決断

 ガタン、ガタン。

「次は、白金川しらかねがわ。白金川です。お降りのお客様は──」

 お決まりの車内アナウンス。

 一昨日までは、ここで一檎は繋いだ手を放していた。

 しかし今日からは──

「……カナメ?」

 ちらりと一檎を見ると、目が合う。

 不思議そうに微笑む一檎に、なんでもないよと微笑み返す。

 いつの間にやら一檎の癖は無くなっていた。

 一檎の、虚ろな目で窓の外を眺める癖。

 あの何処までも深かった瞳が、今では俺を収めている。

 一檎の生きる理由は、俺。

 こうしていると、改めてその言葉が重く圧し掛かる。

 一檎をこんな風にしたのは俺だ。

 それならせめて、俺はその責任に報いなければならない。 

「一檎」

 ──俺は、放さないから。

 伝わるはずもないけれど、そんな想いを乗せて、繋ぐ手に力を込めた。




「おはよ。枢、蓉海さん。……って、朝からすごいね」

 教室に入る俺たちを見て、開口一番にそう告げたのは秀琉だ。

「おはよう、秀琉」

 挨拶する俺の横で、一檎は無言で会釈する。

「それ、学校に来てからずっとなの?」

 秀琉が指差すのは、俺の手の辺り。もっとわかりやすく言うと、今も尚、繋がれたままの俺たちの手だ。

「ああ、まあ学校に来てからというか……」

「家からだよ。ね、カナメ」

「……ああ、そういえばお向かいさんって言ってたっけ。そっか、うん、そっか」

 秀琉は遠い目をする。

「それで、その手はいつまで握ってるつもりなんだい?」

「あー、一檎。そろそろ放すか?」

「カナメは放したい?」

 いやに答えづらい聞き方をしてくる。

「……まあ、一檎を男子トイレに連れ込むのは流石に気が引けるしな」

 落としどころとして、悪くない回答だろう。

「それは私も遠慮したいかな。じゃあ、ちょっと寂しいけど」

 それだけ言って、一檎が手を離す。

 ちょうどそのタイミングで、明花たちがやって来た。

「おはよー……って、枢っちとスミち、今手繋いでた!?」

 ちょうど、ではなかったらしい。別に明花に隠したかったわけではないが、少し間に合わなかったみたいだ。

「おはよう、桃井ちゃん。うん、そうだよ?」

 苦心の末に解かれた手を、一檎はあっさりと繋ぎ直して明花に見せつける。

「枢っちー……!」

「いや、そこで俺を睨まれても。じゃあ、明花も繋ぐか?」

 明花が寂しそうに手をグーパーするものだから、ついついそんなことを口走ってしまう。

「うんっ、あたしも繋ぐ」

 パッと顔を明るくし、開いていた俺に右手に飛びつく明花。

 期せずして、昨日と同じような体制に落ち着いてしまった。

「……あの、すっかりタイミングを逃してしまいましたが、おはようございます」

 明花と一緒に入ってきていた瑠歌が、気持ち申し訳なさそうに挨拶する。

「悪い瑠歌、入りづらかったよな。おはよう」

「おはよ、瑠歌さん。枢たち、朝から元気だよね」

「ええ、そうですね」

 口に手を当て、上品そうに笑う瑠歌。

「あのなぁ、別に見世物でやってるわけじゃないからな?」

「わかってるって」

 俺の抗議もむなしく、秀琉は鼻で笑う。

「……ほら、一檎も明花もそろそろいいだろ? 俺も荷物を片付けたいし、一旦離れないか?」

「そう、残念」

「まあ、それもそっか」

 一檎と明花、どちらも似たり寄ったりの反応だ。

 こうして今日も、俺たちの日常は幕を開ける。

「……ていうか、スミち。枢っちとは向かいの家って言ってたよね。もしかして今日、ずっと繋いできたの?」

「うん、そうだよ。家からここまで、ずーっと」

 或いはそれが、薄氷の上に成り立っているものだとしても。それでも俺たちの一日は、滔々と流れていく。




「──で、結局今日も両手に花状態で授業を受けてたわけだ」

 昨日に引き続き、俺たちは二つの教科書を三人で共有する何とも奇妙な布陣を続けていた。

「なんというか、成り行きでな……」

「その様子だと、蓉海さんの教科書が届くまで──いや、席替えまではずっと続いてそうだね」

「はは、まさかな」

 俺は曖昧に笑って誤魔化した。

「……まあ、枢たちはそれでもいいのかもね」

「え?」

「昨日、僕が言ったことを覚えてる?」

「……ああ」

 どれだけ先延ばしにしたって、いつかは選ばないといけない。俺と一檎、そして明花との関係に、秀琉はそう断じた。

「いずれは選択しなければならない──僕の持論だ。けど、撤回するよ」

「撤回?」

「うん。枢たちは、無理に選択しなくたっていいのかもしれない。もしそれが歪な関係だったとしても、当人たちが納得しているなら。枢たち全員が望んでいるのなら、ね」 

 全員が、望んでいるのなら。

 秀琉の言葉がやけに思考を締め付ける。

「大抵、現実の三角関係なんてのは碌な結果にならないんだ。だから僕も昨日はああいう言い方をしたわけで。けど、枢たちはいつの間にか丸く纏まってた。正確には丸まってなんかないだろうけど、少なくとも僕が今まで経験してきたような凄惨さは無かった。それこそ、まるでラブコメ作品みたいな華やかな争いに終始していた。だから──」

 秀琉の語りは、もはや俺の脳には届いていなかった。

 俺の両腕を一檎と明花がそれぞれ引き合う今の関係。果たして、それは全員が望んでいるものだろうか。

 一檎は正直なところ分からない。俺が生きる理由とは言っていたが、別に俺と付き合いたいとか、そういったことは明言していない。もしかしたら一檎は、今の関係でも満足しているのかもしれない。

 けれど明花は。明花はあの日、俺と付き合いたいとはっきり口にしていた。それを俺が保留にして、そして明花もそんな情けない俺を見逃してくれていて。俺たちの今の関係は、その上で成り立っているだけだ。ただ気持ちを押し殺しているだけで、納得なんてしているはずもない。

