アルバム

 黒のワンピースに袖を通し、あどけない笑顔を浮かべる一檎。

 腕にはなにやら、A4サイズほどのトートバックを引っ提げている。

「いや、来ちゃったって。一檎、さっき別れたばっかだろ?」

「でも、会いたくなったから。だめ?」

「……まあ、いいか。入っていいよ、一檎」

 扉を開け、一檎を招き入れる。

「ありがと、カナメ。……お邪魔します」

「別に俺しかいないけどな。それじゃ、こっちだ」

 一檎を連れて、俺はリビングへ向かう。

「飲み物とか持ってくるから、適当に待っててくれるか?」

「うん、座ってるね」

 返事を聞いた俺はキッチンに入り、マグカップを二つ取り出す。

 それから冷蔵庫を開き──

「一檎、お茶とコーラとアップルジュース、どれがいい?」

「アップルジュースがいいな」

「わかった」

 一檎の注文通りアップルジュースのボトルと、それからお茶請けにクッキーを取り、まとめてお盆に乗せリビングに戻る。

「お待たせ、一檎」

「ううん、ありがとう」

 こうしていると、一週間前の、俺と一檎が出会った日のことを思い出す。

 あの日とは反対の立場だが、どこか感傷的な気分だ。

 そうだ、確かこの後は──

「……俺の部屋、行くか」

「うん」

 こんな風に唐突に、一檎の部屋に案内されたんだった。

「ほら、どうぞ」

 ベッドに衣装掛け、学習机にノートパソコン。後は本立てやら収納ボックスやらがちらちらと。

 露骨な生活感の部屋に少し恥ずかしくなりつつも、一檎を連れ入る。

 軽く机を整理してお盆を置くと、俺はベッドに腰を掛けて、傍を叩く。

「……カナメ、懐かしいね。この感じ」 

 意図は伝わったようで、一檎も隣に腰を降ろした。

「ああ。って言っても、前のときは一悶着あったけどな」

「ふふ、それも懐かしいね」

 まだ、たった一週間前のことなのにこれほど懐かしく思うのは、一檎と出会ってからの日々が濃密なものだったからだろうか。

「それで、一檎。今日は何をしに来たんだ?」

「うん。今日はね、これ」

 一檎はトートバックから冊子を取り出す。

 黒色の、やけに高級感のある装丁だ。

「えっと、それは?」

「私の中学の卒業アルバム。今日のお昼、話したでしょ?」

「……それ、土曜日って話じゃなかったか?」

「そうだけど、我慢できなくて来ちゃった」

 どうやら、マイペースなのは変わらずらしい。

「ま、来ちゃったものは仕方ないか。じゃあ、一檎のやつ見ていいか?」

「うん。ちょっと恥ずかしいけど、カナメならいいよ」

「ありがとな」

 許可を得たので、早速ページを捲る。

 一枚、二枚……、都合四枚捲った先に、その名前はあった。

「蓉海、一檎。……やっぱり、この頃は黒髪だったんだな」

 肩に垂れた黒髪が、どこか儚げな魅力を感じさせる美少女が写っている。

「高校に入るときに、これは染めてみたんだ」

 照れくさそうに、茶色の髪を指で巻く一檎。

「へぇ、思い切ったんだな」

「うん。……私ね、高校に入ったら何か変わるかなって思ってたんだ。髪を染めたのも、そういう気持ちだったの。何かが、変わったらいいなって」

 一檎の中学時代を俺は知らない。

 一檎がどんな気持ちで三年間を過ごし、どんな想いで変化を願ったのか、俺は知らない。

 けれど──

「じゃあ、染めて正解だったな」

「え?」

「一檎が髪を染めてたから、俺はあの日一檎に気付けたんだ。一檎の変わりたい気持ちのお陰で、俺もこうして一檎に出会えた。そう考えたら、染めたのも正解だっただろ?」

「……カナメ!」

「ちょっ、一檎!?」

 突如、一檎がこちらに飛び付く。

 ばさり。

 一檎の勢いに負け、押されるがままにベッドに倒れこむ俺たち。

「……おい、一檎。急に何を──」

「──カナメが悪いんだよ。カナメが、こんなに私を喜ばせるから……!」

