必要な人

 そして、放課後。

 いつもと違い明花は口を閉ざして、ただチラチラとこちらを見ていた。忙しなく五指と五指を絡ませている様子から緊張が見て取れる。

「カナメ、帰ろ」

 それとは対照的に、一檎は無邪気に帰宅を提案してくる。その笑顔を曇らせるのは少し心苦しいけれど。

「悪い、一檎。今日はちょっと、先に帰っててくれないか?」

「え。カナメ、何か用事でもあるの? それなら私、付き合うよ」

「いや、一檎を連れていくわけにはいかないんだ。詳しい事情も話せないけれど、今日だけは許してくれ」

 開示できる最大限まで明かして、せめて誠意は伝えようとする。それに一檎は僅かに視線を動かすも、頷いてみせた。それから定型句程度の挨拶をして、彼女から視線を外す。

「……それじゃ、明花。来てくれ」

「……うん」


 明花を引き連れ廊下を歩く。授業が終わってそれほど経っていないこともあり、校舎には少なくない人影が残っていた。部活動に向かう生徒を考えると、昼間秀琉と話した体育館の辺りは適していないだろう。

 僅かに逡巡し、第二校舎の方へ足を繰り出す。こちらの校舎は実習系授業でのみ使われており、放課後に用のある生徒はまずいないのだ。

 第二校舎の扉を開けると、睨んだ通りに人の気配が一切しない廊下が広がっていた。そのまま階段を上り、二階、三階。そうして、屋上に出る扉の前まで登った。扉は厳重に施錠されており、ここから外へ出ることはできない。だが、扉の前にある踊り場が、こういった話をするための場としては十分に機能していた。

 屋上の壁を背にして、明花に向き直る。彼女の瞳は揺れていた。不安、期待、恐怖、希望。様々な想いが揺らめき、それを漏らさぬよう口は真一文字に閉じられていた。改めて、素敵な人だ。こんな情けない俺には勿体ないくらいに。彼女の苦悶に歪む顔を思うと、言葉を吐くのを躊躇ってしまう。けれど、それで救われるのは俺だけだから。

「明花、俺を好きになってくれてありがとう。そして、ごめん。俺は君とは付き合えない」

 明花の瞳孔が僅かに開き、開いたそれが絞られるのに合わせて涙が浮かびあがる。真一文字だった口元は、堪えるように震えていた。

「……そっか」

 掠れるような声。気付けば唇の震えは肩へ、全身へと広がっていた。叶うなら優しくその肩を抱きしめてやりたい。けれど、そんなことは許されない。俺はどうすることもできず、ただ立ち尽くすばかりだった。彼女が鼻をすする度に肩が大きく揺れる。瞼を重々しく開閉して、慎重に言葉を咀嚼する。やがて震えは小さくなり、おもむろに彼女は口を開いた。

「困らせちゃって、ごめん。ありがとう、枢」

 決壊しそうな心を必死に抑えて、彼女が言葉を紡ぐ。強がるように、はっきりと視線を合わせて。それでも、溢れ出してしまう。

「……ねぇ、枢。あたし、何がダメだったのかな」

 しゃっくりで途切れ途切れになりながら、明花が零す。

「別に、明花がダメだったわけじゃない。明花は優しくて、聡明で、可憐で、とても魅力的な人だ」

 もし少しでもタイミングが違っていたのなら、俺は明花の告白を受け入れていたと思う。もし一檎と出会っていなければ、こんなに迷うこともなかったと思う。

「……でも、それでも、一檎には俺が必要なんだ」

 一檎は言った、俺が生きる理由だと。俺に生きる理由を貰ったのだと。儚げな笑顔でそんなことを言われて、ようやく気付いたのだ。一檎は俺が支えてやらなければならないと。

「なに、それ……。そんなの、あたしだって枢が必要だよ! あたしだって、枢に傍にいてほしいと思ってる。あたし、だって……」

 次第に声は細く、そして俯き加減になっていく。両手で顔を覆い、蝕まれるように涙を流す。俺はそんな明花を黙って見守る。そうして、どれほど時間が経っただろうか。不意にハッとした様子で明花が顔を上げた。

「スミちが──蓉海ちゃんが、枢を必要としてるんだよね」

「……ああ。だから、俺は明花とは──」

 再度、断りの言葉を告げようとする俺に、明花は覆いかぶせるように言葉を。

「──じゃあ、さ。枢が、蓉海ちゃんを好きってことじゃないんだよね」

「え?」

「あくまで蓉海ちゃんが望んでるから、あたしとは付き合えないんだよね?」

 まるでボードゲームでもしているが如く、丁寧に情報を整理する。実際、明花の論は決して的外れではなかった。俺はまだ一檎への気持ちにはっきりと整理をつけられていない。少なくとも好意的に想っているのは確かだけれど、それが恋なのかは分からない。

「だったら、決めた。あたしが、枢にとって必要な人になってやる。枢に、あたしが必要だって言わせてみせる!」

「それ、は……。いや、そもそも──」

 明花の宣言に、面喰ってしまう。

「──だって、あたしは枢っちにとって、魅力的な人なんでしょ?」

 軽やかなウィンクを携えて明花が言う。そもそも一檎と俺じゃ土台が違うだとか、『必要』というのはもっと重たい意味なのだとか。そんな無粋な反論は、彼女の笑顔の前に、すべて吹き飛んでしまった。