 きっと、真にこの曖昧な関係を望んでいるのは俺だけだった。

 それならば。

「秀琉」

 語りを遮るように、名前を呼ぶ。

「さっき、席替えまでは続いてそうって言ったよな」

「うん、そうだね。結構妥当な推論じゃない?」

 あっけらかんと秀琉が言う。実際、今のままならズルズルとそうなっていただろう。

 けれど。

「いいや、違う。何故なら、今日で終わりにするからだ」

「! 枢、それって……」

「なあ、秀琉。ちょっとだけ、俺の話を聞いてくれないか?」

「……いいよ、場所を移そうか」

 俺に応じるように、表情を締めて秀琉は提案する。

「ああ、そうだな」

 そもそも、話が過熱した頃合いに移動すべきだったのだ。

 今、俺と秀琉がいるのはトイレなのだから。


「寒いな」

 吹き付ける風に体温を奪われる。

 トイレを出て、俺たちは校舎裏の更に先、体育館の辺りまで来ていた。

「まあ、そのお陰でよほど人が来ることもないからね。さ、昼休みはまだたっぷりある。話していいよ」

「ああ、ありがとう秀琉。じゃあ、包み隠さず話すから最後まで聞いてくれ」

「わかった」

 さて、どう切り出したものか。

「日曜日に明花とデートに行ったんだ」

「ああ、それは僕も知ってたよ」

 隠しているつもりもなかったが、やはりそれは伝わっていたらしい。

「ま、そうか。……その帰り道に明花から告白された」

「……! それで、枢は何て?」

「少し待ってほしいと伝えて、それっきりだ」

「……枢」

 明かされた最低の事実に、秀琉は唇を震わせている。

 無理もない、告白に対する仕打ちとしてこれほど非道なものはないのだから。

「それで、ハルちゃんは?」

「何も。……いや、月曜日に『待ってる、信じてる』と言われて、それ以降は、もう」

 口に出す最中に泣きそうな明花の顔が浮かび、こちらまで唇が震えてしまう。

 そうだ、俺はあの顔から必死に目を背けて、何を、のうのうと。

「枢、今が昼休みで良かったね」

「え?」

「この後も教室に戻るから、派手なことはできない。そうじゃなかったら、僕は思い切り頬を叩いてたよ」

 秀琉の眼は充血していた。

 手も、爪が食い込むほどに強く握られている。

「ああ、ごめん。俺が全部悪い」

「うん。それは、僕以上にハルちゃんに言うべきことだけどね」

「……返す言葉もないな」

「何で、もっと早く相談してくれなかったんだい?」

「……とても、人に話せることじゃなかったからな。告白なんて簡単に吹聴するものでもないし、まして自分でも最低な悩みだって自覚してたんだ」

「でも、一人じゃ向き合えなかったんだよね? 重みに、耐えきれなかったんだよね? だったら──」

 グイッ。

「──だったら、僕に言えよ! 友達だろ、僕たちは!?」

 ネクタイの付け根を強く引っ張り、秀琉が叫んだ。

「……はぁ、はぁ。ねぇ、枢。僕はね、枢のことを親友だと思ってたんだ。枢とは、腹を割ってなんでも話せる関係だと思ってた。けど、そう思ってたのは僕だけだったのかい?」

