ買う?買っちゃう??いいよぉ、お金はまだあるよ!』

『じゃあ試着してくる』

『いってらっしゃい!』

 コトリと音を立て、陳列棚から目当てのドレスを抜き出す。ビッグケットが颯爽と試着室に向かい、そしてしばらくして…

『尻尾が痛い』

 不満げな顔でカーテンの裏から出てきた。そうか、これは獣人用ではないのか。でも恐らくあれがあるはず…。ジルベールが辺りを見回すと、

『ある、尾穴開通サービス』

『あるのか。すごいなこの街』

『これがシャングリラクォリティ。』

 自分がそのサービスをやってるわけでもないのに、思わずニコニコしてしまった。なお、肝心の見た目はあまりにもしっくりきすぎて恐ろしいくらいだ。黒髪に金の目。大胆に、しかし品良く開け放たれた胸元。揺れる黒のドレープ。殺しのための勝負服として、こんなに美しい物はないんじゃないかという錯覚に陥る。

『…うーん、ここまで来たら赤の差し色が欲しいな。赤い花飾り…あとは化粧。唇に紅を引こう。赤いアイシャドウもあったら華やかだな』

 ジルベールがぶつぶつ言っていると、しかしビッグケットが耳を伏せる。

『私、化粧道具なんてないぞ?』

『大丈夫、この世には化粧するだけ専門の店というのがあってね』

『そうか、金の力は偉大だな』

『そういうことです。よし、じゃあこれで決定でいい?』

『ああ、いいぞ』

 さくさく決まる。そこでビッグケットに手早くドレスを脱いでもらい、尾穴開通加工を店員に頼む。あとはアクセサリーと化粧。俄然楽しくなってきた。

『よーし、サイモン君を驚かせるぞー!なんなら髪型も整えてしまえー!』

『なんかよくわかんないけどいいぞー!あいつが驚いて面白がってくれるならなんでもいい!』

『じゃあ靴も…可愛くて動きやすい物を…』

『髪飾りってどこに売ってるんだ?あっ、闘技場ってアクセサリー禁止だったような』

『えっ?じゃあ闘技場に行くまでつけるヤツ!せっかくだから!』

『よし許す!』

 あれやこれや。楽しくなってしまった二人を止める者はいない。

『待ってろよサイモン君!綺麗になったビッグケットちゃんにひれ伏すがいい!!』

 これがどんな感情に突き動かされたものかも、もはや誰にもわからない。





 再会の午後3時まで、あと2時間。

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