変わりゆく日々
明花の告白から三日が過ぎた。
俺は、未だに返事を伝えていなかった。
水曜日。
馴染みの朝のホーム。
けれど、最近お馴染みになったあの小さな背中は見当たらない。
昨夜、一檎から着信があったのだ。
『もしもし、カナメ。聞こえてる?』
「もしもし、聞こえてるよ一檎。急にどうしたんだ?」
『あ、よかった。少し話したいことがあって。……こういうの、ちょっと緊張するな』
「ああ、まあ確かに。直接話すのとは少し違う感じがするよな」
姿が見えない故に伝わらないことがある。はたまた、姿が見えないからこそ、かえって油断やらなにやらが伝わってしまう。
同じ二人きりでも感触が大きく異なるのだから、通話とは不思議な世界だ。
『そうだね。カナメは何してた?』
「ああ、俺はちょっと学校の課題を進めてたところだ。一檎は?」
『私はお風呂に入ったりとか、寝る支度を済ませてたところ』
「早いな。もう寝るのか?」
『うん。私はいつも十時過ぎには寝てるかな』
不思議なもので、そう言われると一檎の声がやや眠たげなものに聞こえてくる。
「なるほど、道理で朝に強いわけだ」
『どう? カナメも今日、試しに早寝してみない?』
「そうしたいのは山々なんだけどな」
一檎の提案は大変魅力的だが、まだすべきことが残っているのだ。
『ああ、課題してるんだっけ。明日じゃダメなの?』
「提出が明日だからな……。ごめんな、一檎」
『そうなんだ、残念。じゃあ、布団に入るだけでもどう?』
「まあ、それくらいならいいか」
シャーペンを置き、ベッドの上でうつ伏せになる。
そのまま通話をスピーカーモードに切り替え、枕元に置いた。
「よいしょ、と。聞こえづらくないか?」
『うん、大丈夫。今、布団の中なの?』
「ああ」
『そっか、私も。こうやって通話してると、お泊り会みたいじゃない?』
「そうかもな。って言っても、俺はあまりそういうのはしたことないけど」
『カナメもないんだ。私も一緒。……ねぇ、カメラ付けてよ』
「いいよ。寝巻だし、ちょっと恥ずかしいけどな」
一檎の願うままに、カメラをオンにした。
『それがいいの。……わ、映った。へぇ、カナメの部屋、そんな感じなんだ』
「ああ、そこまで映るのか」
画面を見ると、洋服掛けの辺りが少々映り込んでいた。
『なんか新鮮。今度、遊びに行ってもいい?』
「まあ、そのうちな。……一檎はカメラ付けないのか?」
『……カナメは、付けてほしい?』
「いや、まあ、俺だけカメラってのも変な話だろ」
『もっと、ストレートに言って』
「……ああ、一檎にもカメラを付けてほしい」
俺は一体何を言わされているのだろうか。
『うん、いいよ』
俺の言葉に一檎は満足したようで、カメラを付け始める。
『……はい。どうかな』
そんな声とともに、一檎が画面に映る。
黒のネグリジェを纏った、やはりやや眠たげな表情の一檎。
俺と同じくうつ伏せの態勢を取っているようで、奥の方まで見てみると──っ!
「一檎! その……胸元……」
不覚にも、一檎の女性らしい膨らみに目が行ってしまう。
やや前のめりな姿勢と首周りが緩い服のせいで、胸元がかなり際どい状態になっていた。
『え? ……もう、カナメのえっち』
一檎は画面越しでも伝わるほどに顔を赤く染め、布団に身体をうずめる。
「……悪い」
不慮の事故、不可抗力だと分かっていても、つい頭を下げてしまう。
『……ううん。私が油断しちゃってた。……ねぇ、どうだった?』
「どうだったって……いや、なんというか。とても、その、魅力的というか、蠱惑的でした」
俺も、同じくらいに顔を熱くさせながら答える。
『蠱惑……っ! ……そっちじゃなくて、ナイトウェアの方』
「え、あ、ああ、そうだよな。あー、うん、似合ってたと思う」
凄まじい勘違いに気付き、動揺してしまう。
『……もう。ちゃんと見てないんでしょ』
「……ああ、その通りだ。ごめん」
正確には、一度見てはいたのだが、その後に見えてしまったものの衝撃で吹き飛んでしまった。
『いいよ。じゃあ、もう一回見せるね』
今度は胸元を抑えながら身体を起こし、一檎は左右に身体をフリフリと回す。
『どう? かわいい?』
「ああ、かわいいよ。一檎の雰囲気にも合ってる」
『よかった。これ、日曜日に買ったんだ』
日曜日。
「そう、か」
自分でもはっきりと分かるほど、声が強張ってしまう。
『ごめん、嫌なこと思い出させちゃった?』
「いや、別に嫌なことじゃない。……ただ、俺が卑怯なだけだ」
そして、俺は余計な一言を零してしまった。
『……卑怯って?』
「なんでもない。忘れてくれ」
『……わかった。でも、忘れないでね。話してくれたら、私はいつだってカナメの味方をしてあげるから』
まただ。
また、胸に開いた穴が一檎で埋められていく。
「……ああ、ありがとう」
『うん』
それが間違っていると分かっていても、受け入れてしまう。
「そういえば、結局、一檎の用件は何だったんだ?」
『ああ、明日のことで伝えたいことがあって』