 腰に手を回したまま、俺の胸元にしきりに頭を擦り付ける一檎。

 よく見ると、その眉尻には雫が浮かんでいた。

「えへへ。カナメ、好き。大好き」

「わかった、わかったから。一檎、ちょっと落ち着いて、な?」

 軽く背中を擦り、冷静になるように促す。

「……落ち着いたか?」

 一檎の肩を押して、ゆっくりと身体を起こす。

「……うん、ごめんね。でもカナメ、さっきのはズルいよ」

「いや、ズルいって言われてもな。俺は別に思ったことを言っただけだよ」

「ウソ。絶対、わざとやってるでしょ」

「さて、な」

「……ねぇ、カナメ。昔の私と今の私、どっちの方が好み?」

「そりゃ、今の一檎だよ。だって、今一緒に過ごしてるのは、今の一檎なんだからな」

 今度は意識して、少しキザなことを口に出してみる。

「ほら、やっぱりわざとやってる」

「はは。ほら、アルバムの続き見せてくれよ」

「ん、いいよ。どうぞ」

 再び、アルバムのページを捲り出す。

「……あ、瑠歌だ。へぇ、瑠歌はそのままなんだな」

 友達の昔の姿に、ついつい目が止まってしまう。

「ちょっとカナメ? 今他の女の子の名前を出すのは、デリカシーないんじゃない?」

「悪い悪い、冗談だって」

 その後も、俺たちはアルバムを眺め続けた。

 運動会や文化祭、修学旅行など、一檎の中学はかなり行事に力を入れているらしく、聞く話聞く話がまるで別世界のことのようで面白かった。

「お嬢様学校って、すごいんだな」

 俺の中で君影中学は、すっかりそういう風に定義づけられた。

「そうなのかな。私は前の学校もずっと私立だったから、よくわかんない。だから、カナメの学校の話も楽しみにしてるね」

「ああ。多分、規模の小ささに驚くだろうよ」

 気付けば、ページももうかなり終盤に差し掛かっていた。

「そろそろ終わりか? ……あ」

「……あ」

 パラパラと捲っていくと、遂に最後のページに辿り着いた。

 何の用意もなしに、辿り着いてしまった。

 両面に広がる、白紙の寄せ書きページに。

「……カナメ。私、私ね、空っぽだったの」

「一檎、そのジョークだけは笑えないから勘弁してくれ」

 声音だけではやや判断に困ったが、よく見ると、一檎の口元は綻んでいた。

 とはいえ、それはブラックジョークが過ぎる。

 尤も、ページは真っ白なわけだが。

「ねぇ、カナメ。今さ、カナメがここに書いてくれない?」

「いや、それはちょっと違うだろ……」

 一年越しに、それも別の中学だった俺が寄せ書きを書くなんて──いや、そもそもそれはもはや寄せ書きとすら呼べない気がする。

「そっか、残念」

「……その代わり、高校を卒業するときは目いっぱい書いてやるよ」

「ほんと?」

「ああ、勿論。だから、一緒に卒業しような」

「……うん。じゃあ私のページは、全部カナメのものだから。沢山書いてね」

「……ああ、頑張るよ」

「約束だからね」

 一檎は小指を立ててこちらに向ける。

「おう、約束だ」

 俺も一檎に応えるように、強く小指を絡めた。

「ふふ。カナメとの約束が増えて、嬉しい。絶対だからね」

 うっとりと、絡んだ指を見つめる一檎。

「わかってる。じゃあ、一檎もそれまでは飛び込むなんてナシだからな」

「……そっか。もう、今更そんなことなんてしないよ。だって──」

 もう片方の手も添えて、俺の瞳を覗き込む。

「──うん」

 そして何かを言いかけて、取りやめた。

「……じゃあ、カナメ。カナメのも持ってきてよ」

「ああ、ちょっと待っててな」

 たしか、こっちの収納ボックスに纏めて置いていたはず、と。

「あった。これだ」

 ベージュの厚紙をベースに、黒で校章が印字された、一檎のとは違って簡素な表紙の卒業アルバム。

「公立のアルバムって、こんな感じなんだね」

「まあ、どこもそうなのかは知らないけどな。じゃあ、どうぞ」

「うん、ありがと。……さて、カナメ、カナメ、と」