「それじゃ、枢っち。また明日!」

 言うだけ言って、明花は階段を駆け降りていく。去り際、彼女が背後に振り返るときに散った雫は宝石のように見えた。




 明花が去ってから、少し。俺は呆然と立ち尽くしていた。今日、俺は様々なことを覚悟して彼女をここに連れて来た。最悪、彼女とはこれっきりになるとさえ考えていた。しかし蓋を開けてみれば、紆余曲折はあれど明花は俺のことを好きなまま、俺のことを好きでいてくれるままに終わってしまった。俺は応えられないのに、それでも明花には俺を追いかけさせてしまった。これで、よかったのだろうか。敢えてもっと酷いことを言って、いっそ失望させてやるべきだったのではないだろうか。

 うんうん唸っていると、しんとした第二校舎に錆びたような鈍い音が響く。扉の開く音だ。一階の方で、誰かが扉を開けたのだ。扉の音は足音に変わり、二階、三階、徐々にこちらに近づいてくる。そして、俺のいる踊り場まで。果たしてその正体は、秀琉だった。

「や、枢。お疲れ様」

 俺の顔を見てどう判断したのか、労わるように秀琉は声を掛ける。

「その様子だと、ちゃんとハルちゃんには言えたみたいだね」

 ちゃんと。一切悪意などないであろう言葉選びが、しかし偶然俺に刃を立てる。

「……なあ、秀琉。俺は、これで良かったのかな」

「枢?」

 不思議そうにこちらを覗き込む彼に、俺は捲し立てるように顛末を話した。明花に付き合えないと伝えたこと。彼女を泣かせてしまったこと。彼女より一檎を優先したこと。そして、その上でそれでも彼女は俺を好いてくれたこと。俺の、必要な人になると宣言したこと。

 一頻り話してから取り返すように息を吸うと、ふと目元のじんじんしているのに気が付いた。ちらと秀琉の顔を見ると、なにやらぼやけている。そうだ、俺は泣いていたのだ。浅ましくも明花の想いを無碍にしておきながら、俺は涙を流していた。途端に、自分の気持ちがわからなくなった。

「なあ、秀琉。俺はもっと、上手いやり方を模索すべきだったのかな。これじゃ、意味がない。結局、曖昧な関係のままだ。俺はまた、明花を傷つけ続けることになる」

「そうかもね。枢がもっと分かりやすく振って、ハルちゃんの希望を摘み取ってあげれば、ハルちゃんはそれ以上傷つかないで済んだかもしれない」

 秀琉も俺に同調する。結局のところ、俺は何も変わっていなかったのだ。大きな決断をした気になっていながら、それでも芯のところでは、自分可愛さに、甘えた道を選んでしまう。俺はもっと非情を演じるべきだったのだ。

「──でもね、枢」

 思考の袋小路に陥っていた俺を、引きずり出すように秀琉が口を開く。

「傷ついていることと幸せであることは、決して競合しないよ。確かに、ハルちゃんは今後傷つき続けるかもしれない。それでも、同時にハルちゃんは枢を追いかけて、幸せでいるはずだ。これは矛盾じゃないよ。いや、矛盾かもしれないけど、でもそれが人間だから」

 ああ、そうだ。人間は矛盾を孕んだ生き物だなんて、とうの昔から知っていた。傷つきながら、幸せでいる。それだって、荒唐無稽とは断じれない。頭では、そう理解できた。それでも──

「それにさ。枢は、ハルちゃんの涙が宝石みたいに見えたんでしょ。それは、ハルちゃんに憂いがなかったからじゃない?」

「! ……ああ、そう、かもな」

 あのとき明花が見せた笑顔には、一切曇りなんてなかった。だから俺は、即座に何も言い返せなかったんだ。

「ありがとう、秀琉。俺は、これで良かったんだな」

「……少なくとも、枢は決して間違ってなかったと思うよ。まあ、蓉海さんへの気持ちについてはちゃんと整理すべきだと思うけど」

 秀琉の少しデリカシーに欠けた軽口も、今はどこか心地よかった。

「それじゃ、枢。そろそろ帰ろうか」

 まるで物語の王子様みたいに、秀琉は茶目っ気を出して俺に手を差し伸べる。線の細い容姿も相まって、やけに似合っているのが悔しかった。

「そういえば、秀琉と二人で帰るのって久しぶりじゃないか?」

 同郷でありながら、こいつと二人で帰る機会は長らく無かった。他にも人がいたり、あるいはお互いの都合で那古宮駅で解散したり。考えれば考えるほど、随分久しい気がする。

「そうだね。じゃあ、折角だしどこか寄り道でもしてく?」

「それもいいかもな」

 スタスタと階段を降りて校舎の外に出ると、外はすっかり日が落ちていた。途中、コンビニでホットスナックを買いつつ、那古宮駅までのんびりと歩いて行く。相変わらず、吹き付ける風が寒い。けれど今はそこに、咎められるような冷たさを感じることはなかった。





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つい、貴女の手を掴んでしまいました。 菊陽重 @Death_of_heart

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