そこまで区切って、少し表情を暗くする。
『ごめんね、カナメ。明日の朝は、ちょっと会えそうにない』
「……そっか、わかった」
俺も一檎釣られて、少し暗い声になった。
『……ねぇカナメ。私と一緒にいて、楽しい?』
「ああ、楽しいよ」
約束から始まった、俺と一檎の関係。
いつの間にか、この時間も俺にとっては失いがたいものになっていた。
だからこそ、俺はどう振る舞えばいいのか、分からなくなっている。
だからこそ──
『そっか、それなら良かった。じゃあ、そろそろ寝ようかな』
「! ああ、おやすみ一檎」
『うん。おやすみ、カナメ。ねぇ──』
切る間際に呟いた一檎の一言は、やけに頭から離れなかった。
『ねぇ──今度は一緒に寝ようね』
そして、今朝に至る。
まだ一檎と出会ってから、たった一週間だ。
それなのに、彼女がいない朝のホームは、やけに手が
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ガラリ。
引き戸を開け、教室に入る。
「おはよ、枢」
「ああ、おはよう秀琉」
しかし、今日の教室は妙に浮ついていた。
「なあ秀琉、今日って何かあったか?」
「……あれだよ、あれ」
秀琉が指差したのは、ただの机だった。
いたって普通の、生徒用の机。
ただし──昨日まではなかった位置にある机。
「まさか、転校生か?」
秀琉は大きく頷く。
「なんでまた、こんな時期に」
今は一月の下旬。転校にしては、かなり奇妙な時期だ。
「さあ、僕にもさっぱりだよ」
二人してうんうん唸っていると、更に二人、教室にやって来た。
「おはよー、枢っち、秀君」
「……おはようございます」
いつも通りの挨拶でやって来る明花と瑠歌。
あれからずっと、明花はまるで何もなかったように振る舞っている。
……きっと、俺がそう振る舞わせてしまっている。
「ああ、おはよう明花、瑠歌」
「おはよー、二人とも」
「……ねぇ、あの机って、まさか?」
明花も気づいたようだ。
「うん、多分ね」
「ルカルー、うちの高校って、そもそも転校とかできたの?」
「どうなんでしょう。私立ですから、公立高校と比べると寛容なのかもしれませんが……」
三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものだが、しかし四人寄れども持っていない知識はいくら探したとて見つからない。
「まあ、先生が来てからのお楽しみだね」
そんな秀琉の一言で、考察はお開きとなった。
ガラリ。
担任が前方の扉から教室に入る。
朝礼の時間だ。
いつもは朝特有の、眠たそうな、気怠げな雰囲気に包まれている教室だが、今日ばかりは違った。
なにせ、転入生が来るらしいのだ。
突然の非日常に、教室の熱気は凄まじく上昇していた。
担任が口を開くのを、今か今かと待ちわびる生徒たち。
「あー……なんかやりづらいな。まあ、いいや。朝礼を始める」
待ってましたとばかりに、担任に視線が集中する。
「お察しの通り、転校生だ。なぜこの時期なのかについては、うちの高校の古臭い制度が関係してるんだが、まあ、そこら辺の話は後でいいや。……入ってきてくれ」
担任の声を受けて、再度扉が開く。
冬用の黒いセーラー服、うちの高校とは違う紺色のスカート。
そして、肩の辺りまでで緩くウェーブされた、茶色の髪。
「……一檎!?」
転校生の正体は、紛うことなく一檎であった。
「君影高校から転校しました。
簡素な自己紹介を済ませて、軽く頭を下げる。
それから、俺の方を見て一言。
「カナメ、来ちゃった。」
「え?」「佐瀬君の知り合い?」「かわいい」「あの女の子……」
騒然となる教室。
「……取り敢えず、一回落ち着けー」
担任がそれを諌める。
「疑問に思うやつも多いだろうから、まず軽く説明しとく。君影高校と我が校は、実は運営母体が一緒なんだ。それで、君影高校にはいろいろ細かい条件を満たした場合のみこっちに転入できる制度があってな。その制度が作られた理由も、それはそれでかなりの事情があるんだが──兎も角、蓉海さんはその制度を利用してこっちに転入してきたわけだ」
驚きが止まらない。
「まあ、制度について細かいことが聞きたいやつは個別で来てくれ。それで、蓉海さんの席だが──」
空いている、新しく増えた席に座ってくれ。
多くの生徒はそんな言葉を予期したが、担任は斜め上の答えを用意していた。
「折角だから、全員まとめて席替えすることにした。ってなわけで、これ、新しい座席表な」
無造作に取り出したプリントを、先生は黒板に張り出す。
「えぇ!?」「そんなことあるんだ」「席替え!?」
転入生に、席替え。
イベントに次ぐイベントに、もはや教室の熱狂は天井知らずだった。
「君影高校……蓉海、一檎、さん?」
「枢っち……?」
動揺に言葉を震わせる、ごく一部を置き去りにして。
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