「……いや、俺だってそうだ。俺だって、秀琉のことは親友だと思ってる。ごめん、秀琉。……ありがとう」

「いいよ、親友だからね。ネクタイ、急に掴んでごめんよ」

 秀琉は付け根から手放し、軽く整え直す。

「それで、今その話をしてくれたってことは、そういう意味だと捉えていいのかな」

「ああ。ちゃんと、終わらせてくるよ」

 日曜日に告白を受けて、もう今日は木曜日だ。明花には五日間も辛抱させてしまった。ずっと、明花の信頼を踏みにじり続けてしまった。傷つけまいと先延ばしにして、結果傷つけ続けてしまった。

 いずれは、選択しなければならない。

 本当は、あの日ちゃんと答えを出すべきだったんだ。

「秀琉。フォロー、頼んでいいか」

 親友に、頭を下げる。

「ああ、勿論さ。……そっか。枢はそう決断したんだね」

 秀琉は少し寂しそうに目を伏せた。

「えらく遠回りしちゃったけどな」

「そうだね。他に、話しておきたいことはない?」

 秀琉に話したいこと、か。

「……一檎のこと。今はまだ言えないんだけど、いつか協力をお願いするかもしれない。変な頼みだけど、もしそのときが来たら俺を助けてほしい」

「今はまだ、ね。いいよ、そのときは助けてあげる」

「ありがとな、親友」

「……うん」

 頷く秀琉は、曇りのない笑顔を浮かべていた。

「さ、そろそろ教室に戻ろうか。蓉海さんたちも、あんまりに遅いから心配してるかもね」

「ああ、トイレに行くとだけ言ったきりだったか。じゃあ、自販機で何か買っていくか?」

「アリバイ作りか、いいね」

「だろ?」

 俺たちは軽口を叩き合いながら、教室に戻っていく。


「あ。カナメ、戻ってきた」

 教室に戻った俺たちに、真っ先に一檎が気付く。

「本当だ。枢っち、どっか寄り道してたでしょ」

 連鎖するように、明花も反応する。

「悪い悪い、ちょっと自販機まで行っててな」

「そ、しかも遠い方の」

 俺と秀琉は、見せつけるように飲み物を振る。

「遠い方、というと体育館の辺りですよね。あそこ、ラインナップが違うんですか?」

 首を傾げるのは瑠歌だ。

「うん、校舎の自販機とはメーカーが違うんだよね」

「へぇ、そうなんですね。中々あちらで買う機会はないので知りませんでした」

「あ。そういえば、蓉海さんってまだ体育館の方には行ったことないんじゃない?」

 少々わざとらしく一檎に話題を振りつつ、秀琉は俺にアイサインを送る。

「そうだね。まだ体育の授業もないから」

「一檎ちゃん。体育のときは私が案内しますからね」

 瑠歌も巻き込んで、会話が軌道に乗り出す。

 言うならば、今だ。

「明花、ちょっといいか?」

「んー? どうしたの、枢っち」

「……放課後、少しだけ時間をくれ」

 俺の言葉に、明花の目が揺れる。右方、左方。そして、再び俺を捉えて──


「──それって、そういうことだよね。……わかった」


 はっきりと、頷いた。

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