 俺の名前を探し始める一檎。

「あった。カナメ、あんまり変わらないね」

「まあ、たった一年だしな」

「それもそっか。……あ、こっちにも見つけた」

 一檎が開いていたのは、修学旅行のページだった。

「ああ、京都で撮ったやつか」

「銀閣って、なんか渋いね」

「別に俺が選んだわけじゃないけどな」

 決められた観光場所の一つがそこだったというだけだ。

「そっか」

 そう言って、一檎は更に捲り進める。

「……あれ? 文化祭の写真はないの?」

 不思議そうに首をかしげる一檎。

「そりゃ、公立の中学に文化祭はないからな」

 正確には存在こそするが、名ばかりの些細な発表会なのが実情だ。

 高校や、あるいは私立中学のものとは全く違う。

「へぇ、そうなんだ。全然知らなかった」

 目を丸くする一檎を見ていると、なんとなく瑠歌が重なる。

 瑠歌もこの話をしたとき、似たような反応をしていたはずだ。

「……カナメは、寄せ書きいっぱいだね」

 いつの間にやら、最後のページまで辿り着いていたらしい。

「ねぇ、カナメ。卒業するときは、私にも書かせてね」

「ああ、言われずともそのつもりだったよ」

「私、カナメのページ全部埋めたいな」

「流石に全部はちょっと、勘弁してくれ」

「そう、残念。じゃあ、半分なら?」

「……まあ、それくらいなら」

「やった。約束だよ」

 再度、俺たちは小指を絡める。

「おう、約束だ」

「……カナメ。私ね、見つかったよ」

「え?」

 顔を上気させ、まるで告白するかのように。神妙に、一檎は告げる。


「私の生きる理由、それは──カナメ」


 溶けてしまいそうなほど甘い声で、一檎は俺の名前を囁いた。

「カナメが手を引いてくれたから、私は生きてる。カナメと出会えてから、私は人生が楽しいって思えた。カナメがいるから、私は幸せでいられる。だからね、私の生きる理由は、カナメなんだ」

 俺が、いるから。

「ねえ、カナメ──」

 俺の腕が一檎に絡み取られる。

 惜しげもなく押し付けられる、一檎の柔らかな身体。

 バニラビーンズのような甘い香りに、頭がクラクラする。


「──私に生きる理由をくれて、ありがとう」

 

 それは咲きかけの花のような、美しく、それでいて触れれば壊れてしまいそうなほど儚げな笑顔だった。

 その笑みに、一檎には俺が必要なのだと強く実感した。




「……じゃあ、そろそろ帰るね。カナメ」

 どれほどあの態勢のままでいただろうか。

 不意に、一檎が俺の腕を放す。

「ああ。それじゃ見送るよ」

「ありがと」

 ベッドから腰を上げ、惜しむように玄関まで歩く。

「……そうだ、一檎」

「どうしたの?」

「俺も、明日から徒歩で行くよ」

 駅までの道。

 これまでは俺は自転車で、一檎は徒歩。必然的に会うのは駅に着いてからだった。

「ほんと?」

「ああ、これからは駅までも一緒に行こう」

「嬉しい。私、カナメの家まで迎えに行くね」

 一檎が俺の手を両手で包む。

「……それ、好きなのか?」

 何度か見たことある仕草に、つい聞いてしまう。

「え?」

「一檎、よく手を握りたがるだろ?」

「そうかな。……でも、もしかしたら安心するのかも」

「安心?」

「うん。こうしていると、一緒にいるんだって実感できるから」

 そういうものなのか。

「じゃあ、今度こそ。帰るね、カナメ」

「ああ、また明日」

「うん、またね」

 一檎が、去っていく。

 すっかり静かになった部屋の中で、俺はどこか、あのバニラビーンズの香りを探してしまう。

 一檎と、明花。

 どちらも、俺にとっては大切な人だ。

 その上で、俺はどう振る舞うべきなのか。やっと、決められるような気がした。

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